僕はその日、世界の真実を知った。
「二〇二三年現在。アメリカ大陸は、アメリカ西部の一部と南アメリカの一部を除いて消滅。オセアニアは、ニュージーランドを除いて消滅。アフリカ大陸は、北アフリカの一部を除いて消滅。ユーラシア大陸は、シベリア、中央アジア、東南アジア以外はほとんど消滅した」
「……っ」
青白い蛍光灯の明かりだけが、窓のない執務室を冷たく照らしていた。
「日本は、すでに関東地方と中部地方の一部しか残されていない。北海道、東北、近畿、中国、四国、九州、沖縄が失われた」
ご主人様――アリス様は、どこまでも無感情に、歴史書を読み上げるロボットのように、言葉を重ねていく。そんな彼女に対して僕は初めて恐怖という感情を抱いた。
それがなによりも情けなかった。
「世界の主要な穀倉地帯が根こそぎ失われてしまったため、二〇〇〇年代後半からは世界中の人々が深刻な食糧難に直面している。当然、飼育に大量の穀物を消費する畜産業は壊滅した。他の農業や漁業も同じ状況にある。大陸の消滅による地殻変動、重金属汚染、土砂流入による海洋汚染などによって第一次産業は致命的な被害を受けた」
「…………」
「医薬品や日用品の不足も極めて深刻な状況であり、それらの影響もあって、二〇二三年現在の世界人口は推定三億人。日本の総人口は、すでに百万人を下回っている」
しばらく言葉すら出てこなかった。
これが現実ではなく夢であったなら、どれほど幸福であっただろうか。
「どうしてそんなことに……。まさか大規模な核戦争が起きてしまったとかですか?」
「外敵が現れた」
「外敵?」
「二〇〇〇年一月一日、世界各地の上空に突如として発生した空間の亀裂から、非常に巨大な生命体が出現した。その数は全六体。以後、二十三年間。統合軍はその巨大生物と交戦状態にある」
「…………」
「同年一月二日。人類統合軍総司令部は緊急声明を発し、世界各地に出現した巨大生物を人類史上最大の敵対的存在と認定。巨大生物を〝アルバトロス〟と命名した。アルバトロスは一辺の長さが五キロメートルに達する立方体型の生命体――とされているが、それは暫定的なもので、アレが生物であるとの確証は、今もまだ得られてはいない」
「…………」
「アルバトロスは時速二十キロメートルで移動し、およそ一年間で、百万平方キロメートルの陸地を消滅させ、海に変えてしまう」
「……え?」
「そしてアルバトロスは全六体、つまり毎年、六百万平方キロメートルの陸地が失われていくことになった。それはたったの四年で、北アメリカ大陸がまるごと地球上から消滅するスピード。……わかりにくい? それなら毎年、日本列島十六個分の陸地が消滅していったと表現すれば、想像できる?」
想像なんて、できるわけがなかった。
「以上が、現在までに地球上の陸地の約八割が失われてしまった理由」
■
序。
僕は男だ。
けれど今は、とあるお屋敷でメイドとして働いている。
「んーっ、今日もがんばるぞーっ!」
名前は、
どうしてそんなにも曖昧なのかというと、今から二カ月前に、突如として自分に関する一切の記憶を失ってしまったからだ。
はっきり言って、重症である。自分の名前はおろか、自身の容姿すら忘れてしまっていて、鏡に映る姿を見ても、自己認識すらできない有様だったのだ。
そんな状態で深い森の中をさまよっていた身元不明の僕を保護して、雪風小春という新しい名前と、新しい居場所を与えてくださったのが、世界的な資産家、
「よーしっ!」
窓から差し込む四月下旬の柔らかな朝日に照らされつつ、僕はお屋敷の一階の片隅にある、八畳ほどの自室でパジャマからメイド服に着替えると、身だしなみを一つひとつ丁寧に整えていった。
