『灰界回廊』――勇者亡き世界にて、再び立ち上がる―― 作:嫉妬憤怒強欲
白い月と紅い月が、西の空へと傾いた。
二つの満月に照らされ、岩と灰しかない渓谷に黒い影が差す。
高く険しい山々の間を塞ぐように聳え立つ巨大な壁の上で、兵士達は退屈そうに夜風に当たっていた。
「ふわぁ……」
見張り台の一角から欠伸が漏れる。
「暇だな」
「暇なのが丁度いいだろ」
見張り台の兵士が革袋を傾けた。酒の匂いが微かに漂う。
「おい、勤務中だぞ」
隣の兵士が呆れたように言った。
「堅いこと言うなよ」
男は笑う。
「こんな辺境で真面目に見張ってても仕方ないだろ」
「隊長に見つかったら怒鳴られるぞ」
「その時はお前も付き合え」
「御免だね」
小さな笑い声が広がる。誰も本気では咎めなかった。
見張り台に吊り下げされている警鐘が鳴ったところを聞いた者は誰もいない。
この国境の壁が最後に本来の役目を果たしたのは、誰の曾祖父の時代だったか。
今では勇者も魔王も昔話の登場人物でしかない。
壁の向こうに広がる山々を見ても、兵士たちが思うことは一つだった。
今日も何も起きない、いつもの夜だ。
――ドン。
不意に低い音が響いた。
酒袋を傾けていた兵士が顔を上げる。
「……ん?」
――ドン。
再び、腹の底に沈むような重い音に、笑い声がピタッと止まった。
「聞こえたか?」
「雷じゃないのか」
兵士の一人が空を見上げるが、雲はない。白の月と紅の月が静かに浮かんでいるだけだった。
――ドン。
――ドン。
――ドン。
しばらくして再び音が鳴った。
規則正しく、まるで大地そのものが巨大な心臓の鼓動のように脈打っているかのように。
大地を揺らしながら、音は確実に近付いていた。
「なんなんだ?」
兵士たちは互いの顔を見合わせた。
隊長が立ち上がる。その表情からは、いつもの気怠さが消えていた。
「おい、あれ……」
誰かが指差す。
山々の向こうへ視線を向ける。闇の中に包まれた麓に灰色の黒い帯が見えた。それはゆっくりとこちらへ近付いて来ている。
「望遠鏡を」
「ど、どうぞ!」
隊長は部下から受け取った望遠鏡で遠方を覗く。
真鍮の筒の先にあるレンズで、最初に見えたのは無数のオークだった。
それだけなら驚きはしなかった。
時折、大規模な群れが発生することもある。
しかし次の瞬間、隊長の眉が動く。
その後方にゴブリン、さらにオーガやトロルといった巨人種。そして空にはワイバーンなどの飛行種の群れがいた。
隊長は望遠鏡を下ろした。
そしてもう一度覗く。
見間違いではない。
異なる種族の魔物たちが同じ方向へ進んでいる。
それだけでも異常だった。
本来なら縄張りを巡って争う者たちだ。共に行軍するなどあり得ない。
だが異常はそれだけでは終わらない。
魔物たちは武装していた。
黒い鎧、黒い盾、黒い武器。
ゴブリンが打ち鳴らす戦鼓の音に合わせて歩調を揃えている。
それはもはや群れではない。軍隊だった。
――ドン。
――ドン。
戦鼓が鳴る。
その音が、幼い頃に祖母から聞かされた御伽話が不意に脳裏をよぎった。
『魔王が現れるまで、魔物たちは互いに争っていたんだよ』
『でも魔王は皆を従わせた』
『だから誰も止められなかったんだ』
祖母はそう語っていた。
もちろん作り話だと思っていた。
そう思っていた。思うことにしていた。
五百年もの間、何も起きなかったのだから。
「あり得ない……」
掠れた声が漏れる。若い兵士が振り返った。
「隊長?」
隊長は答えない。
望遠鏡を握る手が震えていた。
どこかの魔族が勢力をまとめたのか。そう考えようとした。
だが望遠鏡をさらに奥へ向けた瞬間、その考えは砕け散る。
軍勢の中央に黒い旗が翻っていた。
夜風を受けて揺れる旗、その黒地の中央に描かれた紋章を見た瞬間、隊長の背筋を冷たいものが走った。
赤い縦長の瞳の上に左右非対称の角。
御伽話の挿絵で何度も見た紋章。
五百年前の災厄の象徴。
隊長の顔から血の気が引いた。
あり得ない。そんなはずがない。
だが目は、確かにそれを映していた。
誰もが御伽話だと思っていた伝説が、今まさに現実となった。
「……魔王軍」
隊長から掠れた声が漏れる。誰も返事をしなかった。できなかった。
それからすぐに壁の上に警鐘が鳴り響いた。
一度。
二度。
三度。
静寂は砕け散った。五百年の平和の終わりを告げるように。世界へ災厄の再来を告げるように。
終わったと思われていた悪夢が、山の向こうから戻ってくる。
白の月と紅の月は、その光景を黙して見下ろしていた。
まるで最初から知っていたかのように。