ようこそ原作主人公抜きで頑張る教室へ 作:灰色の
『生徒諸君に告げる。諸般の事情により、現在実施中の特別試験はこれを以て完全に中止とする。詳細については追って――』
スピーカーから流れる無機質なアナウンスを聞き流しながら、俺は葛城から龍園たちの襲撃動画のデータを受け取っていた。
高円寺に支払った全財産分、流石に葛城の懐が軽くなりすぎている。今後も同盟として動いてもらう都合上、俺は「今後の必要経費だ」と言って、手持ちのプライベートポイントから幾らかを葛城の端末へと送金し、自室のある階層へと戻った。
だが、部屋の前まで辿り着いた俺の耳に、容赦のない怒号と罵声が飛び込んできた。
「おい、ふざけるんじゃねえぞ! 俺たちが勝ってたはずの試験を台無しにしやがって!」
「差を詰められたからって汚え手を使ってやがる。一之瀬のクラスだけ贔屓してんじゃねえよ!」
「本当最低……凍影君の動画ってこのことだったんだ。本当に嫌な教師……」
「ただの酒飲みババアだな、ありゃ……」
見れば、廊下で星之宮先生が、うちのCクラスの面々に完全に包囲されて糾弾されていた。
やはり、元Dクラスの口撃力は強すぎる。須藤や池だけでなく、女子たちまで一切の容赦がない。あの罵詈雑言の嵐に囲まれるのは、さすがに同情を禁じ得ないな……と思いつつ通り過ぎようとした、その時だった。
「あ、雪波君……!」
人混みの中から、櫛田が俺の姿を見つけて弾かれたように駆け寄ってきた。
「やっ――」
「大丈夫!? アルベルト君や龍園君と闘ったんでしょ!? 怪我してないの!?」
俺が「平気さ」と言い切るより早く、櫛田の鋭い視線が俺の身体のあちこちを走った。そして、俺の腕でピタリと止まる。
龍園の拳はともかく、アルベルトの巨体から繰り出された重い打撃をガードした俺の腕は、じんわりと赤く変色し始めていた。それを見た瞬間、櫛田の顔色が殺気立つようなものへと一変する。
「冷やさないとダメ! これ、放っておいたら絶対酷い痣になって残っちゃうよ!」
櫛田は俺の腕を強引に掴むと、そのまま俺を自室の客室へと押し込んだ。
廊下では須藤や三宅たちがまだ星之宮を怒鳴りつけている最中だ。部屋には誰もいない。櫛田は部屋に入るなり、迷いのない動きで小さな冷蔵庫を開け、冷えた氷を取り出して俺の腕にぴったりと押し当ててきた。
「冷てっ……」
「我慢して。自業自得なんだからね?」
怒ったような、だけど本気で心配している目で櫛田が俺を見つめていると、ガチャリと部屋のドアが開いた。
入ってきたのは、松下、軽井沢、そして松下に手を引かれるようにして入ってきた森の三人だった。
「凍影君……! 無事だったんだ……」
松下がホッとしたように胸を撫で下ろす。だが、星之宮から動画を見せられていた森寧々が、おずおずとした様子で俺に尋ねてきた。
「あの、凍影君……本当に、Dクラスの人たちに暴力を振るったの……?」
その問いに、松下がすぐにアシストを入れる。
「何か、正統防衛の証拠とかはないの? このままだと凍影君だけが停学になっちゃうかもしれないよ」
「……心配かけて悪かったな。潔白を証明するってわけじゃないけど、これを見てくれ」
俺はポケットからスマートフォンを取り出し、高円寺に録らせておいたあの動画を再生して彼女たちに見せた。画面の中で、龍園たちが明確な敵意を持って俺を囲み、先制攻撃を仕掛けてくる様子が映し出される。
「こんなに殴られてたの!? なんで……なんでもっと早くやり返さなかったのよ!」
櫛田が悲鳴に近い声をあげて俺を睨む。俺がわざと最初の数発を受けにいった意図が、彼女には耐え難かったのだろう。
「正統防衛の証拠を完全に撮るために、必要なプロセスだったんだ。そうでもしないと、葛城や、人質に取られてたAクラスの女子たちを合法的に助け出せなかったからな」