来栖野家から支給されたメイド服は、シンプルな白いエプロンと紺色のワンピースを合わせた清楚なデザインで、肌の露出はほとんどない。ただ不思議なことに、メイド用のキャップを含めた頭飾りは一切支給されておらず、着用も推奨されてはいなかった。
「うん、ばっちり」
鏡の前に立ち、フリルひかえめなロングスカートのメイド服姿で、くるりと一回転。
寝癖なし、肌荒れなし、血色よし。
今日も今日とて鏡の中の僕は可愛らしく、その外見に非の打ちどころはなかった。
「…………」
身長百六十二センチ、手足はスラリと長く、体格は細め。
顔立ちは非現実的なまでに整っている。
透明感のある淡いプラチナブロンドは癖のないストレートで、シルクを思わせる光沢を発しながら背中まで達していた。色素の薄い頬はほんのりと桜色に色づき、くすみ一つない。
唇は薄く、鼻は小ぶり。
ぱっちりと開かれた両目には、南国の海を思わせる爽やかな青い瞳が輝いていた。
「これは自分、これは自分」
すっと目を閉じ、自身の容姿を脳裏に思い浮かべ、これは自分だと二回呟く。
この自己暗示は、毎朝行っている日課の一つだった。
今から二カ月前。
――ぼくは、だれ?
自分は何者なのか、どんな容姿をしているのか。男なのか、女なのか。そんな自己に関するすべてを忘れて深い森の中をさまよっていた僕は、幸運にも世界的な資産家であるアリス様に保護された。
しかしそこで、不幸というありきたりな表現では到底納得できない、あまりにも奇妙な勘違いが発生してしまったのである。
僕は男だ。正真正銘の男だ。それは疑いようがないし、アレだってちゃんとついてる。
けれどその容姿は、自分だって未だに信じられないほど、可憐なものだったのである。
結果として僕は、身元不明者として保護されて以降は女性として扱われ、来栖野家のメイドとなって働いている。
なにもかも嘘みたいな、けれど本当の話だ。
アリス様、つまりご主人様は、僕が男だなんて疑いもしていない。
男女の性差に起因するトラブルが発生しても、そのほとんどが記憶喪失の一言で片づけられたからだ。
だからこそ、自分は女ではなく男なのだと、もっと早く言い出すべきだった。
サイズがぴったりのメイド服とピンク色の女性用下着、そして大量の生理用品が支給されたあの日、それらを受け取る前に潔く真実を告白するべきだったんだ。
「ああ、もうっ! どうしてこんなことにっ!」
本当に最低だ。僕は恩人を騙し続ける最低最悪な女装野郎だ。
いつかその報いを受ける時が必ずくるだろう。
それがたまらなく、どうしようもなく恐ろしい。
けれど鏡の前で立ち尽くす自分は、その恐ろしい現実を直視することができなかった。
「小春、お醤油」
「はい、アリス様」
大きなテーブルのちょうど真向かいから、白くて小さな手がノロノロと伸びてきたので、僕は手元にある醤油瓶をそっと手渡した。
「ありがと」
朝食の目玉焼きに醤油を垂らし、無表情ながら満足そうに白身を口に運んでいる彼女こそ、世界的な資産家にして来栖野家の現当主、つまりは僕のご主人様である
僕とアリス様は、室内がそれほど狭いわけでもないのに身を寄せ合って、同じテーブルで食事をとっていた。
当初は、こうしてアリス様と食事を共にすることに、使用人である僕は少なからぬ抵抗を感じていたものの、雪風小春という新しい名前を与えられ、メイドとして働き始めて約二カ月、その近すぎるように思えてならなかった距離感にも、最近はだいぶ慣れてきた。
「そういえばアリス様って、目玉焼きはいつもそうやって食べますよね」
アリス様は、目玉焼きの白身だけを綺麗に切り取って食べると、残りをご飯茶碗に移し、黄身とご飯を少し混ぜてからモソモソと小さな口へと運んだ。
「半熟の目玉焼きに醤油をかけて食べるのが、至高」
深海をたたえたような瑠璃色の瞳が、艶やかな黒髪の奥できらりと輝く。
