ブルーアーカイブ外伝:導き手のアルキウム 作:どんべい同好会
優人はどんな理由で、ティーパーティー呼ばれたんでしょうか。
休暇を満喫した翌日、優人はトリニティ総合学園へ訪れていた。その理由は、生徒会組織【ティーパーティー】の【
キヴォトス三大学園が一角、トリニティ総合学園。
白亜の校舎には精緻な彫刻や美しい装飾が施され、磨き上げられた回廊には、名家の血を引く生徒たちが優雅に行き交っている。手入れの行き届いた庭園には季節の花々が咲き誇り、澄み渡った空の下、遠くから聞こえてくる鐘の音が穏やかな余韻を残していた。世間一般が抱く“格式高きお嬢様学校”のイメージ、そのものの光景がそこにはあった。
だが、そんな絵画のように美しい楽園も、その薄皮を一枚剥ぎ取れば、ひどく俗悪な現実が顔を覗かせる。
案内役の少女に先導されて渡り廊下を歩いていた優人は、窓の向こうに広がる中庭へ何気なく視線を落とした。
上品な制服に身を包んだ上級生たちが、一人の生徒を取り囲んでいる。地面には蹴り転がされた鞄と、無造作にぶちまけられた教科書。囲まれた少女は俯いたまま唇を噛み、何も言い返せずに立ち尽くしていた。
対する上級生たちは、声を荒らげるわけでもなければ、露骨に手を上げるわけでもない。ただ品よく口元へ手を添え、誰かが何かを囁くたび、周囲でさも愉快そうに目を細めている。
その立ち振る舞いの上品さが、かえって光景の陰湿さを際立たせていた。
(……くだらんおままごとだな)
優人は胸の内で吐き捨てる。
だからといって、今ここで部外者の自分が首を突っ込んだところで、根本的な解決にはならない。優人は囲まれている少女の顔だけを記憶しておくと、何も見なかったように前へ視線を戻した。
美しい薔薇には棘がある。
華やかな外面とは裏腹に、この学内には根深い派閥争いと、陰湿な序列意識が蔓延っていた。その背景にあるのは、この自治区が統合されるまでに辿った、血塗られた歴史に他ならない。
かつてこの地には幾つもの学園が存在し、泥沼の紛争を日々繰り広げていた。そんな状況に疲弊した各学園の代表者たちは、平和への道を模索すべく、歴史的な会談の席を設けた。
その対話の場こそが、後に【ティーパーティー】と呼ばれるようになる。
やがて各学園は【第一回公会議】における合意を以って統合へと動き、その中でも主要な学園であった【フィリウス】、【パテル】、【サンクトゥス】の三大派閥へと集約し、現在のトリニティ総合学園が創立された。
以降、【ティーパーティー】はトリニティ総合学園の生徒会組織の名称となり、三大派閥から一人ずつ選出された三人の代表によって運営されている。
権力の均衡を保つため、最高意思決定者である【ホスト】の座は、一定期間ごとに持ち回りで交代する仕組みとなった。
けれど、制度を整えたところで、人の野心まで消し去ることはできない。表向きは平等と調和を装いながら、水面下では他派閥を蹴落とし、トリニティのすべてを掌握しようとする思惑が、今なお絶えず渦巻いている。
ここまでの道中、優人は【
(……平和のために一つになった結果、その中でまた派閥争いを始めた、と。人間ってのは、どこの世界でもやることは大して変わらねぇな)
そんな身も蓋もない感想を抱いているうちに、数歩先を歩いていた案内役の少女が静かに足を止める。
目の前には、絢爛な装飾を施された重厚な扉があった。周囲の壁や柱にまで精緻な彫刻が施されているところを見るに、ここが単なる応接室でないことは一目瞭然だった。
扉の両脇には、門番を務めているのであろう武装した生徒が二人、微動だにせず佇んでいる。優人たちが近づいても姿勢は崩さず、その視線だけが僅かにこちらへ向けられた。
案内役の少女が目配せすると、門番の一人が規則正しい足取りで優人の前まで歩み寄り、胸元へ手を添えて礼儀正しく一礼する。
「本日はお越しいただき、誠にありがとうございます。失礼ですが、仲導先生。万が一に備え、お持ちの銃火器を一時的にこちらへお預けいただけないでしょうか?」
言葉遣いこそ柔らかいものの、少女の視線はそれとなく優人の腰元へ向けられている。
(銃を扱えるのが日常の街だ。いくら一般人の俺が相手とはいえ、最高権力者の前なら警戒して当然か)
「あぁ、どうぞ」
優人は気に留める様子もなく、腰へ巻いていたタクティカルベルトのバックルを外した。愛用のピストルと予備マガジンが収まったそれを片手で持ち上げ、案内役の少女へ差し出す。
予想していたより重量があったのだろう。受け取った少女の両腕がほんの僅かに沈んだものの、さすがに顔には出さず、そのまま丁重に抱え直した。
そこで優人は「あ、あとこれも」と思い出したように声を上げ、上着の前を開いて内側へ手を差し入れる。
ショルダーホルスターから姿を現したのは、長年使い込まれ、鈍い光沢を帯びた一丁のリボルバーだった。
先ほど無造作に手渡したピストルとは、明らかに扱いが違う。
優人は一瞬だけその銃身へ視線を落とした。そこに浮かんだ感情が何なのか、傍から見ただけでは分からない。ただ、その指先だけが普段より慎重に動き、少女が改めて差し出したトレイへ、まるで壊れ物でも扱うように銃をそっと横たえた。
「そのリボルバーだけは、特に丁重に扱ってくれよ。俺にとって、命の次に大事な物だからな」
先ほどまでの軽い調子とは違う声音に、少女もそれが単なる高価な武器ではないことを察したらしい。銃へ向ける視線を僅かに改め、先ほどより深く頭を下げた。
「承知いたしました。ご協力、感謝いたします」
「いいって。仕事だからな、お互い、しゃーない」
どこか申し訳なさそうな彼女へ、優人は気さくに肩をすくめてみせた。
「ありがとうございます。それでは」
案内役の少女が一歩下がる。
それを合図に、門番の生徒は踵を返して扉の前へ戻ると、姿勢を正して規則正しい間隔で三度ノックした。
「失礼します。ナギサ様、仲導優人先生をお連れしました」
僅かな間があった。
「通してください」
扉越しではあるが、静かな声音が確かに響く。
許可が下りると同時に、重厚な扉が左右へ開いていった。促されるまま足を踏み入れた優人は、その先に広がっていた光景に僅かに目を細める。
正面と左右の壁を大胆に取り払った、開放的なテラスだった。眩い陽光が白い床へ降り注ぎ、澄んだ風が長いカーテンを柔らかく揺らしている。その風に乗って運ばれてきた紅茶と焼き菓子の甘い香りが、優人の鼻腔をくすぐった。
中央には純白のクロスを掛けた円卓が置かれ、それを囲むように上品な椅子が配置されている。
そのうち二つには、すでに少女たちが腰掛けていた。
一人は、亜麻色の長髪に白百合の花冠を差した少女。もう一人は、薄桜色の髪を風に軽やかに揺らす少女。
靴底が床を叩く音に気づいた二人が、ほとんど同時にこちらへ顔を向ける。
「こんにちは、先生。こうしてお会いするのは初めてですね。私は【ティーパーティー】の【ホスト】、
亜麻色の髪をした少女——ナギサは椅子から立ち上がり、スカートの裾を軽く整えると、淀みのない動作で腰を折った。
一礼から顔を上げるまで、その一連の所作には僅かな乱れすらない。その顔に浮かんでいるのも、教本に載せられそうなほど完璧な淑女の笑みだった。
「こんにちは。トリニティの生徒会長から直々にお招きいただけるなんて光栄だな」
優人も軽く頭を下げた後、ナギサの正面に用意されていた椅子を引き、ゆっくり腰を下ろす。
テーブルを挟んで真正面から向き合っても、ナギサの佇まいには微塵の隙も見当たらない。年齢にそぐわぬ落ち着きと、長く人の上に立ってきた者だけが持つ張り詰めた空気を纏っている。
(さすがはお嬢様。俺がこれくらいの歳の頃なんて、アホなことして騒いでるだけだったぞ)
