空へ舞い上がったその存在を、何と呼べばいいのか。
天使か。
悪魔か。
あるいは、そのどちらでもない何かか。
片翼は、白く神々しい光を帯びていた。
もう片翼は、夜の底を削り取ったように黒く、鋭く、禍々しい。
冴の面影は確かに残っている。
けれど、その眼だけは違った。
人を見ていない。
もっと高いところから、もっと冷たい場所から、すべてを見下ろしているような眼だった。
神秘的だ、とすら思えた。
だが、神秘とは本来、人を救うだけのものじゃない。
時にそれは、牙を剥く。
「お、お姉ちゃん……?」
紬の声は、かすれていた。
目の前で、間に合わなかった。
助けるはずだった姉は、すでに別のものへ変えられてしまっている。
しかもその視線は、まっすぐに紬へ向けられていた。
殺意を宿して。
冴が、ゆっくりと手をかざす。
その瞬間、周囲の魔力が一斉に震えた。
光が、空気の中から引き剥がされるように集まり始める。
その異常な起こりを、紅は誰よりも早く察知した。
「――小娘!」
叫ぶと同時に、紅が床を蹴る。
冴の周囲に集まった光は、もはや光ではなかった。
圧縮され、尖り、純粋な殺意を混ぜ込まれた破滅そのものだ。
冴の口が開く。
「――――」
それは言葉だったのかもしれない。
だが紬には、人の言葉として聞き取れなかった。
直後、世界が白く染まる。
轟音。
熱。
衝撃。
紬は反射的に身を縮めた。
逃げることも、防ぐこともできない。
死ぬ、と本能が叫んだその瞬間、何かが自分を覆った。
重い。
熱い。
焼けるような匂い。
揺れが収まる。
耳鳴りの中、紬はゆっくりと目を開けた。
顔に何かが垂れてくる。
温かくて、ぬるりとしている。
赤。
血だった。
でも、自分の血ではない。
上から落ちている。
紬はおそるおそる顔を上げた。
そこには、血だらけの紅がいた。
深紅のコートは、もはや元の色が分からないほど黒く焼け焦げている。
背中は無残に裂け、そこへ光の針のようなものが幾本も突き刺さっていた。
右肩から脇腹にかけて、焼けた血の匂いが漂っている。
それでも紅は、紬を覆うように立っていた。
「無事か、小娘」
「……く、紅?」
答えた直後、紅の口から血がこぼれた。
「が、はっ……」
その重みが、一気に紬へ倒れ込んでくる。
「きゃっ……!」
受け止めきれず、紬はそのまま一緒に床へ崩れた。
紅の身体は熱かった。けれどその熱は、いつもの威圧的な炎の熱とは違う。
生命が削れていく、ぎりぎりの体温だった。
紬の顔から血の気が引く。
「うそ……なんで……どうして……」
「まったく……割に合わない依頼だ……」
紅は荒い息をつきながら、にやりと笑う。
その笑みが、逆に紬を恐怖させた。
「だめ……!」
「紅、死んじゃだめ!」
「死ぬわけが……ないだろ……小娘……」
そう言いながらも、声に力はない。
「だって、血が……!」
「血が、こんなに……!」
紅は自分の身体を見下ろした。
さすがに想像より酷いらしく、一瞬だけ眉を寄せる。
そのとき、紬の視界にちらりと光るものがあった。
紅の左手。
そこには、あの質素な指輪が、今もかすかな熱を帯びて輝いていた。
だが、紬がそれを深く認識する前に、紅はゆっくりとその手を下ろす。
「小娘」
赤い眼が、まっすぐ紬を見た。
「お前が……救うのだ」
「む、無理だよ……!」
紬は首を振る。
「私にそんな力……」
「言ったはずだ……」
紅の唇が、血に濡れながらもわずかに動く。
「諦めても……何も生まれやしない」
「あと……は、頼んだぞ……つむ、ぎ……」
そこで、紅の目がゆっくりと閉じられた。
その瞬間、紬ははっきりと感じてしまう。
腕の中のぬくもりが、静かに遠ざかっていくのを。
「……くれない?」
返事はない。
それがどれほどの時間だったのか、紬には分からなかった。
ただ、そこで泣き崩れれば、本当に全部終わる。
そんな予感だけがあった。
紬はきつく目を閉じる。
思い出すのは、むかつく顔ばかりだ。
偉そうで、口が悪くて、何度も自分を突き放してきた男。
でも。
その誰よりも先に助けに来てくれたのも。
諦めるなと言い続けたのも。
自分を信じろとは言わず、それでも前へ押し出したのも、あの男だった。
紬は目を開ける。
そして、紅をそっと床へ横たえた。
震える足で立ち上がる。
空には、まだ冴がいた。
静かに。
まるで、紬が来るのを待っていたみたいに。
「お姉ちゃん」
声は震えていた。
でも、逃げなかった。
