ようこそ原作主人公抜きで頑張る教室へ 作:灰色の
船内の最下層、エンジンの重低音が床を這うように響く薄暗い区画。
監視カメラのレンズすら届かないその吹き溜まりに、俺――龍園翔は背を預けていた。
じっとりとまとわりつく湿気の中、俺のすぐ隣に立つ女が、酷く不釣り合いな軽い声で静寂を破る。
「手を汚してやるんだ。バレたら退学だ、それに見合う価値のある報酬なんだろうな」
俺が低く睨みつけると、Bクラス担任の星之宮知恵は、小首を傾げて唇を吊り上げた。
「200万も払ったのにまだ不満なの〜? 本当に君は貪欲だね〜。まあ良いや、これからも試験の情報を教えてあげる。だからちゃ〜んと依頼、達成してね♪ 龍園君♪」
猫なで声とは裏腹に、女の瞳が常軌を逸した色で気味悪く光る。鳥肌が立つような歪んだ執念が、その奥に見え隠れしていた。
「くはっ、本当汚え教師だぜ。ルールを平気で破る奴は初めてだ」
「嫌だな〜、私はただ、あるべき姿に戻したいだけだよ♪」
悪びれもせず、むしろ楽しそうに笑う星之宮を、俺は冷ややかに見つめる。
本当に頭のイカれた教師だ。この女は、何が何でも茶柱のクラスの邪魔をしたいらしい。過去にどんな因縁があるかは知らねえが、茶柱に対して異常なまでの怨嗟を抱いていることだけは、嫌というほど察しがついた。
学校のルールを内側から破壊してでも、茶柱を引きずり下ろそうとする執念。敵ながら反吐が出るほどに合理的で、そして狂っている。
俺は視線を逸らし、すぐ近くの床へ目を向けた。
そこには、猿轡を嵌められ、頑丈な縄で無様に縛り上げられたAクラスの女子生徒が2人、片方は恐怖にガタガタと震えながら転がっている。
まあ、俺が部下にやらせたんだけどな。
無人島での敗北以降、俺のクラス内での求心力は底まで落ちた。誰も俺の指示に自発的には従おうとしない。だが、そんなものは関係ない。クラスの男女数人を個別に影へ呼び出し、腹に一発ずつ強烈な拳を叩き込んでやったら、涙目を浮かべてあっさりと俺の言うことを聞きやがった。恐怖による支配は、信頼などという不確かなものより遥かに手っ取り早い。
ただ、問題は今回の試験だ。
恐怖で動かせる手駒は確保したが、肝心の「優待者」の情報がまだ掴めるかどうかが分からねえ。クラスの奴らは俺を恐れ、同時に嫌悪して距離を置いている。だから、自分たちの端末に届いたメールの内容すら俺に隠そうとしやがる。教えて言えば勝たせてやるってのによ、目先の恐怖に怯えるだけの無能どもが。
星之宮に呼び出され、この裏取引を持ちかけられて以降、俺はなんとか凍影のクラスから人質(コマ)を誘拐しようと動いていた。だが、奴らのクラスは男女共に常に複数人で集団行動をしており、付け入る隙が文字通り一片もねえ。恐らく、あの男――凍影雪波の命令だろう。無人島試験の一件以降、完璧にこちらを警戒し、防衛陣形を敷いてやがる。
「チッ……伊吹の奴がへましやがったせいで、予定が狂う」
脳裏をよぎるのは、無人島で完全に計算を狂わされたあの『下着泥棒事件』の顛末だ。
あの時、伊吹のバッグから女子の下着が大量に出てきた理由を、俺はなんとなく察していた。恐らく伊吹は、俺の指示通りに誰か男子のバッグに下着を仕込んだのだろう。だがその現場を、伊吹を嫌っている凍影のクラスの女子の誰かに見つかり、伊吹が眠った後にバッグへ下着を全て叩き込み返されたに違いねえ。それで、翌朝になって伊吹のバッグから下着が出てくるという最悪の公開処刑を喰らい、凍影クラスの奴らに一斉に責め立てられる羽目になったのだ。
あの場で俺がその違和感を指摘し、凍影のクラスの誰かを道連れにハメ返すこともできた。だが、あの間抜けな伊吹の奴は、恐怖と屈辱に耐えかねたのか、もう自分でやったと自白しちまった上に、今や退学する気でいやがる。
それでは非常に不味い。これ以上伊吹の暴走でクラスポイントが減ったら、俺のクラスは文字通り再起不能の奈落に落ちる。
なら、この船上試験で全てを帳消しにしてやれば良い。そのためにも、
まずはこの辰グループの「優待者」を燻り出し、凍影の首を刈る。