「光栄だなんて……そんな大したものではありません。でも、そう言って頂けて嬉しいです」
ナギサは控えめに首を振り、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「へー、これが噂の先生かー」
間髪入れず、その隣から明るい声が飛んできた。
薄桜色の髪をした少女は、先ほどまで椅子へ腰掛けていた姿勢から大きく身を乗り出し、円卓へ両肘をつく寸前まで優人へ顔を近づけている。
値踏みするというよりは、珍しい玩具を見つけた子どものような好奇心を隠す気もない。
「こちらは、同じくティーパーティーのメンバー、【
ナギサが片手で示すと、ミカはぱっと花が咲いたように笑い、優人へ手を振った。
「よろしく」
「うん、よろしく! それにしても……」
挨拶を交わすなり、ミカはさらに身を乗り出す。
「なんだ?」
「いや、気になることがいっぱいあってね。まず、先生って急にキヴォトスに現れたんでしょ? だから、どこから来たのかな〜とか。仕事とはいえ、いつも生徒のいざこざに巻き込まれて大変じゃないのかな〜とか。それから——」
(めっちゃ喋るじゃん、この子……)
一つの話題が終わるより先に次の疑問が飛び出し、ミカの口は止まる気配を見せない。
優人も最初こそ相槌を打とうとしたものの、その隙すら与えてもらえず、途中から諦めて聞き手へ回っていた。
「ミカさん?」
ナギサが静かに微笑みかける。それだけで、それまで弾むように紡がれていたミカの言葉が、ぴたりと止まった。
笑顔そのものは崩れていない。むしろ先ほどより綺麗な笑みですらある。しかし、その瞳の奥からだけは、見事なまでに温度が消え失せていた。
優人はその“目だけが笑っていない笑顔”に妙な既視感を覚え、無意識に背筋を伸ばした。
(七神と同じ顔をしている。まあ、
***
——その頃。
「くしゅっ」
遠く離れた連邦生徒会の執務室で、書類に目を通していた首席行政官が小さなくしゃみをした。
「リン先輩〜、風邪?」
「……いえ。誰かに失礼なことを言われた気が…………」
眉間へ皺を寄せるリンの傍らで、モモカが「気のせいじゃない?」と気の抜けた声を返す。
***
一方、そのようなことなど知る由もないテラスでは、先ほどまで意気揚々と喋っていたミカが引きつった笑みを浮かべ、恐る恐るナギサを横目で窺っていた。
「あ、あはは……ナ、ナギちゃん? 私、ただのアイスブレイクというか、お話をしようとしていただけなんだけどな〜……?」
「いきなり質問を畳み掛けては、先生を困らすだけではありませんか。それに、あなたがベラベラと喋っていては本題に入れません。しばらく静かにしていてください」
「あー……ごめん、大人しくしてるね。できるだけ…………」
最後の一言に若干の不安を残しながら、ミカは叱られた子どものようにしょんぼりと肩を落とした。手元へ視線を逃がし、ティースプーンの柄を指先でくるりと一回転させると、そのまま所在なさげにカップの中身を見つめ始める。
「申し訳ございません。彼女はただ、おしゃべりが好きなだけでして」
「どうりで。いやー、俺も喋るのが好きだから気持ちは分かる」
優人が苦笑すると、ナギサは満足そうに小さく頷き、今度はテーブル上のティーポットへ手を伸ばす。
「ところで先生、喉は乾いていませんか? よろしければ、我がトリニティが誇る紅茶を召し上がって下さい」
「あぁ、さっきからいい香りが漂ってたんだ。じゃあ、ありがたく頂こう」
ナギサは慣れた手つきでポットを傾ける。
細く一定の流れで注がれた琥珀色の液体が、精緻な磁器のカップを満たしていった。ふわりと立ち上った湯気が、風に揺れて優人の方へ流れてくる。
差し出されたカップを受け取った優人は、すぐに口をつけるのではなく、まず鼻先へ近づけて香りを確かめる。それから少量を口へ含み、舌の上で転がすように味わった。
「美味しい……。もしかして、トワイニングのアッサムティー?」
「まぁ、よくお分かりになりましたね……!」
その瞬間、ナギサの目がぱっと輝いた。
つい先ほどまでの完璧なホストとしての表情とは違う、年相応の少女の顔だった。
優人はその変化を横目に見ながらカップをソーサーへ戻し、今度は皿に並べられたスコーンへ手を伸ばす。一口分だけ割り、口へ運んでから、満足そうに頷いた。
「この芳醇な香りと、奥にあるコク深い苦味は、上等な茶葉ならではだ。そして、アッサムのほろ苦さに合わせるなら、やっぱりスコーンが最高の組み合わせだよな」
「ええ、ええ。まさにその通りです! よく分かっていらっしゃる!」
ナギサは思わず両手を胸元で重ね、そのまま少しだけ身を乗り出していた。
先ほどまでの完璧な姿勢が僅かに崩れていることに、本人は気づいていないらしい。
(トリニティは紅茶を嗜む文化があるからな。勉強してきてよかった〜)
どうやら事前の下調べは無駄ではなかったようだ。
「桐藤は紅茶が好きなんだな」
「はい、常日頃から嗜む程度には。それよりも先生、大変見識がお広いとお見受けしました。もしよろしければ、今度私のおすすめの茶葉を——」
「ナギちゃん?」
横から刺すような声が飛んできた。
ナギサの肩が僅かに跳ねる。
恐る恐るそちらを見れば、それまで静かにしていたミカが、頬杖をつきながらじっとりとした目で彼女を見ていた。
「私には喋るなって言っておいて、自分も関係ない話で盛り上がってるのはどういうことかな?」
ミカはナギサへ顔を寄せ、こちらも負けじと
(え、ここの生徒って全員そのスキル会得済み? お嬢様怖ぇ〜)
「コホン……!」
ナギサが頬を僅かに染めながら咳払いする。
背筋を伸ばし直し、膝の上で両手を重ねると、先ほどまでの少女らしい表情は綺麗に消えた。
「さて、お話はこのくらいにして本題に入りましょう」
声音まで切り替わったのを感じ、優人もそれまで預けていた背中を椅子から離し、僅かに姿勢を正す。
「以前、アビドスの件で、私たちはささやかながらの援助をさせていただきました」
ナギサが言う“アビドスの件”とは、アビドス高校の生徒である小鳥遊ホシノが、黒服との【契約】によりカイザーに拉致された際、優人が阿慈谷ヒフミという生徒を介してティーパーティーに助力を求めた一件を指していた。
「あぁ、あの時は助かった。なるほど……今度はこっちの番ってか?」
優人が納得したように顎を引く。
「はい。先生のお察しの通り、次は私たちの
微笑みを崩さないナギサの物言いには、どこか底知れぬ含みがあった。
優人はカップの縁へ指を掛けたまま、ほんの僅かに目を細める。
言葉遣いも態度も丁寧でありながら、なぜか単なる依頼には聞こえなかった。
「……そりゃあもちろん。恩はきちんと返す主義だからな。で、要件は?」
「補習授業部の顧問を引き受けていただけませんか?」
「補習授業部?」
聞き慣れない名前を、優人はそのまま反復する。
てっきり何らかの政治的な交渉でも持ち掛けられるものと思っていた優人は、予想外に平凡な単語が出てきたことに眉を上げた。
そんな彼の反応を見ながら、ナギサは優雅にティーカップへ口をつけ、ひと呼吸置いてからソーサーへ戻した。
「我がトリニティ総合学園は、古くから文武両道を掲げる歴史と伝統が息づく学園です。そのため学問においても常に一流を極めております。——それなのにあろうことか、よりにもよってこの時期に、成績の振るわない方が4人にもいらっしゃいまして……」
ナギサは困ったように眉尻を下げ、わざとらしくため息を吐いてみせる。
「そんな生徒の対策として、急遽創設した部活なのです」
そう語りながら、ナギサは再びティーカップを口へ運んだ。
優人の視線が、自然とそのカップを追う。
(これで四杯目だぞ。腹、タプタプにならないのか?)
