意識を失うとき。
ノイズに埋め尽くされて、そのノイズと一体化してしまったような、居心地の悪さを抱えながら。
意識が戻るとき。
ノイズの中から這い出る、とは違う。引き摺り込まれた渦の中から、無理やり押し出されるような、不快感。
何はともあれ、わたしが意識を取り戻したとき、状況がいまいち飲み込めなかった。
既に夜の暗がりは世界に完全に溶け込んでしまっていて、血のような夕焼けの微かな西の方角を満たしていて、それから、何よりも先生だった。
わたしから見て西側に立つ先生の表情は逆光の中に溶けて、窺い知れない。
なのに、その瞳だけがりんりんと青白く光って、わたしを捉えていた。
先生が、この二日間の間で見せたことのない怜悧な視線が、わたしを射殺さんばかりだった。
「……あ、え。せ、先生?」
「……」
「どうかしましたか、先生?」
「沙条さん?」
「はい。その、どうか、しましたか」
「沙条、綾香さん?」
「え、そうですけど。その、どういう意味ですか」
「そう、そうなのね。……あぁ、よかった。本当に」
歪な、違和感を覚えるようなやり取りの後で、途端にほうっと息を吐いて、安堵の表情に切り替わった先生に、緊張めいた場の空気が急激に弛緩した。
場所は既に駐車場。
つまるところは、墓前から駐車場までの間に記憶がすっぽりと欠けてしまっていることを表している。
「先生、わたし、すみません。その頭の中がごちゃごちゃしてくるとたまに意識がなくなるときがあって。わたし、何か変でしたか?お墓からここに戻るまでの記憶が全然なくて」
「たまに意識がなくなる、か。それって……」
地域の夕方6時を告げる、夕焼け小焼けの音楽が、墓地の各所にも設置されているスピーカーから、ガサガサとしたノイズ混じりではあるが軽快に鳴り響いた。
わたしと先生がわずか数秒、目を合わせた後、夕焼け小焼けの音楽の終わるのを待って、
「まずは車に乗って、それからお話ししましょうか」
ということになった。
墓地に来たときと同じように助手席に乗った。来たときとは違って、重たい空気が場を支配していた。
カローラは、既に駐車場の最後の一台になっていた。
カローラが、ロービームを灯しながら発進する。
左折して、寂しい住宅街に沿った道路に合流してしばらく山を下る格好で、2分くらいすると交通量の賑やかな都道に合流した。
都道に入ってすぐに赤信号で停止した。
重苦しい空気の中に会話がポツポツと戻ってきた。
「お疲れさま、沙条さん。お墓参りはどうだった?」
本題ではないことは明らかだった。
もしもわたしの意識がなくなるようなことがなければ、先生とはもっと和やかな空気の中、こういう話でもしながらの、居心地の良い車だったのだろうか。
「お花は供えられましたよ」
「変なことでもあったの?」
「教会の……」
と言ってから、かぶりを振った。
わたし、どこからしゃべればいいんだ。どこまでしゃべっていいんだ。
……聖杯戦争のことなんて明かせるわけないのに。
フリーズしたわたしの様子に、先生は催促するでもなく。じっと続きを待っているようだった。
「教会の神父さんみたいな人が、その、上手くは言えないんですけど、わたしに死相が出ているみたいな。変なこと言われちゃって。それでわたしパニックになっちゃって」
「なるほどね。ご家族の命日の日に、神父からそんな脅迫的なこと言われたら、怖いわよね。で、頭の中がごちゃごちゃして意識がなくなって。気づいたら駐車場にいたのね」
「はい。まさにその通りの流れです」
再び、車内を静寂が満たした。
「多重人格障害、ってわかるかしら?」
「……。気になって調べたことはあります」
「今では解離性同一障害って呼称されることもあるようだけれど、もしかすると、あなたの症状はそれに当て嵌まるんじゃないかしらね」
「そう、なんですかね」
「何かしらのトラウマ的な出来事がきっかけで発症することがある。専門医による治療が必要とされている」
こくりと頷いた。先生は運転中で横を向けないはずなので、わたしの応答を知ることはないだろうけど、わたしの頷きを次ぐように、
「悪魔つきって知ってる?」
と、わたしに質問をした。
「悪魔つき。って、それは、その」
「魔法みたいなお話しだけれど、中世では急激に人格が替わったりすることを、悪魔という原因に求めて、治療という名の屈辱的な処置を施したらしいわね。もちろん馬鹿げてる。現代の体系立てられた治療法の発展を考えれば、そんな非人道的な措置は許されるべきではないわ」
話の方向性が読めなかった。
魔法みたいな、という言葉のおかげで、やはり先生は魔術師ではないと安心を抱いたものの、なんとなく不穏な話の方向性に思えた。
「けれど中には本物もあったかもしれない。治療法だってもしかすると魔法使いがいて、悪魔を祓うことができたのかもしれない。というわけで、いったんね、パワースポットに滝行とか行ってみない?」
「へ?」
