#9
夢うつつ。
幸せなことがあった気がする。どんな夢だったっけ。思い出せないけれど、わたしの全てを塗り替えるくらい凄まじい出来事だったはず。
微睡の中で瞼は重くて、薄らとしか視界を認識できない。
曖昧な世界。
手を伸ばす。お月さまに向かって手を伸ばすように、何度も何度も繰り返し手を伸ばした。
届くわけがなかった。当たり前だ。月という神秘の一端は触れ得ざるものとしての意義を多分に含んでいるからこその神秘なのだから。
それならばどうしてこんなに満ち足りた気分になるのだろう?
伸ばした手から力を抜けて少しずつ下ろされようとする最中に、突然手をぎゅっと恋人とでもするかのように掴まれて五指を絡め取られた。
『綾香?』
わたしを呼ぶ声。女の人だ。
『あーやーか?』
「……誰なの」
聞き覚えがある声なのに喉がつっかえてしまって言葉に出せない。すぐそこまでわかっているはずなのに。
もどかしい気持ちを抱えながら誰何する。
『ふふ、誰なのって。わかりきったことを聞くのね』
「わたしの知ってる人?」
『そうよ』
「お母さん?」
『いいえ』
「お姉ちゃん?」
『ふふ、わたしの正体はね
─ ─アナタ
ほら、もう目を開けられるはずよ。しっかりとその目で見てみて?』
驚いて目をぱっと開くと、目の前には金色の髪の毛をした……女の人、だろうか。顔はよく見えなかった。
(わかりそうなのに出てこない。あなたはいったい誰なの)
しばらく凝視していると、女の人は笑った。そういう口元の形に変わったと認識できたわけではないけれど、女の人は確かに笑ったのだとわたしは認識した。
女の人はヒトの形を失いドロっとした粘体へと姿を変えた。
「えっ。いや、なに」
粘体はわたしの体を侵すように包み込む。
(怖い!怖い!!怖い!!!)
何が起きてるのかわからなくて、全身を掻きむしる。
『そんなに怖がらなくたって問題ないのよ。心配しないで。すべてが一つに溶け合うだけだから』
「溶け合うって何なの。わたしはどうなっちゃうの?」
『どうなっちゃうのって、ねえ』
くすくすと笑っていた。無邪気に笑っていた。笑いの理由も何もかもわからなくてパニックになっていた。
身動きが取れない。全身が不自由で、わたしの体がわたしのものではないみたい。
そんな拘束された感覚も少しずつ落ち着いてきて、少しずつ呼吸が安定してきた。手が動く。足も動いた。首も横に回せた。
『「まずは起きないとね」』
自分が声を出したのか誰か別の人が声を出したのか曖昧だった。
わたしは身を起こし、そもそもここはどこだろうか、何もない白い空間にわたしはいた。何度か振り返ってみたりしても手を振り回してみても何かにぶつかる気配はない。
さっきまでベッドに横たわっていた気がしたのに起き上がった後にその場所を見下ろしても、今は虚無が広がっている。
理解のできない光景ではあったのに、今度のわたしは不自然なほどに落ち着いていた。
(さっきの粘体は結局どうなんだったっけ)
手が自然と前に伸び、虚空を掴んだ。そのはずなのに、手元には何故かアンティーク風の彫刻の施されたハンドミラーが握られていた。
おかしいはずなのに当然のことのように受け取る自分もいる。どうしちゃったんだろう、わたしったら。
ミラーを顔に近づけておかしな点がないか顔を映して確認した。
ひゅっと息を呑んだ。
金色の髪色をしたわたしが鏡には映っていた。明らかにおかしい。だってわたしの髪の毛は黒色だ。
おかしいはずなのに、どこからともなくやってきた満ち足りた気分がわたしの頭の中を満たし始めた。
『わたしは沙条綾香。ホンモノの沙条綾香』
どこか挑発するように鏡の先のわたしは、わたしに微笑みかけた。
鏡がキシッと音を立てて割れた。破片のひとかけらには全てを見透かすような無垢な蒼い瞳が大きく映し出されて、わたしを試すような眼差しで観察していた。
鏡の破砕とどまることをしらない。それと同期するように世界も崩壊の一途を辿り、破片となって崩れ始めた。
世界から剥がれ落ちた箇所からは暗闇が除き出しており、世界は光も何もない暗黒へと近づいていく。
わたしは一人になった。わたしは暗闇のなか無秩序の中の唯一の秩序となり果てた。
わたし自身も砕け始め少しずつ無秩序へと拡散を始めた。
(わたしの体が消えていく。崩れていく。助けて助けて、誰か助けて。わたしを置いていかないで、わたしを壊さないで!)
