スキップしながら進む草原の道。
その先で、ウサギに似た耳が生えた、丸い綿毛のような生物が、地面を縦に横に転がっている。
「あれは、ウサワタ、だっけ。ルカが教えてくれた、食べられるとか」
ころころと転がる何匹もの白いウサワタ。
動物ではないようで、
「でも可愛くて、食べるのはちょっと、うーん…?」
弾むように転がるウサワタの一匹を抱き上げて、ぼんやりと眺める。
そうしていると、桜花の視線の高さで舞う、虹色に輝く蝶を見つけた。
「ふわあ。ちょうちょだ!きらきらだ! 待って待ってー!」
ウサワタを地面に戻し、蝶をトコトコと追いかける。舞い散る虹色の
右に左に揺れながらも真っすぐと飛ぶ蝶に誘われ、草花や動物、道行く人に目もくれずに通り過ぎる。
土から顔を出す石がヘルメットのモグラを、視界の隅に入れても何のその、だ。
いつの間にか森林に足を踏み入れていたが、桜花はただ蝶を追っていた。
林道を進むが、足取りは止まらない。
幸運にも、巨大な芋虫や、大きな角のアルマジロの傍を、何事もなく通っていく。
そして、来た道なんて分からないほど森を進んだ頃。
「――お花畑だっ」
森の中、突如視界が開けた。
たどり着いたのは、色とりどりの花が咲き乱れる花畑。
周囲を木々に囲まれた中、ぽつんと咲き誇る花々は
そこは、手入れされているかのように整った、花々の楽園だ。
中央には、青葉の茂る木が一本佇む。蝶は、いつの間にか視界から消えていた。
「なんだか、すっごい場所見つけちゃったなぁ」
桜花は吸い寄せられるように、木に向かって歩く。
「迷子になったかもだけど、…そんなこともあるよね!」
木の根元までたどり着くと、そのまま仰向けに寝そべってしまう。
「いっぱい歩いたし、ここでひと休みしよっと。光合成だあ! えへへー」
美しい花畑の中、花々を揺らすそよ風が体を撫ぜる。
空には、白い雲がたなびいている。
やがて桜花は、
すやすやと穏やかに眠る姿は、童話の中の一幕のよう。
無垢な寝顔を、花々に晒していた。
△▼△▼△▼△▼△
「…ふに」
ぐっすりと眠った桜花が目を覚ますと、そこは先ほどと同じ花畑の中。
大きく伸びをして起き上がり、草花の絨毯の上に座る。
「…そういえば、ここはどこだろ。また知らない場所に来ちゃった」
寝起きの桜花はしばしぼんやりとしていたが、やがて少しずつ覚醒してゆっくりと立ち上がる。
「うん。――よっと…ひぇっ!」
しかし、起き上がりそのまま足を踏み出した第一歩。
次の瞬間、地面が消えた。
踏み出した足は空を切り、桜花の身体はそのまま穴の中へ落ちていく。
「んにゃあああああああああ! そんなことある、のー!?」
寝惚けていた意識は一気にパッチリだ。
真っ暗な穴の中を、小さな体躯が滑り落ちる。
なすがまま、深部へと導かれていく。
暫くそのままでいると、壁がぼんやりと青い光を発するようになった。
「わ…! きれい! 鍾乳洞のすべり台みたい…!」
光る壁面を眺めつつ滑っていると、先から段々と明るい光が差し込んできた。
どうやら、出口のようだ。
「きゃーーーっ!! ――ひゃっ」
ようやっと穴から抜け出した桜花は、洞から地面に投げ出される。しばし滞空した後、尻餅をついた。
「いたたた…。おしりがつぶれちゃったかも」
桜花が落ちてきた場所。
空を覆う緑の天井は遥か高く、見上げるほどの巨大な木々。
その根も大きく、桜花の身長ほどのものもある。
