ようこそ原作主人公抜きで頑張る教室へ 作:灰色の
豪華客船へと戻り、潮風と砂にまみれた身体を洗い流してしばらく経った頃。
俺は担任である茶柱先生に呼び出され、船内の一角にあるひっそりとした応接室に足を運んでいた。冷房が心地よく効いた室内で、俺は用意された革張りの椅子に深く腰を下ろしている。
茶柱先生は淹れたてのコーヒーが注がれたマグカップを俺の前に置き、自らは机に軽く腰をかけるようにして、値探るような、それでいてどこか優しい視線を投げかけてきた。
「──無人島試験、悪くない結果だ。よくやったな、凍影。……疲れすぎてはいないか?」
「俺は平気です。これくらい、大した運動量じゃありませんから」
俺が淡々とそう返すと、茶柱先生は「そうか」と短く応じ、自身のコーヒーに口を付けた。その表情には、7月の暴力事件に続き、今回の無人島特別試験でも完璧な立ち回りでクラスを押し上げた俺への、隠しきれない賞賛と安堵が滲んでいる。
俺はカップに手を伸ばし、一口含んでから、今回の試験の裏で行った『調整』の意図を吐露し始めた。
「ですが、今のあのクラスの脆さを考えると、今回は他クラスのポイントをこちらで意図的に調整せざるを得ませんでした。……本来の俺のシミュレーション通りにいけば、最終的なAクラスもBクラスも獲得ポイントは200点台前半に抑え込み、俺たちのポイントはあと50ポイントは上に乗せられたはずだったんです」
「ほう、そんな内容だったのか。随分と大胆な調整をしたようだな」
茶柱先生が驚きに細い眉を動かす。俺は静かに言葉を続ける。
「はい。なんと言うか……今回、俺の指示を信じて影で完璧に立ち回ってくれた櫛田や、クラスのメンタルを支えて皆を纏めてくれた平田、炎天下の中で黙々とスポットを占有し続けてくれた須藤や三宅のように、本気で頑張ってくれた人達もたくさんいます。彼らの貢献度を考えれば、1位の座を明け渡す形になったのは申し訳ないと思っています。……ただ、今のクラスの総合力と今後のリスクを天秤にかけた時、これ以外の盤面がどうしても思い浮かばなかったんです」
これだけ頑張ったんだから、ご褒美にハグでもしてくれないかな……などと内心でほんの少し甘い期待を抱いていると、茶柱先生が机から離れ、俺の座る椅子のすぐ近くへと歩み寄ってきた。端正な顔立ちが至近距離まで近づき、彼女の纏う大人の香りが鼻腔をくすぐる。
「お前にはコーヒーをすすめる。私も最近、タバコをやめてこれにハマっているんだが、悪くないぞ」
「コーヒー……ですか?」
思わぬ勧め方に俺が問い返すと、茶柱先生は慈しむような眼差しで俺を見下ろした。
「ああ。成長期の最後に飲むものとしては、あまり良くないかもしれないがな。だが、時にはこうして一服して、落ち着く時間も必要だ。お前は今、クラスの諸問題や他クラスへの外交、色んな事で頭がいっぱいいっぱいなのだろう?」
俺の苦労をすべて見透かしたように、茶柱先生は優しく頷いてくれた。その気遣いが妙に心地いい。彼女は俺の手元でいつの間にか空になっていたティーカップを手に取ると、淹れたてのコーヒーをもう一杯注いでくれた。
受け取って一口飲んでみる。苦味が広がるかと思いきや、驚くほどまろやかで甘い味が口いっぱいに広がった。どうやらあらかじめ砂糖を入れてくれていたらしい。
「甘いですね」
俺が少し驚いて呟くと、茶柱先生はどこか悪戯っぽく、しかし包容力に満ちた笑みをこぼした。
「この一週間の試験がハードだったんだ。お前の脳には、これくらい甘いのが丁度良いだろう」
「……そうですね」
温かく甘いコーヒーが、過酷なサバイバルを終えた身体の芯まで染み渡っていく。
「そう気負い過ぎるな、凍影。お前の判断で良いんだ」
茶柱先生は再び窓の外へと視線を向けながら静かに言った。
「成る程、本来のお前の手腕なら、この無人島の特別試験だけでBクラスへの昇格すら可能だったというわけか。だが……やはりうちのクラスには時期尚早だな。やっと少し入学直後よりマシになっただけだ。お前が立ち回ってくれたおかげで、Bクラスの真下か──これ以上ない良い位置についたと思うぞ」
「はい。そう言っていただけると助かります」
冷房の効いた静かな一室で、俺は茶柱先生が注いでくれた甘いコーヒーをゆっくりと嗜みながら、次なる戦いへの英気を静かに養うのだった。