俺は足元で震える人質を見下ろし、狂暴な笑みを深く刻み込んだ。
転がっているAクラスの女子2人は、いずれも坂柳派閥の奴らだ。無人島試験で葛城が戦果を上げたという認識が学内に広まったせいで、Aクラス内での坂柳派閥は縮小し、一時的に孤立気味になっていた。俺はその綻びを見逃さなかった。俺の息がかかった手駒を使い、クラス間のポイント取引を持ちかけるフリをして、この人気の無い最下層へと誘い出し、力ずくで捕らえさせた訳だ。
2人のうち、片方の神室とかいう女は、拘束されてなお気怠げな視線をこちらに向けている。本当に坂柳を信頼して従っている訳ではないのだろう。あの足の不自由な女が、派閥に取り込む際に何か弱みでも握って脅したに違いねえ。もう片方の山村は、恐怖に怯えながらも坂柳への忠実さを瞳の奥に宿している。
観察を続けていると、重苦しい金属音を立ててフロアの扉が開いた。
現れたのは、俺の部下に呼ばせておいたお目当ての人物――葛城康平だ。
入ってきた瞬間、背後に潜んでいたアルベルトが葛城の巨体を容赦なく拘束する。
「なっ、貴様――ッ!?」
抵抗しようとする葛城の分厚い腹へ、アルベルトが容赦のない重い一撃を叩き込んだ。
「ぐうっ……!?」
胃袋を破壊するような衝撃に葛城が膝をつき、激しく咳き込む。アルベルトはその襟首を掴み、引きずり回すようにして俺の目の前へと連れてきた。
床に転がされている神室と山村の姿が、葛城の視界に入る。
「……っ! 龍園、貴様……神室と山村に……俺のクラスメイトに、何をした……ッ!!」
葛城の顔が怒りで怒張し、地を這うような低い声で吠えた。自分と敵対する坂柳派閥の人間であろうと、同じ「Aクラスの仲間」として激しい憤りを燃やす。その愚直なまでの正義感が、俺には滑稽でならなかった。
「くはっ、なあに、ちょっとだけ対等な『取引』がしたくてなぁ。まずは、この契約を締結してもらおうか」
俺は懐から取り出した一枚の契約書を、葛城の鼻先に突きつけた。
そこには明確な文字で、悪魔の文言が刻まれている。
『Aクラスの全員は、Aクラス卒業まで毎月得られるプライベートポイントの半分を、龍園翔に支払うものとする』
葛城は書面を一瞥した瞬間、信じられないものを見るかのように目を見開いた。
「ふざけるな……! こんな理不尽な契約、認められるわけがないだろう! 学園全体を敵に回す気か!」
「認めねえ、か。なら、この女たちの学園生活はここで終わりだな。能書きはいいからさっさとサインしろ」
俺は容赦なく神室の元へ歩み寄り、その美しい髪を鷲掴みにして力任せに引っ張り上げた。
「……っくあ……!」
神室の細い身体が不自然にのけ反る。強烈な痛みに顔を歪めながらも、彼女はプライドゆえか、必死に悲鳴を堪えて俺を睨みつけてきた。
「神室……っ!」
アルベルトの剛腕に押さえつけられ、指一本動かせない葛城が歯噛みする。猿轡を噛まされた神室は何も言えない。激しい焦燥と怒りの中で、目の前のクラスメイトの苦悶の表情を見つめ、やがて葛城の頑なな視線がガタガタと崩れていった。
「……分かった……ッ。締結する。だから、その2人から手を離せ!」
絞り出すような声とともに、葛城は俺が差し出したペンを奪い取り、震える手で契約書にサインを走らせた。
これでよし。無人島で葛城が手に入れたアドバンテージを、これで完全に相殺してやる。まあこれだけだと葛城が退学を選べば契約が消えちまう。
葛城の視界に入らない影の隙間で、様子を伺っていた星之宮が、声を出さずに口元だけで「え、これで終わりじゃないよね♪」と、さらに獲物を追い詰めろとばかりに嗜虐的な笑みを浮かべてやがった。言われなくても分かってんだよ、クソ教師。
俺は契約書を回収すると、絶望に沈む葛城を見下ろして、さらに冷酷な命令を重ねた。
「もう一つだ、葛城。凍影雪波を、今すぐここに連れてこい。それが上手くいったら、この2人を正式に解放してやる」
「な、龍園、お前……ッ!! どこまで卑劣な真似をすれば気が済むんだ!」