地面には緑のウサワタが転がり、中空では桜花の身長ほどの大きさの空魚がまったりと泳いでいる。
「ここは…森? むー。大っきな木がたくさん。てっぺんが見えないや。――どっちに行こうかな」
きょろきょろと辺りを見渡すも、道がなく、人の気配も全くない。
視界のすべてが青々とした、大森林。大きな木々ばかりで、木の先が見えない場所もある。
「あれは…山?」
視線を動かしていると、木々の|梢|こずえ》が重なる隙間から、一本の幹が見えた。
その大きさは、天を衝くほどの超弩級。
「んに。木、かな…?」
部分的に見えるその幹は、他の木々と比肩することが無い巨大さだ。
「山よりおっきい、かも。――ん?」
目を奪われていると、ふと、ガサガサと葉が擦れる音が鳴る。
音の方向へ顔を向けると、背後の茂みが揺れている。
桜花は静かに、唾を飲む。茂みから、目が離せない。
茂みの揺れは大きくなり、そこから、二足歩行の豚が現れた。
濃い緑色の肌に、
背丈は桜花より小さいものの、ゴツゴツとした筋肉質の体。
名付けるとすれば、子豚鬼が適切だろうか。
「グゴッ」
「――ひっ」
短い時間、桜花と子豚鬼の視線が交錯する。
ポツリと、口から言葉が溢れる。
「……ピンチ、かも」
土を鳴らし、子豚鬼が桜花に近付いてきた。
右手に持った、刃こぼれをしている小剣が鈍く光る。小剣は、桜花の腕ほどの長さだ。
唸り声を上げながら、近づいてくる子豚鬼。
「うっひゃああああああ!」
弾かれたように足が動いた桜花は、そのまま、全力で逃げ出した。
あちこちに投げ出された木の根を避けて、超えて。
でこぼこの土道を、足をもつれさせながらも転ばないよう、必死に走る。
肩越しに後ろを見ると、子豚鬼はニタニタと笑いつつ追ってきている。
子豚鬼はつかず離れず、一定の速度で追ってくる。その様子は、まるで獲物を追い詰める狩人のようだった。
「はぁっ…はぁっ!」
声が、出ない。全身を使って、ひた走る。
逃げる桜花は幾度も木々の間を抜け、いつの間にか前方に見えるのはなだらかな傾斜の丘。
そして、坂を登ると、丘と思った先にあったのは――大峡谷だった。
吹き荒れる風音が、轟々と唸る。底の見えない深い崖が、桜花の視線を飲み込む。
向こう岸まではひたすらに遠く、いわゆる崖っぷちの状況だ。
ザリ――と靴が地面を擦る音が、耳に残る。
「あう…」
逡巡している間に、退路を断つように子豚鬼は迫ってきていた。
ジリジリと、距離を詰めてきている。舌なめずりをする表情に浮かぶ、ニタリと邪悪な笑み。
ちらりと崖下に視線を向けると、崖底は見えない。
気付けば子豚鬼は、追い詰められた桜花の眼前にいる。桜花の両脚は小刻みに震えていた。
動けない桜花を後目に、子豚鬼は思い切り小剣を振りかぶる。
胸元をぎゅっと握りしめる桜花。
小剣は桜花の肩を目掛けて、振り下ろされた。錆びて刃こぼれした刃が、鈍く光る。
桜花の目にはその全てがスローモーションに見えるが、体が動かない。
琥珀色の
桜花が窮地に晒されたその時。
『あぶないっ!』
どこからか、桜花に届く少女の声。
瞬間、脳裏に浮かぶ誰かの笑顔。
弾けたように足は土を蹴り、真横に跳び頭から地面を転がる。
「ひぇあああ!! あぶなかった!――そうだ…!お家に、帰らなきゃ…!」
更に返す刀で、切り付けてくること二閃、三閃。
危うげながらも、何とか避ける。悲鳴と共に避ける。避ける。