どこが上なのか下なのか、左も右もわからなくなっていた。
鼻にかかっていたメガネがついに支えきれなくなって溢れるように落ちた。
急激に怒りが湧き起こった。理不尽への怒り。未知を振り回して世界を壊そうとするものへの怒り。
大体何がホンモノの沙条綾香よ。
「わたしがホンモノの沙条綾香!!」
ドンっと机を叩いて、勢いよく立ち上がった。
その瞬間、ノイズが走り位相がズレた。見渡すと白い空間はどこへやら、そこはガーデンの作業台だった。
「えっ?」
鳩の鳴き声がこだまするように一斉に響き渡った。
世界はいまだ夜の帷に包まれていた。
深夜に寝て、起きたらまだ夜だったというのは、一昼夜も寝て過ごしてしまったか、1時間も寝ていなかったかのどちらかだと相場は決まっている。
そうでなければ壮大な夢を見ていたかのどちらか。
夢、ゆめ、ゆ、め、
どこからどこまでが夢だった?
ガーデンの隅々には戦闘の跡が残されていた。
今わたしは本当に目が覚めているの?まだ夢の中なんじゃないの?
ぐっと頭を抑えた。キリキリと頭が締め付けられる。
思い出せ。さっきまでランサーに襲われてキャスターにも襲われて、絶体絶命。それから逃げ込んだ先のガーデンで。
記憶が次々につながっていく。
何故わたしがガーデンで目が覚めたのか。何故、ガーデンが傷だらけなのか。
あらゆる事象が有機的に組み上げられて、意味を持ったデータへと変貌を遂げていく。
「よかった。起きたんだね、マスター」
声のする方を振り返る。わたしの目の高さにはまずは鎧が映った。それからたどるように上を向く。
身長は180cmほどだろうか。
(ああ、そうだわ。あの人がわたしのことを守ってくれた)
「セイバー……!」
わたしは駆け寄り、セイバーを抱き締めた。この日を待ち望んでいた。だってずっとずっとずーっとあなたに逢いたかったんだもの。甲冑越しに感じる体の大きさも、匂いも、全部ぜんぶがあのときのままで、胸がきゅっと苦しくなった。もう絶対に離さない。逃してなるものか。心の中で決意しつつも、やっぱり顔がへにゃへにゃに蕩けてしまいそうになるのを抑えることができない。だってしょうがないじゃない!アーサーが、8年ぶりに、ようやくわたしの目の前に降りて来てくれたのよ?これが嬉しくてならないわけがない。気持ちが抑えきれなくなって怖いくらい。ぜんぶあなたにあげてしまいたくなってしまう。わたしの全てを、世界中のすべてを壊してでもあなたに、あなたの願いを、わたしが叶えてあげるのって。ああ、そういえば8年前にもそんなことを思ったことを思い出した。でも、当然のことよね。だってあなたは
「わたしの、運命の、王子様……」
なんですもの。小さな声で呪文を呟くみたいに丁寧に口にした言葉。
顔が紅潮して、少し息が荒くなりそうなのをわたしはセイバーに悟られないように抑え込んだ。
求めるように顔を上げてセイバーを見つめる。
……って、あれ?何かがおかしい。
セイバー……。目の前のサーヴァントはわたしが召喚したらしいセイバー。
確かにとても顔立ちが整っていて、かっこいい。けれど、呼びかけられてから今に至るまで、変に体が勝手に動いて、挙げ句の果てに、だ、だき、抱き締めたりして?!
