紅の魔術師   作:berunarudo

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第二十四話 奇術師はいつだってタネを隠さない⑤

 再開発されるはずだった通信施設は、誰からも忘れ去られていた。

 朽ちた配線。止まった端末。壁に張りついた埃。

 かつて街の声を運んでいた場所は、今ではどこにも繋がっていない。

 

 誰の記憶にも残らないこの場所で、紅は再び過去へ引き戻されていた。

 

「おい、魔人」

 

 拘束された魔人を見下ろし、紅は低く問いかける。

 

「わざわざ見え透いた餌を垂らしてまで、何がしたい?」

 

 魔人は答えない。

 ただ、紅の顔を忌々しそうに睨みつけている。

 

「そうか。話す気がないなら、こちらで覗くまでだ」

 

 紅は静かに指先へ火を灯した。

 小さな火だった。

 だが、魔人はそれを見た瞬間、わずかに表情を強張らせる。

 

「そこまで罠にかかるつもりはない」

 

「安心しろ。少し記憶を浮かび上がらせるだけだ」

 

 紅の指が、魔人の顔へ近づく。

 

 魔人は火から逃れようと首を背ける。

 だが、強固な拘束がそれを許さなかった。

 

「第三階位――火が生む煙は、秘密を写す<スモーク・アウト>」

 

 指先の火が揺らぎ、そこから生まれた白い煙が、細い蛇のように魔人の鼻孔へ潜り込んだ。

 

「ぐ、あ……っ」

 

 魔人の喉が震える。

 顔を歪ませ、歯を食いしばり、体をよじる。

 

 やがて耐えきれなくなったように、魔人は大きく咳き込み、口から煙を吐き出した。

 

 吐き出された煙は空中で渦を巻く。

 ほどなくして、その形が一つの文字列へ変わった。

 

「ば、坂東……?」

 

 紬が、浮かび上がった名を読み上げる。

 

 聞き覚えはない。

 逢楽廻の関係者なのか。

 それとも、ただの協力者なのか。

 

 紬が首を傾げる横で、紅だけが動きを止めていた。

 

 その顔に、ほんの一瞬だけ明確な動揺が走る。

 

「馬鹿な……」

 

 紅の口から、押し殺した声が漏れた。

 

「やつは、この手で確実に葬ったはずだ」

 

 瞳が細くなる。

 思考が一気に加速しているのが、紬にも分かった。

 

「生き返るなど、不可能だ」

 

 紅は魔人の首を掴んだ。

 指先に力がこもり、魔人の喉が軋む。

 

「貴様ら、何をした」

 

 魔人は苦悶に顔を歪めながら、それでも口元を吊り上げた。

 

「く、紅……貴様は思い込んでいたのだよ」

 

「何?」

 

「我ら逢楽廻は不滅だ。それは、坂東様も同じ……」

 

 血の混じった息を吐きながら、魔人は笑う。

 

「もう、お前は逃げられない」

 

「……」

 

「せいぜい、苦しめ」

 

 次の瞬間だった。

 

 魔人の喉の奥で、鈍い破裂音が鳴った。

 

「っ!」

 

 紬が息を呑む。

 

 それは紅が首を絞めたせいではなかった。

 内部から何かが爆ぜたように、魔人の口から大量の血が噴き出す。

 

 全身が一度大きく跳ね、力なく垂れ下がった。

 

 紅は手を離し、死体を見下ろす。

 

 そして低く呟いた。

 

「……この殺し方。奴まで来ているのか」

 

「く、紅……やつって?」

 

 紬が恐る恐る尋ねる。

 

 だが、紅はすぐには答えなかった。

 沈黙の中で、何かを確かめるように死体を見つめている。

 

 やがて、小さく笑った。

 

「そうか。そうか」

 

 笑みは楽しそうでありながら、どこか冷たかった。

 

「いいだろう。まとめて相手してやる」

 

「ね、ねえ紅」

 

 紬は一歩近づく。

 

「坂東って誰? 逢楽廻って何なの? もっと教えてよ」

 

「世の中には、知らない方が幸せなこともある」

 

「それでも、私は知りたいの」

 

 紬は引かなかった。

 

「だって、相棒じゃん」

 

「貴様を相棒にした記憶はない」

 

 紅は即座に返す。

 だが、紬も負けじと言い返した。

 

「何でもかんでも秘密ばっかり。少しは教えてくれてもいいじゃん」

 

 その言葉に、紅の目がわずかに揺れた。

 

 遠い昔。

 同じような言葉を、誰かに向けられた気がした。

 

 けれど、その記憶は喉元まで浮かび上がりながら、形を結ばない。

 大切だったはずなのに。

 忘れてはいけなかったはずなのに。

 その声も、顔も、もう思い出せない。

 

 紅は煙草を取り出し、火をつけた。

 

 一度、深く吸い込む。

 ゆっくりと煙を吐いてから、ようやく口を開いた。

 

「逢楽廻は、最後の魔術結社だ」

 

「最後の……?」

 