もっとも、口に出すほど野暮ではない。
「そこで、先生には彼女たちの勉強をサポートしていただきたいのです。もちろん、本来であれば私たちだけで解決すべき事案なのですが……」
「タイミングが悪くて、ちょっと困っちゃってるんだよね。“ある件”でバタバタしてて、とにかく人手と時間が足りなくてさ……」
それまで黙っていたミカが、再び会話へ割り込んできた。
今度は先ほどの一件が堪えたのか、一瞬だけナギサを横目で確認する。特に咎められないと判断したらしく、そのまま明るい調子で言葉を続けた。
「そんな時に、【
ミカは傍らに置いていた新聞を両手で持ち上げ、シャーレのこれまでの活動をまとめた記事をこれ見よがしに広げる。紙面には優人の名前まで大きく掲載されていた。
「いかがでしょう、先生。助けを必要している生徒たちに手を差し伸べていただけませんか?」
ナギサの含みのある言い方といい、明らかに事前に用意された交渉だった。
しかし、トリニティに借りがあるという事情以前に、「助けを必要としている生徒がいる」と言われれば、優人に断る理由はない。
(こいつらの腹の内を探るのは、引き受けた後でもできるか……)
優人は口元へ小さな笑みを浮かべ、そのまま頷いた。
「もちろん。喜んで引き受けよう」
「やったー! ありがとう先生!」
ミカがぱっと両手を上げる。
あまりにも素直な喜び方に、優人もつられて僅かに笑った。
「ふふっ、きっと断らないとは思っていましたが……」
対照的に、ナギサは口元へ指を添えながら、他人には聞こえないほど小さな声で呟いた。
その言葉だけが、妙に優人の耳へ残った。
「ありがとうございます。では、こちらが部員の方々の資料です」
ナギサが背後に控えていた従者へ目配せすると、一冊の薄いファイルが差し出された。
優人は礼を言ってそれを受け取り、その場でページを開く。記載されている内容は名前、学年、所属程度の簡素なものだったが、途中で視線が止まる。
指先も、一瞬だけ紙の上で動きを止めた。
(こいつは……)
「ん? 何か気になる子でいた、先生?」
その僅かな変化をミカが見逃さなかった。
優人は顔を上げることなく、すぐ次のページへ指を滑らせる。
「いや、なんでもない」
(気になる奴は確かにいたが……まぁ、会って確かめればいい)
そう結論づけ、優人は特に気にしていない素振りでファイルを閉じた。
「詳しい内容はまた追ってご連絡します。他に気になる点はございませんか?」
「あぁ、そういえば……」
優人は何気なく円卓の右側へ視線を向けた。
一脚だけ、椅子が空いている。
「確かもう一人のメンバーに【
何気なく発した質問。だが、それに対する答えは、重苦しい“沈黙”だった。
途端に周囲の空気が張り詰め、先ほどまで笑みを浮かべていた二人の少女は目を逸らし、その横顔に哀しげな陰が滲む。
あまりに露骨な変化に、優人の表情からも自然と笑みが消えた。
「……?」
やがて、ミカが重い口を開く。
「セイアちゃんは今……トリニティに居なくて、入院中なの…………」
先ほどまでの快活さは、声のどこにも残っていなかった。
「本来であれば、現在のホストはセイアさんだったのですが……そういった事情で不在のため、私が代理でホストを務めているのです」
ナギサも静かに続けたが、平静を装ってはいるものの、その声からは先ほどまでの張りのある響きが僅かに失われていた。
「そうか……」
優人は空席をもう一度見る。
誰も座っていないだけの椅子が、先ほどとはまるで違って見えた。
そして同時に、頭の片隅へ引っ掛かっていた不可解な記憶が蘇る。
「じゃあ、あれはやっぱり夢で…………」
「先生?」
ナギサが怪訝そうに首を傾げる。
「あぁいや、なんでもない。すまんな、無神経に辛いことを聞いちゃって」
「謝る必要はありません。知らなかったのですから、仕方ありませんよ」
ナギサが首を横へ振る。
とはいえ、張り詰めた空気がすぐ元へ戻ることはない。
優人もこれ以上踏み込む気はなく、頃合いだと判断して椅子を引いた。
「じゃあ、俺はこれで失礼するよ。お茶とお菓子、ごちそうさん」
「どういたしまして。これからよろしくお願いいたしますね。私もティーパーティのホストとして、先生をエスコートしますので」
「おう」
軽く片手を上げ、出口へ向かいかけたところで、優人は何かを思い出したように足を止めた。
「あ、そうだ」
「何かご質問ですか?」
「ここって喫煙所あ——」
「ありません」
間髪入れず返ってきた。
先ほどまで僅かに沈んでいたナギサの表情も、そこだけは完全な笑顔へ戻っている。
「即答かよ……」
「トリニティは由緒と伝統を重んじる学園ですので」
「はいはい、分かりましたよ……」
取りつく島もない返答に優人は苦笑し、今度こそ片手を上げてテラスを後にした。
***
校舎の外へ出ると、眩しい日差しが優人の目を射た。
建物の影を抜け、停めていた装甲車へ向かって歩いていく。
その傍では、一人の生徒が車体へ背を預けながら待っていた。もっとも、周囲を行き交うトリニティの生徒たちは、彼女を中心として不自然なほど大きく迂回している。
誰一人として近寄ろうとしない。当然と言えば当然だった。
「ワカモ、駐禁取られなかったか?」
優人の声に気づいた少女が顔を上げる。
「ええ、問題なく蹴散らしました」
「……冗談だよね?」
「冗談ですけど?」
表情だけなら清楚な少女そのものなのだが、その人物が人物だけに、優人は素直に安心できなかった。
「お前ならあり得るんだよな……」
【
だが、現在は事情により【連邦捜査部_
周囲の生徒たちが距離を取っている理由も、おそらく彼女の正体を知っているからなのだろう。
「ちょっと一本吸っていいか? あのお嬢様、敷地内に喫煙所はないってさ」
「どうぞ」
優人は上着のポケットから煙草の箱を取り出し、一本咥えた。ライターの蓋を弾き、火を点ける。肺の奥まで煙を吸い込んでから、青空へ向けてゆっくりと吐き出した。
風に攫われていく紫煙の向こう側で、トリニティの白亜の校舎が陽光を浴びて輝いている。
その美しさを眺めていると、先ほど渡り廊下から目にした光景との落差が、妙に皮肉なものに思えた。
「どうでした? お嬢様方のトップは?」
「二人とも気品に満ちたお嬢様だったな」
優人は煙草を指の間へ移し、灰を携帯灰皿へ落とす。
「……だが、桐藤はちょっと胡散臭そう」
「あら」
ワカモの声に、僅かに楽しげな響きが混じる。
「何かを隠していると?」
「まあ、そんなところだ」
何を、と問われてもまだ答えられない。
言葉の選び方や妙に用意された依頼の流れ、それに資料へ目を通していた際に感じた視線。どれも証拠と呼べるものではなく、ただ優人の勘に引っ掛かっているだけだ。
だからこそ、今の段階で決めつけるつもりもなかった。
優人は再び煙草を咥え、白い校舎を見上げる。
「後で、大聖堂に行ってくる」
「あら、意外と信心深いのですね」
ワカモは、意外そうに目を丸くする。
優人は自嘲気味に笑い、首を振った。
「相手の国や組織を理解するには、まずは内側からだ。そして、その内側の最たる部分が宗教ってやつだ」
吐き出した煙が、風に乗って薄く広がっていく。
「信仰ってのは、違えば戦争の火種にもなるが、分かち合えばこれ以上ない強固な結束を生むからな」
「なるほど。トリニティには敬虔な生徒が多いですから、ここの信仰を敬えば、彼女たちへの好印象にも繋がると」