「わわっ。ごめんなさい!えっと、そうなんです!急に安心して。だからきっと抱き締めちゃったりなんかして。ご、ごめんなさい」
慌てて、身を離す。
「ああ。気にしていないよ。普通あんな戦場にいきなり放り込まれたら不安になるのも当然だ。よかった。キャスターが撤退してすぐにマスターは倒れてしまったんだ。……できればマスターをベッドかどこかの休みやすいところで寝かせてあげられればよかったのだけど、家の中に何か罠を仕掛けられているとも限らないからね」
「ああ、いえ。真っ当な判断だと思います。ありがとうございました。セイバーさんが来てくれないかったら、わたし死んでたと思います。だから、本当に感謝してるんです」
わたしがぺこぺこと頭を下げていると、セイバーはセイバーで申し訳なさそうに眉尻を下げて、いや私の方が罪深いことを君にしてしまったね。そう言って、一つため息を吐いた。
「サーヴァントとマスターが1対1で相対するなんて普通あり得ないことなのにキャスターの相手を任せてしまって。本当に申し訳ないことをしてしまったね。宝具を解放することも視野に入れていたのだけれどマスターのおかげでそれをせずに済ますことができた。助かったよ。それにしても、あの状況でキャスターを撤退させるなんて……。いったい何をしたんだい?」
セイバーは純粋な興味という感じで尋ねてきたのだけれど、そうなのだ、わたしはどうやらキャスターを退けたらしいけど、どうしてキャスターはわたしに手を出さずに、もしくは手を出せずに撤退したのか。
これがわからなかった。
「わたしも何がなんだか……。あの時の記憶がまったくないんです」
ショックなことがあると意識がなくなって自分の体が勝手に動いていることがある。ということは今は言わないでおこうと思った。
もう少し落ち着いた時にでも話せばいいだろう。
「がむしゃらになってると記憶が飛ぶことはままあるね。火事場の馬鹿力的に潜在的な能力が解放されて、キャスターも何らかの要因で余裕がなかったことが重なったと考えればあり得なくはないね」
火事場の馬鹿力ではないのだろうけど、夕方の先生とのやりとりでも、意識のなくなってるときのわたしは何か怖いらしいから、キャスターさえも怖気付かせるようなブラフをかますことができたのかも?
ひとまず、わたしは曖昧に笑ってそうかもしれないですねとセイバーに返した。
「一応、今このあたり。ガーデンと言ったかな?魔術的に設置された罠はなさそうなことは確認できたから安心していい。あとで一緒に家の中も確認しにいこう。ここでひとまず自己紹介といきたいのだけど、どうかな?」
「あ、確認していただいてありがとうございます。で、自己紹介ですね。えっと、いいと思います。わたしは沙条綾香です。しゅ、趣味?は思いつかないんですけど、頑張りたいと思います」
何を頑張るんだよ!とわたし自身も言ってすぐに思ったけれど今さらどうしようもできない。かーっと顔が熱くなる。
「ありがとう。私はサーヴァント・セイバー。実は聖杯戦争に召喚されるのは二度目なんだ」
はっと顔をあげる。
「8年前の、ですか?」
「今は西暦1999年だったかな」
「はい」
「だとすればそうだね。私は1991年にもここ東京で執り行われた聖杯戦争に召喚された。そして、ああ、記憶が曖昧なんだが、君にはお姉さんがいるよね?」
「聖杯戦争で亡くなりましたが、姉の愛歌がいました」
「そうか。それはすまないことを聞いてしまったね。……私は愛歌に召喚されたサーヴァントだったんだ」
「そうだったんですか?」
「ああ」
「じゃあ。その、どうやって姉が亡くなったのかってご存知だったりしますか?」
「それがね。複雑な話なんだけれど、愛歌は戦争に最後のマスターとなるまで勝ち抜いていった。このことは知っているかな?」
「協会の人から聞きました」
「そうか。私はね、最後に残ったマスターとなった時点で愛歌とのサーヴァントの契約を打ち切られてしまったんだ。愛歌がいったい何を思って、何を知って、サーヴァント契約を破棄したのかわからないんだ。結果的にその強引な契約破棄の影響か私は再召喚された今、前回の記憶が曖昧で、愛歌が亡くなった際に何があったのか知らないんだ。断片的には記憶に残っていることもある。その程度なんだ」
「わたしのことも記憶にあったりするんですか?」
「愛歌に妹がいるという話は聞いたような気もするけれど。君、綾香と会った話したという記憶はないね。もし会っていたのなら申し訳ない」
「実はわたしも前回にあった聖杯戦争の記憶がほとんど欠けていて、気づいたら姉も父もいなくなっていて……。最近では最初からわたしには家族なんていなかったんじゃないかななんて思うこともあって。だから、こうやって姉のことを話すことができてうれしいです」
「それはよかった。立ち話はなんだし、さて屋敷の方に行こうか。良ければ案内してくれるかな」
ガーデンを出る前に、ガーデンの所々破れたガラス等は簡単な魔術で補修した。結局一羽も逃げ出すことなく鳩たちはガーデンに留まり、今もわたしを呑気に見下ろしている。
戦いの跡はそのままでまだ補修できていないけれど、今はこれで良い。
わたしの魔術の手際に、セイバーはテレビに映る俳優以上にキレイな笑顔を向けつつ
「お見事」
と一言。そう大した魔術ではないのでかえってお世辞を言わせてしまったかと恥ずかしくなった。
ガーデンを出て、屋敷に戻る。
数時間前までは命からがらといった体で駆け回っていた家の中だけど、落ち着いて見てみると半壊といった様相を見せていて、急に生々しさを帯びてくる。
よく生き延びることができたなと思う。
修復の魔術をかけながら、慎重に相手方によって施されている罠・結界などの魔術が残存していないかを見て回る。
「これはケルトのルーン魔術かな。ああ、安心していい。解除も簡単だし、さっきのランサーのものだとは思うから、彼が既に屋敷から逃げ出しているのであれば無意味なものだからね」
「そういえばケルトの槍使いって有名どころだとどんな英雄がいるんですか?」
「やっぱり一番はアイルランドの光の神子。クー・フーリンだろうね。彼の英雄譚は子供の頃にもよく聞かされたよ」
そこまで言われてふと思った。目の前に立つ彼はいったい何というか英雄なのだろうか?
