一話.透明な世界
夜が、明ける。
未だ薄暗い空を、少女は羽ばたき飛んでいる。
雲一つない空に、淡い朝焼け。世界は、透明であった。
より高く、より速く。
――そして彼女は、明日も羽ばたく。
△▼△▼△▼△▼△
涙の理由が、分からなかった。
胸の奥で、誰かの声が揺れていた。
「やだ……いかないで…」
桜花が目を開けると、そこは自分の部屋だった。
ピンク色のベッドと机、白い壁。ぬいぐるみたち。
全部、ちゃんとそこにある。
「…なみだ?」
ごしごしと、パジャマの袖で拭う。
少しクリアになった視界で、よく見ると、壁の輪郭が滲んでいた。
「んー?」
もう一度、目を擦る。けれど、どうやら目の錯覚では無さそうだ。
むしろ、滲みは広がり、壁も床も、家具もぬいぐるみも――すべてが次第にぼやけてゆく。
「わわっ。なにこれ!――指輪!」
すべてが滲みゆく桜花の部屋。
桜花は反射的に、机の上にあるペンダントを両手に握りしめた。
指輪に銀のチェーンを通しただけの、簡素なペンダント。そのペンダントの滲みは止まり、形を取り戻した。
「ふーー、良かった……」
もう一度ぎゅっと、握り締める。
ほっと一息吐くが、ぼやけていく部屋は止まらず、世界は、ほどけ始めていた。
部屋が、透けていく。
部屋の先に見えるものは――
「青い……空?」
壁は、部屋は、色を失い。
その先には、青い空。そして白い街並み。
足元では、木造の床ではなく、靴で石床を踏み締める感触。
「なにこれ。――私の部屋、溶けちゃった!」
止める間もなく、桜花の部屋は消え去り、桜花は街の中に佇んでいた。
周囲からは、道を行く人々の喧騒が聞こえる。
「んーー。ここは、どこ?…私は桜花。……あれ? 制服着てる」
桜花の格好は、白を基調とするワンピース式のセーラー服にスニーカー。登校時の服装だった。
セーラー服に羽織る、大きめのジャケット型の指定上着も、桜花のものだ。
二度、つま先で地面をトントンと叩き、ペンダントを首にかける。
「…まあ、そんなこともある、よね? ――わ!おっきなお城!」
気を取り直して視線を上に向けると、遥か遠くに白亜の宮殿が見えた。上に行くほど、少しずつ透明になっている。
高い方では、透けた宮殿の向こうに見える広い空。そして空を泳ぐ魚。
よく見ると、街中の建屋の中にも、ぽつりぽつりと半透明のものがある。
「綺麗で、変な街」
街を見渡していた桜花に、前触れなく、誰かの声が届く。
『未完成な世界に招かれた旅人たちへ、銀の祝福があらんことを。
この透明な世界で、
あなただけの、希いのノートを見つけられますように。』
うたうような
どうやら、周囲の人々には聞こえている様子がない。
「…うに。私だけの、のーと? なんだろ。今の声…」
ふと、視界の端で、ふわりと何かが落ちてきた。
桜花の目の前に現れたのは、一冊のノート。
授業で使っているような普通のノートブックだが、桜柄の装丁が施されている。
「のーと?……はっ!もしかしてこれが、私だけのノート!? 早速見つけちゃった?」
ノートを両手で掴んだ桜花は、その場でくるくると回った。
桜色に変わっていたツインテールの髪が、ひらめき舞う。
「よーし! なにか書いてみようっ」
回り終えた桜花は、ノートを開く。
白紙のノートに、右手に持っていたペンで書いてみた。
《桜のノート》《ゆきねえはどこだろ》《ワクワクの冒険をしたい!》
「うん! できた!……あっ」
書き終わったノートを目の前にかざし、満足げに頷いた瞬間。
ノートとペンが溶けるように消えていった。
「…うに。どこに消えちゃったんだろ、私のノート」
きょろきょろと辺りを見渡す桜花。
その視線が、ふと上を向く。
空を泳ぐ銀色の魚が、桜花の頭上をゆったりと通り過ぎていった。
「ん? お魚が飛んでる。水族館みたいできれい!」
まるで海のように空気をかき分ける、魚の群れ。
その遥か上空では、深緑色の巨大クジラ。体に生えた幾つもの
手を伸ばして、ぴょんぴょんと飛び跳ねてみるも、まるで届かない。
「遊園地みたい!――でも、どうやって飛んでるんだろ。魔法かな?」
満面の笑みで景色を楽しむ桜花。好奇心にきらきらと輝く琥珀色の瞳が、周囲を歩く人々に向けられた。
捉えたのは、目の前を通りかかった羊の角の少女の姿。
「こんにちは! 羊のお姉さん、私は桜花!――そのツノ、ステキだね!」
突然声を掛けられた羊の少女は、びくりと肩を跳ねさせる。
「ひゃわっ!――わ、私のツノですか?」
「うん! その立派なツノ。頭から生えてるんだね! 触ってもいい!?」
アールグレイの髪から生えた羊角と、羊尻尾が見える十代後半ほどの少女。
少女は元気いっぱいな桜花に、尻尾を張ってたじろぎつつも両角を手で押さえてはにかんだ。
「あ、ありがとうです。めえ。――でも、獣人種のツノや尻尾は敏感だから、簡単に触るのはダメなのです。……それに、獣人種では良くある特徴の一つですよ?」
「そうなの?……わぁ、ほんとだ。よく見たら、動物の耳やツノと、尻尾のある人たちがたくさん!」
道行く人々は凡そ半数が犬や猫、ウサギや牛の特徴で様々だ。
多くの種族が賑やかに過ごすこの街は、活気に溢れていた。