「そういうこと。まあ、打算だけで祈ったら罰当たりかもしれんが」
優人は小さく笑い、吸い終えた煙草を携帯灰皿へ押し込んで蓋を閉じた。
「じゃあ、行ってくる」
「お気をつけて」
ワカモに片手を上げ、優人は再びトリニティの敷地内へ歩き出した。
***
しばらく歩き、優人は白亜の巨大な建築物の前に立っていた。
「ここが大聖堂か〜」
思わず声が漏れる。
外観だけでも相当な規模だったが、巨大な扉を潜った先に広がっていた空間は、優人の予想をさらに上回っていた。
天井は思わず首を大きく反らさなければ見渡せないほど高く、壁面には精緻な宗教画や彫刻が隙間なく施されている。正面の巨大なステンドグラスから差し込む五色の光が床へ帯状に落ち、優人が歩くたび、その色彩が衣服の上をゆっくりと横切っていった。
外の喧騒は厚い壁によって遮断され、耳に届くのは靴音と、時折聞こえてくる衣擦れの音くらいである。
自然と声を潜めたくなるような静謐さだった。
礼拝に訪れていた何人かの生徒も、誰一人として大声を出すことなく、長椅子へ腰掛けて祈りを捧げている。
(やっぱここ、ヨーロッパ系の古い大聖堂に似てるよな。日本にある物より本場のはデカいわ)
建築物を眺めながら歩いていると、不意に背後から声が掛かった。
「初めて見るお顔ですね?」
静謐な空間によく通る、鈴を転がすような、それでいて凛とした声だった。
優人が足を止めて振り返る。
独特な意匠のシスター服に身を包んだ長髪の少女が、少し離れた場所に立っていた。両手を身体の前で重ね、穏やかな表情でこちらを見つめている。
「俺は仲導悠人。【連邦捜査部_
「貴方が噂の……」
少女の瞳が僅かに大きくなる。
「ここのシスターさんかい?」
「はい、この大聖堂の運営をしている【シフターフッド】を取りまとめております、
サクラコは胸元へ手を添え、静かに頭を下げる。
【シフターフッド】。ここトリニティ大聖堂や関連施設の管理や悩める生徒たちの懺悔を聞くカウンセリング、学園の庭園の維持などの慈善活動をする部活である。
「あの、ここにはどのようなご用件で?」
「いや、トリニティにお邪魔したからには、日々この学園を見守ってくださる主さんにご挨拶はしとかないと思ってな」
その言葉が予想外だったのか、サクラコは僅かに目を見張った。
やがて、その表情が柔らかく綻ぶ。
「素晴らしい心がけですね。きっと、主もお喜びになっていると思います」
「もしよければ、この学園流の礼拝の仕方を教えてくれないか? 郷に入っては郷に従えって言うし、間違った作法で失礼するのも嫌だからな」
「ふふっ、もちろんです。私もまだまだ未熟な信徒ではありますが……喜んで、お教えいたします」
歩調はゆっくりとしており、優人が周囲を見渡していても急かすことはない。
やがて祭壇の前まで辿り着くと、彼女は優人の隣へ並び、礼拝の所作を一つずつ丁寧に説明していった。
どのように立ち、どのように手を組み、何を思いながら祈るのか。
優人も普段のような余計な軽口は挟まず、彼女の説明を聞きながら一つずつ真似ていく。
やがてステンドグラスから差し込む色鮮やかな光の下で、静かに瞼を閉じた。
サクラコから教わった通りに手を組む。
周囲から物音が遠ざかり、暗闇の中で、自分の呼吸だけが妙にはっきりと感じられた。
祈るべき言葉など、優人には思いつかない。そもそも彼は、神という存在に何かを期待したことなど、とうの昔にやめていた。
だから、胸中で投げ掛けた言葉も、祈りと呼ぶにはあまりに捻くれていた。
(……なぁ、ここの神さんよ。アンタもどうせ、何もしない役立たずなんだろ?)
当然、返事などあるはずもない。
それでも優人はすぐには目を開けず、ほんの少しの間だけ、その静寂の中に身を置いていた。
***
「おはようございます。お待ちしておりました、先生」
ティーパーティーの茶会から数日後。再びトリニティ学園の門を潜った優人を出迎えたのは、校舎の前に佇む一人の少女だった。
ナギサやミカと同系統の上品な制服に身を包み、背筋を伸ばして立つ姿には隙がない。約束の時間より少し早く到着したはずなのだが、少女はそれより前から待っていたらしい。
優人が近づくと、少女は身体ごとこちらへ向き直り、前で両手を重ねた。
「私は、聖園ミカ様の補佐を務めております【[[rb:逆水 > さかみず]]イオ】と申します」
流れるように会釈する一連の動作のしなやかさ。優人は改めて、この学園の教養の深さを実感する。
「俺は、仲導優人だ。それにしても早起きだな」
「ミカ様から、補習授業部の活動を円滑に行えるよう、先生の補助をするようにと仰せつかっております。本日より微力ながら、お手伝いをさせていただきます」
「わざわざいいのに。でも、まあ……」
優人は一度遠慮しかけたものの、これから自分が担当するのは、勝手の分からない他校の生徒たちである。トリニティ内部の事情に詳しい人間が一人いるだけでも、随分と違うだろう。
素直に厚意を受け取ることにした。
「ここはお言葉に甘えよう。これからよろしくな、逆水」
「はい、よろしくお願いいたします」
イオは再び軽く一礼すると、すぐに身体を横へ向ける。
「それでは、補習授業部の活動が行われる教室へご案内いたします」
***
二人は静かな渡り廊下を歩いていく。
まだ授業が始まる前だからか、周囲を行き交う生徒の姿はそれほど多くない。磨き上げられた床を踏むたび、二人分の靴音が一定の間隔で響いた。
しばらく無言で歩いていたところで、半歩ほど前を進んでいたイオが、視線を前へ向けたまま口を開く。
「ナギサ様からのご依頼を二つ返事でお受けしたと伺いました」
「まぁ、簡単そうな依頼だったからな」
「……噂通りのお優しい方なのですね」
思いもよらない評価に、優人は片眉を上げた。
「優しいのかどうかは自分じゃ分からんよ」
優人はポケットへ片手を入れ、少し考えるように天井を仰いだ。
「ただ、困っているから助けてほしいと頼られた以上、大人が引き受けないわけにはいかないだろ」
大層な信念を語ったつもりはない。
優人にとっては、それが当たり前だった。
だが、その返答を聞いたイオの歩みが、ほんの僅かに緩んだ。
「ミカ様は人を選ぶ才覚だけはありますね……」
「ん?」
「いいえ、なにもございません」
問い返した頃には、イオは何事もなかったような顔へ戻っている。
その横顔に僅かな笑みだけを残し、やがて一つの教室の前で足を止めた。
「着きました。すでに対象の生徒の方々は揃っているはずです」
「よし」
優人は扉の向こうへ視線を向ける。
どのような問題児が待ち構えているのかは知らないが、依頼を引き受けた以上は、できる限りのことをしてやるつもりだった。
「とりあえず、今はこいつらの問題を解決してやるとするか」
「はい」
「入るぞ」
ガラリと扉を開けると、そこには教室内には四人の生徒が、それぞれ少しずつ距離を空けて席へ座っていた。
談笑していた様子はない。
互いに知り合いというわけでもないのだろう。突然作られた部活動へ集められた者同士らしく、どこか探り合うような空気が漂っている。
扉の開く音に反応し、四人の視線がほとんど同時に優人とイオへ集まった。
その中で、優人は真っ先に一人の少女と目が合う。
見覚えのある顔だった。
「やっぱりお前か、
「あはは……先生。お久しぶりです……」
そこにいたのは、アビドスの一件でも深く関わった少女、【
