ようこそ原作主人公抜きで頑張る教室へ 作:灰色の
最後の方視点変わります
期末試験という大きな壁を突破した俺たち現Cクラスは、まさに最高としか言いようのない気分で豪華客船の旅を満喫していた。
船内の施設――プール、映画館、高級レストラン、ジム、その他数え切れないほどの娯楽施設が、すべて無料で利用できる。それだけでも十分すぎるほど心が躍るが、何より客船のデッキから見渡す果てしない海は、息を呑むほど素晴らしかった。
白い飛沫を上げる青い海を、俺はクラスメイトたちと並んで見つめていた。
「ねえ、マジ感動なんだけど! やばくない!?」
軽井沢の弾んだ声がデッキに響く。普段なら男子に冷たい女子たちも、このロケーションの前では自然と態度が軟化している。男女の垣根を越えて盛り上がるクラスメイトたちの会話を横目で聞きながら、俺が心地よい潮風を浴びていると、ふわりと大人の女性を思わせる香水の匂いが近づいてきた。
視線を向けると隣で茶髪が揺れる。俺の隣に松下千秋が静かに佇んでいた。
普段は平田の周りを取り囲む女子グループの中心にいる彼女だが、どさくさに紛れて平田の輪から抜け出し、こちらに寄ってきたらしい。
「いい眺めだね、凍影くん」
松下は手すりに両手を預け、海の向こうを見つめながら話しかけてきた。
「そうだな……。東京ではまず拝めない景色だ」
「凍影くんは、こういう大きな船って初めて?」
「ああ、そうだな。これが初体験だ」
「へえ、意外。何でもスマートにこなすから、クルージングくらい経験あるのかと思ってた」
松下は楽しげに目を細め、少し顔を近づけて覗き込んできた。
「じゃあ……今のこの状況、楽しんでる?」
「最高にな。これだけの設備をタダで使い倒せるんだ、楽しまなきゃ損だろ」
「ふふっ、本当みたいだね。いつもの凍影くんより、ちょっとだけ声が弾んでる気がする」
大人びた笑みを浮かべる松下。
原作知識を持つ俺は知っている。彼女は周囲のレベルに合わせて手を抜いているだけで、実際は非常に優秀であり、常に将来の自分をシビアに見据えている。
一学期の間、俺が表に立ってクラスを引っ張る姿を、彼女はどんな目で見ていたのだろうか。彼女がいつか、このクラスのためにその本気を解放してくれる時が来るのか……。
そんなことを考えていると、少し離れた場所から騒がしい声が聞こえてきた。
「な、なぁ櫛田ちゃん! 俺さ、もう俺たちの仲だし、これから『桔梗ちゃん』って名前で呼んでもいいかな!?」
池が鼻息を荒くしながら、櫛田にすり寄っている。
だが、次の瞬間。
「ごめんなさい、池くん。私、クラスの男の子にはみんな苗字呼びで統一してるの。だから、これからも『櫛田さん』って呼んでくれると嬉しいな」
丁寧にお辞儀をしながら、しかし一切の隙を与えない完璧な笑顔で、櫛田は池の提案をバッサリと断っていた。
(お辞儀されて断られてる……)
内心で苦笑していると、池をあしらい終えた櫛田が、すっとこちらに視線を巡らせた。そして俺と目が合うと、その美しい瞳でじっと俺を見つめてきた。
原作の櫛田なら、周囲の好感度を稼ぐために名前呼びを笑顔で許容していたはずだ。だが、この世界線の櫛田は、ちゃんと断るべきところで一線を引いている。
……俺の部屋で毒を吐き出し、ストレスを緩和させている日々が、彼女の心境に何か変化をもたらし始めているのだろうか。
「あ……と、凍影くん……!」
思考を遮るように、反対側の隣から消え入りそうな声がした。
佐倉愛里が、お気に入りのデジタルカメラを胸に抱きしめながら、顔を少し赤くして立っていた。
「ここにいたんだ……。あの、ずっと、探してたの」
「よっ、佐倉。船酔いは大丈夫なのか?」
「うん、全然大丈夫。船から見る景色って、本当に綺麗だね……。あのね、私、すごく写真が撮りたくて。……ねえ、凍影くん。一緒に、撮ってもいいかな……?」
上目遣いで、おずおずと尋ねてくる佐倉。
「ああ、勿論だ。せっかくの思い出だしな」