「この白の街では、獣人種の色々な種族が集まっているのです。私は獣人種の羊人族で、ルカと言います。時の旅人の皆様を、この街でお出迎えしているのです。…めえ」
「そうなんだ…ときのたびびと?」
羊人族の少女の説明に、桜花は小首を傾げて尋ね返す。
「はい! 時代に飲まれ消えゆくはずの方々――という意味のようです! なのできっと、あなたはこれから素敵な旅が出来るのだと思います」
「はえー。消えゆく…でも、私は生きてるよ?」
「ふふ。そうですね、生きています。そして、これからも」
「ふむむ…。むつかしいね」
何やら意味ありげなことを言われ、考えこむ桜花。しかしその視線は無意識に、ぴょこぴょこと動く羊尻尾に釘付けだ。
「難しく考える必要なんて無いのです。要は、オーカさんはこれからの旅路を楽しむと良いんです!」
「うん! それなら分かるよ。楽しむ!」
それから、ご機嫌にルカと話した桜花。
空を泳ぐ魚は
「そうだ。この世界では
「うん。色々教えてくれてありがとうー! またね!」
「ふふ、はい。またいつか! めえ!」
「よーし! 冒険、だね!」
先ずは、街の人々からこの世界の情報を聞くよう、言い含められていた桜花。
しかし、エルフの存在に興味を惹かれすっぽりと忘れて、街の東門を目指していった。
「えっるふ~えっるふ~おみみがっながい~」
鼻歌を歌いながらてってこ歩く桜花は、桜色のツインテールをふわふわと揺らす。
毛先に向かって色が濃くなるその髪が揺れる様は、桜が舞っているかのよう。
目的の方向へ一直線に、大通りをまっすぐ南へ進んだ。
そして、桜花はその背丈の何倍も大きな木造の門を抜けて街の外に出る。
ニーソックスとスニーカーに包まれた、華奢だが健康的な両足が大地を踏みしめた。
突如吹いたそよ風が、桜花の髪と草花を踊らせる。
「――ふわああ。すっごく良い風だなぁ…。冒険びより!」
視線の先には、大草原。
どこまでも蒼い空には空魚がカラフルな魚群となって泳ぎ、その総身よりも長い垂れ耳をした桃色の兎が空を跳ねる。
ふと見ると、空に
「んー? なみ?」
空が、揺らいでいた。
揺らぎは大きくなり、真上に、大きな光が出現する。
「なにあれ!」
波紋と共に、膨らんでいく光は弾け、何色もの光となって、空一面に散った。
「…はな、び? でも、なんだろ…」
光が飛び去った空を、桜花は見上げ続ける。
「――」
どこからか、澄んだ歌声が辺りに響いた。
振り返ると、遠く見える宮殿の上で白い竜が、円を描くように空を舞い、歌う。
それは、歌詞のない、原初的で、祝福のようにも聞こえる
「おとぎ話みたい…。すてき。それに、空を飛べるのっていいな! わたしも飛びたいなー」
その光景に心を奪われ足を止めて、見惚れる桜花。
口を丸く開いていると、背後から小さな衝撃が走る。
「きゃっ」
悲鳴を上げたのは桜花だったか、背後の存在だったか。よろめいた桜花が振り向くと、そこには桜花より少し小さな体躯の女の子が居た。
頭に被った猫耳パーカーと、首の後ろには大きな鍔の魔女帽子。そしてライトブルーの髪の少女。
ぼんやりとした空気を醸し出すその少女が呆けた様子で桜花を見つめている。
「わ、ごめんなさい!大丈夫?」
「…うん。こちらこそなの。前を見てなくて、謝罪」
彼女も歌う白い竜に目を奪われ、前方を見ていなかったようだ。
両手に持った杖を握って、ぺこりと頭を下げた魔女っ子の少女。きょとんとした藤色の瞳が桜花を見る。
「わぁぁああ――可愛いっ! 魔女っ子さんだ――好き!」
「ひゃっ」
魔女の恰好をした見知らぬ少女に抱き着く桜花。
小さな体に抱きしめられた少女は為すがままだ。小さな口から「……む。あった、かい」と呟きがこぼれる。
少しして、体を離した桜花は少女の両肩を掴み語り掛ける。
「ねえ!魔女みたいでかっこいいね! あなたは魔女さんなの?」
「……まだ。でも、これからなるの」
少女は、むんっと小さく両こぶしを握り締めた。
両手に握っていた杖は地面に落ちる。しばしの沈黙。
桜花が杖を拾い少女に渡す。
杖を受け取ると小さく頭を下げてから、あまり変化のない表情のままで南の方角へ進む少女。
少女は半身だけ振り向き、小さく片手を振る。
「またね」
「うん!またねー!」
少女は、何かを言おうとするかのように、口を開き、けれどやめて、背を向けた。
てとてとと、そのまま立ち去っていく少女の背中を見つめる桜花。にっこにこである。
「あの子、可愛かったな。魔法…いいな」
未知への好奇心を口にする桜花。されど、魔法の使い方はさっぱり分からない。
小首を傾げ考え込むが、直ぐに気を取り直したようだ。
「ルカも魔女の子も、良いひとだったな。変てこな生物も面白かった。エルフ、会えるかな」
目の前には、広い草原。高い空。見たことのない動物が闊歩したり転がっていたりする。
いつの間にか、白い竜も姿を消していた。
「なんだろう。…わかんない。……わかんないけど、ーー胸が、ザワザワする」
桜花は、胸元のペンダントをぎゅっと握った。
「うん、行こう」
そうして、一歩前へ踏み出した。
桜花の背後で、数枚の桜の花びらが舞う。
そのまま、風に流されて遠くまで、飛んでいった。