何とも気まずそうな笑顔である。
「お前、頭が悪いようには見えなかったけどな」
「いえ、あの、成績が悪いわけではないんです! 実はその……大好きなペロロ様のゲリラ公演に参加するため、前回のテストをサボってしまって……それで赤点扱いに…………」
説明するほど声が小さくなり、最後には人差し指同士を胸元で突き合わせながら俯いてしまった。
(そうだ。こいつ、あの
優人の脳裏に、何とも形容し難いあのキャラクターの姿が浮かぶ。
(まあ、俺も多趣味だし気持ちは分からんでもないけどな)
「なるほど……お前らしいな。まぁ、趣味に全力で熱中するのはいいことだと思うぞ」
「はいっ、ありがとうございます!」
ぱっとヒフミの表情が明るくなる。
「ただし、次から試験の日程くらい確認しろよ」
「あぅ……はい……」
すぐに萎んだ。
そんなやり取りを横で見ていた残り三人へ、優人は改めて視線を向ける。
「他の奴は、資料で名前は把握してるが、会うのは初めてだな」
「では、私が改めてご紹介します」
イオが手にしていた資料を開き、一人ずつ確認するように視線を動かした。
「まず、二年生、【
紹介された少女が、優人へ向けて柔らかく微笑む。
「あくまで学校に認められた服装で歩いてただけなのですが……♡」
「お、早速濃い奴が来たぞ」
「濃いとはなんですか? 何が濃いんですか?」
ハナコが楽しそうに首を傾げる。
明らかに意味を分かった上で聞いている顔だった。
「キャラだよキャラ。そこだけ言及してくるな」
「ふふっ、残念です♡」
「何がだよ……」
優人が小さく息を吐く横で、イオは一切動じることなく次の資料へ目を移した。
「続いて、二年生、【
優人の視線が、ゆっくりとアズサへ向く。
(へぇ。結構、実力者みたいだな)
当の本人は悪びれた様子もなく腕を組み、悔しそうに眉間へ皺を寄せていた。
「不覚だった。弾薬の備蓄さえもう少しあれば、あと二時間は耐えられたのに……」
「こっちも個性が強いな」
「最後に、一年生、【
イオがそこで一拍置いた。
資料へ目を落としたまま、僅かに眉を寄せる。
「……えぇ、留年目前です」
「…………まともだな」
コハルが勢いよく机を叩く。
「ちょっと! 自分で言うのもアレだけど、留年間近がまともな訳ないでしょ!」
「いや、前二人が水着徘徊と弾薬庫籠城だから……」
「比較対象がおかしいのよ!」
もっともな抗議だった。
「そして、二年生、【阿慈谷ヒフミ】を部長に加え、以上四名が部員となります」
「ありがとう」
優人は教壇の前へ移動し、改めて四人を見渡した。
「じゃあ、俺も自己紹介しとかないとな」
四人の視線が集まる。
「俺の名前は仲導優人。【連邦捜査部_
「この方が例の先生……」
ハナコが何やら意味ありげに呟きながら、優人を頭から足先まで眺める。
その視線に何となく嫌なものを感じた優人は、深く追及しないことにして隣のイオを示した。
「それと、こっちが逆水イオ。俺の補助と、お前らのサポートをしてくれる」
「改めまして、逆水イオと申します。皆様が無事に合格できるよう、可能な限りお力添えさせていただきます。よろしくお願いいたします」
イオが丁寧に頭を下げる。
ヒフミは素直に、アズサは短く、ハナコは微笑みながら、それぞれ「よろしくお願いします」と返した。
ただ一人、コハルだけは腕を組み、不満げに顔を背けている。
優人はその態度を咎めることなく、イオへ向き直った。
「で、これからどうしましょ?」
「はい。この部活の目的は、特別学力試験と呼ばれる試験に、全員合格することです。この試験は最大三回まであり、そのうち一度でも全員合格すれば補習授業部は解散となります」
真っ先に反応したのはアズサだった。
腕を組んだまま目を閉じ、作戦内容を整理するように淡々と言葉を並べる。
「理解した。三回のミッションのうち、一度でも全員で成功を収める。そのために、ここに毎日集まり訓練を重ねる……それほど難しい任務じゃない」と、アズサが腕を組み、軍人のような口調で呟く。
「そ、そうですね、頑張りましょう!」
ヒフミは空気を明るくしようとするように手を合わせ、アズサへ笑顔を向けた。
「えっと、確かアズサちゃんは、転校してからあまり時間も経ってないんですよね? 何か困ったことがあれば私に聞いてください」
その言葉に、優人が僅かに首を傾げる。
「阿慈谷は白洲と顔見知りか?」
「いえ、初対面です。実は、ナギサ様から『先生のサポートをするように』と事前に頼まれていまして……それで、部員や部活の情報はある程度知っているんです」
優人は隣のイオへ目を向けた。
「ん? でも、補助なら逆水がやってくれるしな……。聖園は桐藤に、お前が補助で付くって伝えてないのか?」
「いえ、ミカ様は確かにナギサ様へ伝えていると仰っていました。……ナギサ様は少し心配性なところがございますから、おそらく、私が他の業務等で来られない場合などを想定し、ヒフミさんにも声をかけたのでしょう」
「なるほどな……」
筋は通っているため、優人もそれ以上追及せず頷いた。
ただ、胸の片隅に小さな引っ掛かりだけが残った。
ティーパーティー内部の連絡が、思っていたほど密ではないのか。それとも、ナギサが念入りに保険を用意する性格なのか。
現時点では判断材料が足りない。
優人がそんなことを考えていると、それまで不自然なほど黙り込んでいたコハルの様子に、ハナコが気づいた。
「……」
「どうしました、コハルちゃん?」
その瞬間だった。
「言っておくけど、私は認めないから……!」
コハルが勢いよく椅子を蹴るようにして立ち上がった。
突然の大声に、ヒフミが「ひゃっ」と小さく肩を跳ねさせる。
コハルは顔を真っ赤にしながら、他の部員たちを順番に睨みつけた。
「わ、私は正義実現委員会のエリートだし! あんた達みたいな問題児を先輩だなんて呼ぶつもりは一切無いからね!」
誰もそこまで要求していないのだが、本人にとっては重要な問題らしい。
「それに!」
一度大きく息を吸い、さらに言葉を叩きつける。
「そもそも、こんな部活さっさと抜けてやるんだから! あんまり馴れ馴れしくしないでもらえる!? あとしれっと“ちゃん”付けするな!」
「……確かに、正式に承認された部活動でもありませんし、不必要な先輩後輩の上下関係は、今の私たちには不要かもしれませんね」
対するハナコは怒るでもなく、頬へ片手を添えながら、おっとりと肯定した。
「私も同感だ」
続いてアズサが淡々と頷く。
「そもそも私たちは仲良くなるために集まったわけではなく、あくまでお互いの利益のためにここにいる。必要以上に親しくする必要はない」
「ふん! 分かってるじゃない!」
思わぬ賛同を得られたことに気を良くしたのか、コハルが胸を張る。
「ただ、全員で合格しなければならない以上、苦手な科目を教え合うなど、最低限の協力は不可欠だ。それは理解しておけ、下江」
「……っ、わ、わかってるわよ!」
優人に正論で詰められ、コハルはバツが悪そうにそっぽを向いた。彼はそんな自分たちのやり取りに、苦笑交じりに口を開く。
「まあ、無理に親睦を深めろとは言わねぇよ。お前らがそれで良いと思うなら、その距離感でやればいい」
そこで少しだけ口元を緩める。
「ただまあ、どうせ同じ場所で同じ目標を追いかけるなら、仲良くした方が楽しいとは思うけどな」
「先生らしいですね」
ヒフミが小さく笑う。
「それでは、そろそろ始めましょう」