「うん、ありがとう……っ」
佐倉が嬉しそうにカメラを構え、俺の隣に並ぼうとしたその時、背後から軽快な足音が近づいてきた。
「あっ、ずるーい! 写真撮るの? 私も入れて!」
いつの間にか移動してきた櫛田が、ごく自然な距離感で俺の手前側に入り込んできた。それに合わせるように、松下も「あ、じゃあ私も写ろうかな」と言って、俺のすぐ隣へと距離を詰める。
一瞬にして三人の女子に囲まれる形になった。入って来た2人におどおどしながらも佐倉はカメラを自分たちの方へ向け、小柄な体を懸命に伸ばして全員を画面に収めようとするが、どうしても画角が安定せず苦戦している。
「う、ううん……ちょっと難しいかも……」
「あはは、佐倉さん、画面から見切れちゃいそうだよ?」
「撮ってあげようか、凍影くん」
そこへ、クラスの良心である平田洋介が、軽井沢を引き連れて歩いてきた。
「助かる、平田。佐倉が全員で撮りたがってたんだ。頼めるか?」
「うん、任せて。みんな、いい笑顔でね」
平田が佐倉からカメラを受け取り、ファインダーを覗く。
俺の隣で少し緊張している佐倉、いつもの天使の笑顔を浮かべる櫛田、そして余裕のある笑みを浮かべる松下。
「いくよ。はい、チーズ」
カシャリ、と心地よいシャッター音が響いた。
「ありがとう、平田。次は俺が撮るよ。平田もそこに入ってくれ」
「えっ? あ、うん。ありがとう」
カメラを受け取った俺は、平田を女子たちの輪の中へと促した。
平田を中心に、軽井沢が「あたしも入れて〜!」とその隣をキープし、櫛田、松下、佐倉の五人が並ぶ。
ファインダー越しにその光景を覗きながら、俺はシャッターを切った。
「はい、オッケーだ。綺麗に撮れたぞ」
「わあ、見せて見せて!」
集まってくる彼らを見ながら、俺は密かに息を吐く。
(うん、完璧な平田ハーレムだな……)
平田の本当の性的指向や苦悩といった原作の裏事情を知っている身としては、この絵面にはなんとも言えない違和感がある。だが、期末試験を乗り越え、Cクラスへと上り詰めた今の俺たちのクラスの雰囲気は、間違いなく過去最高に形良いものへと仕上がっていた。
女子たちと過ごす時間は、思っていた以上に心地よく、純粋に楽しかった。
前世の平凡な人生において、これほど華やかな女の子たちに囲まれる経験などただの一度もなかった俺にとって、すべてが新鮮で、どこか非現実的な感覚さえあった。
みんなで撮った写真を確認し合ってひとしきり盛り上がった後、佐倉が服の裾をそっと引っ張ってきた。
「あの……凍影くん。つ、次は……その、二人だけで、撮っても、いいかな……?」
おずおずと、だけど真っ直ぐに俺を見つめてくる。周りの目が一瞬こちらに向いたが、断る理由もない。
「ああ、いいぞ。あっちの少し静かな方で撮るか」
「うん……っ!」
少しだけみんなの輪から離れ、デッキの手すり近くに移動する。佐倉は嬉しそうにデジタルカメラを構え、俺の肩と自分の肩が触れ合うほどの距離まで近づいてきた。カシャリ、とレンズの向こうの電子音が二人の時間を切り取る。画面を確認した佐倉は、胸元にカメラを大事そうに抱え、言葉少なげに、だけど言葉以上にその顔をこれ以上ないほど綻ばせて喜んでいた。
再び平田たちと合流し、賑やかな雰囲気のまま船内の通路を歩いていると、ふと周囲の空気が冷たく張り詰める区画があった。他の生徒たちが露骨に距離を取り、避けるように歩いている。
視線の先にいたのは、現Dクラスの面々だった。
一学期の間、Bクラスや俺たち現Cクラスに対して執拗な嫌がらせを繰り返してきた彼らは、今や学年全体から完全に孤立していた。かつての傲慢さは鳴りを潜め、どこか肩身の狭そうな様子で歩く彼らを横目に、俺たちは船内の巨大なレストランへと足を運んだ。
広いレストランの中を進むと、見覚えのある男たちがテーブルを囲んでいるのが見えた。
船内における俺のルームメイトである、須藤と三宅だ。ちなみに、あと一人のルームメイトは高円寺なのだが、あいつは今この場にはおらず、どこかでマイペースに過ごしているのだろう。
