紅の魔術師   作:berunarudo

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第十五話 ep2 黒焦げのパンプキンパイ③

 bar Emrys の中には、静かな時間が流れていた。

 

 カウンターの端では、紬がマスターに見張られながらノートを広げている。

 補習から解放されたあと、そのまま連行されるように店へ来たものの、結局「勉強しなさい」と言われ、今に至る。

 

「ここ、計算式が違いますよ」

「うぅ……」

「泣いても点数は上がりません」

「知ってるもん……」

 

 頬を机につけるようにして唸る紬の隣で、誠司は黙って座っていた。

 

 その手には、小さな橙色に輝く宝石が付いた指輪がある。

 

 高価なものではない。

 けれど、彼にとっては何より重いものだった。

 

 時折それを見つめては、何か言いかけ、結局言葉にならずに飲み込む。

 そんなことを繰り返している。

 

 マスターがグラスを拭きながら、そっと目を細めた。

 

「少しは休まれてはどうですか、誠司さん」

「……休んだって、変わらねぇよ」

 

 低く返した声には、疲れと焦りが滲んでいた。

 

 指輪を握る手に、わずかに力がこもる。

 

「早く、何とかしねぇと……」

 

 その言葉が落ちた瞬間だった。

 

 店の扉が、荒々しく開いた。

 

 冷たい夜気が流れ込み、それに混ざって焦げた臭いが店内へ広がる。

 

 紬が顔を上げた。

 

「紅!」

 

 立っていたのは、紅だった。

 

 深紅のコートの裾はところどころ焼け焦げ、帽子にも煤がついている。

 袖口は黒く炙られ、頬には煤の筋が走っていた。

 

 だが何より、その赤い目が普段以上に冷えていた。

 

 紬は椅子を蹴るように立ち上がる。

 

「どうしたの、紅! 何があったの!?」

「……」

「紅?」

 

 返事の代わりに、紅は懐から一冊のノートを取り出した。

 

 血に濡れ、端の破れた研究日誌だった。

 

 それを、誠司の目の前へ無造作に放る。

 

 鈍い音がした。

 

 誠司の肩が跳ねる。

 

「貴様」

 

 紅の声は低かった。

 

「なぜ隠した」

 

 誠司の喉が鳴る。

 

「な、何を言ってるんだよ」

「研究所へ行ってきた」

「……っ」

 

 紬が息を呑んだ。

 

 誠司の顔色が変わる。

 その驚きは、紬のような心配ではない。明らかな動揺だった。

 

「場所、分かってたのかよ……」

「ああ。だが、すでに荒らされた後だった」

「……」

「死体と、壊された記録と、これだけが残っていた」

 

 紅は顎で日誌を示す。

 

「貴様の脱出は、偶然ではない」

「……」

「協力者がいたな」

 

 誠司の指先がぴくりと震えた。

 

「誰だ」

 

 返事がない。

 

 紅は一歩、また一歩と誠司へ近づく。

 その足音だけで、空気が重くなる。

 

「答えろ」

 

 誠司は唇を噛んだ。

 言うべきか、隠し通すべきか、その迷いが露骨に浮かんでいた。

 

 紅はその胸倉を掴み、乱暴に壁へ押しやる。

 

「ぐ……っ!」

「何人死んだ?」

「……」

「誰が生き残った?」

「やめろ……!」

「答えろ」

 

 声が冷たい。

 怒鳴っているわけではない。だからこそ、逃げ場がない。

 

 誠司は苦しげに息を吐き、やがて諦めたように目を伏せた。

 

「……眼鏡だ」

 

 絞り出すような声だった。

 

「名前は知らねぇ。だが、生き残ったのは……俺と、そいつだけだ」

 

 紅は手を離した。

 

 誠司は床へ崩れ、咳き込む。

 紬が一歩前へ出かけるが、紅の視線に止められた。

 

「続けろ」

「……実験中のことは、ほとんど曖昧なんだ」

「都合よく忘れたか」

「違う!」

 

 誠司が顔を上げる。

 

「本当に、曖昧なんだよ! 痛ぇとか、苦しいとか、そういうのばっかり残ってて……ちゃんとした順番じゃ思い出せねぇ」

 

 その叫びは、嘘というより半ば悲鳴に近かった。

 

 紅は黙る。

 誠司は肩で息をしながら、続けた。

 

「大勢いた。けど、みんなどんどん死んだ。耐えられなかったんだろうな……俺と、眼鏡だけが生き残った」

「変異は?」

「進んでた。人間とは思えねぇ力もあった」

 

