揺らめく陽炎が、戦場の中心を円形に囲っていた。
その輪の内側に立つのは、たった二人。
一人は、深紅のコートをまとった男。
一人は、血の気配をまとい始めた傭兵。
誰も容易には踏み込めない。
冴も、和田も、床に崩れた紬でさえ、その空間だけは別の世界になったのだと本能で理解できた。
熱で景色が歪む。
その歪みの向こうで、二人の男は互いを見つめていた。
戦意をぶつけ合うでもなく、すぐに襲いかかるでもない。
まるで、この一瞬すら味わうように。
先に口を開いたのは、傭兵の方だった。
「やっぱりな」
口元を吊り上げる。
「あんたが紅の魔術師か」
紅は煙草を指先で弾き、灰を落とす。
「いかにも」
赤い眼が細くなる。
「俺がそうだ」
その返答に、傭兵は心底嬉しそうに笑った。
ぱん、と一度だけ手を叩く。
「俺の爺さんは兵士でな」
「酒が入るたび、何度も何度も昔話を聞かせてくれた」
傭兵の声には、奇妙なほど素直な熱があった。
「戦場の武勇、敵国の化け物、死に損ないの英雄。色々あったが――」
ぐっと拳を握る。
「その中でも一番好きだったのが、紅の魔術師の話だ」
その眼に、どこか少年じみた光が宿る。
「戦場を業火で埋め尽くし、紅がいるところはすべて地獄に変わる」
「逃げる兵も、叫ぶ兵も、装甲も、城壁も、全部まとめて燃やし尽くしたってな」
傭兵はうっとりしたように、しかし獰猛に笑う。
「最高にかっこいいぜ」
「だから俺は傭兵になった」
「いつか、あんたみたいな化け物を殺して、俺が最強になるためにな」
そのまま腕を持ち上げる。
傭兵のマギマギアが、血を内側から脈打たせるような不気味な光を放っていた。
さっきまでのAGS連中が使っていた量産型とは違う。もっと個別で、もっと禍々しい。
戦うためだけに研ぎ澄まされた上位機種だと、一目で分かる。
「あんたを殺して、俺が最強になる」
紅は鼻で笑った。
「大きく出たな」
「貴様に背負えるほど、最強という名は軽くないぞ」
傭兵はそれすら喜ぶように歯を見せた。
「そういうとこだよ、伝説」
そして叫ぶ。
「魔装――展開!」
血が弾けるような音が響いた。
次の瞬間、傭兵の全身を覆う鎧が展開される。
それは金属の光沢ではなかった。まるで乾ききらない鮮血を何層も塗り重ねたような赤黒い鎧。
脈打ち、うごめき、生きているように微かに震えている。
傭兵は恍惚の表情を浮かべた。
「ああ……これだ」
「何度体験しても、たまらねぇ」
「上位モデルの魔装は格別だぁ」
喉を鳴らすように笑い、片手を掲げる。
「第三階位――血は沸き立ち、躍動する《ブラッド・ダイナミック》!」
全身の血管が浮き上がる。
眼球の白が赤く染まり、筋肉が一段階膨張する。
次の瞬間、傭兵の姿が消えた。
「――っ」
紅の頬を拳が掠める。
空気が破裂した。
紅はわずかに首をずらして回避したが、そのまま二撃、三撃と追撃が襲う。
先ほど六話で見せた速度とはまるで違う。
踏み込みの深さも、体重の乗せ方も、殺意の精度も、一段上だった。
拳が脇腹を狙う。
直後に膝。
避けた先へ肘。
さらに死角から掌底。
紅は紙一重でそれらを躱し続ける。
深紅のコートが乱れ、床を滑るたび、残像のような陽炎が一瞬遅れて追いかける。
だが、当たらない。
傭兵は殴るたび、むしろ笑みを深めていった。
「いい!」
「いいぜ、伝説!」
「まだ死んじゃいねぇ!」
紅は軽く息を吐く。
「その程度で試したつもりか?」
片手を持ち上げ、来いと挑発する。
「さっさと見せてみろ」
「貴様が俺を殺すと豪語した、その根拠をな」