「滝行よ、滝行!心を強く、心頭滅却ってね。最近パワースポットの雑誌を買ったのだけれど、やっぱり1人で行くにはちょっとね。わたしのパートナーもそういう眉唾物には興味なさそうだから、誘える人がいなかったのよね。そこで沙条さん!暇だったら、一緒に滝行に行ってみない?」
「え、っと。その。先生って、もしかして、ノストラダムスの大予言とか、信じちゃってますか?」
「ノストラダムスの大予言?そんなの信じるわけないでしょう。ただ、月刊ムーは買い込んでるわよ」
「先生?!」
「……ふふ、まあ。冗談はさておき、ね。戻ってきたときの沙条さんが、だいぶいつもの雰囲気と違ってたのは確かよ」
「何か先生としゃべったんですか?」
「ええ、しゃべったわよ」
わたしから人格がもう一つ生えているのか、単に健忘のように一時的な記憶が思い出せなくなっているのか。
特に記憶の連続性の失われている短期間の間に、誰かと個人的なやり取りを交わしたことがこれまでに多分なかった。
だから判別することができなかったのだ。
「どんな感じでしたか?変でしたか?いつものわたしと違いましたか」
「親しみゼロよ。なんというか……圧はあって、怖かったかも?」
「え、わたしって。意識ないときそんな感じなんですか」
「さあて、ね。なんというか性格は悪いのに、自分のことを性格悪いとは認識せずに自分の世界に入っちゃってるタイプの人っていうのかしら。何にせよ、精神科のある病院は行ったほうがいいわね。行ったことある?」
「ないです。結構怖いニュースとか見るじゃないですか。それこそ患者に対する虐待とか。1年前にもワイドショーで話題になってましたし」
「そう、ね。意識がなくなって、気づいたら別の場所に立ってたっていう、今回みたいなことって前回だといつあった?」
「昨日です」
「昨日……か。んー、そっかそっか。保健室に来る前ってことかな?」
「はい。気づいたら学校に登校してて」
「うん。わたしも色々考えてみるわね。また良ければ保健室に来てね。専門じゃないから何かすることができるわけじゃないけど、できる限りのサポートはしたいから、ね」
「はい」
先ほどの冷たい目線は嘘だったかのように、これまでの通りに親身になって話をしてくれる先生だった。
「その、どんな会話しましたか?」
「うーん。秘密。怖すぎて沙条さん聞かないほうがいいかも……っていうのは、冗談なんだけど、ね」
「え、でもそのレベルなんですか?」
「まあまあ。気にしない気にしない」
「本当に怖いんですけど、先生」
「まー、ね。沙条さんが神父に言われたみたいな、あなた死ぬわよ?みたいなことを言われちゃったのよね」
ショックだ。
自分が人を傷つけてしまったという事実と、それも先生に対してというのが、さらにショックだった。
「そりゃ最初はびっくりするし身構えちゃったわよ。でも、沙条さんの意識が戻って、お墓の前で神父と何を話したのかとか聞いたらね。納得するわよね。神父に影響されすぎちゃったのよ、きっと」
「いえ、その、本当にごめんなさい……。わたしそんなつもりなかったのに」
「あー、もう!わたし全然気にしてないのよ。だからどんな話をしたのか言いたくなかったんだけど、嘘を言うのも気が咎めるし」
車が緩やかに路上の端に寄せられて停車した。
「泣かないで?沙条さんが泣いてるとわたしもツライの。ね?」
「はい。……はい」
先生がわたしを安心させるように包み込む。トントン背中を優しく叩いてくれた。
しばらくすると冷静になってきた。
「もう大丈夫?」
「はい」
「じゃあ出発しよっか」
車が再出発をした。なんだか安心して、わたしはしばしの間助手席で眠りについた。
「沙条さん、沙条さん」
「は、はい」
「おはよう。沙条さんの家ってどこだった?」
「えーっと、この道に入ってもらって……」
家の前に車が止まった。
ハザードがチカチカと周期的に赤く点滅している。
「大きいお家ねー。……ここに1人で?」
「そうです。でももう8年ですから。慣れましたよ」
「そっか。1人きりでよく頑張ったわね」
「……先生、今日はありがとうございました。本当に楽しくて、わたし、人生で一番。一番うれしかったんです」
「わたしはあなたを助けてあげることはできないのかもしれない。でもね、保健室の先生という立場として、できる限りあなたの支えになりたいって思ってる」
「はい」
「そうだ、これ」
「なんですか?」
「ネックレス」
品の良さそうなネックレスが、先生の首元を飾っていたのだった。
先生はそれを外して、わたしに掛けた。
「わたしが子どもの頃。わたしの先生からもらったネックレスなのだけどあなたに上げるわ」
「そんな大切なもの、ダメですよ」
「いーの、いーの。もらっときなさいな。……前にも言ったけどね、今月は在留関係の申請で忙しいのよね。助けたくても助けてあげられないかも。だから、はい。これ」
「……はい」
先生のつけていたときは気品を高めているような作用があった気がするけれど、わたしにはあまり似合わないような気がした。