「私が……救ってあげるからね」
そう言って浮かべた笑顔は、無理に作ったものじゃない。
泣きそうで、怖くて、それでも姉へ向ける慈愛だった。
紬は腕を掲げる。
「第三階位――降り注ぐ光は、矢となり、すべてを貫く《サンライト・レイン》!」
空へ放たれた光が、無数の矢へ形を変える。
陽光の欠片みたいな白い矢が、雨のように冴へ降り注いだ。
だが冴は、動じない。
ゆっくりと片手を上げる。
その一動作だけで、空間が支配された。
降り注ぐはずの光矢が、冴の掌へ吸われるように軌道を変える。
ひとつ、またひとつと収束し、やがて一本の巨大な矢になる。
「そんな……」
紬の背筋を冷たいものが走る。
次の瞬間、冴の口から再びあの不明な言葉が漏れた。
「――――」
巨大な光矢が放たれる。
真っ直ぐではない。
意思を持つようにうねり、紬だけでなく、その後方に倒れる紅すら狙う軌道を描いていた。
紅の身体に、これ以上傷をつけさせるわけにはいかない。
紬は迷わず手を前へ出す。
「第三階位――光は収束し、巨大な盾となる《サンライト・シールド》!」
目の前へ巨大な光盾が展開される。
光矢が激突した。
衝撃で床が軋む。
盾の表面にひびが走る。
だが、止まった。
「……っ、止まった……!」
そう思ったのも束の間だった。
矢が回転し始める。
ぎゅるぎゅると、不気味な音を立てながら。
まるで巨大なドリルみたいに、盾を抉り始めた。
「うそ……!」
ひびが広がる。
中心に、小さな穴が空く。
紬の額に汗が浮かぶ。
足を踏ん張る。
盾を押し返すように、全身へ力を込める。
「ぐぅぅぅぅぅっ……!」
腕が悲鳴を上げる。
肩が裂けそうに痛い。
それでも退けない。
盾の向こうには、自分だけじゃない。
紅がいる。
姉を救うと決めた今、ここで崩れるわけにはいかない。
ついに――
盾が砕けた。
だが同時に、光矢も耐えきれず弾け飛ぶ。
破片のように散った光が、雨みたいに周囲へ落ちた。
紬が荒い息を吐く。
耐えた。
そう思った、その瞬間。
風が目の前を裂いた。
「え――」
冴だ。
いつの間にか上空から舞い降り、紬の目前まで迫っていた。
防御魔術を展開しようと手を上げる。
だが、遅い。
次の瞬間には、冴の細い指が紬の首へ添えられていた。
添えられた、と思った。
直後、万力のような力が喉へ食い込む。
「っ……!」
視界が揺れる。
身体が持ち上がる。
冴の片手だけで、紬は床から浮かされていた。
「や……やめて、お姉ちゃん……!」
苦しい。
空気が入らない。
「私だよ……!」
「お姉ちゃんの……大好きな、紬だよ……!」
冴の表情は変わらない。
その眼には何の反応もない。
むしろ、その声を消そうとするみたいに、指の力がさらに強くなる。
「あ……が……っ」
紬の足が空を蹴る。
視界の端が暗く染まり始める。
「お、おねえちゃん……」
「だめ……帰って、きて……」
かすれる声は、自分でも驚くほど弱かった。
だが、それでも紬の眼だけは、諦めていなかった。
紅は、自分に託した。
あの男が、最後に頼んだ。
なら。
応えないまま終わるわけにはいかない。
「お……ねえ……ちゃん……」
「わ、たし……だよ……」
最後の言葉とともに、紬の目から一滴の涙がこぼれた。
頬を伝い、冴の手へ落ちる。
その瞬間。
ぴくり、と冴の指が止まった。
紬の首を絞める力が、わずかに緩む。
「あ……」
冴の唇が動く。
「……づ、むぎ?」
紬の目が見開かれる。
冴が、後ずさる。
無意識か。
意識が戻りかけているのか。
それは分からない。
だが、確かな変化だった。
紬は床へ膝をつき、激しく咳き込む。
「かはっ……はあっ……はあっ……!」
潰れかけた喉へ、必死に空気を流し込む。
痛い。
苦しい。
でも、生きている。
冴が止まった。
その事実だけで、紬はもう一度、声を出せた。
「お姉ちゃん……」
涙でぐしゃぐしゃになりながら、それでも笑おうとする。
「私、いつも迷惑ばっかりかけて、ごめん」
「これからも、たぶん……いっぱい迷惑かけると思う」
「でも」
息を吸う。
「私は、もう諦めない」
その声には、もう迷いがなかった。
「何度絶望しても、何度地面に倒れても」
「私の夢はね――」
一瞬、言葉が詰まる。
最初は、姉に並びたかった。
姉を助けたかった。
でも今は、それだけじゃない。
脳裏に、あの男の顔が浮かぶ。
むかつくくらい偉そうで、不器用で、でも誰よりも遠い背中を見せた男。
「お姉ちゃんと……いや」