傭兵の顔が、歓喜に引きつる。
「さすがだ!」
「小手調べは失礼だったな!」
床を踏み鳴らし、腕を広げる。
「第二階位――血はあたりを沈め、深淵に飲み込む《ブラッド・モラス》!」
どろり、と音がした。
傭兵の足元から血が溢れ出す。
ただ流れるのではない。床一面へ広がり、沼のように粘性を増し、熱を奪いながら戦場そのものを侵食していく。
紅の靴が、わずかに沈む。
魔力を足へ込めなければ、底なし沼のように引きずり込まれるだろう。
「まだだ、紅!」
傭兵が踏み込む。
「第二階位――血は凝結し、弾丸となり、敵を貫く《ブラッド・ランチャー》!」
血の海から、無数の血弾が突き上がった。
銃弾より遅い。だが、そのぶん軌道が生き物じみている。
紅は身を翻し、陽炎をまとってかわす。
一発。
二発。
三発。
肩口を掠める熱。
脚を狙う低い軌道。
背後から跳ね上がる弾丸。
陽炎がカーテンのように揺れ、血弾がその中を穿つ。
傭兵の口元がさらに吊り上がった。
「逃がすかよ!」
血弾が加速する。
陽炎の幕を無理やり切り裂くように、一発が紅の左肩を貫いた。
鈍い衝撃。
血飛沫。
紬が思わず息を呑む。
「紅……!」
紅の身体が半歩だけ揺らぐ。
傭兵は、その一瞬を見逃さない。
「第二階位――貫いた血は、毒となり、その身を汚す《ブラッド・ディファイル》!」
肩へ食い込んだ血が、毒そのものになって体内へ流れ込む。
焼けるような痛みが神経を逆撫でし、視界が揺らぐ。
陽炎がふっと薄れた。
傭兵は勝利を確信した。
血の海から、再び無数の弾丸が浮かび上がる。
「ああ……さらば、俺の憧れよ」
「老兵は眠れ」
傭兵はほとんど慈愛に近い笑みすら浮かべて、紅の死を見届けようと目を細めた。
だが。
紅の魔力は、消えない。
それどころか。
ぐ、と一段階、温度が上がった。
傭兵の顔から笑みが消える。
「……なんだ?」
次の瞬間、紅のコートが揺れた。
ただの布ではない。
深紅のコートそのものが燃え上がり、しかし形を失わず、灼熱の衣へ変貌していく。
肩の傷を中心に炎が噴き上がり、毒を焼き、侵食ごと内側から焦がしていく。
迫っていた血弾が、その衣に触れた瞬間、音もなく蒸発した。
紅は顔を上げる。
毒に侵され、膝をつくはずだった男は、むしろ先ほどより静かで、鋭い目を傭兵へ向けていた。
「第二階位――深紅のコートは、灼熱に変わり、その身を焦がす《イグニッション・ベール》」
声は低い。
だが、その一言で場の温度が塗り替わる。
傭兵は一歩だけ後ろへ退きかけた。
それを、自分で笑う。
「はは……っ」
心が震えていた。
恐怖か、歓喜か、もう区別がつかない。
伝説は終わっていなかった。
老人でも、時代遅れでもない。
今ここで、本当に顕現している。
「感謝するぞ、神よ」
傭兵は両腕を広げた。
「俺に伝説を引き合わせてくれたことを!」
紅は静かに立つ。
まるで舞台の中央に立つ役者のように、一度だけコートの裾を払った。
深く、しかし過剰ではない礼をする。
右足を半歩引き、床を鳴らす。
「俺の名は、レイモンド・アークロイド」
赤い眼が、まっすぐに相手を射抜いた。
「紅の魔術師だ」
それに呼応するように、傭兵も名乗る。
「我が名、ジョーン・ラーク!」
「血染めの鬼人だ!」
その名が、決闘の合図になる。
「第二階位――血は荒れ、肉体を覆い、その姿は鬼と化す《ブラッド・オーガ》!」
ジョーンの鎧がさらに膨張する。
筋肉をなぞるように血が盛り上がり、両腕は異形のように肥大化した。
