かつて稼働していたはずの製鉄所は、今や死骸のように夜へ沈んでいた。
崩れた煙突。
剥き出しの鉄骨。
砕けたコンクリート。
積もった錆と煤の匂いが、古い時代の終わりを今も引きずっている。
その死んだ工場の中央で、ただ二つだけ、生きた熱がぶつかっていた。
一人は、金属のような剛腕を振るう大男。
一人は、深紅のコートをなびかせ、その拳を紙一重で避け続ける長身の男。
「どうしたぁ! 避けるだけか!」
郷田正人の拳が、唸りを上げて紅の顔面をかすめた。
空気が裂ける。
常人なら、見えていたところで避けられない。
だが紅は、まるで最初からそこへ来ると分かっていたみたいに、首をわずかにずらすだけで回避した。
「単細胞のやることなど」
鼻で笑う。
「目を閉じていても分かる」
その一言で、郷田の額に青筋が浮いた。
「調子に乗るな!」
怒声とともに、郷田は手首のマギマギアを持ち上げる。
宝石のような光が、どす黒く明滅していた。
「見せてやるよ。この力を――」
「――魔装展開」
機械音声は鳴らなかった。
その代わり、ぞっとするほど静かに、郷田の肉体へ装甲が這い上がっていく。
鎧。
そう呼ぶのが一番近い。
だが、それは普通の魔装ではなかった。
皮膚の下を赤黒い回路が血管のように這い、胸の中央には巨大な石――魔魂石が、そのまま埋め込まれている。
それを見た瞬間、紅の顔が露骨に歪んだ。
嫌悪。
まるで宝石を汚泥へ沈めた光景でも見せられたみたいな顔だった。
「これが最新式の魔装だ」
郷田は力に酔うように両腕を広げる。
「くそみてぇな企業に頭を下げた甲斐はあったってもんだ」
笑いながら夜空を仰ぐその姿には、手に入れた力に呑まれた下品さしかなかった。
「ようやく思い出したぞ」
郷田が紅を睨みつける。
「貴様が噂の紅の魔術師か」
紅は答えない。
ただ煙草をくわえ直し、その赤い眼で郷田を見返した。
「郷田正人」
郷田は胸を張る。
「今からお前をぐちゃぐちゃにする男の名だ!」
踏み込んだ地面が割れた。
強化された肉体が鉄を軋ませるような音を立てながら、郷田の拳が突き出される。
紅の右腕に業火が灯る。片腕を守るように炎が巻きつき、そのまま郷田の拳を受け止めた。
激突。
重い。
紅は受け切った。だが、数歩、後ろへ押し戻される。
郷田の口元が吊り上がる。
「やっぱりな!」
「魔術師なんざ、所詮近接に弱ぇんだよ!」
追撃。
拳。
拳。
拳。
郷田は一切の躊躇なく、ただ力で押し潰すためだけに殴り続ける。
紅はその全てを、燃える片腕だけで受け流し、受け止め、わずかに下がる。
紬は息を呑んだ。
紅は無敵だと思っていた。
少なくとも、あの路地裏と、この製鉄所へ踏み込むまでを見た限りでは、そう錯覚しても無理はなかった。
けれど今、目の前の紅は押されている。
郷田の魔装は異常だ。
本来、魔魂石は砕いて燃料として使うものだ。
それを丸ごと埋め込み、直接接続している。
出力が桁違いでも不思議じゃない。
しかも紅は魔術師。
現代の常識で言えば、魔導士の装備戦に正面から付き合うのは分が悪い。
助けないと。
そう思って、紬は腕輪に手をかけた。
その瞬間だった。
郷田が地面へ拳を叩き込む。
コンクリートが爆ぜた。
足元に穴が開き、飛び散った破片が頬を掠める。紬は反射的に身をすくめた。
「おい、女」
郷田が、ぎらついた眼でこちらを向く。
「手ぇ出してみろ」
「殺すぞ」
その視線に、全身が凍りついた。