茶柱先生のいる応接室を出て、静まり返った船内の通路を進もうとしたその時。曲がり角の壁に背を預けていた人物が、ひょっこりと俺の前に立ち塞がった。
「一週間ぶりだね〜、凍影くんっ」
ふわりと漂ってきたのは、微かなアルコールと甘い香水の匂い。Bクラスの担任、星之宮先生だった。
彼女はトテトテと軽い足取りで俺に近づくと、覗き込むように顔を近づけてくる。
「星之宮先生、そんなところで何してたんですか?」
「別に〜? ただ私は、佐枝ちゃんが君を無理に脅したりしてないかな〜って心配してたんだよ〜。ねえねえ、中では一体何の話をしてたの〜?」
俺の肩を指先でツンツンとからかうように突きながら、星之宮先生の目が一瞬だけ鋭く光る。完全に探りを入れてきている。笑顔の裏にある執念は、やはり侮れない。
「いえ、個人的な進路の話ですよ。特に大した事ではありません」
「またまた〜、そうやって隠しちゃって〜。ねえ凍影くん、知ってるよね? この学校で本当に優秀な人っていうのは、入学の時点でAクラスやBクラスに配属されるようになってるんだよ? 凍影くんみたいな規格外の人が、入学時にDクラス配属なんて、冷静に考えておかしいと思わない?」
品定めをするような視線。俺のスペックが無人島で明るみに出たことで、彼女の警戒心はマックスに達しているのだろう。俺は表情を一切変えずに、淡々と返した。
「この学校に入学できた時点で、AからDの配属クラスに大差はないと思ってますが」
「嘘つかないでよ〜。ねえ、今のクラスって問題児ばっかりで大変でしょ? もうさ、あんな底辺クラスなんかやめて、うちのBクラスに来ちゃいなよ。一之瀬さんたちと一緒に上がっていくほうが、絶対凍影くんも楽しいって〜」
星之宮先生がそう言って、俺の腕に自分の身体を絡めようと、さらに距離を詰めてきたその瞬間──。
「──知恵、何をしている」
背後のドアが開き、氷のように冷たい声が響いた。応接室から出てきた茶柱先生が、容赦なく俺と星之宮先生の間に割って入り、その身体を強引に引き離す。
「うちのクラスの生徒に気安く手を出すな」
「ふ〜ん? 佐枝ちゃん、ずいぶんと過保護だねぇ。……もしかして、本気でその子を使って下剋上でも狙ってるの?」
星之宮先生の挑発的な問いかけに、茶柱先生は「……」と険しい表情のまま口を閉ざし、何も答えない。親友でありライバルである二人の間に、目に見えない火花が散る。このまま教師同士のキャットファイトに付き合うのも面倒だ。俺は一歩前に出ると、星之宮先生の目を真っ直ぐに見据えて言い放った。
「先生、勘違いしないでください。茶柱先生が下剋上を狙っているんじゃなくて、俺があの旧DクラスをAクラスに押し上げようとしてるんです」
「え……?」
「俺は今のクラスメイトで、気に入っている人たちがたくさんいます。だから、あのメンバーのまま、この学校で勝つつもりです」
俺の迷いのない、そして傲慢とも取れる宣戦布告を聞いた瞬間、星之宮先生の笑顔が完全に凍りついた。一瞬だけ、ゾッとするほどの冷徹な光で俺を睨みつけてくる。
だが、彼女はすぐにフニャッとした元の酔っ払いのような笑顔に戻り、大袈裟に肩をすくめてみせた。
「へぇー、本気でやる気なんだ。そう……なら、私も黙ってられないな〜。可愛い一之瀬さんに、私が裏から介入してでも、佐枝ちゃんのクラスを完膚なきまでに叩き潰すからねっ」
それだけ言い残すと、星之宮先生はヒラヒラと手を振りながら、廊下の奥へと背を向けて去っていった。その足取りは軽いものだったが、残していった敵意の本気度は本物だった。
静かになった通路で、残されたのは俺と茶柱先生の二人だけだ。茶柱先生は腕を組み、星之宮先生が消えた方角を見つめながら低く呟いた。
「……気にし過ぎるな。教師が生徒の試験に直接介入するのは、この学校では明確なルール違反だ。お前は何も恐れず、このままお前の信じる通りに頑張ることだ」
「はい。……それはつまり、次の特別試験からは、もうBクラス相手に手加減をする必要がなくなった、という意味でしょうか?」
俺が不敵に口元を釣り上げて問いかけると、茶柱先生はフッと皮肉げな笑みをこぼした。
「フン、調整はお前の裁量に任せる。だが、知恵が本気で動き出した以上、今までのようにはいかないかもしれないな。一之瀬たちのクラスも、次からが本気の底力を見せてくるはずだ」
