猛犬が窓ガラスを突き破った。
階下からぐちゃぐちゃになった雄叫びが響く。館内は殺気立っていた。
わたしは布団をミノムシのように全身に包ませて、必死にネックレスに「だいじょうぶ、だいじょうぶ」何度も祈り続けた。
寒さは冬の夜のせいではなかった。
汗は暑さのせいでもなかった。
階下を彷徨くケモノたちの足取りは、獲物を追い求める野蛮さの中に咲いた血の気配を色濃く湛えており、まもなく進退窮まるわたしの、数刻も後に晒すことになるであろう見窄らしい姿を容易に想像させた。
「わたしには、何にも関係ないじゃない!わたしはサーヴァントも召喚していなければ、聖杯戦争なんて何も知らないのよ!!」
魔術師。
階下を闊歩するケモノのように、人の心なんて持たない。根源とかいう意味のわからない概念に到達するためなら、隣人さえも、家族さえも焚べるような非人道的な、あんな無差別殺人犯のようなヤツら。
わたしは、あんなヤツらの同類になんてならない。
わたしは、聖杯戦争なんて、許さない。
わたしは、聖杯戦争になんて参加しない。
「わたしは……!」
わかっていた。
どれほど拒もうとて、わたしの想いが届くのはこの布団の中だけなのだということ。
わたしの持てる力は呆気ないもので、自分の気持ちを突き通せるほど立派で優れた人間じゃないということ。
「根暗で、臆病で、視野が狭くて、見栄っ張り」
こんな、死を目前にして、狼狽えることしかできないでいる。
自室の戸を、野蛮に突き破ろうという衝撃が何度も何度も叩き始める。
さっさと歩き出せない。だから、自分は殺されるんだ……。
死。明確な形を持った死。わたしのとっての死神の形はイヌの形をとっていたということなのだろう。
呼吸が早くなる。鼻水と涙が顔を汚していた。
ケモノたちの呼吸が、耳元で唸っている。部屋中を満たしている。
それは遠近感を失った五感による錯覚ではあったけれど、濃密な死の気配が首元に迫っていることは動かない事実だった。
手に持っていたネックレスを掴む力が強くなっていた。握り込む力が強く、皮膚を痛く突き刺した。
せっかく大事なものをもらったっていうのに、情けないなって自嘲する。
わたしには過ぎたものだった。わたしには、先生の大事なものをもらう価値さえなかったのか。
『これがあなたをきっと守ってくれるわ』
祈りだった。わたしに捧げられたこの世界における唯一の好意だった。
それを無碍にしたのはわたしの怠慢だった。
けれど、『沙条さんが泣いてるとわたしもツライの。ね?』はっと、夕暮れの記憶が鮮明立った。
ネックレスを包んでいた手のひらを見ると血が出ていた。握力から解放された五指はピクピクと、死にかけのように小さく何度も跳ねた。
瞳孔が開いていた。
青白い月夜は血の気を失ったように非人間的に、わたしを窓越しに照らしていた。もう明後日には満月になろうかという、半端な月である。
背後には飢えたケモノの群れ。
「わたし……」
わたしは月を見据えて、涙を拭った。目に映ったのは、くっきりとした輪郭の月。
○
窓からヒサシ伝いに隣の部屋のベランダに転がり込むことはできる。ただし、隣の部屋の中へは入ることはできない。
でも、隣の部屋も時間の問題だろう。
ベランダはさらに奥の部屋まで続いており、そこからヒサシに飛び移ればガーデンまでは辿り着くことは可能だ。
ガーデンだって時間の問題だろう。それに、鳩を逃すために扉を開け放ってしまっているのだ。既に占領されている可能性だってあった。
それでもなお、ガーデン目指そうというのは、
【ここに来れば、きっと綾香のことを守ってくれるわ】
古い記憶だった。
誰からの声かも思い出せない。きっと記憶にはほとんどない母なのだろう。
その「母」が、ガーデンならばわたしを守ってくれるはずだ。そう言っている。
如何なる根拠か。どれほどの信頼性か。わからない。
先生から受け継いだネックレスに意味を見出すように、ガーデンに意味を見出す。いや、ガーデンという意味が初めにあった。