学園で向けられてきた軽蔑や嘲笑とは違う。
もっと直接的で、もっと生々しい。
本物の殺意だった。
猛獣に睨まれたみたいに、脳が危険を叫ぶ。
逃げろと命じる。
なのに、身体はその命令を聞かなかった。
手足が震える。
膝が笑う。
喉が詰まる。
「ぁ……」
声にならない声が漏れた。
魔術の名より先に、逃げたいという思考が浮かぶ。
そんな自分に気づいてしまって、余計に身体が動かなくなる。
そのときだった。
「……満足した」
静かな声が落ちる。
紅が目を開いた。
その顔には、先ほどまでの受け身はもうなかった。
「頭がおかしくなったのか、てめぇ!」
郷田が怒鳴る。
紅は肩についた埃を払うような仕草で、つまらなそうに答えた。
「単純な話だ」
「壊す前に、その汚い羽衣の性能を確かめたくてな」
顎に手を添え、紅は郷田を見下ろす。
「実に不愉快だ」
「生命を冒涜し、神秘を汚してなお、その程度か」
「残念極まりない」
郷田の顔が怒りで歪む。
紬へ向けていた殺意は吹き飛び、今やそのすべてが紅へ向いていた。
「ぶっ殺す!」
郷田が吠える。
「第三階位――肉体は鋼鉄に、その身は武器となる<アイアンマン>!」
装甲がさらに変質し、郷田の肉体そのものが武器へ変わっていく。
続けざまに、
「第三階位――肉体は重みを忘れ、蝶のように浮かぶ<バタフライエフェクト>!」
本来、あの巨体ではありえない速度で郷田の身体が浮き上がる。
そのまま紅の真上へ飛び、拳を振りかぶった。
落下。
顔面を砕き、肉片すら残さないはずの一撃。
だが――
その拳は、紅をすり抜けた。
地面に叩きつけられたのは、陽炎だけだった。
「いないだと!?」
郷田が目を剥く。
詠唱はない。
魔術名もない。
なのに、紅の姿が見当たらない。
地面から、熱の揺らぎが立ち上る。
一つ。
二つ。
三つ。
いや、それだけでは終わらない。
無数の陽炎が、次々に紅の姿を象っていく。
どこからともなく、声が響いた。
「さあ、哀れなピエロよ」
「俺を見つけられるかな」
陽炎の紅たちが、一斉に郷田へ襲いかかる。
郷田が拳を振るい、飛び上がり、地面を叩き割る。
だが、砂埃が舞っても陽炎はまた生まれる。
一撃で消えても、また増える。
熱。
最初はそれだけだった。
だが、それが無数になれば話は変わる。
鋼鉄の肉体を維持するにも魔力が要る。
避け、壊し、再展開するたびに、郷田の消耗は確実に増えていく。
郷田も、それに気づいたのだろう。
「貴様……卑怯だぞ!」
「戦う気がねぇのか!」
陽炎の中から、笑い声がこだまする。
「言ったはずだ」
「魔術師は近接が苦手だと、貴様自身が」
別の方向から、また声。
「正解だ」
「だが、不正解でもある」
さらに別の方向から。
「近接に持ち込まなければいいだけの話だ」
「現に今、お前は死を待つだけの家畜だ」
「黙れぇぇぇ!」
郷田が狂ったように周囲を見回す。
その視線が、ふと止まった。
紬だった。
恐怖で動けず、それでも戦場から目を逸らせずに立っていた少女。
郷田の顔が歪む。
その瞬間、紬は悟った。
こっちに来る。
逃げなきゃ。
でも、遅い。
足音が迫る。
巨体が一直線にこちらへ突っ込んでくる。
身体がまた竦みそうになった、その瞬間。
脳裏に、あの声が蘇る。
――そこで諦めるなどというつまらん真似はするな。何も生まんぞ。
紬は奥歯を噛みしめた。
頭を振る。
恐怖を振り払う。
腕輪へ、想いを叩き込む。