 誠司は自分の手を見る。

 鱗が浮いた皮膚。鋭い爪。

 

 その目に、一瞬だけ吐き気のような嫌悪が宿る。

 

「眼鏡のやつが言ったんだ。協力すれば外へ出られるって」

「それで従ったか」

「ああ」

 

 誠司は苦く笑った。

 

「他に方法なんてなかった」

 

 店内に沈黙が落ちる。

 

 マスターもグラスを置き、静かに聞いていた。

 紬も、もうノートを見る気にはなれない。

 

「最初は順調だった」

 

 誠司は自分の記憶を手探るように言葉を繋ぐ。

 

「設備を止めて、鍵を奪って、上へ向かった。だが、出口の前にあいつがいた」

「黒騎士か」

「ああ」

 

 その名が出た瞬間、誠司の顔がはっきりと歪んだ。

 

「黒い甲冑に、黒い剣。人間じゃねぇ。あんなもん、化け物だ」

「……」

「この姿になって強くなった俺たちでも、歯が立たなかった」

 

 指輪を持つ手がきつく握られる。

 

「眼鏡のやつにも、恋人がいた」

「……」

「だから、俺がおとりになるつもりだった。あいつを逃がして、それで――」

 

 誠司はそこで言葉を詰まらせた。

 

「でも、逃がされたのは俺のほうだった」

 

 声がかすれる。

 

「あいつ、何て言ったと思う」

「……」

「幸せになれって」

 

 笑うような、泣くような声だった。

 

「ふざけんなよ……そんなもん、簡単に言うなって話だろ」

 

 紬の胸が痛む。

 それは、十四話で見た“やり直したい男”の顔だった。

 

 けれど紅の目は、少しも緩まなかった。

 

「黒騎士の存在を隠していたな」

「……話せば、断られると思った」

「だから黙っていた」

「仕方なかったんだよ!」

 

 誠司が顔を上げる。

 

「話したからって、何も変わらねぇだろ! だったら最初に依頼を断られない方がマシだ!」

 

 その言葉に、紬がはっとする。

 追い詰められた人間の理屈だ。けれど、間違っているとも言い切れない。

 

 紅は冷たく言った。

 

「貴様は依頼の土台を隠した」

「……」

「それでも今さら咎める気はない。問題は別だ」

 

 紅の視線が、誠司の身体を射抜く。

 

「もう治せない」

 

 言葉は、短く、容赦がなかった。

 

 紬の肩が震える。

 誠司は一瞬、意味を理解できなかったように固まった。

 

「……は?」

「一時的に抑えることはできるかもしれん。だが、元へ戻すのは無理だ」

「何でだよ」

「変化が馴染みすぎている」

 

 紅は淡々と続けた。

 

「これは単なる外傷ではない。肉体も、魔術回路も、もっと深いところから変わっている。遺伝子レベルの変化が完了した今、戻すための“元”が残っていない」

「そんな回答を俺は望んでねぇよ」

 

 誠司の声が低くなる。

 

「直せって言ってるんだよ」

 

 次の瞬間、その腕が伸びた。

 

 鋭い爪が、紅の首元へ突きつけられる。

 

 紬が息を呑む。

 

「誠司さん!」

「黙ってろ!」

 

 怒鳴った声に、獣のような響きが混じっていた。

 本人もそれに気づいたのか、一瞬だけ目を見開く。

 

 紅は動かない。

 

「それだ」

「……何がだ」

「今の貴様は、もはや怒りと暴力が近すぎる」

 

 紅は誠司の腕を掴む。

 

「獣になりかかっているぞ」

「違う」

「違わん」

「俺は人間だ!」

 

 誠司が叫ぶ。

 だが、そのたびに指先の爪がわずかに伸び、皮膚の鱗が濃くなる。

 

 紬は目を逸らせなかった。

 

「俺は、人間だ……」

 

 誠司自身が、一番そう信じたがっている。

 だからこそ、その叫びは痛々しかった。

 

 紅は首を振る。

 

「今の貴様に残された道は一つだ」

「……」

「姿を消せ」

「何だと」

「これ以上痕跡を残せば、黒騎士が狙う。貴様は自分だけの問題では済まなくなる」

 

 誠司の顔から、希望が剥がれ落ちていく。

 

「逃げろってのか」

「ああ」

「彼女に会えず、人間にも戻れず、それで生きろって?」

「直せたとしても、そこには膨大な時間がいる」

「……」

「その頃には、彼女はもう別の人生を生きているだろう」

 