角こそない。だが、目の前の存在はもはや人ではない。
血と暴力で塗り固めた、鬼そのものだった。
紅もまた右手を掲げる。
「第二階位――灼熱は湧き上がり、収束し、その姿を剣と化す《イグニス・グラディウス》」
炎が掌へ収束する。
揺らめいていた熱が一本へ凝縮され、形を持つ。
赤でも橙でもない。白に近い灼光を放つ、剣。
その刃は金属ではなく、ただ温度だけで世界を切り裂くような存在感を持っていた。
ジョーンと紅の互いが笑う。
「第二回戦だ!」
「溶けるなよ鬼人!」
床を砕きながら突進する。
鬼の腕が横薙ぎに振るわれる。
紅は半身で踏み込み、その灼熱の剣を合わせた。
激突。
金属音ではない。
肉が焼け、血が蒸発し、空気が裂ける音。
ジョーンの腕は硬い。
血の装甲が何重にも凝縮され、純粋な強度で剣を止めにくる。
だが、その接触だけで表層から溶け始める。
赤黒い血装甲がぶくぶくと泡立ち、蒸気を上げた。
ジョーンはすぐさま後方の血の海から血を引き上げ、自分の腕へ流し込む。
傷が埋まり、厚みが戻る。
「はっ、まだまだ!」
拳。
蹴り。
掴み。
鬼のような膂力で押し潰そうとするジョーンに対し、紅は剣一本で切り返す。
正面から受けるのではない。
角度をずらし、熱で表面を削り、斬撃で芯を断つ。
火花ではなく、蒸気と血飛沫が飛び散る。
ジョーンの攻撃が一発入るたび、その代償として装甲が削れ、修復に魔力を回さなければならなくなる。
対して紅は、一手ごとに相手の厚みを測り、必要な分だけ熱を乗せていく。
次第に、差が見え始めた。
ジョーンの腕は重い。
だが、重いだけだ。
再生のために魔力を使えば、踏み込みが荒れる。
攻撃へ回せば、防御が甘くなる。
紅はそれを見逃さない。
右肩へ浅く一閃。
返す刀で太腿を焼く。
踏み込みの軸足へ熱を通し、ジョーンの重心を崩す。
「ぐっ……!」
ジョーンの表情が初めて歪んだ。
汗が流れている。
それが熱によるものか、焦りによるものか、自分でも分かっていないだろう。
「底が見え始めたぞ」
紅が冷たく言い放つ。
「貴様は強い」
「だが、強いだけだ」
その言葉が、ジョーンの神経を逆撫でした。
「まだだぁぁぁぁ!」
咆哮とともに、修復を切る。
防御を捨て、攻撃へすべてを回す。
血の海が暴れ、鬼の両腕が大きく広がる。
あらゆる方向から叩き潰すための、捨て身の一撃。
だが、その判断こそが仇だった。
「焦ったな」
紅が剣を軽く振る。
その瞬間、一本だった灼熱の剣が裂けた。
二本。
三本。
五本。
十。
無数の灼熱の刃が、空中へ展開される。
「な――」
ジョーンが目を見開く。
四方八方から迫る熱刃。
防御に転じようとしても遅い。
一撃。
二撃。
三撃。
鬼の血装甲が次々に剥がされ、焼かれ、蒸発していく。
ジョーンは腕を交差させて身を守るが、守るたびに熱は蓄積し、再生は追いつかない。
その嵐の中、一本だけがふっと消えた。
いや、消えたのではない。
再び収束したのだ。
次の瞬間、一本へ戻った灼熱剣が、ジョーンの腹を真っ直ぐに貫いていた。
「――が、はっ」
腹から血は噴き出ない。
刺し貫かれた箇所は、高熱で焼かれ、その場で止血されていた。
ジョーンの膝が折れる。
紅は静かに剣を引き抜いた。
ジョーンはふらつきながらも、笑っていた。
「お見事だ……」
「やっぱり、あんたは……最高だよ」
そのまま背中から床へ倒れる。
重い音が響いた。
血の海がゆっくりと色を失っていく。
灼熱の剣も、役目を終えたように光へ溶けた。
戦場から、神話のような幻想が消えていく。