「第三階位――光は収束し、闇を貫く<ライトレイ>!」
空気だけじゃない。
周囲の光そのものが腕輪へ集まっていく。
狙いは郷田の顔面。
放つ――その寸前。
焼ける音がした。
「っ!」
集めた光が、制御しきれずその場で弾ける。
紬は咄嗟に目を閉じた。
直撃は避けたが、放熱が腕を焼く。
「あつっ……!」
失敗。
そう思った。
だが、その失敗は郷田にとっても想定外だった。
未熟な少女の魔術だと侮り、無防備に踏み込んでいた郷田の眼を、拡散した閃光が容赦なく焼く。
「ぐあああああああっ!」
郷田が目を押さえて絶叫した。
その隙を、紅が見逃すはずがなかった。
郷田の肩に、そっと手が置かれる。
ただそれだけで、郷田の全身が跳ねた。
高熱。
鋼鉄の肉体を無視するように、その熱が内部へ侵入する。
装甲の内側だけを、じわじわと焼いていく。
「が……ああっ……!」
郷田の口から漏れたのは、怒声ではなく純粋な恐怖だった。
死ぬ。
そう理解した声だった。
「やめてくれ!」
「死んじまう!」
紅は無表情のまま答える。
「貴様が死んでも、俺は気にしない」
「わ、分かった! 情報が欲しいんだろ!」
「くれてやる! だから手を離せ!」
紅の赤い眼が細くなる。
「貴様を信じる義理がどこにある?」
「俺しか……取引先は知らねぇ!」
紅は鼻で笑った。
「なら、口さえあればいい」
次の瞬間。
熱が走る。
郷田の絶叫が夜を裂いた。
彼の両腕が、肩から先ごと地面へ落ちていた。
断面は焼き切られ、血はほとんど流れない。
だが、痛みまで消えるわけじゃない。
さっきまで威勢よく立っていた郷田は、今や地面に転がり、一人で立ち上がることすらできなくなっていた。
「さあ、話せ」
紅が冷たく言う。
「さもないと、腕だけでは済まんぞ」
「ぐ、あ……くそ……こんなことになるなら、受けなきゃよかった……」
郷田は歯を食いしばりながら吐き出す。
「俺らに依頼したのは、スカイローク社の専務……和田英輔だ」
「やつが、一ノ瀬紬を消せと命じてきた」
「報酬は……新型魔装を先に渡してきた」
「俺が知ってるのは……ここまでだ……」
紅は数秒だけ黙り込んだ。
「十分だ」
その一言に、郷田の顔がわずかに緩む。
だが、次に紅が手へ火を宿した瞬間、その表情は再び凍りついた。
「だから、もう貴様に用はない」
「て、てめぇ……!」
郷田は必死に地面を転がり、紅の手から逃れようとする。
「腕のない貴様に何ができる?」
「だったら見せてやるよ……!」
郷田の眼が血走る。
「やつらが教えた情報には、まだ続きがあった!」
「この魔装には……まだ機能が残ってる!」
叫ぶ。
「魔装、全開――!」
轟音。
魔装が空気を吸い込み、周囲に蒸気が噴き上がる。
胸部中央の魔魂石が、禍々しい光を放った。
「この力を使えば、俺は無敵に――」
言い切る前に、郷田は口から血を吹き出した。
「が、は……っ」
紅はそれを冷めた目で見下ろす。
「当然だろう」
「貴様、その力を何度使った?」
郷田は答えられない。
口から溢れる血が止まらない。
「推測だが、三度は使ったな」
「貴様の身体には、もう耐える余地が残っていなかっただけのことだ」
その声に、憐れみはなかった。
「その装置がもたらす力は、毒でしかない」
「適性があろうと、使い潰せばその身を滅ぼす」
「ゴミが、ゴミに騙された。それだけだ」
郷田は何か言い返そうとした。
だが、声は血に潰され、言葉にならない。