隣の部屋のベランダへと飛び移ったわたしは、さっきまで自分がベッドの上で包まっていた布団が何度も噛みしだかれて、出てきた窓から放り捨てられたのを戦々恐々と見た。
犬というよりはオオカミ。いや、それ以上のバケモノか。そいつの前に突き出た口が窓から飛び出ていた。
バケモノもわたしに後を追うようにヒサシに飛び移り、ベランダの柵に手をかけようとする準備運動に入っていた。
「ひっ」
目が合った。爛々と輝く眼光、口元は興奮を隠しきれずに涎を垂らしている。
「逃げないと、やられる……!」
ベランダを駆け、両の手を柵について、ゴクリ唾を飲み込んで、右足を、それから左足を跨がせた。
はーっと深呼吸をした。柵を後ろ手に掴む。足元は柵からはみ出した僅か10センチ程度の厚みの上に支えられている。
向こうのヒサシに早く飛び移らなければ。だが、足を滑らせてしまえば一瞬で終わり。
例え死なずとも足かどこかを負傷して身動きの取りづらい格好になってしまえば、猛獣どもはすぐにでも追いつき、わたしのあらゆる肉という肉を貪り食う。
既に時間は残されていないようだった。振り向けば、柵をよじ登った1頭の犬の口角の上がっているのを見た。
「やっ!」
訪れた浮遊感。心臓がすくみ上がりそうになる1メートル超の距離。
それをなんとかヒサシに着地。滞空が刹那にも無限にも感じられた時間だった。
「ベランダからヒサシに飛び移れたらそれで終わりじゃないんだから、ほっとするんじゃない、わたし!」
太ももをパンっと平手で叩いた。
日没まで降り続いた雨はヒサシを湿らせていた。雨上がり以降の日照時間は0時間。
当然ながら、ヒサシは乾いていない。いまは裸足だから歩けているが、靴を履いていたらヒサシ伝いに歩いて行くことは難しかったろう。
手を壁に置きながら、また後ろの獣声に肝を冷やしながら、ヒサシを歩いて行く。
ベランダにたむろする犬は気がつけば3頭に増えていた。
「いったい何頭家の中にいるのよ」
愚痴を言えるくらいに落ち着いてきたのは、ベランダの柵を我先にと競うように飛び越えようとした結果、つっかえて1頭さえもヒサシへ飛び移ることのできなさそうなのを見てのことだった。
慎重にヒサシを歩いていく。足の裏はしんと冷え切っていた。
曲がり角に差し掛かった。あの曲がり角を曲がって、2階のヒサシから1階へ落ちる雨どいを伝って降りればいよいよガーデンはまもなくだ。
逸る気持ちを抑えきれない。早くガーデンに、早くガーデンに。そう思いながらヒサシの曲がり角を左に曲がった。
死角に、いた。
何かがいた。
「なんなの」
人がいた。
月を見上げて、ヒサシの上で胡座をかいている男がいる。
「なんなのってーと。オレぁモノじゃねえぞ」
目線はまだ月を捉えているようだった。男は、なんてことないみたいに話しかけてくる。
その呑気な光景と、追い立てられているわたしの現状との差異に風邪を引きそうなくらいだった。
「だれ、ですか。ここで何してるんですか」
「だれ。誰と来たか。そうだなあ。名乗ってやりたいところだが生憎許される立場にはねぇのよ」
魔術師として鍛錬はほとんどできていないようなわたしだけれど、この気の抜けたような男の持つ魔力の形が、一般の人々、もしくは魔術師とは大きく異なることは感じ取れていた。
男はこの月光に映し出された青世界の中でもいっとう青く、銀のショルダーアーマーは身に張り付いているように様になっていた。
片目に偏って流された青い髪が揺れた。赤い目がわたしを捉えていた。
「サー、ヴァント……」
「そうだ。オレはサーヴァント。クラスは、ま、見ての通りだ」
腕に抱えるようにして立たせている青緑色をした槍。
「わたしを、殺しに来たんですか?」
「アンタ、沙条サンだろ?」
「ええ」
「じゃあ、悪いな。そういうことだ。アンタ、今日ここで死ぬ」
後ずさる。相変わらず犬どもはヒサシに飛び移れないでいるけれど、既に挟み撃ちの状況には変わりない。
男が揺らりと、初動の読めない滑らかな動きで立ち上がった。
槍の穂先がわたしを向いている。有形化した殺意はわたしに向かって手を伸ばしている。
「だが、」
「?」