 その一言が、決定打だった。

 

「……くそがあああああ!」

 

 誠司が椅子を掴み、紅へ投げつける。

 紅は片手でそれを弾いた。

 

 木片が砕けて散る。

 

「負けるのが怖いのだろ」

「……何だと」

「違うか?」

 

 誠司は荒い息を吐きながら、紅を睨む。

 

「この身体になってから、見えるんだよ」

「……」

「魔力の流れがな」

 

 その目が、紅の全身を舐めるように見た。

 

「お前の中、ずいぶんボロボロじゃねぇか」

「……」

「本調子じゃねぇんだろ、紅」

 

 紬の顔が強張る。

 

 脳裏をよぎったのは、冴を救ったときの第一階位。

 あの異常な魔術に、代償がないはずがないと思っていた。

 でも、本当にここまで残っているとは知らなかった。

 

「……そうだったの、紅」

 

 口から漏れた声は、情けないほど小さかった。

 

 自分のせいだ。

 そう思った瞬間、胸の奥が沈む。

 

 紅はそんな紬を一瞥し、苛立ったように舌打ちした。

 

「余計な顔をするな、小娘」

 

 だが誠司は、その反応を肯定と受け取った。

 

 周囲の空間が、ゆらりと歪む。

 

「なら、俺の手で解決してやる」

「……」

「もう、お前らの力なんかいらねぇ!」

 

 姿が掻き消える。

 

「しまっ――」

 

 誠司は扉を蹴り開け、店の外へ飛び出した。

 

 紅もすぐに追う。

 紬も我に返り、その後を追いかけた。

 

 夜の路地裏。

 

 逃げた誠司の気配は、薄く残っていた。

 

 透明化しても、魔力の揺らぎまでは消せない。

 紅はすぐに位置を掴む。

 

「第三階位――火は鞭となり、敵を拘束する(バインド・フレイム)!」

 

 炎の鞭が走る。

 何もない空間へ巻きついた次の瞬間、輪郭が歪み、誠司の姿が浮かび上がった。

 

「ぐっ……!」

 

 だが、誠司は笑った。

 

「やっぱり、お粗末だぜ」

 

 その肉体が、ぶくりと膨れた。

 

 筋肉と骨格が不自然に軋み、さっきより一回り大きくなる。

 巻きついた炎の鞭が、力任せに弾け飛んだ。

 

 紬が目を見開く。

 

「何、あれ……」

「進行しているな」

 

 紅の声は低い。

 

 昨日より、確実に強くなっている。

 だが、それは成長ではない。

 人間性を削り、獣へ近づく代償と引き換えの“進化”だ。

 

 誠司は肩を鳴らした。

 

「あんたには、黒騎士よりやべぇ圧があるのに」

「……」

「俺程度に苦戦してた。やっぱりそういうことか」

 

 紅は煙草を取り出し、指を鳴らして火をつける。

 煙を吸い、ゆっくり吐いた。

 

「俺は依頼を守る主義だ」

「は?」

「だが、それ以上に依頼人を守る義務がある」

「……」

「黒騎士に生かせるわけにはいかん。貴様程度では、あれには勝てない」

 

 誠司の顔に青筋が立つ。

 

「分かってんだよ、そんなこと!」

 

 その叫びには怒りだけではなく、恐怖も混じっていた。

 

「でも、俺が止まったら、あいつが俺を逃がした意味がなくなる!」

「……」

「託されたもんを、無駄にしてたまるか! 俺は勝つ! 俺は幸せを掴む!」

 

 紅の目が細くなる。

 

 その必死さだけは、本物だ。

 だからこそ厄介だった。

 

「なら、俺が止める」

 

 紅の腕に業火が宿る。

 

「一度勝った程度で、調子に乗るなよ!」

 

 業火が解き放たれた。

 

 だが誠司は真正面からそれを受ける。

 炎が晴れたとき、立っていたのは――無傷の誠司だった。

 

 紬の喉が鳴る。

 

「うそ……」

「あんたに焼かれてからだ」

 

 誠司が口元を吊り上げる。

 

「どうやら俺の身体、熱に強くなったらしい」

 

 紅の目にも、初めて明確な驚きが走った。

 

「……まさか」

「俺はどんどん強くなる」

「違う」

 

 紅が言い切る。

 

「貴様はどんどん、人間から遠ざかっているだけだ」

 

 誠司の笑みが一瞬だけ止まった。

 だが次の瞬間には、それを怒りで塗りつぶす。

 