「よっ」
俺たちの姿に気づいた須藤が、短く片手を上げる。俺もそれに手を振り返し、彼らが確保していた4人掛けの席へと滑り込んだ。
俺の正面には、先ほどまで一緒にいた平田が座る。俺たちの動きに合わせるように、連れ立ってきた女子たちもすぐ周囲の席へと散らばり、楽しそうにメニューを開いて次々に料理を注文し始めた。
「須藤くん、そのステーキは随分と大きいね。本当に食べ切れるのかい?」
平田が、須藤の前に運ばれてきた豪快な肉の塊を見て、純粋な驚きを口にする。
原作の最初期であれば、平田のような優等生タイプに噛み付いていたはずの須藤だったが、一学期の荒波を共に超えた今は、表情を和らげて笑った。
「おう、俺は運動部だからな! これぐらいガッツリ食わねえと身体がやってられねえんだよ」
嫌悪感など微塵も感じさせない、ごく普通の、むしろ親しい友人同士のような会話。須藤のこの劇的な精神的成長も、俺が裏から釘を刺し、軌道修正し続けた成果がしっかりと形になっている証拠だった。
肉を美味そうに頬張る須藤や三宅たちと談笑していると、少し離れたボックス席に、Bクラスの一之瀬帆波と、その友人たちの姿が目に入った。
テーブルに並んだ華やかな料理を前に一際目を引く一之瀬だったが、ふとこちらに気づくと、そのトレードマークとも言える快活な笑顔を浮かべた。そして、周囲の友達に遮られないよう少し身を乗り出すようにして、こちらに向けて小さく手を振ってきた。
俺もまた、スープの入ったスプーンを止め、彼女に向けて軽く手を振り返す。
一之瀬の瞳には、過去問を融通してくれた俺への深い感謝と、あの暴力事件の時に「ここから先は俺たちだけで片付ける」と一線を引いた俺への、割り切れない複雑な感情がほんの少しだけ混ざり合っているように見えた。
誰もがこの豪華客船の贅沢な旅に酔いしれ、笑顔を浮かべている。
だが、この平和な楽園のような時間は、学校側が用意した巨大な「前振り」に過ぎない。
豪華客船の旅は素晴らしいものだったけれど、クラスのリーダーという立場にいる以上、四六時中完全に心を休められるわけじゃない。
少しばかり溜まった疲れを癒やすため、私は担任の星之宮先生に誘われるがまま、船内にある高級感漂うマッサージ店へと足を運んでいた。
心地よいアロマの香りが漂う薄暗い室内。並んだベッドに横たわり、熟練のセラピストから施術を受けていると、隣のベッドから「ふぁ〜あ……」と、緊張感の欠片もない気の抜けた声が聞こえてきた。
「やっぱりタダの高級マッサージは最高だね〜、一之瀬さん。佐枝ちゃんにも教えてあげたいなぁ、あのカタブツさん、いつも肩に力が入ってるからさ」
星之宮先生はうつ伏せのまま、気楽な調子で言葉を紡ぐ。だが、彼女のこういう「お気楽な大人のフリ」の裏には、いつも鋭い計算が隠されていることを私は知っていた。
「ねえねえ、一之瀬さん。ちょっと真面目な話なんだけどさ。一学期が終わって、各クラスの『警戒すべき人物』について、今の一之瀬さんはどう考えてる?」
「え……警戒すべき、ですか?」
唐突に振られた学内の勢力図に関する問いかけに、私は思考を巡らせる。タダの世間話ではない。先生はBクラスの担任として、私の見識を試しているのだ。
「……そうですね。まずAクラスは、葛城くんと坂柳さんの二大巨頭です。あのクラスは実質その二人によって二分されていて、派閥ができるほどお互いの仲が悪いと聞いています。現時点のポイントはトップですけど、そこが付け入る隙になるかなって」
「うんうん、合格点。相変わらずよく見てるね〜。じゃあ、下のクラスは?」
先生の言葉に、私は一学期の激動の数々を思い出す。
「旧Cクラス――今のDクラスについては、やっぱり龍園くんが一番の警戒対象だと思います。手段を選ばない執念深さがありますから、最下位に落ちたからって油断は絶対にできません」