紬は首を振る。
「お姉ちゃんも、紅も、みんなより強くなること」
「私が、みんなを守ってみせること!」
それが今の自分の夢だった。
言い切った瞬間、紬の中で何かが定まる。
冴の眼から、涙がこぼれた。
本来なら流れないはずの、変異したその顔から。
透明で、けれど光を受けて宝石みたいに輝く一筋の涙。
「……づむぎ……」
その声は、冴のものだった。
そこへ、不意に匂いが混じる。
煙草。
ありえないはずの匂いだった。
次いで、重い足音。
聞こえるはずのない足音。
紬が振り返る。
そこにいたのは、憎たらしいほど見慣れた男だった。
「よくやった、小娘」
帽子のつばを押さえ、口元に煙草を咥えたまま、紅が立っている。
「契約は満たされた」
「今、小娘の依頼を遂行する」
「……なんで」
紬の声が震える。
「なんで、あなたが……」
「死んだ、はずじゃ……」
紅は鼻で笑った。
「勝手に殺してもらっては困る」
「俺は少し、休んでいただけだ」
そう言って片手を上げる。
質素な指輪が、微かに赤熱していた。
その光は一瞬で消える。
紬はそれを見た。
だが、問いかける余裕はない。
「ま、紛らわしいのよ!」
「ほざくな」
紅は紬の抗議を一蹴し、煙草を口から離す。
白い煙が立ち上る。
その視線が、空に浮かぶ冴へ向けられた。
「美しい涙だ」
「まさに神秘的だ」
だが、その赤い眼は冷たい。
「だが、俺はその神秘を否定する」
「俺の神秘は、失われる輝きではない」
「輝き続けるものだ」
紅の周囲に陽炎が立ち昇る。
熱が空気を押し上げ、床の破片がかすかに跳ねる。
そして、詠唱が始まる。
「我は火なり」
低く、深い声。
「遍く文明は、掌に灯った微かな熱より始まった」
陽炎が一段、濃くなる。
「たとえ果てなき旅路の末、星の火が尽きようとも」
「我が想いが焦がれるは、誰の手も届かぬ“無”」
「――どれほど時間を費やそうと」
「――どれほど無謀な“奇跡”であろうと」
「――この灯だけは、消えはしない」
紅が手を開く。
そこに宿ったのは、本当に小さな灯火だった。
紬が四話で見た火種より、さらに小さい。
今にも消えてしまいそうなほど儚い。
けれど、その灯に宿る想いは、何倍にも重く感じられた。
「第一階位――人智を啓く黎明の灯《アトラム・ハシース》」
指先で弾く。
火種は冴へ向かって飛ぶ。
だが、それは肉を焼くための火ではなかった。
触れた瞬間、火は冴の内部へ沈み込んだ。
皮膚を焦がさず、翼も裂かず、肉体の奥へ、奥へ。
まるでその身に巣食う毒だけを見つけ出し、焼き払うように。
冴の身体が震える。
白と黒の翼が大きく広がり、次の瞬間、ぼろぼろと崩れ始めた。
光のように砕け、灰のように散り、夜の空気へ消えていく。
歪んだ魔装の気配も、異形の圧も、少しずつ剥がれていく。
やがて、そこに残ったのは――見覚えのある冴の身体だった。
「お姉ちゃん!」
紬が駆け出す。
冴はまだ状況を理解しきれていないようだった。
けれど、自分の胸へ飛び込んできた妹の温もりだけは、確かに受け止める。
「つ、紬……?」
「お姉ちゃん……っ、お姉ちゃん……!」
紬はぐしゃぐしゃに泣きながら抱きつく。
冴も、震える腕で妹を抱き返した。
その様子を見て、声を上げる男がいた。
「馬鹿な!」
和田だ。
「あれは……私たちの研究の結晶だぞ!」
「魔人化は、死ぬまで切れることがない!」
「それを、時代遅れの魔術師なんぞに……!」
現実を認められない。
認めた瞬間、自分の全てが崩れるからだ。
和田は半ば泣き喚きながら後ずさる。
そこへ、紅が歩み寄る。
一歩。
また一歩。
「なあ、お前」
見下ろす眼差しは、もはや人へ向けるものではない。
ゴミを見る目だった。
和田はその視線だけで震え上がる。
「あ……あああ……や、やめ……」
恐怖で腰が抜ける。
下半身から嫌な臭いが立つ。
紅は鼻で笑った。
「貴様、脂が乗っているな」
指を鳴らす。
それだけで、和田のシャツへ火が宿った。
「ぎゃあああああああああっ!!」
炎は一瞬で全身へ走る。
助けを求める悲鳴も、転げ回る音も、紅は振り返らない。
「油は、よく燃える」
淡々と吐き捨て、そのまま姉妹の方へ歩き出す。
背後では、和田が火だるまのまま崩れ落ちていく。
紅は帽子のつばを押さえ、にやりと笑った。
「これにて、依頼達成だ」
そこにはいつものように、傲慢で、強くて、どこか人を食った笑みを浮かべる、紅の魔術師が立っていた。