「本当は卵かけご飯も捨てがたいのだけど、残念ながらこの鶏卵は生食用ではないから」
アリス様はいつになく饒舌に語りながら、腰まで届く黒髪をスルリとかきあげた。
「なるほどー」
僕は適当に相づちを打って、手元の目玉焼きに真っ赤なケチャップをブビビっとかけるのだった。
――鬱蒼とした雑木林に覆われた小高い山の中腹に、来栖野家のお屋敷〝
鶺鴒館は、大富豪のお屋敷にしてはいささか控えめな、築七十年以上のおもむきのある洋館で、もとは来栖野家の数ある別荘の一つであったらしい。
ただ今は、この鶺鴒館こそが来栖野家の本邸であり、その他の大小様々なお屋敷は、備えつけの家財もろともすでに売り払ってしまったそうだ。以前僕は、どうして売却してしまったのか尋ねてみたものの、アリス様はなにも教えてはくれなかった。
鶺鴒館は外観こそ古めかしい造りになっているけれど、内装は重厚な洋館としての雰囲気を残しつつも現代風にリフォームされていて、家具と家電は最高のものがそろえられていた。
快適な生活を送るために、相当な費用がつぎ込まれているのがよくわかる。
お屋敷の一階にはリビングやダイニング、そして機能性に富んだ最新式のキッチンがあり、それらが広々とした一つの空間の中に間仕切りなく併設されている。
料理を作るのが来栖野家の使用人である僕の務めということもあり、このどこか日本的なオープンLDKは、できたての料理を手早く食卓に並べられるため日々大助かりだった。
「……うーん」
それにしても自分に関することはなにも覚えていないのに、炊事洗濯などの家事全般を滞りなく行うことができるのはなぜだろう? 唐突にそんな疑問を抱いた僕は、朝食を黙々と食べながらあれこれと考えてみたけれど答えなんて出るわけもなかった。
朝食を終えると、アリス様は出勤に向けて動き始める。
午前八時前には大方の準備が整い、ワイシャツと紺色のスラックスに着替えたアリス様は、一点の曇りなく磨き抜かれた黒い革靴を履き、玄関前の広間――エントランスホールの壁面に設置された立派な姿見の前へと向かう。
僕は黒革の手さげ鞄、いくつかの綺麗なバッジで装飾された紺色のジャケット、ワッペンが縫いつけられた濃い青色のベレー帽を携えて、彼女の背中を追いかけた。
「今日は何時ごろお帰りになられますか?」
「
「夕食はどうしましょうか?」
「小春が作るものなら、なんでもいい」
「はい、かしこまりました」
アリス様はシャツの第一ボタンを留めて、それからネクタイをきつく締める。
僕が手渡したジャケットを静かに羽織り、ベレー帽を頭にかぶせると、ポケットから取り出したチープなデジタル式の黒い腕時計を手首にまいた。
アリス様は非常に小柄で、こちらの目算が正しければ、その身長は百三十八センチである。
しかし、ネクタイを締め、紺色の制服を身にまとった彼女の背中には、単純な数字では反映されない大きさを確かに感じとることができた。
「…………」
姿見の前で身だしなみを入念にチェックするアリス様の姿に、いつものことながら僕はつい見惚れてしまう。艶やかな黒髪と透き通った白い肌、鏡面に映り込んだ宝石さながらの瑠璃色の瞳が紺色の制服によく栄えている。
可憐な彼女の容姿と相まって、その立ち姿は精密に造り込まれた等身大の和風ビスクドールのようであった。
「本日のお弁当の主役はハンバーグにしてみました。そのままでもおいしいですけど、時間があれば電子レンジで温め直してから食べてくださいね」
「わかった。小春、いつもありがとう」
アリス様はくるりと振り返ると、お弁当箱の入った黒革の手さげ鞄を受け取った。
背丈の差が二十センチ以上あるから、彼女は自然と、こちらを見上げる格好になる。