「やつらの目的はただ一つ。魔術師の悲願である、第〇階位に至ること」

 

「ねえ、そもそも第〇階位って何?」

 

 紬は眉を寄せた。

 

「魔術は第一階位までなんじゃないの?」

 

「それは、ある意味で虚像だ」

 

「虚像?」

 

「階位として体系化できる魔術は、第一階位までにすぎん。だが、第〇階位は別だ」

 

 紅は歩きながら、静かに続ける。

 

「本来、無から有は生まれない。何もないところから、何かが生じることはない。だが――」

 

 紅は指先に小さな火を灯した。

 

「魔術は、人の想いから現象を起こす」

 

 紬はその火を見つめる。

 

「それって……」

 

「魔術が存在すること自体が、第〇階位の証明なのだよ」

 

「……零から、一を作る奇跡」

 

「そうだ」

 

 紅の声は、どこか遠かった。

 

「誰もがその痕跡を使っている。だが、誰一人として、その本質には届いていない」

 

 紅は火を消す。

 

「逢楽廻は、そこへ無理やり手を伸ばそうとした」

 

 紬は黙って耳を傾ける。

 

「やつらは、ある町に張られていた結界を乗っ取った。人々を守るための結界を、閉じ込める檻へと変えた」

 

「……町ごと?」

 

「そうだ」

 

 紅の声に感情はほとんどなかった。

 だからこそ、その内容が余計に重く響いた。

 

「閉じ込めた民衆を魔人へ変え、その過程で生じる膨大な魔力を吸い上げ、第〇階位の発動に使おうとした」

 

「そんな……」

 

「計画は、この俺が潰した」

 

 紅の赤い瞳が、わずかに伏せられる。

 

「だが、魔人化はすでに広がっていた」

 

 紬は声を失う。

 

「俺のアトラム・ハシースで戻せるのは、完全に変質しきる前の者だけだ」

 

「じゃあ……」

 

「全員は救えなかった」

 

 短い言葉だった。

 だが、それだけで十分だった。

 

「多くの人間が死んだ」

 

 通信施設に沈黙が落ちる。

 

 さっきまで漂っていた戦闘の熱が、急速に冷えていく。

 

「政府は事件を隠した」

 

 紅は淡々と続けた。

 

「町そのものを、記録から消した」

 

「記録から……?」

 

「今、その町は地図に載っていない」

 

 紬の喉が詰まった。

 

「町が……消された……?」

 

「生き残った者たちの一部を受け入れたのが、この夕烙区だ」

 

 紬は思わず、後ずさった。

 

 自分が好きになったこの町。

 紅と歩き、マスターがいて、星未がいて、人々が不器用に生きているこの街。

 

 その足元には、そんな過去が埋まっていた。

 

「そ、そんなことがあったなんて……」

 

 紬は唇を噛む。

 

「信じられない……」

 

「信じようが信じまいが、過去は消えん」

 

 紅は煙草を地面へ落とし、靴底で火を踏み消した。

 

「そして、その中心にいたのが坂東源次」

 

「坂東……」

 

「逢楽廻を率いた男。もっとも厄介で、もっとも魔術の深淵へ近づいた愚か者だ」

 

 紅の瞳に、冷たい炎が灯る。

 

「奴がもし生きているというのなら、この町を使って同じことをするはずだ」

 

 紬は拳を強く握った。

 

「その前に止める」

 

 紅が言う。

 

「何があってもな」

 

 紬は一度目を伏せ、それから顔を上げた。

 怖い。

 知らなかった方がよかったと思う自分も、確かにいた。

 

 それでも。

 

「……怖い」

 

 紬は正直に言った。

 

「怖いけど、私はこの町が好きだし」

 

 まっすぐに紅を見る。

 

「何より、私はもう逃げない」

 

 紅は何も言わない。

 

「だから次はどうするの、紅?」

 

 その言葉を聞いた紅は、ほんの小さく頷いた。

 

「生意気な小娘だ」

 

「いい意味?」

 

「悪い意味に決まっている」

 

「ひどい!」

 

「魔人一体にも勝てないというのに、口だけは達者だな」

 

「つ、次は紅のアシストができるように頑張るよ」

 

「そうか」

 

 紅は施設の出口へ目を向ける。

 

「だが、今日は帰れ」

 

「何でよ!」

 

「もう夜も近い」

 

「それだけ?」

 

「それだけで十分だ」

 

 紅の声には、取りつく島がなかった。

 

 紬は不満そうに頬を膨らませる。

 

「……分かったよ。でも、一人で行っちゃだめだからね」

 

「さあな」

 

「紅!」

 

 抗議の声を背に受けながら、紅は出口へ向かって歩き出した。

 

 外へ出ると、空には月が浮かんでいた。

 白い光が、帰路につく紬の背を静かに照らす。

 

 だが。

 

 その隣を歩く紅の顔には、深い影が落ちていた。

 

     *

 

 古びた屋敷に、一人の男が近づいていた。

 