「……っ」
俺の言葉の意味を、櫛田は瞬時に理解した。
ーー葛城派閥が坂柳に対して優勢を保っていなければ、いずれ自分たちのクラスが坂柳に叩き潰される。だから葛城に貸しを作り、同盟を強固にするために、凍影は自分の身体を張ったのだーーと。櫛田は痛ましそうに唇を噛みながらも、深く納得したように頷いた。
「良かった……。ちゃんと決定的な証拠を残してあったんだね」
松下が本当に安心したように息を吐く。そんな松下の顔を見て、俺は一つ、申し訳ないことを思い出した。
「松下、すまない。お前に謝らなきゃいけないことがある」
「え? 何?」
「特別試験が中止になっちまった。お前に頼んだ星之宮先生のマークの報酬、(試験で手に入るはずだった優待者ポイントで山分けして渡すつもりだった)約束を護れそうにない。俺の個人の支払いで、我慢してくれるか?」
すると、松下はふわりと柔らかい笑みを浮かべ、首を横に振った。
「なーんだ、そんなこと? 全然良いよ。試験を台無しにしたのは星之宮先生だし、凍影君のがもらえるなら私はそれで十分。あまり気にしないで?」
その言葉に救われる。
相変わらず、俺の腕を氷で冷やし続けている櫛田の手元を見つめながら、「もう大丈夫だから、ありがとな」と、彼女の強張った背中をポンポンと軽く叩いた。
だが、櫛田は「駄目だよ」と、俺の手をピシャリとはね除けた。
「腕だけじゃないでしょ? 身体にだって、アルベルト君の攻撃が入ってたじゃない。大人しくしてて」
櫛田は真剣そのものの表情で、俺の制服のボタンに手をかけ、身体のあちこちに怪我や痣が増えていないかをチェックし始める。その甲斐々々しい、けれどどこか独占欲の滲む様子を、後ろで軽井沢と松下が、少しだけ複雑そうな、羨むような視線で見つめていた。
私の目の前で、千尋ちゃんはまるで糸が切れた人形のように崩れ落ち、床に蹲ってしまっていた。その顔は血の気が完全に引き、真っ青に染まっている。
「千尋ちゃん……っ」
声をかける私の指先も、小刻みに震えていた。頭の中が、ガンガンと拒絶の鐘を鳴らしているようだった。
星之宮先生が、裏でそんなことをしていたなんて、私は今の今まで何も知らなかった。
私達たちのために、Bクラスのために。そんな歪んだ正義感を掲げて、ルールを根底から覆すような卑劣な不正行為を働き、私たちを勝たせようとしていたなんて、夢にも思わなかった。
何より許せなかったのは、その大人の身勝手な陰謀に、純粋な千尋ちゃんを巻き込んだことだ。
幸いにも、一年生全員に拡散されたあの音声データの中では、千尋ちゃんは明らかに困惑し、ルール違反に乗り気ではない態度を見せていた。だから客観的に見れば、星之宮先生に高圧的に迫られ、拒みきれなかった被害者だとも受け取れる。学園側から千尋ちゃん個人へ重い処分が下る可能性は低いかもしれない。
けれど、結果は変わらない。
『Bクラスは担任教師から優待者の法則を横流ししてもらい、不正に勝とうとしていた』
その最悪の事態が公になった以上、明日から私たちは、学園中のすべてのクラスから白い目で見られ、軽蔑の的になる。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン――。
さっきから、私たちの客室のチャイムが狂ったように鳴り響いている。
ドアの向こうには、Bクラスの仲間たちの気配があった。きっと神崎君をはじめとする男子たちが、あの動画の真実を確かめにやってきたのだろう。
だけど、千尋ちゃんは恐怖のあまり立ち上がることすらできない。
「……待っててね、千尋ちゃん。私が、お話してくるから」