やがて、ぐったりと動かなくなる。
「倒したの……?」
紬が、信じきれない声で問う。
紅は一瞥すらせず、歩き出しかけた。
「自業自得だ」
そのときだった。
静まるはずの戦場に、まだ何かが脈打っていた。
ぞわり、と空気が変わる。
濃密な魔力。
嫌な気配。
紬が振り返る。
死んだはずの郷田の肉体が、再び脈打っていた。
失ったはずの両腕の位置から、禍々しい紫色の腕が生える。
全身の肌は変色し、白目を剥いたまま口から唾液を垂らしている。
理性は完全に失われていた。
「ま、魔人……」
紬の喉が震える。
郷田の口が大きく開く。
次の瞬間、圧縮された魔力が光線となって放たれた。
「――っ!」
避けきれない。
そう思った瞬間。
焼かれたのは紬ではなく、紅の手だった。
紅が前へ出て、紬を庇っていたのだ。
その手に、大きな火傷が刻まれている。
紅はそれを見て、逆に笑った。
「この俺の手を焼くとはな!」
「いいぞ。実にいい!」
その眼は、さっきまで郷田を見下していた時とも違っていた。
戦闘狂の興奮ではない。
未知の異形を前にした、魔術師としての純粋な昂揚。
「つまらん前菜だと思っていたことを、ここに訂正しよう」
「貴様の相手は、この俺がしてやる」
紅の全身を、巨大な陽炎が覆う。
バーで見た熱とは比べものにならない。
近づくだけで肌が焼けそうなほどの高熱だった。
「俺の力も、見せてやろう」
紅の手に、魔力が収束する。
それを感じ取ったのか、魔人と化した郷田もまた、無意識のまま口元へ魔力を集めていく。
互いに膨れ上がる魔力。
だが、紅の方が一瞬だけ早く満ちた。
紅が、重い口を開く。
「たとえ果てなき旅路の末、星の火が尽きようとも。
我が想いが焦がれるは、誰の手も届かぬ『無』。
──どれほど時間を費やそうと、どれほど無謀な『奇跡』であろうと。
──この灯だけは、消えはしない」
紬は理解する。
詠唱だ。
現代では、詠唱は弱者のものだと教えられてきた。
強者は無詠唱で魔術を発動する。
それが常識だった。
けれど今、その常識が音を立てて崩れていく。
紅に集まる魔力は、あまりにも圧倒的だった。
詠唱が遅れではなく、むしろ到達そのものみたいに感じられる。
「第ニ階位――」
紅が指先へ、小さな小さな灯火を宿す。
「人智を啓く黎明の灯<アトラム・ハシース>」
火種は、あまりにも小さい。
拍子抜けするほどに。
だが、紅がそれを指で弾いた瞬間、紬は本能で理解した。
これは危険だと。
放たれた火種は、遅れて飛んできた郷田の光線へ触れる。
吞み込まれた――そう見えた。
だが違う。
火種は消えない。
逆だ。
光線の方が、小さな灯に食われていく。
圧縮された魔力の奔流すら、その灯は止められない。
食い尽くし、なお燃え続ける。
やがて火種は郷田へ取りつき、その胸部――魔魂石へ宿った。
次の瞬間。
魔魂石だけが、綺麗に焼き尽くされる。
魔人化した肉体は、力を失ったように崩れ落ちた。
紫色は消え、異形の腕も消え失せる。
郷田は元の、ただの壊れた人間の姿へ戻っていた。
紅はその様子を、満足そうに眺めていた。
紬は、ただ見惚れることしかできない。
自分が信じてきた常識。
学んできた技術。
その全部が、今、目の前で覆された。
すると紅が指を鳴らした。
「帰るぞ、小娘」
それだけ言って、深紅のコートを翻し、この場を去っていく。
まるで今の出来事が、何でもない夜の一コマでしかなかったみたいに。