葛城が、今にも噛み付きそうな形相で俺を強く睨みつける。
「卑劣だあ? これは交渉だ。なぁ葛城、お前にとって、自分のクラスメイトの安全と、他クラスの凍影……どっちが大事なんだ?」
「くっ……凍影は、我がクラスの恩人だ……! そんな彼を、貴様のような悪党の罠に嵌める片棒を担げるわけがない!」
「大した義理堅さだ。だがよ、その綺麗な仲間意識のせいで、この女たちの顔がどうなっても知らねえぞ?」
俺はさらに神室の髪を強く引き絞る。神室の口から、今度は隠しきれない小さな呻きが漏れた。
葛城は苦痛に顔を歪め、拳を血がにじむほど強く握りしめながら、俺と激しい視線をぶつけ合う。激しい葛藤の末、ついに葛城の心がへし折れる音がした。
「……分かった。連れてくる……。だから、それまでは絶対にその2人に手を出すな!」
「交渉成立だ。急げよ、俺の気が変わらないうちにな」
吐き捨てるように言うと、葛城はアルベルトから解放され、重い足取りでフロアの扉から出て行った。
残されたのは、重低音だけが響く静寂。
俺は去っていった葛城の背中を思い返し、狂暴な笑みを深く深く刻み込んだ。
底辺のDクラスから這い上がってきた凍影。お前のその余裕に満ちた面を、この最下層の泥水に沈めてやる。
茶柱先生に例の物を送りつけてとある事を頼んだ後、豪華客船の個室で試験開始の合図を静かに待っていた俺の耳に、突如として室内に響く無機質なインターホンの音が飛び込んできた。
不穏なタイミングだ。俺はベッドから腰を上げると、受話器を取った。
「はい」
『……葛城だ。凍影……すまない、頼むから出てきてくれ……』
スピーカー越しに聞こえる葛城の声は、いつもの冷静沈着な彼からは想像もつかないほどに追い詰められ、酷く悲痛に震えていた。
俺が「分かった」と短く返し、そのまま部屋のドアへ向かおうとした、その時。
部屋の奥、ベッドで優雅に自らの前髪をいじっていたもう一人の男が、音もなく立ち上がった。
「凍影ボーイ。フッ、君一人では恐らく解決できる内容ではないよ。この私も、君を追跡しようではないか」
鏡の前で美しい微笑を浮かべたのは、クラス最大の自由人にして規格外の怪物、高円寺六助だった。相変わらず何を考えているか分からない男だが、葛城の声からただ事ではない異常事態を察したらしい。普段はクラスの勝敗にすら興味を示さない高円寺がついてくるのは計算外だったが、彼を止めるのは時間の無駄だ。俺はそのままドアを開けた。
通路に出ると、そこには壁に手を突き、荒い息を吐いている葛城の姿があった。その表情は苦渋に満ちており、全身から焦燥感が滲み出ている。
「どうした?」
俺が冷静に問いかけると、葛城は俺と目を合わせることすら苦しそうに、深く頭を下げた。
「すまない、凍影……! お前をこんなことに巻き込むつもりは毛頭なかった。だが、俺のクラスメイトの命運がかかっているんだ。頼む……俺と一緒に来てくれ……ッ!」
プライドがそれなりに高いはずのあの葛城が、他クラスの俺に対してここまで必死に頭を下げている。事態の深刻さはそれだけで十分伝わった。
俺は部屋のドアを開け放ち、中で様子を窺っていたルームメイトの三宅と須藤に向き直った。
「三宅、須藤。少し外してくる。2人はここで待っていてくれ」
「おい凍影、大丈夫かよ? 葛城の様子、明らかに普通じゃねえぞ」
須藤が心配そうに身を乗り出したが、俺は手でそれを制し、「問題ない」とだけ告げて葛城の後に続いた。背後からは、何故か楽しげに鼻歌を交じらせながら歩いてくる高円寺の気配が伝わってくる。
葛城に導かれて船内の通路を進んでいくと、曲がり角の少し離れた死角に、現Dクラス――龍園の息がかかったのであろう数人の男子生徒が張り付いているのが見えた。あからさまに俺たちの動向を見張っている。
何のつもりだろうか。龍園の狙いは、無人島で煮え湯を飲まされた俺への報復か、あるいはこの試験に絡む新たな謀略か。
張り詰めた空気の中、俺は葛城の重い足取りに合わせて、船内でもっとも深く、薄暗い最下層のフロアへと静かに歩を進めていった。