それを受け入れられない男がひとりいた。
和田だ。
膝から崩れ落ち、顔を引きつらせている。
「ば、馬鹿な……」
「あの方からお借りした傭兵を使っても……なお……」
「倒せないだと……!」
拳で床を叩く。
一度では足りず、何度も、何度も。
怒りなのか。
恐怖なのか。
もう本人にすら分からないだろう。
冴はそんな和田を見下ろしていた。
「あんたの負けよ」
「言ったでしょう。彼は伝説だって」
和田が顔を上げる。
その目には、理性の光がほとんど残っていなかった。
この世のすべてを呪うような、濁った色だけがある。
「お前のせいだ」
震える手がポケットへ伸びる。
「この私が……こんなところで終わっていいはずがない」
「貴様だけは……!」
取り出したのは、石だった。
石と呼ぶにはあまりに禍々しい。
不規則に脈打ち、見ているだけで胸の奥がざわつく。
生きている魔力の死骸を無理やり固めたような、邪悪な石。
紅の目が鋭く細まる。
「……それをどこで手に入れた」
和田は答えない。
むしろ壊れたように笑っていた。
「まだ許可はされていないが……構うものか」
「終わるくらいなら、全部壊してやる」
そのままマギマギアへ石を差し込む。
そして、自分ではなく――冴の腕へ、それを無理やり装着した。
「なっ……!?」
冴が目を見開く。
反射的に外そうとする。
だが、外れない。
腕輪は肉に食い込むように密着し、まるで生き物みたいに腕へ絡みついていく。
「何よ、これ……!」
「離れない!」
和田の顔が、狂喜に歪む。
「やれ」
「魔装転生!」
冴の意志を無視して、マギマギアが勝手に起動した。
光が走る。
いや、あれは光ではない。
もっと濁った、神秘の出来損ない。
魔装が冴の身体へまとわりつく。
郷田のときと同じだ。
だが、今回の異常は比較にならない。
「――ぁ、ああっ……!」
冴の喉から苦悶が漏れる。
その身体を覆うように、半透明の膜が生まれた。
繭。
そう呼ぶのがふさわしい、気味の悪い変成の殻。
和田は、その光景に涙すら浮かべた。
「これだ……これぞ神秘だ……!」
「ははっ……はははははっ!」
紬が床に手をつき、ようやく上半身を起こす。
何が起きているのか、理解したくない。
でも目が離せない。
「ふざけるな、貴様」
紅の声が低く落ちた。
その怒りは、これまでとは質が違う。
「戦いを汚すだけに飽き足らず、神秘を語るとは」
紅の顔が、静かに歪む。
「万死に値する」
手に業火が宿る。
和田を焼き尽くすため、一歩踏み出したその瞬間。
突風が吹き荒れた。
床に散っていた紙片が舞い、ガラス片が転がり、陽炎すら押し返される。
全員が反射的に上を見た。
そこに、いた。
繭を破って現れた冴の姿が。
「なんという……」
紅が思わず目を細める。
それは美しかった。
だが、同時に冒涜的だった。
輪郭は冴のまま。
顔立ちも、髪も、体の線も、確かに冴だ。
けれど、その背から広がる翼は異形だった。
片方は、神々しい白に近い光を帯び、羽根の一枚一枚が神聖さを思わせる。
もう片方は、夜を引き裂いたような黒で、刃のように鋭く、悪魔じみた禍々しさを放っている。
天使のようで、悪魔のよう。
清らかさと不吉さが、ひとつの肉体へ無理やり押し込められていた。
冴の眼が開く。
その瞳は、もう人間のものではなかった。
すべてを見下ろし、裁くような、高すぎる場所の視線。
紬の唇が震える。
「お、お姉ちゃん……?」
返事はない。
ただ、変わり果てた存在だけが、そこに浮かんでいた。