ようこそ原作主人公抜きで頑張る教室へ 作:灰色の
──ガタゴトと、かすかな電車の走行音が脳裏に耳鳴りのように残っていた。
不意に、視界がひらける。
(……ここは、どこだ?)
覚醒は唐突だった。数秒前まで自分が何をしていたのか、記憶の糸が綺麗に断ち切られている。パニックになりかける心をどうにか抑え込み、周囲の状況を把握しようと視線を動かした。
どうやら、俺はどこかの教室にいるらしい。それも、窓際の一番後ろという、妙に落ち着く特等席だ。春の柔らかな日差しが窓から差し込み、机の木目を白く照らしている。
黒板の前には、一人の女性が立っていた。息を呑むほどの美人だった。夜の闇を溶かし込んだような黒髪をポニーテールにまとめ、切れ長の瞳が冷徹な光を放っている。その立ち姿、厳格なオーラは、まるで……。
「──以上がこの学校の基本ルールだ。質問はあるか?」
凛とした声が教室に響く。その容姿といい、どこかで聞いたことのある説明の文句といい、強烈な既視感(デジャヴ)が脳髄を突き刺した。茶柱先生。そう、まるで大人気ライトノベルの登場人物を、そのまま三次元に落とし込んだような姿だった。
(まさか、な……)
心臓の鼓動が、ドク、と跳ね上がる。あり得ない仮説を否定するために、俺はすがるように教室の生徒たちへ視線を走らせた。
──前方に座る、特徴的なギャル系のポニーテール。あれは、軽井沢恵の後ろ姿に酷似している。
──教室の中央、周囲に愛想を振りまくように背中を伸ばしている女子は、櫛田桔梗そのものだ。
──少し離れた席には、見惚れるほどスタイルの良い、青髪の美少女。長谷部波瑠加だ。
──横軸の列に目を移せば、怯えたように俯く、どこか垢抜けない眼鏡の少女──佐倉愛里。
──さらに廊下側には、制服を崩して着こなした、赤髪の大柄な男──須藤健。
頭がどうにかなりそうだった。
全員が、俺の知っている「物語の登場人物」の姿をしていた。茶柱先生が口にしている学校の仕組みも、1ポイント1円として使える10万プライベートポイントの支給も、すべてが記憶にある原作の冒頭そのままだ。
(マジかよ……ここ、『よう実』の世界線じゃん……!)
転生。その二文字が脳裏をよぎった瞬間、強烈な違和感が身体を襲った。
自分の手を見る。やけに指が長く、肌が白い。
焦って制服のポケットを探ると、スマートフォンの画面が目に入った。暗転した画面に映り込んだのは──現実のものとは思えない、神秘的な銀髪のイケメンだった。
(……誰だ、これ。俺、なのか?)
びっくりするほど顔が整っている。冷徹さと美しさを兼ね備えたその容姿は、自分で自分に見惚れるレベルだった。それだけじゃない。首元や肩のラインを見るだけで、服の上からでもはっきりと分かるほど、身体が強靭に引き締まっている。座高から推測するに、身長は177センチか、それ以上はあるはずだ。
神様がくれたチート特典。それは、圧倒的なビジュアルと、完璧に鍛え上げられた肉体だった。
しかし、悦びに浸る時間は与えられなかった。ふと、最も重要な「狂い」に気づき、背筋に冷たいものが走る。
今、俺が座っているのは「窓際の一番後ろの席」だ。
そして、右隣の席に目を向けると、そこには凜とした横顔で黒板を見つめる黒髪ロングの美少女──堀北鈴音がいた。
(……待て。じゃあ、綾小路清隆はどこにいる?)
この物語の絶対的な主人公。Dクラスを裏から支配し、Aクラスへと導くはずの、あの「怪物」の姿を探して、俺は必死に教室中を見回した。
だが、どこにもいない。あの死んだ魚のような目をした少年は、この教室のどこにも存在しなかった。
代わりに、俺の机の端には、小さなネームプレートが貼られていた。
『凍影 雪波(とうかげ ゆきは)』
寒冷地を連想させる、それが俺の新しい名前。そしてここが、本来なら綾小路清隆が座るはずだった席。
脳内を、冷酷な現実が駆け巡る。
ここは、原作通りの過酷な実力至上主義の学校。だが、クラスを救うべき主人公は存在しない。代わりにいるのは、チートな身体と顔だけを持って放り出された、周囲からの好感度ゼロの俺だけ。
(嘘だろ……。綾小路抜きで、あの龍園や坂柳、南雲たちと戦えって言うのか……!?)