彼女は相変わらず不機嫌そうな猫みたいに仏頂面だったけれど、僕には心なしかその表情がほころんでいるように思えた。
「あ、そうだ」
ふと、あることを思い出してポンと手を叩く。
「?」
アリス様はこちらを無言かつ無表情で見上げながら、不思議そうに首を小さく傾げていた。
ああ、どうして僕のご主人様は、こんなにも仕草の一つひとつが可愛らしいのだろうか。
などと、とりとめのないことをぼんやりと考えていたものだから、僕はアリス様のわずかな表情の変化を見逃していた。
「冷蔵庫に生鮮食品が全然ないんですよ。今あるのは全部、茹でたり刻んだり、下処理してから凍らせた野菜、あとは冷凍のお肉とかお魚ばっかりなんです。たしかお屋敷の正門から道なりに山道を下ると、
「絶対にダメ。外出は認められない」
「え?」
口調は平淡なままだったが、それは僕が初めて耳にする強い否定の言葉だった。
食品を買うために街へ行く。
たったそれだけのことのはずなのに、アリス様がどうして外出を禁止するのか、理由が一切わからなかった。
「で、でも、寄り道もしませんし、すぐに帰ってきますよ? 本当に必要な買い物をするだけで、だから少しお金をいただければと……」
「とにかくダメ、絶対に正門の外には出ないで。料理をするときは、キッチンにあるものだけを使ってほしい」
彼女の驚くほど険しい表情を前にして、たまらず立ちすくんでしまう。
「……わかりました。すみません、わがままを言ってしまって」
「謝らなくていい」
「……はい」
鶺鴒館のエントランスホールに重苦しい沈黙が横たわる。
正門付近から自動車の低い駆動音が聞こえてきたのは、僕たちが口を閉ざしてから数秒後のことであった。
「あ、お迎えが来たみたいですね」
「…………」
再び歩き出したアリス様を追って外に出ると、玄関前のロータリーに一台の乗用車が停車していた。その車は社会的身分の高い政府関係者などが乗るような高級感のある黒いセダンで、それを決定づけるように、運転席から見上げるほど背の高い屈強な白人男性が現れる。
彼もまた紺色の制服姿で、丸刈りの厳めしい頭部に青いベレー帽をかぶせていた。
いつも不思議に思うのだけど、あのベレー帽はいったいなんなのだろうか?
「小春、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
僕は来栖野家のメイドとして、遠ざかっていくアリス様の背中にゆっくりとお辞儀した。
すると運転手の白人男性は、いつものように革靴の踵をカッと鳴らし、素早く敬礼してから後部ドアを開く。座席にアリス様が乗り込むと、それは丁寧に閉められた。
「…………」
あの運転手さんは、たしかジョージ・ライアンという名前の人だったはずだ。
いつもアリス様の送迎をしてくださっているジョージさんに、僕はせめて一言だけでも挨拶しておこうと思った。
「あの、ジョージさん、ですよね?」
「!」
声をかけると、なぜかジョージさんは気をつけの姿勢で直立不動になる。
「――はっ、小官はジョージ・ライアンであります」
そして地を這うようなとても低い声で、流暢な日本語を口にした。
「えーっと、いつもお疲れ様です」
「大変恐縮であります」
アリス様からは、ジョージさんはとても誠実な人だと聞いている。その奇妙な口調と異常なほどにかしこまった態度もしごく真面目なもので、彼は決してふざけているわけではないのだろう。
「今日もよろしくお願いしますね」
「はっ、了解いたしました。失礼いたします」
どうしてそこまでするのか理由はわからないけれど、ジョージさんは僕に対してもきっちりと敬礼してから、大きな体を窮屈そうにかがめて運転席に乗り込み、車をなめらかに発進させる。
鶺鴒館の正門を抜け、山道を下っていく黒い車体が見えなくなるまで、僕は見送りを続けるのだった。