イオがやや話を遮るように口を挟み、教卓の上に置いていた封筒を手に取った。
「時間も限られていますので早速、今から皆様には模擬試験を受けていただきます。この試験の結果から実力を測り、それから各個人の対策をしていきたいと思っております」
「いきなり試験!?」
コハルが露骨に嫌そうな顔をする。
「嫌そうな顔すんな。今の実力が分からなきゃ、教えようがねぇだろ」
「うっ……」
正論を返され、コハルは渋々椅子へ座り直した。
イオが各机の間を歩き、伏せた状態の試験用紙を一枚ずつ配っていく。
優人はその間、四人の様子を何気なく観察した。
ヒフミは少し緊張しているものの、比較的落ち着いている。
コハルは配られた紙を親の仇でも見るような目で睨んでいる。
アズサは何故か戦闘前のような鋭い眼差しで問題用紙を見つめ、ハナコに至っては、これから試験を受ける人間とは思えないほど穏やかな微笑みを浮かべていた。
(……本当に大丈夫か、こいつら)
早くも不安になってきた。
「全員行き渡りました」
最後の一枚を配り終えたイオが教壇の横へ戻る。
優人は壁掛け時計を確認してから、四人を見渡した。
「制限時間は一時間。分からなくても、とりあえず何か書いとけ。今は点を競うための試験じゃねぇからな」
四人がそれぞれ頷く。
「それじゃあ——始め」
一斉に紙が捲られた。
直後、教室から会話が消える。聞こえるのは、紙を擦る音と、シャープペンシルの芯が問題用紙を走る細かな音だけ。
優人は教卓へ腰を預けながら、その様子を静かに眺めた。
この時の彼は、まだ知らなかった。
自分が「簡単そうな依頼」と軽く考えて引き受けたこの補習授業部が、やがてトリニティという巨大な学園そのものを揺るがす騒動の中心へと繋がっていくことを。
そして、この教室に集められた四人が、それぞれ誰にも言えない事情を抱えていることも。
***
試験終了を告げると、四人から答案用紙を回収し、優人とイオは教壇の後ろに並んで採点を始めた。
最初の一枚に赤ペンを走らせていた優人は、数問を確認したところで眉間へ皺を寄せた。
(おいおい、これマジか……?)
ハナコの解答用紙には、もはや芸術的とすら言えるほど綺麗な白紙が広がり、申し訳程度に書かれた珍解答がポツリと残っているだけ。コハルやアズサの用紙も、バツ印の嵐で真っ赤に染まっていく。優人はこめかみを押さえ、深い、深い、ため息を吐いた。大人の想像を遥かに超える壊滅的な現実を前に、頭痛すら覚えてくる。
結果は——ヒフミ78点。アズサ20点。コハル14点。ハナコ2点。
お世辞にも「惜しい」とさえ言えない絶望的な数字だった。
「そんな……私だけしか……。ここまで酷いだなんて……」
ヒフミはあまりの衝撃に、ガクッと机に突っ伏した。彼女を絶望させたのは、他の三人の点数の低さそのものよりも、当の本人たちが全く落ち込んでおらず、さも当然であるかのように平然と振る舞っているその現状だった。
「とにかく、まずは間違えたところを直して、同じミスを繰り返さないようにする。阿慈谷は比較的できてるから、自分の勉強を進めながら、余裕がある時は他の奴も見てやってくれ」
「そうですね。みなさん、頑張りましょう!」
「はい! 頑張ります!」
「逆水も悪いが手伝ってくれ。俺一人じゃ、たぶん手が回らん」
「もちろんです。そのために私はここへおりますので」
イオはすでに四人の答案を科目ごとに整理し始めていた。
その手際の良さを見て、優人は彼女が付いてくれたことへ早くも感謝する。
「よし」
優人は黒板へ向き直った。
赤点だらけの答案に癖の強い四人の生徒。そして、どこか引っ掛かるナギサからの依頼。
どう考えても、当初思っていたほど簡単な仕事ではなさそうだった。
それでも、やるべきことは変わらない。
「全員まとめて合格させるぞ」
その言葉に、ヒフミが「はい!」と真っ先に応じる。
遅れてアズサが頷き、コハルも渋々ながら教科書を開いた。ハナコだけは相変わらず掴みどころのない笑みを浮かべていたが、それでも席を立とうとはしなかった。
「そうですね。みなさん、頑張りましょう」
イオの声に背中を押されるように、それぞれが再び机へ向かう。
こうして、補習授業部の前途多難な日々が幕を開けた。
そして数日後。
——第一回・特別学力試験、結果。
阿慈谷ヒフミ、合格。白洲アズサ、失格。下江コハル、失格。浦和ハナコ、失格。
規定により、補習授業部は強制的に“勉強合宿”を行うことが決定した。
***
第一回試験を終えた、その日の夜。優人はナギサからの呼び出しを受け、再びティーパーティーの執務室を訪れていた。
昼間に訪れた時とは違い、テラスの外には深い夜闇が広がっている。白亜の校舎群も、その輪郭だけを淡い月光の下へ浮かべ、昼間に見せていた華やかな印象はすっかり鳴りを潜めていた。
円卓の上には小さなランプがいくつか置かれ、その橙色の明かりが紅茶の入ったカップや銀の食器へ柔らかく反射している。
風が吹くたび、開け放たれたテラスの白いカーテンが静かに膨らみ、再び力を失ったように垂れ落ちる。
昼間と同じ場所。同じ円卓。同じ紅茶。
それなのに、優人にはどこか別の場所へ招かれたように感じられた。
「第一次試験は、残念でしたね」
向かい側へ腰掛けるナギサが、いつも通り優雅にティーカップを持ち上げる。
言葉だけを聞けば心から結果を惜しんでいるようにも思えた。けれど、優人の耳には、その声音が妙に平坦に響いた。
「……勉強を教えるなんて初めてだったからな」
優人は椅子へ深く腰掛けたまま、両手を組み、その上へ軽く顎を乗せる。
テーブルの上から立ち上る紅茶の湯気を、ぼんやりと眺めていた。
「力になってやることができなかった。想像以上にムズイのな、人に教えるってのは」
自分が理解していることと、それを相手へ理解させることは、まるで別の技術なのだと、この数日で、優人は嫌というほど思い知らされた。
(あの人の凄さが、今更になってよく分かるよ……)
優人は、かつて自分が教えを乞うた“誰か”の背中を思い浮かべ、一瞬だけ視線を宙に彷徨わせた。
それを察してか、ナギサは少しだけ表情を和らげる。
「そう落ち込む必要はありません。まだ二回残っていますので」
「なぁ、気になってたんだが……もし三回とも不合格になった場合はどうなるんだ?」
優人の問いに、ナギサは迷いなく、極めて事務的に答えた。
「簡単なお話です。試験で不合格を繰り返すようであれば、みなさん揃って退学してもらわねばなりません」
優人の眉が僅かに動く。
「退学?」
先ほどまで椅子へ深く預けていた身体が自然と前へ傾いた。
「……ちょっと厳しすぎない? 勤勉じゃない奴は学園の恥だからか?」
「それもありますが、普段でしたらこのような真似はいたしません。トリニティにおいて生徒を退学させるには、幾らかの手続きを要し、たくさんの確認と議論を経ねばなりません。ゲヘナとは違って、我々は法と手続きを重視しますから」
「じゃあ、なぜ?」
ナギサはティーカップを静かに置き、冷徹な瞳で優人を見つめた。
「なぜって……」
一瞬の間。
「そもそも、あの部活は、私が生徒を退学させるために作ったものですから」
優人の背中が、僅かに椅子から離れた。
視線だけを細め、ナギサの顔を観察する。
冗談を言っている様子はない。それどころか、彼女自身にとっては今の発言こそが本題であるかのように見えた。
「……理由は?」
