邸内を駆け回る。
慣れた我が家だというのに、割れたガラスに、踏み荒らされた跡、土や砂の落ちる廊下。
著しく変貌を遂げている環境の中で、玄関で履き直した靴でガラスを踏みつけると、軋む音が何度も立った。
いま、犬はどこにいて、ランサーはどこにいる?
例えばあの扉の横を通り過ぎた瞬間に猛犬が飛び出してくるかもしれない。天井を突き破って、ランサーが槍を向けて落ちてくるかもしれない。
わたしを取り囲む同心球には等しく死の前兆を漂わせるような静謐さが馴染んでおり、やはり、いつもの我が家とは思えなかった。
まずは東階段を這うように上りながら、気配を探った。
「はぁっ、はぁ、はぁ……」
もはや鳴き声一つ聞こえなくなってしまった。どこかに潜んでいるということに他ならない。
息を整えながら、気配のなさそうな窓のない部屋に転がり込んで、壁に耳をそばだて音に集中。
自分の呼吸がうるさい。抑え込もうとしても、漏れ出す呼吸音が部屋の中でやけに目立っていた。
カツカツカツ。
足音が聞こえた。
「ランサー、なの?」
その理性的な足取りから、犬ではないことは明白。ゆったりとした足取りで、こちらに向かってくる者がいる。
「さっきヒサシの上でランサーと会ったときに、向かってる方向を悟られてた?いや、たまたま手当たり次第に巡回してるだけ?」
カツカツ。
ここに来るまでに何部屋かあるはずなのに、他の部屋は見向きもしない。一直線に廊下を進んでくる。
そして、わたしの潜む部屋の前で、足音は止まった。
「そんな、バレてる?いったいどうして?」
口元を両手で覆い隠して、自分の衣擦れの音ももはや聞こえないくらい、耳鳴りのキーンとした音とそれから心臓の脈打つ音。
「ああ、また、これだ」
意識が漂白されて、切り替わってしまいそうなあの感覚。
少しずつ世界がスローに、どろっと黒い泥のようなものの中へと溶けていく。
まぶたから力が抜けて、頭のブレーカーが落ちてしまいそう。
と、同時に扉が開かれた。
「こんばんは」
黒いローブを被った、ナニカだった。
特徴を読み取ることができない。ローブ下から、顔の口元より下が覗いているはずなのに、まったく認識できない。男の声なのか女の声なのかもわからない。
体のシルエットも、ローブの影響でわからない。
ただ、こんばんはと声をかけられたことだけが分かった。
「あなたが、ランサーの、マスター?」
身を捩らせて、体を守ろうとするけれど、もう全身がフラフラな現状、既にゲームセットだろう。
「ランサーのマスターではない。ただ、この地における戦いを観測しようと思い、この家を遠見の魔術で見ていた」
「それで、見たかったものは、見られました?」
「いいや。アレはランサーのサーヴァントだろうが、アヤツのマスターの使い魔に犬がいること。君は前回の聖杯戦争の関係者でありながら、此度の戦争に対して乗り気ではなさそうだということだな、わかったのは」
「……観測していたのなら、なぜわたしの家に来たんですか?」
「……。さて、ね」
歯切れの悪さがあった。
「どうしたんですか」
「ランサーのマスターと同じだ。なぜ君を狙ったかといえば、前回の戦争の実質的な勝者の家系だろう。当事者ではないとはいえ。なぜ勝者の座を勝ち取ったにも関わらず命を落としている?何か秘密が?と、なればだ。君から秘密を聞き出そうとするのは道理だろう」
「そう、ですか。でもわたし、何もしりません」
「理解っていることと、識っていることは違うんだよ。わたしは君の頭の中に用がある。記憶を解析にかければ、手掛かりが得られるかもしれないだろう。ここで考えなしのランサーのせいで君を失うわけにはいかないのだ」
「助けてくれると?」
「そうだ。と言いたいところだが、ね。……まぁ、いい。あまり魔術師の言い分を信用しないことだ」
「そうですね。あんな、根源に至るためなら何をしたって、何を犠牲にしたって構わない連中なんて」
キッと目の前の魔術師を睨みつけてしまう。
「はぁ。言うことをきかせる方法ならいくらでもあるけど。だったら」
魔術師は指で銃の形をつくった。銃先は、わたしの頭蓋を捉えていた。
「さっさと死んでみる?」
人差し指の先端に膨れ上がった魔力塊が、極濃の魔力が醸成されていくのがカウントダウンのように見えた。
ぎゅっと胸のネックレスを握る。
「ふふ、なんてね」
急速に萎んでいく魔力は放たれることなく霧散した。
「まあ、いいわ。あなたが何を思おうが構わない。今あなたに死なれると困るので助けてあげる。このことだけを理解しなさい」