「セイバーさんは、なんていう英雄なんですか?子どもの頃にクー・フーリンの英雄譚を聞かされて育ったっていうことは北欧の出なんですか?」
「畏まったふうにしゃべらなくていい。それからセイバーさんだなんて呼ばなくっていいからね。君がマスターで、私は仕えるものなんだから。セイバーとでも呼んでくれ。で、北欧の出なのかっていうところに関しては、そうだと言っておこう。綾香、勘が良いね」
「えーっと、そうなると、誰になるんでしょうか?」
「アー。……そうだな。折角だから真名を当ててみてよ」
「え。どういうことですか?教えてくれないってことですか?」
「教えてもいいとは思ったのだけれど、思いついたら根拠と一緒に聞かせてくれないか」
「それはなんでですか。やっぱりわたしが魔術師として未熟だからですか?」
セイバーの元マスターがお姉ちゃんだっていうなら、魔術師としては上澄みも上澄みの実力をまざまざと見てきたはず。
今は記憶が曖昧でとは言っていたけれど、優秀なマスターだったっていうくらいの印象は残っていると思う。
どういうサーヴァントなのかという情報を詳しく共有することも戦略の一つなら、逆に実力の劣る魔術師のマスターを持ったサーヴァントなら敢えて真名を隠すことも戦略の一つ。
全然魔術師としての鍛錬ができていないのだから当然のことなのに、魔術師としての力量が足りていないと突きつけられたようで少しぐらりとなる。
「ああ、いや。そういうことではなくてね。……いや、ある意味ではそうなのかもしれない。傷つけようだなんて思って言ってるわけではないことは留意してほしいのだけど、おそらく綾香は今回の聖杯戦争の準備をしないまま挑んでいるんだろう?サーヴァントを召喚するときには触媒を用意して目当ての英雄と契約しようという魔術師も多くてね、聖杯戦争開始以前から相手マスターがどのサーヴァントとの契約を狙っているのかを触媒の入手から探ろうという動きもあるくらいだ。と、するとだ。もちろんマスターに魔術師としての力量が備わっているなら大いに結構。けどね、どちらかと言えば相手サーヴァントの見せるわずかな技量やクセからどの英雄なのかの手掛かりを相手に先んじて掴めるのか。そして弱点を看破して戦略に生かせるのか。基本マスターは後方支援の役割だから、そういう英雄の情報を看破することが一番の役割なんだ」
準備。わたしは聖杯戦争になんて参加しないと言い続けて、今はなし崩し的に参加することになった。
魔術師としての技量なんかで一喜一憂したりというのもおかしな話じゃないか。そう思うと、すーっと冷静さを取り戻し始めた。
「で、結局どういう意味ですか?」
「ん?ああ、つまりはサーヴァントと接敵したときに分析するクセをつけておいてほしいということなんだ。だからまずは自分のサーヴァントからっていうこと」
「でも、わたしそもそも聖杯になんて関わり合いたくないって思ってずーっと暮らして来たんです。戦うこと自体を避けることってできませんか?」
「んー。それは難しいな。多分綾香もそれは感じているだろう?」
墓参りに行ったときのあの神父の発言を思い出した。最後まで勝ち抜いたはずのマスターである沙条が、なぜか聖杯を手に入れることが叶わずに命を落とした。何か秘密が隠されているのではないか。沙条の生き残りが何かを知っているかもしれない。追い詰めて聞き出してやろう。そう考えるとマスターも多く、狙われることは避けられないという話だった。
けれどあの神父はこうも言っていたはずだった。サーヴァントを召喚できたら保護をしよう。
今わたしはセイバーを召喚している。このまま教会を訪れれば、聖杯戦争から離脱できるのではないだろうか?
「ねぇ、セイバー。あのね。監督役の神父がいる教会に行ってみない?情報収集で」