「あの中に、裏切り者がいるからです」
「……詳しく聞かせろ」
「そのつもりです。順を追ってお話ししましょう。まず、私たちが先生をお呼びする原因ともなった【エデン条約】について説明しなければなりませんね」
(【エデン条約】……あの時、百合園が言ってたヤツか)
ナギサはティーカップをソーサーへ戻すと、膝の上で静かに両手を重ねた。
「【エデン条約】……簡単に申し上げれば、トリニティとゲヘナの間で結ばれる不可侵条約です。しかし、その核心は単に互いの不可侵を約束することではありません。ゲヘナとトリニティ、その双方の中枢を担う者たちが参加する中立機構を設立することにあります」
「中立機構?」
「はい。【
流暢に、淀みなく語るナギサの声を聴きながら、優人は手元に残ったティーカップに視線を落とした。すでにぬるくなった琥珀色の水面を指先でわずかに揺らし、彼女の言葉の裏にある重圧を推し量る。
ナギサの言う『全面戦争』という言葉は、決して誇張ではなかった。トリニティ総合学園とゲヘナ学園の抗争は、もはやこのキヴォトスにおける揺るぎない“前提”として深く根付いている。
優人がある夢での出来事をきっかけに調べた結果、覚えた強烈な違和感。それは、背中に清廉な天使の羽を広げるトリニティの生徒と、頭部に不穏な悪魔の角や尾を司るゲヘナの生徒たちが、出会い頭に銃火器を向け合う姿だった。その容姿の決定的な差異は、そのまま両校の間に横たわる埋めがたい溝の象徴でもあった。規律と伝統を尊ぶ高潔な天使たちと、自由と混沌を愛する不敵な悪魔たち。双方のスタンスや学園の在り方が真逆である以上、意見が食い違い、時に反発し合うこと自体は理解できる。
だが、その目に見える姿形や思想の違いがいつしか、相手の存在そのものを“悪”と見なして排除する“本質的な憎悪”へとすり替わっていた。今や、なぜそこまで激しく敵対しているのかという根本的な理由を理解している者など、両校の歴史のどこを探しても誰もいない。ただ“敵だから戦う”という盲目的な憎しみだけが、世代を超えて引き継がれる呪いのように、ただひたすらに繰り返されているに過ぎなかった。
(見た目の違いやスタンスの違いを免罪符にしやがって。歴史だの伝統だのと言えば聞こえはいいが……)
優人の目から見れば、それはあまりにも幼稚で不条理な、歴史という名の“思考停止”に他ならなかった。
理由のない憎悪の連鎖の中で、子供たちが傷つけ合っている。優人はこの街のそんなふざけた現状を、どうしても自分の代で止めたいという強い思惑を、シャーレの顧問になって以来ずっと胸の奥に燻らせていた。
だからこそ、目の前の少女が語る【エデン条約】という平和への足がかりは、優人にとっても絶対に形にしなければならない、願ってもないチャンスだった。ナギサが裏でどのような政治的策略を巡らせていようとも、『両学園の不毛な争いを止めたい』という一点において、彼女と優人の目的は一致している。
優人は冷めきった紅茶を一口だけ含み、喉の奥へ流し込んだ。わずかな渋みが舌に残る。カップを静かにソーサーへと戻し、まっすぐにナギサを見据えると、彼女の背後にある白い翼が、わずかに緊張で強張るのが見えた。完璧な淑女の笑みを浮かべてはいるが、彼女もまた、この不条理な歴史の歯車に押し潰されそうになりながら必死に戦っているのだと、その機微が伝わってくる。
「実際、両学園の生徒が街中で銃撃戦を繰り広げて、街が一時的なパニックに陥った事件もあったそうだな。理由も分からず憎み合って、顔を見ただけで撃ち合う——そんな不毛ないざこざを根こそぎなくせるってんなら、その条約には大賛成だ。お前が立案者か?」
「いえ、これは連邦生徒会長が提示したものです。彼女が失踪し、一度は空中分解しかけたものを私の元でどうにかここまで立て直しました」
「連邦生徒会長が……」
優人の脳裏に、ある人物の面影が浮かぶ。遠い記憶に霞んだその顔は、手を伸ばせば届きそうでいて、決して掴むことはできない。
「いかがしました、先生?」
「……いや」
優人は短く息を吐き、その面影を振り払った。
「さすが【超人】と言われるだけはあるな」
背もたれへ寄り掛かり直した。
「で、そんな大事な条約を台無しにしようとする奴が、
「はい。疑わしい者を一箇所に集めておけば、監視もしやすくなります。それに、いざという時には、まとめて切り捨てることもできますから」
あまりにも淡々とした口調だった。まるで、不要になった書類の処分方法でも説明するかのように。
優人は小さく眉をひそめる。
「やり方が少々強引じゃないか? 誰かと協力すれば、もっと穏便に——」
「誰と協力しろと仰るのですか?」
優人の言葉を遮るように、ナギサの声が一段低くなる。
「今、この学園に信用するに足る人物がいるとでも?」
彼女の翼が大きく震えた。普段の落ち着いた声音とは違う。押し殺してきた苛立ちが、思わず堰を切ったような声だった。
「地位や権力に目が眩み、くだらない派閥争いに明け暮れ、他人の失敗を喜んでは足を引っ張る。そんな者たちに、この学園の行く末を任せろと仰るのですか?」
「桐藤……」
「私は、この学園の醜さを嫌というほど見てきました」
声は静かさを取り戻していた。だが、それは平静に戻ったのではない。溢れかけた感情を、再び力ずくで押し込めているだけだった。
「笑顔で手を取り合った翌日に、平然と相手を陥れる。正義や伝統を口にしながら、その実、自分たちの利益しか考えていない」
ナギサは椅子の肘掛けを強く握り、自嘲するように薄く笑った。
「誰かを信じて裏切られるくらいなら、初めから自分一人で背負った方が遥かにマシです」
部屋に重い沈黙が落ちた。時計の針が時を刻む音だけが、不自然なほど大きく響いている。
優人は何も言わず、ナギサを見つめていた。彼女も視線を逸らさなかったが、その指先は小刻みに震えている。
「……軽蔑しましたか?」
やがて、ナギサが問う。
その言葉だけは、先ほどまでの政治家めいたものではなかった。
一人の少女が、恐る恐る答えを確認しているように聞こえた。
「いや、はっきり言って、ここの連中はきな臭い奴が多いのは事実だ。誰が味方で、誰が敵なのかも分からない。そんな場所に長くいれば、誰も信用できなくなるのも理解はできる」
そこで、優人は再び身体を起こした。
「だがな」
優人の言葉に、ナギサの目が僅かに動く。
「今のお前は、冷酷な指導者にも、権力に酔った独裁者にも見えない。ただ、自分以外の誰も信用できなくなった、不器用な子どもにしか見えないよ」
「子ども……」
「不満か?」
「……いいえ」
ゆっくりと首を横へ振る。
けれど、その表情には、僅かに戸惑いが浮かんでいた。おそらく、今までそのように見られたことがなかったのだろう。
「お前がこの学園を守ろうとしているのは伝わった。でも、それで全部一人で抱え込んだ結果、お前が潰れてしまったら元も子もない」
「でしたら——!」
ナギサは弾かれたように椅子から立ち上がった。一歩、また一歩と優人へ近づいてくる。その動きは、いつもの彼女からは考えられないほど性急だった。
そして優人の前まで来ると、ナギサはわずかに躊躇った後、その場に片膝をついた。
「おい、何を——」
ナギサは優人の腕へ手を伸ばし、縋るようにジャケットの袖口を掴む。その際、彼女の指先がカフスの裏側へかすかに触れたことを、優人は見逃さなかった。
(……ん?)