私は千尋ちゃんの肩を一度だけきつく抱きしめた後、意を決して部屋のドアを開けた。
「一之瀬……!」
廊下に立っていたのは、やはり神崎君だった。その顔は酷く青ざめていたが、同時にこれまで見たこともないほどに真剣で、逼迫した表情をしていた。
「例の動画は……あの音声は、本当なのか?」
神崎君の問いに、私は何も答えることができなかった。
ただ、悲痛な想いで唇を噛み締め、俯くことしかできない。それが、私にできる精一杯の『肯定』だった。
「……そうか。事実、なんだな」
私の無言の態度だけで、神崎君には全てが伝わったようだった。
神崎君はギリ……と奥歯が軋むほどの音を立てて歯噛みし、悔しさに顔を歪めた。
「最悪だ……。これでCクラスとの信頼関係は完全に揺らぐ。中間試験で過去問を融通してもらい、無人島でもあれほど協力してくれた凍影だ。今回の件を知れば……もう二度と、俺たちに協力してはくれないだろうな」
「…………」
神崎君の言葉が、胸に深く突き刺さる。
だけど、今の私には言葉を返す資格すらなかった。
一体、あの動画は誰が、どんな目的で撮影したのだろう。
私たちのクラスを激しく敵視している、龍園君たちのいる現Dクラスだろうか。それとも坂柳さんの率いるAクラス? いや、現Cクラスの凍影君たちだって、動機は十分にありすぎる。
けれど、そんな犯人探しは何の意味も持たない。そもそも、教師が生徒に肩入れして不正を働いている姿を目撃したら、誰だって告発するに決まっている。悪いのは、一線を超えてしまった星之宮先生なのだ。
問題は、これが一部の噂ではなく、一年生全体のスマートフォンに送信され、決定的な証拠として出回ってしまったことだった。
(千尋ちゃん……本当に、大丈夫かな……)
「神崎君、ごめん。今は千尋ちゃんの側にいてあげたいの。クラスの皆には、後で私からちゃんと説明するから……!」
「あ、ああ……分かった。ここは俺が引き受けよう」
神崎君にそう断りを入れて、私はすぐに部屋の中へと戻り、ドアを施錠した。
床に丸くなって震えている千尋ちゃんに歩み寄り、その小さな背中にそっと手を当てて、何度も、何度も優しく撫でた。
「大丈夫だよ、千尋ちゃん。大丈夫だからね……」
私は自分に言い聞かせるように、震える声で囁いた。
幸いにも、特別試験の本番はまだ始まっていなかった。アナウンスの通り、試験そのものが中止になったんだ。だから千尋ちゃんは、実質的にはまだ何一つ不正をしていない。何も悪いことはしていないんだ。
メールが届いた朝8時、私に優待者の情報を教えてくれた時の千尋ちゃんの顔が、どうしてあんなに悲しそうに歪んでいたのか、今なら痛いほどよく分かる。千尋ちゃんはずっと、一人でこの罪悪感と戦っていたんだ。
「私たちは、大丈夫だから……。私が、何があっても千尋ちゃんとBクラスを護るからね……」
千尋ちゃんの涙で濡れた背中をさすりながら、私は窓の外の海を見つめていた。
失われた信頼、牙を剥く他クラスの視線、そして何より、この不正を知った凍影君が、今どんな目で私たちを見ているのか。
押し寄せる恐怖に胸が潰されそうになりながらも、私はBクラスのリーダーとして、千尋ちゃんの支えになることだけを、心の中で強く誓っていた。
特別試験の完全な中止が告げられた教官室の片隅で、私はただ、窓の外に広がる灰色の海を見つめていた。
当然の結果だ。あそこまでの不正の証拠が一年のスマートフォン全員に拡散された以上、学園側が試験の続行を不可能と判断するのは火を見るより明らかだった。
(……勝てる試験だった、か)
先ほど、私の部屋で凍影が溢らした言葉が、耳の奥で微かに反芻される。