「フェアじゃねえ。戦場においては、隙を晒したやつから命を落とす。常在戦場の心持ち保てなかったヤツは呆気なくおっ死ぬ。だがよ。アンタ、戦う準備もしてねえんだろ?魔術的な礼装も、武器も何にも持っちゃいない。そもそも戦うことを想定してない一般人って感じだ」
「……わたしは、聖杯戦争になんて。参加するつもりは、ないわ」
殺意の行き先を逸したように、サーヴァント・ランサーの手に携えられた槍の穂先が下を向く。
「だが完全に部外者というわけでもない。だろ?聞くところによると前回の聖杯戦争の実質的な勝者の家系だって言うじゃねえか」
「……。だから、何?わたしとは関係ない」
「生かしておく義理もない。……聖杯戦争。部外者に知れたところになった場合は大問題。関係の魔術師たち、教会の者たちは、各々の裁量によって、部外者への対応をすべし。要は、魔術的な施術によって記憶を消すとか、あとは。まぁ」
殺す、とか。
ランサーが何をいいたいのか、わたしにだって少しずつ掴めてきていた。
「アンタが一般人であると言い張るなら、こちらはこちらで対応を考えるってことだ。その対応によっては、アンタは死ぬかも知れない」
こうなった以上、私に退路は残されていない。どうやって死ぬのかを少ない選択の中から選ぶことだけ。
ランサーによって槍で一突きにされる。犬たちの牙によって引きちぎられる。自分で死を選ぶ。
今最も起こりうるのはランサーによる死だろう。
「だが」
「?」
「今回のオレはフェアプレイに則ってやろうと思う」
「フェアプレイって。どういう意味」
「言葉通り。手心をきわえてやるって意味さ。今から5分やるから、オレにおもしろいもんを見せてくれよ」
「5分。手を出さないでくれるってこと?」
「さあ」
「さあって……」
まったくもって読めないやりとりだ。
「あの犬どもはマスターの指示下にあってな。オレの命令はきかねえのよ。嬢ちゃんは今から5分の間に、犬どもの猛攻を潜り抜けながら礼装なりなんなりを準備して、それなりに状況をおもしろくしてくれや」
ひどく退屈そうな顔だった。
「まぁ、せいぜい頑張んな」
でも。そっちがその気なら、やってやる。
正直今だって目の前の存在の気がいつ変わってしまわないかと心配だ。足の震えは再発している。犬たちがいて、背後だって安全とはいえない。
かといって下に降りるのも着地に失敗すれば大惨事だ。
……そういえばこの曲がり角に面している部屋には確か。
でも、窓は開いていない。
「あっ、そうか。そうすればいいんだ」
魔術による横着をする機会が直近ではなかなかないせいで忘れていた。
窓ガラスのロックに向けて浮遊の魔術を行使する。
魔術師の家系に生まれれば、子どもでも使えるくらいの簡単な術式だ。
微少量の魔力が体内から失せたのを感じる。解錠はなった。
「5分したらまた会おうや」
ランサーの声色には他人事のような雰囲気を感じる。いったいどういう気持ちで我が家を襲撃しにきたのだろう。
(もう二度と会いたくないに決まってるでしょ)
内心ひとりごちつつつ、折り畳みの窓、それから遮光性のいいカーテンを開け放つ。
広めに設計された窓台には、埃の積もったかつての家族の肖像が飾られていて、それら写真立てに注意しながら部屋に転がり込んだ。
「相変わらず窓の外からは犬たちの吠える声が聞こえるけど、家の中は静かになってる」
所詮気休めにしかならないだろうが、開けたばかりの窓の鍵を掛け直す。
目線を下すと、飛び越えてきた写真立てが立ち並んでいた。
「わたしと、お父さんと、お姉ちゃん……」
10年前撮ったんだったっけ。
「って、今は感傷に耽ってる場合じゃないのよね。この部屋に確か」
棚だったか。引き出しだったか。
「思い出せ、思い出せわたし」
うんうんと頭を捻らせて、ガンガン頭が痛くなった刹那に、ゴトンと何か音がする。
「も、もう来たの?」
周囲を見回しても、犬たちの気配は遠い。
既に5分という猶予のうちの1分30秒ほどを消化している。
部屋をよくよく見てみると、棚から一冊の本が落ちている。