桜色の髪の一房すら捉えることなく、小剣は空振り続けた。
なかなか当たらないことに焦れた様子で、切りかかってくる子豚鬼。
その反面、何度も避けるうちに桜花の動きには余裕が出てきた。
「おっにさん、こっちらっ! ひゃあああああ!!」
思わず、煽るような言葉をかけて火に油を注ぐと、子豚鬼の顔が怒りに染まり勢いは苛烈になる。
それでも幾度もの剣戟を躱し続ける桜花。
痺れを切らしたのか子豚鬼の剣は、段々と大降りになっていった。
「ゴギャ! ギャギャ! ギャッ!」
「…ひゃっ! よっ!ほっ! やっ!」
段々と互いの位置関係が移り変わり、そして、勢い余ってバランスを崩した子豚鬼の体は、崖際まで来てしまう。
片足が崖の宙に浮き、もう片方の足のみで下へ落ちないように踏ん張る体制となった。
踏ん張る子豚鬼に、桜花はこわごわと両手を前に出す。
「ど、どりゃあっ」
「ゴギャーー!!」
崖際でふらつくその姿を好機と見た桜花は、その背中を押した。
一瞬の間、宙を浮く子豚鬼と桜花の視線が交錯し、そして子豚鬼は真っすぐに深い崖を落ちていった。
子豚鬼の発する悲鳴が遠ざかってゆく。
「………」
危機は、脱した。眼下には、深い谷。
へなへなと両足の力が抜けて、お尻から地面にへたり込む。
手には、ゴツゴツとした背中を押した感触。
琥珀色の
制服の袖で、目じりを拭うが、潤んだままだ。
何度も、拭う。
ふいに、こぼれる雫を拭う手が止まった。
「あれ、わたし、いま、ひとりだ」
ポツリと、漏れ出た声。
手は、もう動かなかった。
「ふぇ…うぇっ! ぅぇぇええええん!」
頬から零れ落ちる透明な水滴は地面を濡らし、桜花の声は空に吸い込まれていった。
地面に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。
「…んに」
崖から少し下がった位置で、徐に空を見つめて呆けていると、森の中から声が聞こえてきた。
「おねえちゃーーん!」
幼い少女の声が桜花を呼ぶ。森の中から、小さな影が駆け足で近付いてきた。
赤い毛玉に見えるそれは、紅い毛並みの小さな狐。
「おねえちゃんっ」
「っんにゃ!」
紅い小狐が何処からか現れて、桜花に飛びついた。
軽い衝撃が走って、もこもこの毛皮が胸元に埋まる。小さなその体躯を抱き抱える桜花。
その声は、子豚鬼から襲われる桜花に、危険を報せた声だった。
「おねえちゃん、やわらかい。…さっきは大丈夫だった?」
「大丈夫だよ。……お姉ちゃんって呼ばれるの、なんか、いいねっ」
くりくりとした瞳で桜花を真っ直ぐに見つめ、頭を擦り付けてくる小狐。
自然と動いた手で優しく撫でると、心地よさげな表情を浮かべる。
しっとりもこもこの毛並みだ。
ひとしきり甘えた小狐は、ぴょんと桜花から離れて地面に戻った。
「おねえちゃん。あっちの木に、わたしたちが入れそうな穴を見つけたよ。暗くなる前に、そっちに行く?」
前脚で差し示す森の中は、変わらず巨木が立ち並んでいる。
夕暮れ闇も相まって、その先は一層暗く見える。
「…うん、行こうか。ありがとう!」
桜花は、足を踏み出して森の中へ進んだ。
崖際に落ちていた子豚鬼の小剣を、拾って片手に握り、鋪装のない道を踏み締め追いかけた。
「……おねえちゃん。大丈夫? 疲れてるみたい」
「ううん、大丈夫だよ」
小狐は何度も気遣わしげに桜花の様子を伺いつつも、一人と一匹は大地の上を歩く。