「似合ってる似合ってる」
「そうですかね」
「ええ。これがあなたをきっと守ってくれるわ……。なんて、ね」
「はい、その。ほんとうにありがとうございました」
「それじゃあ、帰ろうかしら」
先生は言葉は発せずに、手だけ胸の前あたりでちょこんと振って、再び車に乗り込んだ。
車を見送りながら、わたしは頭を下げ続けた。車が見えなくなってもしばらく、下げ続けた。
顔を上げると、しんと静まり返った我が家の玄関前。
雨上がりの晴れ上がった夜のセカイは、昼間に僅かにしか蓄えられなかった熱を宙へと吸い上げられてしまったようで、地面に残されたものは既にあまねく生物の抜け殻くらいしかない。そんな錯覚さえ抱いてしまう。
玄関の戸を開くと、いつも通りに柱時計は音をカツカツと刻んでいる。
「ただいま」
壁に手をつき支えにしながら、ローファーを脱いだ。
帰る前と後とで何が変わっただろう。思いつくものといえば、傘が一本なくなったこと。
それと、首元にぶら下がったネックレス。
手に優しく触れると、この冷ややかな世界の中で唯一温かみが残されているものだった。
台所に立って息をついた。
ご飯は食べる気にはなれなかった。お昼の弁当箱を流しで洗いながらも、まだやる気は湧いてこない。
8時を告げる柱時計の音が部屋に響き渡っていた。あと4回だ。日付を跨ぐまでもう猶予は僅か。
「そうだ、ガーデン」
鳩を、逃さなければ。
鳩たちは鳥籠から既に解放したというのに、習慣づけというやつは怖いもので、全羽が再び鳥籠の中に戻っていた。
「もう逃げていいんだよ」
ぶら下がった鳥籠を緩く揺らしてみても逃げる素振りさえない。
ガーデンの扉を開け放っておく。
これでいつでも逃げてくれるはずだ。餌をやって、ガーデンを後にした。
ガーデンから2階に上り、ベランダから外を眺める。
清涼な風が正門の方から吹きつけてきた。
「あんなに近くに日常が溢れてるのになぁ」
遠く、輝く家々の灯火。
夜空に輝く星々ほどに、あまりに遠いのだった。
ベランダの柵に頬杖ついて、あくびをする。目に映る数多の輝きたちが滲み出し乱れ、目をさらに細めると、やがては薄く広がり形を失った光が網膜に映し出される。
それから目をギュッと瞑った。見たくないものを見なくて済むから。
けれど、いくら外界との交わりを拒絶したところで時間は容赦ない。
夜は徐々に精彩さを欠いた。
寒空の下、体温奪われ、けれどここにこそ居場所があるのだと居座り続け、ここにしか居場所はないのだと、何時間か経過した。
今更になって思ってしまう。
「逃げちゃえばよかったのかな」
家の光の灯る場所より遥か遠く。東京という土地を越えて、もはや届かない場所で息を潜めていればよかった。
現実逃避するばかり。こういうのを正常性バイアスとでも言うのだろうか。
変わらない日常を送ろうとすることで、無為無策、聖杯戦争への抵抗をしたつもりになっていた。
○
午後11時58分は、呆気なく訪れた。
柱時計は絶え間なく周期的な音を出し続け、窓からカーテンを揺らす風は既に不自然なくらいにやさしい。
廊下へと続く階段は開け放っており、階下で異常が有れば、すぐに気づけるはずだ。
突如、風に流れるように犬の鳴き声が部屋に染み渡った。
子どもの頃は、夜中に喚く遠吠えによく怯えていたものだったけれど、ここ数年は滅多に気になることがなかった。
珍しい。
そっとカーテンに手をかけて、夜の街を覗き込む。電気は疎らには灯っていた。それは世界との唯一の繋がりだった。
「よかった……」
ベッドに腰を下ろした。
夜明けは朝の6時ごろ。あと6時間もすれば、一先ずは安心できる。
メガネを勉強机に置いて目頭を揉んだ。
不意に、日付の変更を告げる柱時計の重い低音が階下から聞こえてきた。
びくっと肩を震わせてしまったけれど、日常的なものに過ぎない。
1回、2回、3回
打った音は正常に刻まれた。
4回、5回、6回、7回
外から何やら音が混じり始めているような気がした。騒々しい、散らかったような叫び声だった。
心臓の音が平時とは異なるリズムで動き始めているのを感じて、手で胸を押さえつけた。
「深呼吸、深呼吸……」
もう一度メガネを掛け直して、カーテンを捲った。
8回、9回、10回、11回
犬の呻き声だった。1匹だけには思えなかった。沙条邸を目指しているように錯覚するほど、徐々に大きさを増していく。
知らず、首元にかかったネックレスをぎゅっと左手で掴んでいたことに気づく。
手のひらに乗せたネックレスのチャームに目を落とし、ぎゅっと目を瞑る。
そして、静寂が訪れた。犬たちの気配はその数瞬のみ消えた。
12回目の音が静寂を破るように鳴り響く。
と同時に、消えたはずのひときわ甲高い唸りが家のそばから蠢き始め、窓を震わせた。
カシャンという階下からの窓ガラスの破砕音が13回目の音となって沙条邸を侵し、果たして、沙条綾香の、ひいては聖杯戦争全体を見ても初戦にあたる戦いの火蓋は切って落とされたのだった。