「そうだねぇ。龍園くんはわかりやすいお化けだもんね。――じゃあさ、今のCクラス……つまり、Dクラスから上がってきたあの子たちはどう?」
「……っ」
その問いを投げかけられた瞬間、私の脳裏に、一人の男子生徒の姿が鮮烈に浮かび上がった。
(凍影、くん……)
レストランで私に向けて、静かにスプーンを止めて手を振り返してくれた男の子。
私は少しだけ答えに窮してしまい、ベッドのシーツを握る手に無意識に力がこもった。思い浮かぶ顔は決まっているのに、それをどう言葉にしていいか分からない。
「ええと……現Cクラスは、平田くんと櫛田さんが表立ってクラスを上手くまとめています。二人ともすごく人望があって、良い雰囲気なんです。……それに、龍園くんが仕組んだあの須藤くんの暴力事件も、見事に跳ね除けて見せましたし……」
「そ。そのことなんだけどさぁ」
星之宮先生が、ベッドの上でゴロリと横を向き、私の方を覗き込んできた。その瞳は、いつもの冗談めかした雰囲気とは違い、どこか冷徹な光を孕んでいる。
「私には、どうしてもあの事件の結末が不思議でしょうがないのよねぇ。龍園くんのあの完璧なハメ技に対して、現Cクラス……ううん、あの『凍影雪波』くんは、あまりにも完璧なカウンターを決めて完全勝訴しちゃったでしょ? それだけじゃない。最近、佐枝ちゃんが時々、凍影くんのことを個別で職員室や生徒指導室に呼んでるみたいなんだよね〜」
「え……茶柱先生が、凍影くんを?」
初耳だった。あの厳格な茶柱先生が、一人の生徒をそれほど頻繁に呼び出すなんて。
「そうなの。何をしてるのかな〜って気になって佐枝ちゃんに直接聞いてみたんだけど、なーんにも教えてくれないの。怪しいと思わない? あの徹底的な秘密主義。……凍影くん、一学期の初めには一之瀬さんに過去問を融通してくれたりもしたんでしょ?」
「はい。それは本当に感謝しています。おかげで私一人の知識じゃ届かなかった、Sシステムの本質に早く気づけましたから」
「ふふん、それも含めてさ、やっぱりあの男の子、何か『持ってる』よね」
星之宮先生は、いたずらが成功した子供のような笑みを浮かべ、声を一段低くした。
「これは一之瀬さん次第なんだけどね〜。あの凍影くんっていう異分子を、上手く『利用』することができたら……私たちのAクラスへの道は、もっと簡単にあっさりと拓けるんじゃないかと、先生は思うんだけどなぁ?」
――利用。
その言葉が、私の胸に冷たいトゲとなって刺さった。
あの暴力事件の時。力になりたくて駆けつけた私を、彼は喧嘩腰でもなく、どこまでも穏やかに、けれど絶対的な一線を引いて撥ねつけた。『ここから先は、俺たちだけで片付けるよ』あの時の彼の瞳は、誰の助けも求めていなかった。私という存在すら、彼の盤上には必要ないと告げられたようで、少しだけ寂しかったのを覚えている。
私はマッサージの心地よさも忘れて、きっぱりとした声で先生に返した。
「利用なんて、そんなことしません。凍影くんは……大切な、友達ですから」
協力し合える良きライバルであり、一人の友人。そうであってほしいという、私の願望も混ざっていたかもしれない。
私の強い口調に、星之宮先生は一瞬だけ目を見張ったが、すぐにいつもの、ふにゃりとした緊張感のない笑顔に戻って両手を振った。
「あはは、冗談だよ、冗談! 怒らないでよ帆波ちゃん。うん、一之瀬帆波のそういう真っ直ぐなところ、先生は大好きだよ〜? 利用するかどうかも含めて、一之瀬さんの好きなようにやっていいからね〜」
「もう……からかわないでください、先生」
私は小さくため息をつきながら、再びベッドに顔を埋めた。
だけど、目を閉じても、あの凍影くんの底知れない静かな瞳が頭から離れない。
友達、だと私は言った。けれど、彼は私たちのことを、本当はどんな風に見ているんだろう。私たちが信じている彼の「有能なリーダー」という姿は、本当に彼のすべてなのだろうか。
遠くから聞こえる船の汽笛の音が、これから始まる波乱を予感させるように、私の胸をざわつかせていた。