「先生……身勝手で、無礼極まりないお願いであることは重々承知しております。ですが、ここまで来て、計画を邪魔されるわけにはいかないのです」
ナギサは深く頭を下げる。優人の腕を掴む手には、紅茶の温もりとは違う、生々しい熱がこもっていた。伏せられた瞳には、優人に対するわずかな期待と、行き場を失った執着が宿っている。
「どうか、裏切り者の捜索を引き受けていただけませんか」
ナギサの指に、わずかに力が込められた。
「……私に、力を貸してください」
トリニティの最高権力者である少女の、泥臭いまでの懇願。それは命令でも、取引でもない。ただ一人の少女が、信じてよいのかも分からない相手へ、恐る恐る差し出した確かな救いを求める手だった。
「……立てよ」
優人はナギサの手を袖から優しく外し、その腕を取った。
無理に引っ張るのではなく、本人が立ち上がるのに合わせて支える。
「……生徒にそこまで頭を下げられて、断る大人はいないよ。引き受けよう。——ただし」
優人は短く答え、最後に釘を刺すように付け加えた。
「一つ条件がある」
「条件、ですか?」
互いに立ったまま、正面から向き合う。
「お前のやり方は気に食わない」
はっきりと告げる。
「補習授業部の中に裏切り者がいるかもしれない。そこまでは理解した。だが、疑わしいというだけで、あいつら全員を最初から処分対象として扱うつもりはない」
「先生……」
「俺が引き受ける以上、俺のやり方でやらせてもらう。誰が裏切り者かを見極める。それと同時に、あいつら全員を合格させる。どちらもやる」
ナギサはしばらく無言で優人を見つめていた。やがて、諦めたように小さく息を吐く。
「…………分かりました。ですが、先生?」
ナギサは顔を伏せたまま一歩退くと、一瞬だけ完璧な淑女の仮面を外し、冷酷な本音を漏らした。
「ゴミを細かく選別して捨てるのが難しい時は、いっそ箱ごと捨てるのも効率的な一つの手段だとは思いませんか?」
その言葉は単なる比喩ではない。彼女はそれを必ず実行に移すという確信を優人は感じ取っていた。
言葉の表面だけなら、非情な指導者の発言である。だが、先ほどまで震えていた手、床へ膝をついた姿。それを見た後では、その冷たさすら優人には“作っている”ように思えた。
(やっぱりな)
優人は彼女を見返しながら、右手の袖口に走るわずかな違和感を確かめる。カフスの裏側に、見覚えのない重みがある。彼はそれを悟られぬよう、冷ややかに微笑んだ。
「……事を急ぎすぎたら、大事なものまで捨ててしまうぞ。俺はそれで何度も後悔してきた」
静かな反論。それは彼女の事情など知らぬ大人の戯言。だが、そこには、経験した者が語る確かな重みがあった。
ナギサは言葉を返そうとしかけて、口を閉ざした。目の前の大人が何を経験してきたのか、彼女は知らない。だが少なくとも、適当な理想論を語っているわけではないことだけは分かった。
悔しげに唇を噛んだナギサは、感情を押し隠すように優雅な微笑みを作る。
「そうですか……。お一つ忠告いたしますと、試験は私たちの掌の上にあります。ですから、急に試験の範囲や会場、難易度が変わる……といった“不測の事態”が起きないようお祈りしています」
「……おいおい、協力的な態度はどこにいった?」
「ふふっ、失礼しました。誤解を招くような物言いでしたね。それではこれからも、あの子たちの事をよろしく
「悪役令嬢気取りか? フッ、似合ってねぇな」
「……はい?」
「少なくとも、本物の悪党は、人を切り捨てる話をした後で、そんな顔はしない」
「では、どのような顔をしていると?」
「今にも、誰かに止めてほしそうな顔だ」
ナギサの顔を見る。整えられた笑顔の奥には隠し切れない疲労と焦燥が見え隠れしている。
「…………」
彼女からの返事はなかった。
優人はポケットへ手を入れ、そこに仕掛けられていたもう一つの異物を指先で摘まむ。小型の発信機。袖口のものと合わせて、二つ。
『随分と念入りなことだ』と内心で呆れながら、彼はそれらをテーブルの上へ置いた。
微かな金属音が響き、ナギサの瞳が、わずかに見開かれた。
「人に協力を求めるなら、まずは少しくらい信用してみろ」
そう言い残して、執務室を後にする。重厚な扉が低い音を立てて閉じた。
(お前は……不器用だな…………)
やがて足音が遠ざかり、執務室には完全な静寂が戻った。
ナギサはしばらく、その場から動けずにいた。やがてゆっくりと、優人が座っていた席へ歩み寄る。円卓の上には、彼の袖口とポケットへ仕掛けたはずの超小型発信機が、二つ並べて置かれていた。
まるで、彼女自身の行いを、無言で突きつけているかのように。
「信用、ですか……」
先ほどの優人の言葉を反芻し、自嘲するように呟く。
「それができるのでしたら、これほど苦労はしていませんよ……」
ナギサはそれを静かに拾い上げると、一切の躊躇なく、バキィッと不快な音を立てて握りつぶした。手の中で無惨に潰れ、砕けた部品の一部が床へ落ち、小さく跳ねた。
彼女はそれすら拾おうとせず、残骸を円卓へ戻り、そのまま、ゆっくり椅子へ腰を下ろす。誰もいなくなった円卓の向かい側、少し前まで優人が座っていた席だけが空いている。
そこへ残されたカップの中には、飲みかけの紅茶が残っていた。自分のカップにも同じように紅茶が残っている。その水面が月夜に照らされる。そこに映り込んだ自分の顔は、いつもの優雅なティーパーティーのホストには見えなかった。疲れ果て、怯えるただの一人の少女だった。
しかし、決して退くことはない。
ナギサは瞼を閉じ、脳裏に浮かぶのは、ただ一人。守ると誓った、かけがえのない少女の姿。
「……ええ。
執務室には、まだ紅茶の甘い香りが残っている。だが、この学園に蔓延ろうとしている毒は、それよりも遥かに深く、複雑だった。その毒から最愛の存在を救うべく、あまりにも孤独な“契り”を胸に抱く少女の決意を——今はまだ、誰も知る由はなかった。