「身構えておきます」
冷房の効いた船内の白い通路で、俺は静かに闘志を燃やす。
一之瀬の善意、神崎の警戒、そして星之宮先生の参戦。
次なる舞台──豪華客船での『干支試験』が、これまで以上に激しい混戦になることを予感しながら、俺は自分の部屋へと歩き出す。
星之宮先生が去り、茶柱先生とも別れた俺は、客船の居住区へと向かい、自分たちの割り当てられた部屋へと戻ってきた。
同室の須藤と三宅は、おそらく試験終わりのバカンスを楽しみに入浴か外出でもしているのだろう。静まり返った廊下で、俺が自室の鍵を取り出し、ドアノブに手をかけようとしたその時だった。
背後から、圧倒的なまでの存在感を放つ、洗練された気配が近づいてくるのを俺のセンサーが捉えた。
鍵を開ける手を止め、静かに振り返る。
そこに立っていたのは、美しい金髪をかき上げ、優雅な笑みを浮かべた同室の男──高円寺六助だった。
「フッ、凍影ボーイ。無人島試験、ご苦労だった。先ほどアナウンスを聞いたが、中々良い結果ではないか」
初日に勝手に体調不良を訴えてリタイアし、クラスにマイナス30ポイントをもたらした張本人は、過酷なサバイバルなどどこ吹く風といった様子で、極上の肌ツヤを輝かせている。
「高円寺か。……快適な船の生活は楽しめたか?」
俺が少し皮肉を込めて尋ねると、高円寺は「ハッハッハ!」と豪快に笑い、自らの胸筋を愛おしそうに撫でた。
「無論さ! 船での一週間は実に見事、素晴らしいものだったよ。美しく豊かな女性たちと触れ合い、極上のバカンスを堪能させてもらった。だが──それ以上にね、私は君が島で繰り広げたという『退屈しのぎのゲーム』について、少しばかり興味があってね」
廊下でこれ以上目立つ話を続けるわけにはいかない。
俺は鍵を開けて部屋に入り、高円寺を招き入れた。須藤たちの荷物はあるが、やはり本人の姿はない。クローゼットやバスルームに誰もいないことを完全に確認してから、俺は高円寺の正面に座った。
高円寺からの促しに応じ、俺は無人島でのクラスの一週間の全貌──井戸や川といった主要スポットの即時占有、伊吹を使った龍園へのカウンター、そしてAクラス・Bクラスとの外交戦略の概要を、端的に、しかし隠さず話して聞かせた。
話を聞き終えた高円寺は、手鏡で自分の前髪を整えながら、実におかしそうに口元を歪めた。
「ククク、ハッハッハ! 実に面白い話だったよ、凍影ボーイ! 龍園という狂犬の首輪を引っこ抜き、葛城という堅物を偽りの英雄に仕立て上げるとはね。……まあ、まだ真に美しく完璧な『私』を楽しませる域には至らないがね。だが、凡人たちの繰り広げる盤面としては、十分過ぎる動きと作戦だ。君のその脳髄、嫌いではないよ」
相変わらずの傲慢不遜な態度。だが、高円寺の鋭い瞳の奥には、俺の実力を正確に見定めたような、知性に満ちた光が宿っていた。
「そいつはどうも」
「フッ、実を言うとね、私は入学したその日から、君という存在に少しばかり興味を持っていたのだよ。他の有象無象とは放つオーラがまるで違っていたからね。ただ、君はいつもクラスの介護や他クラスとの泥仕合でひどく忙しそうにしていたからねぇ? 私からわざわざ声をかける野暮はしなかった、というわけさ」
高円寺はそう言って、俺をからかうようにウィンクしてみせた。
彼がただの我が儘な怪物ではなく、すべてを察した上で、あえて静観している本物の天才であることは原作知識からも分かっている。その高円寺から「以前から興味を持っていた」と告げられたのは、今後の学園生活において決して小さくないイレギュラーであり、面白いピースを手に入れた瞬間でもあった。
「……話はそれだけか? だったら、俺はもう休ませてもらうぞ」
「ああ、おやすみ、凍影ボーイ。次のゲームでも、私を少しは退屈させないでくれたまえよ」
高円寺は優雅に自分のベッドへと戻り、再び自らの美の探求(ボディケア)へと没頭し始めた。
俺は一歩一歩が重く感じられるほどの疲労感に苦笑しながら、自分のベッドへと歩み寄り、そのまま限界を迎えたようにバタリと倒れ込んだ。
茶柱先生の砂糖入りの甘いコーヒーの余韻と、高円寺から投げかけられた奇妙なリスペクト。シーツに顔を埋めながら、俺は無人島特別試験の完全な幕引きを実感し、泥のような深い眠りへと落ちていくのだった。