「……え、ええ。でも、あなたを信頼できる根拠は?」
「そう、ねえ」
女言葉になったのは、目の前の魔術師が女であるからなのか、男女どちらかを悟らせないための一種のブラフなのか。
疑心暗鬼に苛まれていると、ドタドタした鈍くも早い足音。「えっ」わたしは反応することができない。
わたしたちの潜む部屋に飛び込んでくる、犬。それを、目線をわたしから逸らすでもなく杖を扉側に向け、高速詠唱、なんと詠唱が紡がれたのかもわからないスピードによって杖先から放たれた魔術は、容易に部屋を血で染め抜いた。
「ガッ、クブァ」
飛び込んだその勢い以上で廊下の壁側に打ち付けられて、犬は天井を仰ぎ見る姿勢のまま事切れた。
呆気に取られるわたしに「ほら、さっさと動く!」尻もちをつくような格好のまま動けないでいるわたしの手を取り引っ張り上げた。
わたしの装着する指輪を見て一瞬怪訝な表情を浮かべた魔術師だったが、わたしを引っ張り出すようそのまま勢いよく廊下に飛び出した。
「あなた、誰ですか?」
「そうね。魔術師、とでも、キャスターとでも呼べばいいんじゃないかしら」
「キャ、キャスター。ってことはサーヴァント?なんでわたしを助けて……」
「あなた聖杯戦争に関して何の準備もしてないんでしょう?」
「どこでそれを」
「今のあなたの状況見れば一目瞭然じゃないの!それはいいとして、見てられないから助けるって、それじゃいけない?」
「それが、あなたのマスターの考えですか?」
「……。わたしも、マスターもね、別に願いらしい願いがあって参加したわけじゃなかったわ。召喚されてしばらく現世で暮らしてもう少しここで生きてみたいって思って、受肉をしたいとは考えてはいる。けれど、一番の目標はマスターに生き残ってもらうこと。そのためにはなるべく戦闘行為を行わず、避けられないときのみ交戦して、終戦を迎えたいの。戦争の結果の副産物として受肉できれば上出来ってところね」
「だったらなんで、こんな火事場に。関係のないわたしを助けようなんて」
「義務、よ。それ以上は言わない。ほらさっさと進むわよ」
「は、はい」
この言葉がわたしを騙すためだけに用意されたのだとは思えなかった。
全てを語ってくれたわけではないだろう。しかし、真摯なものを感じた。
それが信頼しすぎにあたるのかもしれないけれど。
廊下の曲がり角の差し掛かる。
「ちょっと、止まって。向こう見える」
「どれですか」
「階段の柱に、ルーン文字があるのがわかる?アレは索敵用ね」
「ていうことは階段は通れないってことですか?」
「その通りよ。……普通はね。今回はあそこを通る。あのルーン魔術に対して検知しないように偽装を施せばいいだけのことよ」
「そんなこと、できるんですか?……さすがはキャスター」
「まあね。とりあえずあのサーヴァントは槍使いであり、ルーン魔術使いでもあるってことよ。あなた一人と思って油断したのね」
「どういうことですか?」
「北欧出身の槍の名手がサーヴァントの正体ということよ。さ、先に進むわよ」
西階段を下ると、階下は特に荒らされていないかった、
散々我が家を荒らしてくれた犬たちも、もしかすると通過した可能性はあるが大した数ではなく、ここが侵入経路にはなっていないということでもある。
「でも、変だ」
「変?どういうことかしら」
「だってランサーが仕掛けを刻んだにも関わらず階下は何にもなかったみたいだなんて、おかしくないですか」
「ふふ。そうね。違和感を言語化できるというのは修羅場をやり過ごすには重要な能力よ。磨きなさい。……ランサーが遊んでいるのは確実でしょうね。どこまでアナタが出来るか段階的に試している。とすれば、どうする?」
階段の踊り場で、キャスターの気配遮断の魔術に守られながら、わたしたちは階下の様子について考察をしていた。
「仕掛けがしてある可能性が高いということですよね。で、キャスターさんの偽装工作と、今の気配遮断が通用しているのであれば、今わたしがここにいることはランサーには気づかれていない」
「ええ。それで?」
「気配を遮断したままで。移動することはできますか?」
「可能よ。けどね、いま気づかれていないことと、これから気づかれることは別でしょう?」
そう。
当たり前だけれどいくら気配を遮断していても待ち伏せされていれば即、死亡だ。
わたしは指輪を見下ろした。これでどのくらいやり過ごすことができるのか、わからない。