「うるせぇ!」

 

「第三階位――炎は剣となり、敵を切り裂く(ブレイド・フレイム)!」

 

 紅の手に炎の剣が生まれる。

 斬撃が放たれる。

 

 誠司は両腕を交差し、受け止めた。

 皮膚が裂ける。だが浅い。

 

「こっちの番だ!」

 

 一瞬で距離が消える。

 

 掌底。

 

 衝撃が紅の腹へめり込み、そのまま吹き飛ばす。

 

「が……っ!」

 

 紅の身体が壁へ叩きつけられる。

 

「紅!」

 

 紬が駆け寄ろうとする。

 だが誠司が叫んだ。

 

「近づくな、嬢ちゃん! あんたまで傷つけたくねぇ!」

 

 その言葉に、まだ人間の理性が残っていた。

 けれど、それもいつまで持つか分からない。

 

「なめないでよ!」

 

 紬は手を構える。

 

「第三階位――光は手に収束し、闇を突き破る(ライトレイ)!」

 

 圧縮された光が誠司へ走る。

 

 紬の狙いは肩だった。

 殺すのではなく、止めるための一撃。

 

 だが、誠司は寸前で避けた。

 光は腕をかすめるだけで終わる。

 

「はは……危ねぇな」

 

 誠司の息が荒い。

 目の焦点も少しずつ危うくなっている。

 

「悪ぃが、嬢ちゃんも寝ててもらうぞ」

 

 誠司の周囲から、膨大な魔力が噴き上がる。

 

 紬は思わず後ずさる。

 あの圧は、冴が魔人化したときのようだった。

 

「なんて魔力……」

 

 そこへ、紅が立ち上がる。

 

 帽子を押さえ、赤い目を誠司へ向けた。

 

「貴様」

「……まだ立つのかよ」

「俺をなめていないか」

 

 紅の周囲に、陽炎が立ち上る。

 

 ただ魔力が高いのではない。

 そこに在るだけで、空気そのものが焼け始めるような圧だった。

 

 誠司の顔から血の気が引く。

 

「むちゃくちゃだ……」

「小娘の姉を助けたせいで、貴様程度に後れを取る羽目になった」

 

 紅の声は静かだった。

 だが、その静けさがかえって恐ろしい。

 

「実に不覚だ」

 

 紅が腕を上げる。

 

 手のひらから湧き上がった炎が、路地裏の上空へ集まっていく。

 まるで小さな太陽が生まれるみたいに。

 

 紬は息を呑んだ。

 誠司は笑うしかなかった。

 

「さすがだ、紅」

「勘違いするな」

 

 紅は誠司を見据えたまま言う。

 

「俺は本気を出せないわけではない」

「……」

「制御できないだけだ」

「……っ」

「このまま放てば、町も、お前も、まとめて焼く」

 

 それは脅しではない。

 事実だった。

 

 誠司にも、それが分かってしまった。

 

 だからこそ、彼は笑いながら後ずさった。

 

「やっぱ、あんたは化け物だよ」

「今さらか」

「でも――」

 

 空間が歪む。

 

 誠司の輪郭が揺らぐ。

 

「俺の目的は、お前らじゃねぇ」

 

「待て!」

 

 一瞬で、誠司は姿を消した。

 

 紅が空を睨む。

 だが、追撃はしない。

 

 頭上の炎がゆっくりと消え、同時に紅の膝が折れた。

 

「紅!」

 

 紬が駆け寄り、その身体を支える。

 

 触れた肩は、熱かった。

 まるで燃え残りの炉みたいに。

 

「大丈夫!?」

「……どうしようもない依頼人だ」

 

 紅は帽子を深く被り直す。

 

 だが、その声音には疲労だけではなく、苛立ちと焦りが混じっていた。

 

「急がねばならん」

「え……?」

「やつはもう、後戻りできる境目を越えかけている」

 

 紬の胸が冷たくなる。

 

 誠司は逃げた。

 けれど、それは助かったという意味ではない。

 

 このまま進めば、彼は黒騎士と戦う前に、彼自身が“別の何か”になってしまう。

 

 路地裏には、焼けた空気だけが残っていた。

 

 紬は紅を支えながら、誠司が消えた闇を見つめる。

 

 あの人はまだ、人間なのだろうか。

 それとも、もう戻れないところまで行ってしまったのだろうか。

 

 答えは出ない。

 

 ただ一つ分かるのは、次に会うとき、もう“依頼人”として向き合える保証はないということだけだった。

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