革装の立派な洋書風の装丁で、埃まみれの床の上においてなおその格調高さを保っている。
導かれるように手に取って本を開いてみると、光が弾けた。
『わたしの大切な人を救ってあげるためなら、あなたが邪魔なのよね。ふふ、悪いと思わないでね?』
幻聴だろうか。鈴の音のように周囲に響き渡る、不思議な、けれど懐かしくもある声が聞こえた。
一瞬だけ視界が真っ白になるとともに立ち眩んだ。
「今のは、いったいなんなの?」
頭を手で押さえながら、ふらつき、なんとか踏みとどまった。
今は考えても仕方のないことだ。ひとまずは気を取り直して、目下の目標であり、目下にある本を確認する。
中身は矩形くり抜かれていて、収納スペースをつくられていた。いわゆるブックセーフというやつ。
「あ、これってもしかして……」
にわかに窓のすぐ側が騒がしくなってくる。部屋を出た廊下側にも渇いたハウリングが届いている。
窓をかち割ろうと頭突きを開始する猛犬に、扉を破壊しようと胴体ごと打ちつけているであろう猛犬たち。
挟み撃ちの状況。
汗ばんだ手で、ブックセーフの中のものを掴む。
経過時間3分30秒。残り1分と30秒。
窓ガラスが砕け、扉は一部が欠けつつあり、遮蔽越しにくぐもって聞こえていた威嚇・衝撃・軋みが、わたしと同相の環境下に侵入し始めている。
「やるしか、ない」
犬たちの侵入は同時だった。挟撃。絶体絶命の危機。生命の灯火は風の前に儚く揺れるかのごとし、致命的なほどに脅かされている。
まるで飛ぶかの如き脚力をもって、その前脚に光る凶器の爪を向けて襲いかかってきた。
わたしはそれを右の指に嵌めた。内径はぴったりとフィットしていた。
まだお父さんもお姉ちゃんも存命の9年前のこと。お父さんの監督のもと、初めて作成した魔術礼装。
それは指輪だった。
当時は指に嵌めることができず、チェーンに通してネックレスのようにしていた。しかし今は指に嵌めることができ、十全にその機能を振るうことができる。
この選択が正しかったのか。きっとあとで何度も後悔することになるんだろう。
けれど、今この選択をしなければ、その「あとで」さえもやってこないことは明白だった。
「Kindle þæt Nēdl, Wēoncas Flēoge!!/針に灯せ、翼よ舞え」
わたしは自分の命惜しさためだけに、魔術を行使した。詠唱は思いの外、するりと口をついて出てきた。
そして、振り払うように、弧を描くように腕を走らせた。
指輪から黒い羽根が溢れ出すように舞った刹那に、腕の振るわれた軌跡に沿って、羽根は弾丸の如く射出された。
部屋中に黒い羽根は突き刺さり、今もなお勢いを殺しきれず、進み続けようとしてか、壁の中に進入しようとしているようだった。
ほっと一息安心、というわけにもいかない。目の前の光景に目を瞑った。倒れ伏し、ぴくりぴくりと痙攣する2頭は、何枚も突き刺さった黒い羽根のところどころから血を溢れさせている。
羽根が生気を吸い尽くしているようだった。
「これじゃ、わたし……」
目の前の光景をつくりだしたのは、誰か。
この魔術を流れるままに行使したのは、誰か。
そんなこと、自分が一番わかっていた。
けれども、自責の念に浸ることも許されない。例え、死から逃避するために死をつくりだすのだとしても、わたしは。
再び静寂を取り戻した室内。しかし、他の犬たちの猛攻もすぐに再開するだろう。
窓からやってくるはずの犬も、ヒサシの上で見たときと一致しない。どこに潜んでいるとも限らない。
わたしは、部屋を飛び出した。
まもなく、約束の5分が過ぎ去ろうとしていた。
指に嵌められた指輪は、暗い廊下の中において赤いセンターストーンが怪しく濡れたように光を返しているようだった。
「ガーデンに、ガーデンに、行くんだ。わたしは、ガーデンに行かなきゃ」
ランサーは、犬たちは、いまどこにいるのだろうか。
わたしの生き残る確率はどの程度だろうか。
「そもそも、わたしは……」
胸元でネックレスがゆらゆらと揺れ、空の月光を映したかのように青白さを抱えている。
それでも、わたしは走り続けた。