 空にはまだ陽が残っている。

 だが、屋敷の周囲だけは、まるで夜が先に訪れているように暗かった。

 

 錆びついた扉を押し開ける。

 軋む音が、静寂の中で嫌に大きく響いた。

 

 男――紅は、それを気に留めることなく中へ入る。

 

 床は今にも抜け落ちそうなほど老朽化し、壁のあちこちには焼け焦げた跡が残っていた。

 かつて誰かが暮らしていたはずの場所は、時間に置き去りにされている。

 

 紅は部屋を見渡し、静かに呟いた。

 

「変わらんな」

 

 焼け焦げた壁へ指を伸ばす。

 指先が、黒く煤けた表面をなぞった。

 

「あの日のままだ」

 

 そこに刻まれたものは、ただの火災の痕ではない。

 紅にとっては、遠い過去の失敗そのものだった。

 

「坂東」

 

 紅は低く言う。

 

「貴様がもし生きているというなら――」

 

 目が細くなる。

 

「師として、再び葬る」

 

 それが俺の仕事だ。

 

 声に出さずとも、その決意は変わらなかった。

 

 紅は屋敷の奥へ進む。

 

 台所。

 暖炉のあるリビング。

 書庫。

 

 どこも懐かしいはずだった。

 だが、すべてが焼け焦げ、かろうじて形を残しているにすぎない。

 

 まるで屋敷そのものが、死に損ねた遺体のようだった。

 

 書庫へ入った時、紅の足が止まる。

 

 焼け落ちた棚。

 炭化した本。

 崩れた壁。

 

 その中で、一冊だけ。

 

 新品のように綺麗な本が置かれていた。

 

「……」

 

 紅はそれを知っていた。

 坂東が好んでいた本だ。

 

 だが、おかしい。

 この本は、あの日、確かに燃えたはずだった。

 

 紅は警戒しながら手に取る。

 

 その瞬間。

 

 書庫の隅に置かれていた壊れたテレビが、ひとりでに点いた。

 

 砂嵐が画面を満たす。

 耳障りなノイズが、薄暗い書庫へ広がった。

 

 やがて、その奥から一人の男の姿が浮かび上がる。

 

「久しぶりだな、先生」

 

 紅は無言で画面を見つめる。

 

「いや」

 

 画面の男は、どこか愉快そうに笑った。

 

「今は紅の魔術師様と呼ぶべきか?」

 

「本当に蘇ったとはな、坂東源次」

 

 紅の声に驚きはなかった。

 ただ、深い苛立ちだけが滲んでいる。

 

「ははは。そんなに驚くなよ、先生」

 

 坂東は画面の向こうで、旧友に語りかけるように笑う。

 

「皆は魔術の本質を忘れた。誰も魔術を解き明かそうとしなくなった」

 

 声が、少しずつ熱を帯びていく。

 

「科学に寄りかかり、便利な道具に飼われ、奇跡の残り火を見ようともしない」

 

「……」

 

「そんな寝ぼけた世界を、起こしてやろうと思ってな」

 

 坂東は大仰に両手を広げた。

 

「わざわざ、俺が目を覚ましてやったんだ」

 

「くだらん」

 

 紅は吐き捨てる。

 

「なあ先生」

 

 坂東はなおも笑っていた。

 

「あんたも嫌気が差しているはずだ。この世界に」

 

「……」

 

「今度こそ、俺と手を組もうぜ」

 

 紅は一切迷わなかった。

 

「悪いが、死者と戯れる気はない」

 

 静かに告げる。

 

「もう一度、あの世へ送り返してやる」

 

「残念だ」

 

 坂東は肩をすくめた。

 

「なら仕方ない」

 

 その笑みが、少しだけ残酷なものへ変わる。

 

「あんたが俺を拒んだ。だから幕は上がる」

 

 テレビの映像が切り替わった。

 

「計画は、もう止まらない」

 

 映し出されたのは、一つの巨大な建物だった。

 

 正面には、大きく文字が掲げられている。

 

 ――魔導局。

 

 紅の目が細くなる。

 

 映像は監視カメラへ切り替わった。

 

 魔導局の正面玄関。

 そこへ、一人の影が歩いてくる。

 

 深紅のコート。

 頭を隠すフード。

 

 受付に立っていた職員が、その影へ声をかける。

 

「本日は、どのようなご用件でしょうか?」

 

 影は立ち止まり、ゆっくりとフードを外した。

 

 紅は、目を見開く。

 

 そこに映っていた顔は――

 

「俺の名は、紅の魔術師」

 

 自分と同じ顔をした男だった。

 

「この世界の目を、覚ましに来た」

 

 男が片手を掲げる。

 

 次の瞬間、爆炎が天井まで噴き上がった。

 

 警報が鳴る。

 スプリンクラーが作動し、雨のように水が降り注ぐ。

 

 画面の中で、人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。

 

 その中心に立っているのは――

 

 紅の姿をした襲撃者だった。

 

 テレビには、自分が映っていた。

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