「そういえば、あなたのお名前はなんていうの? 私の名前は桜花だよ!」
桜花の問いに小狐の尻尾がピンと硬直して立つも、すぐにしぼむ。
「…わたしの名前は、無いよ。だから、好きに呼んでくれたらうれしいな」
消え入るような声で答えが返ってきた。前を往くその表情は見えない。
「そっかあ。ふむむ。……それなら、あなたの名前は紅葉だね。紅い葉っぱと書いて、くれは!」
「くれ、は?」
小狐の足が止まり、くりくりの瞳で桜花を見つめ返す。
「うん。あなたは、紅葉。素敵な名前でしょ?」
「……くれは。…くれは! うん!うれしい!」
再び抱き着いてくる紅葉を抱きとめ、桜花はもこもこの毛並みを撫でつけた。
△▼△▼△▼△▼△
「おねえちゃん!こっちだよー!」
再び歩みを始めた紅葉の尻尾は、フリフリと揺れている。
その足取りは跳ねるようだ。
「着いたよ!」
「んに、ここが」
「うん。わた…、くれはの四本足じゃ登れなさそうな良い場所なんだ。だから夜も安全かなって思って」
夕闇が落ち薄暗くなった頃、たどり着いたのは一本の木。
高いところに空いている
紅葉へ肩に乗るよう促して、するすると軽快に木登りをする桜花。
片手に小剣を握りながらも、慣れた動きで木の洞に辿り着いた。
「中は真っ暗だね。何も見えないや」
「うーん、ちょっと待っててね。クォンクオォン」
ぴょんと器用に洞の縁に跳び降りた紅葉は、音律の乗った鳴き声を発する。
すると桜花の目の前には、赤く輝く拳大の魔法陣が映った。
紅葉が最後に「ふぁいあ!」と唱えると、魔法陣が弾ける。
「わああ! 何これ!魔法!? すっごい!」
「うん。なんかね、使えるみたい。熱くないようにもできるんだっ」
彼女たちの目の前には、ランタンほどの大きさの火球が灯った。人肌程度の温度で暖かい。
仄かに照らされた洞に潜り込むと、内部は一段下がっていて、木の下からは見えないような構造になっている。
桜花は
上着を脱いで、紅葉ごと包まる桜花。
「今日は、ここまで!」
洞の中から見上げると、木々の緑の隙間から夜空が覗く。
人々の暮らす灯の無い世界。隙間から見えるその空は、紫紺の三日月が煌めき星々が瞬いていた。
「紅葉。ううん。くーちゃん。もこもこでふかふかで気持ちいい。…もこふかだ」
「くーちゃん…えへ。おねえちゃんも。ほっぺもふにふにですき」
静寂の世界。桜花と紅葉を隠す闇は優しい。
「ここまで案内してくれてありがとう。……それに、夜に一人は寂しいから、くーちゃんがいてくれて嬉しい。助けられちゃったね」
「くれはも、おねえちゃんと一緒であったかい」
ぎゅっと抱きしめる紅葉の体温は高く、じんわりと暖まる。
「明日からも、一緒にいてくれる?」
優しく紅葉の毛並みを撫でる桜花が、問う。
「もちろんだよ!……うれしいな。とってもうれしい」
ぐりぐりと、桜花のお腹に額を擦り付ける紅葉。
そして、再びの静寂。
「……そういえば。さっきの火を出した魔法、どうやったの? もっかい見せて!」
「何でか分からないけど、使えたの。やってみるね」
紅葉が呪文を唱えると、先程と同様に魔法陣が発動して火が灯る。
「すごいすごーい! もっかい!」
「うん!」
桜花の瞳がキラキラと輝く。その後も何度もせがまれたものの、楽しそうに応える紅葉。
夜闇は桜花たちを、包み込んでいる。
そして桜花は紅葉を抱きしめたまま眠りに落ち、この不思議な世界の初日を終えるのであった。