「それに、わたしを当てにされすぎても困るのよね。キャスターとはいえ、いや、キャスターだからこそ、魔力っていうリソースを適切にやりくりして数週間過ごさないといけないの。だから助けてあげるのは今日だけよ。そのあとは自分で何とかするか、誰かの軍門に下るか、今後を考えないといけない」
だから、ガーデンに行きたい。
指輪だけでなくそれ以上に仕掛けが備わっているからこそ、籠城して夜明けを待つのならガーデンだ。
しかしガーデンにたどり着くまでの道のりがあまりにも険しすぎた。
「あとね、沙条さん。その指輪はあまりにも邪悪よ。使うのは控えなさい」
「え?」
「アナタがこの先その指輪を使うというなら、わたし、アナタを殺すわ」
「は?」
自分でできることを増やせ。しかし、そのための手段は使うな。
そんなこと言われてもできるはずがない。
「確かに黒魔術を使用するための指輪ですけど、少なくともこれが生命線なんです。使うな、なんて聞けません」
「はぁ。まあ、そう言うわよね。沙条さん、その指輪外そうとしてみて」
「それくらいなら、いいですけど」
右手の指にかかる輪っかを外そうとすると激痛が走った。
「痛っ!なにこれ」
「あーあ。手遅れ一歩手前ね。完全に呪われてるわね」
「え、でも子どものころに教えてもらいながら自分でつくった魔術礼装で、そんな危険なはず……」
「そう思い込まされているのね。いや、後から手を加えられたのかもしれない。何にせよ、危険すぎる。アナタという存在がこの世界にとっての癌になりかけている」
「意味が、わからないです」
「わたしもよ。この数時間で一気に状況が悪化しすぎている。そんな礼装が家にあったなんてね。その指輪ね、アナタの指の肉に食い込んでるわ。侵蝕していると言ってもいいわ」
「外せないんですか?もう、取れないってこと……」
「指を切ればいいのよ。簡単でしょう?」
「今切ってあげましょうか?」
キャスターの手がわたしに触れる。
「触らないで!」
わたしは、夢中でキャスターから逃げ出した。信頼できると思っていたのに、指を切るだなんて。そもそも指輪もなんなんだ。わたしはどうなっちゃうんだ。世界の癌って。
「意味わかんないよ」
階段を駆け降りた。わたしは一直線にガーデンへと向かった。
「あそこに行けば助かるんだ。ランサーとか、キャスターとか、指輪とか犬とか。もう何にも関係ない。あそこに行けば、わたしは助かるの!」
ガーデンに呆気なくたどり着いた。
扉を勢いよく開けると、鳩が一斉に飛び立った。
「あはは、危ないのにまだいる……」
数時間前に開け放った扉がゆらゆらと夜風に揺れていた。
「おう、待ってたぜ嬢ちゃん!どうせここに来るだろうって思ってたが。まぁ何か退屈凌ぎになるもん見せてくれや。さすがに準備できたろ?」
ランサーが、いつもの作業台に腰掛けて、わたしに笑いかけていた。気づけばガーデンが5頭の犬に囲まれていた。
「何がガーデンなら助かるよ……」
わたし、わかってた。今日死ぬってこと。
でもガーデンなら何か助けてくれるんじゃないかって現実逃避してただけだった。
「あははははは。ランサーもキャスターも、何なのよ。みんな寄ってたかって。キャスターは助けてくれるんじゃなかったの?ああ、もう。誰もわたしのことを助けてくれない。指輪だってそう。わたしには何も手段が残されてなかったの」
笑いながら涙がでてきた。犬たちの包囲網は次第に狭くなってきた。
「でも、どうせ死ぬのなら、使っても同じだよね」
指輪をひと撫でした。一斉に襲いかかってくる犬たち。
「使うな!!」
「なんだ?」
キャスターの怒声と、ランサーの驚いた声。
「何が使うな、よ。好き勝手に、偉そうに!!」
怒りのままに指輪を振るった。
黒い羽根が、4頭の犬の命を刈り取り、残りの1頭がわたしの首元に食らいついた。
「沙条さん!」
首元から血が吹き出した。ごっそりと生命の源泉が持っていかれた感覚。霞む視界。いつの間にか、わたしの体の上で、食らいついてきた1頭も事切れていた。
誰かが犬を殺したのだろう。
少しずつ、頭が回らなくなっている。
「キャスター。嬢ちゃんのサーヴァント、じゃなさそうだが。どういう関係だ?」
「どういう関係も何もないわ。早くあの子を!」
やっぱりランサーもキャスターもわたしのことを殺そうとしているのだ。
倒れ伏すわたしの上には既に槍を構えるランサーがいた。槍の穂先は既に胸の辺りに当たっていて、あとは肉に沈み込ませるだけといった具合。
「まあいい。キャスターとはいえ、この距離で今更嬢ちゃんをどうこうできないだろ。嬢ちゃんを殺したとしても、オレの方が早い」
「ちっ」
そうして槍が肉に落ちた。