銀髪の美貌を歪め、俺は音もなく、冷や汗を流した。
凍影雪波としての、あまりにも孤独で、あまりにも過酷な学園生活が、今幕を開けようとしていた。
茶柱先生が冷徹な一瞥を残して教室を去ると、それまで張り詰めていた空気が一気に弛緩した。
俺は真っ先にポケットから端末を取り出し、画面を起動する。おそるおそるポイント残高の欄を確認すると──そこには目も眩むような数字が並んでいた。
【残高:100,000 pt】
(……本当に、10万ポイント入ってる)
頭では分かっていても、いざ自分の手元に大金が表示されると息が詰まる。これがこの学校の甘い罠であり、最初の試練。原作の知識が、俺の脳内で警鐘を鳴らし続けていた。
そんな俺の思考を破ったのは、教室の最前列から響いた爽やかな声だった。
声の主は平田洋介。一分の隙もない、非の打ち所がないほどの好青年。
「みんな、ちょっといいかな?」
平田の提案によって、クラスの親睦を深めるための自己紹介が始まった。
流れるような平田の自己紹介は、まさに完璧の一言だった。持ち前のルックスと温和な人柄も手伝って、教室の女子たちの目が一気に和らぐのが分かる。流石はDクラスの表のリーダーだ。
そして、それに続いた櫛田桔梗の自己紹介も、アイドルのステージを見ているかのように完璧だった。
「櫛田桔梗です! クラスのみんな全員と友達になりたいなって思ってます!」
愛らしい笑顔、弾むような声。
(……可愛い。中身がとんでもない爆弾(裏の顔)だって知っていても、やっぱりめちゃくちゃ可愛いな)
本能的な劣等感を覚えながら彼女を見つめていた、その時だった。
不意に、櫛田がふわりとこちらに視線を向けた。一瞬だけ、真っ直ぐに目が合う。
(あ、ヤバ──)
その破壊力抜群の瞳に気圧され、俺は思わず咄嗟に視線を逸らしてしまった。
だが、視界の端で分かった。視線を外した後も、櫛田のその探るような、あるいは品定めするような視線が、しばらくの間じっと俺の横顔に注がれ続けていたことを。
甘やかな空気は、しかし長くは続かなかった。
「ちっ、くだらねえ。仲良しこよしがしたいなら勝手にやってろよ」
苛立った声を上げ、制服を崩した赤髪の巨漢──須藤健が席を蹴った。そのまま自己紹介をボイコットし、不機嫌そうに教室を出て行ってしまう。
それを皮切りに、クラスの空気は冷え切った。
「私も、席を外させてもらうわ。馴れ合うつもりはないから」
隣の席の堀北鈴音が、冷淡な声と共に立ち上がる。彼女の背を追うように、周囲に怯えていた佐倉愛里や、どこか気だるげな長谷部波瑠加も、巻き込まれるのを避けるようにして次々と教室を後にした。
バラバラになりかけるクラスの空気をどうにか繋ぎ止めようと、平田が苦笑しながらも次の人間を促す。その指先が、窓際の一番後ろ──俺の席へと向けられた。
「じゃあ、次は君にお願いしてもいいかな?」
平田の言葉に、教室内の一斉な視線が俺へと集中する。
特に櫛田や、少し離れた席にいる松下千秋を含めた女子たちの視線が、妙に熱を帯びて刺さるのを感じた。
(……おいおい、めちゃくちゃ見られてるな)
単に順番が回ってきたから確認しているだけかもしれない。だが、この「凍影雪波」という身体が持つ圧倒的なルックスが、彼女たちの興味を強く惹きつけているのは間違いなかった。
緊張で喉が干からびそうになる。
だが、ここで目立つわけにはいかない。何しろ俺は、自分が今どれほどの
俺はゆっくりと立ち上がり、表情を崩さないよう、努めて静かに口を開いた。
「凍影雪波です。折角同じクラスになったので、仲良くやって行きたいと思ってます。3年間よろしくお願いします」
あえて当たり障りのない、地味で控えめな言葉を選んだ。
今はこれで良い。まばらな拍手を受けながら俺はこれからの行動に頭を悩ませた。