あいつの知略をもってすれば、本来ならこの『干支試験』を完璧にコントロールし、大量のクラスポイントをもぎ取って、さらに上層のクラスへと躍進できていたはずなのだ。そう思うと、教師の身でありながら、どこか言いようのない勿ったなさを感じてしまう。
だが、この結末を招いた引き金は、全て私にあるのかもしれなかった。
星之宮知恵が私に抱き続けている、歪んだ執着と過去の怨恨。それを知りながら、私は大人として、教師として、何も手を打たずに傍観していた。そのツケを、あいつ――凍影や、一部のクラスメイトたちが暴力の嵐に晒されながら、すべて代わりに背負う羽目になってしまったのだ。
本来なら、これまでの私であれば、何とも思わなかったはずだった。
「所詮はその程度のクラスだった」と冷酷に切り捨て、鼻で笑って終わらせていたはずだ。かつての私にとって、生徒などAクラスという過去の亡霊に辿り着くための『駒』でしかなかったのだから。
なのに、不思議だ。
胸の奥を、今まで感じてきたことのない激しい歯がゆさが走るのが分かった。自分の無力さに、唇を噛み締めたくなるような、酷く不快で、けれど切実な熱い感情。自分でも信じられないほど、不思議な気分だった。
4月の入学以来、凍影雪波という男は、まるで私にその身を捧げ、力を貸すかのように、常に最前線に出て泥を被り続けてきた。
あいつの能力は確かに高いが、決して完璧な超人というわけではない。どこか危うく、どこか人間臭い泥臭さを抱えている。それだけなら、私は何も思わなかっただろう。ただの『利用価値のある生徒』と『それを使う教師』という、利害関係だけで割り切った冷たい関係の中に収まっていたはずだ。
何が、私の心をここまで動かしたのか。
それは――あいつが、毎回私に向ける『視線』のせいだった。
言葉にするのは酷く躊躇われるが、あいつの目は、私を単なる「担任教師」として見てはいない。どこか、年上の異性を見るそれに近い、熱を帯びた視線なのだ。
私に憧れる要素など、何一つ残っていないはずなのに。私自身がとうに捨て去ったはずの『女』としての部分を、凍影は毎回、話をするたびに、ほんの少しだけ特別な色を混ぜて見つめてくる。
そんな視線を真っ直ぐに向けられ続けて、揺らがない女などいるはずがなかった。
表向きはいつもの冷徹な仮面を崩してはいないつもりだが、内心では、あいつと二人きりになるたびに、激しく動揺し、胸の奥が騒ぎ立っていた。
だからこそ、私はいつの間にか、あいつのことが気になって仕方がなくなってしまっていたのかもしれない。
自分一人にすべての役割と重圧を集中させ、穴だらけで身勝手なCクラスのガキどもを必死に導いていくあの背中。不本意ながら、あまりにも素晴らしいと、美しいとすら思ってしまった。誰よりも強いくせに、その実、同じくらい脆くて傷つきやすい。そして何より――私の出方次第で、どうにでも動かせてしまえそうな、危うい人間。
本当に、おかしな気分だった。
そして今、私を呪縛していた星之宮知恵を、凍影が完璧な策略で仕留めてみせた。
私の中で、何かが決定的に変わろうとしているのを感じる。
これまで生徒をただの道具、盤上の駒としてしか見ていなかった私が、あいつの傷だらけの腕を見た時、何か、生きていく上で最も大事なものを目撃してしまったような、そんな錯覚さえ抱いていた。
それが何なのか、今の私にはまだ分からない。
ただ、一つだけ、胸の奥から湧き上がる確固たる本音があった。
私は、凍影にだけは、絶対に潰れて欲しくない。あいつが背負い込んだ重圧に押し潰される前に、この手で支えてやりたい――。
煙草に火をつけようとして、指先が微かに震えていることに気づき、私は苦笑混じりにそれをポケットへと仕舞い込んだ。教官室の窓に映る自分の顔は、いつの間にか、ただの教師ではない、一人の狂おしい感情を宿した女の表情をしていた。