僕は毎日、水回りの掃除に多くの時間を費やしている。
「よいしょ、よいしょ、あと少し」
とくに鶺鴒館の一階にある共用の浴室は、銭湯の大浴場とまではいかないまでも、一般家庭のものよりは格段に広いため、掃除にもそれなりの時間がかかる。
少しでも早く次の仕事に取りかかるべく、石造りの浴槽をデッキブラシでゴシゴシと、ひたすら無心でこすり続けた。
鶺鴒館には使用人が僕一人しかいないため、日々行うべき仕事が山積みだった。
もっとも性別を偽って働いている身としては、同僚がいない労働環境というのは非常に都合がいい。アリス様からも無理をする必要はないと言われているので、僕はできる範囲での清掃を心がけていた。
「うん、つるつる。今日も完璧だね」
だからもちろん無理はしていない。
この程度の肉体労働であれば、毎日続けようとも体力的にはなんら問題はなかった。
重たい荷物を抱えながら階段を上り下りしても息切れ一つしないし、翌日の筋肉痛とも一切無縁、僕の体は丈夫かつ、驚くほど疲れ知らずだ。
こんな細い体のいったいどこに、これほどのパワーがあるのか不思議ではあるけれど、頑健な肉体と無尽蔵の体力のおかげで日々楽しく働けている。
記憶を失う前は体を鍛えていたのかもしれない。
そんなこんなで、最近はメイドとしての仕事ぶりもだいぶ板についてきたと自負するところではあるけれど――。
「うーっ、うぅーっ!」
衣類の洗濯と、その収納に関してだけは、どうしたって冷静ではいられない。
浴室の掃除を終えた後、僕はアリス様の寝室で悲鳴に近い唸り声を上げながら、女性用下着であるショーツ、もといパンツを丹念に折りたたんでいた。
「アリス様ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」
脱衣所で無造作に脱ぎ捨てられていたご主人様の下着類。
それらをすべて綺麗に洗濯し終えてから、一つずつ丁寧に折りたたんで寝室のタンスに収納するのも、来栖野家唯一の使用人である僕の役目なのである。もちろん、ちゃんとブラジャーの収納方法だって心得ている。たとえそれがAAAカップであろうとも、強引に小さく折りたたんでカップの形状を押し潰すなんていう初歩的なミスは絶対にしない。
すべてのブラジャーは余裕をもって、全体的にふんわりと優しく収納するべきなのだ。
「それにしてもどうして、勝負下着ばかりがこんなに……」
普段物静かなアリス様からは想像もできない、やたらと布面積の小さい攻撃的なフォルムの下着たち。その色も赤や紫など派手な色合いのものが多く、ぞくに勝負下着と呼ばれるものをアリス様は好んで着用しているようだ。
人の内面は、見かけによらないということだろうか。
などと、どうしようもないことを考えながら、手元の洗濯カゴから妙にふかふかとした下着を手に取る。それは淡いピンク色で、デザインもシンプルなパンツだった。
「あ、よかった。アリス様もたまには普通のやつを履くんだ」
その可愛らしいパンツをいそいそとたたみながら、僕は微笑み、そして安堵する。
ただ冷静になって考えてみると、ブツブツと呟いて女性用のパンツを掴み取り、一喜一憂しながらそれらを入念に観察するなんて、まぎれもない変態の所業だった。
「そうか。もう引き返せないところまできてしまったんだね」
僕は黄昏ながらも、滅私奉公の精神でもって、自らに課せられた業務を完遂するべく雑念を消し去ろうとした。
「あれ、ちょっとまてよ?」
ところが、タンスの下段に広がる色とりどりの勝負下着の海に、いざパンツを収納しようとすると、突然ある疑念が脳裏をよぎった。
「ま、まさか……」
僕は手を震わせながら、今さっき丁寧に折りたたんだばかりの淡いピンク色のパンツを再度広げ、ウエスト部分に縫い込まれたラベルを覗き見る。
そこには黒い太文字で〝こはる〟と書かれてあった。
「ああああッ! これ僕のパンツじゃん!」
絶叫がアリス様の寝室にこだまする。
な、なんで!? どうして自分の下着がここにあるのっ!? 僕とアリス様の着衣は必ず分けて洗っているから、混ざることなんて絶対にないのにっ!
いや、まてまて、冷静になれ。
これは単純なミスだ。起きてしまったことは仕方がない。再発防止に努めるしかない。
それに今の僕は一応女性なんだ。アリス様だって、僕のことを女性だと認識している。
たとえ、これまでに何度も洗濯物の中に自分の下着が混ざっていたのだとしても、僕が男性だと露見しない限り大事にはならないのだから、焦る必要なんてないんだ。
「バレなければ問題ないか。うん」
僕は神妙な面持ちで何度かうなずくと、握り締めていた自分のパンツを足元の洗濯カゴに投げ入れた。
「でも、もし、もしも僕が男だってアリス様に知られてしまった時は、どうすればいいのだろう。土下座なんかで許されるのかな?」
自分は命の恩人を騙し続けたんだ。
なにもかもが露見した場合は、日本男児として、潔くケジメをつけるべきだろう。
「やっぱり、切腹?」
でも、それはそれで結局アリス様の迷惑になってしまうだろうし、もう少し穏便な方法で済ませるとなると。
「……もしくは手術を、受けるしかないのかな」
自分の下腹部を見つめながら、僕はただただ震えるしかないのであった。
それから数時間、僕は湧き上がる様々な不安を頭の中から消し去るために、鶺鴒館の清掃に延々と没頭した。
リビングとダイニングとキッチン、書斎、サンルーム、エントランスホール、お屋敷二階の空き部屋、屋根裏部屋に至るまで、全力で掃除し尽したのである。
ふと気づいたころには日もだいぶ傾いていて、淡い黄金色の西日が、長く伸びた影を伴いながら、無点灯の照明に代わって薄暗い室内をぼんやりと照らしていた。
「はぁー、休憩しよう」
体力は無尽蔵にあるので肉体面での疲労は一切感じていなかったものの、精神面の疲労が凄まじい。僕は掃除を終えたばかりの二階の空き部屋を出ると、すっかり使い慣れた掃除用具を片手に持ちながら、西日に彩られた廊下をとぼとぼと歩く。
歩くたび、身体の奥底で、錆びついた機械部品が軋みを上げたような気がした。
掃除用具を片づけてから階段を降り、一階の自室へ向かう。ほこりがついて汚れてしまったメイド服を自室で予備のものに着替え直すと、そのままベッドに背中から倒れ込む。
「んーっ、疲れた」
靴を履いたまま、床に足裏をつけた状態で、ベッドの上で大きく伸びをする。
肩から余分な力が抜けて、なんとも心地いい。
目を閉じて、そのままジっとしていればすぐにでも寝てしまうだろう。
けれど、午後五時にはアリス様が帰ってくるので、このまま寝つくわけにもいかなかった。
睡魔の誘惑を振り切って起き上がると、あっちこっちに広がってしまった長い髪を簡単に整えてから立ち上る。
僕の髪の毛は淡い金色で、癖もなくて綺麗ではあるのだけど、とても長いから頬にかかったり口の中に入ったりして鬱陶しいことこの上なかった。
「この髪、長くて邪魔だし、いっそのこと切っちゃおうかな?」
なんとなく耳のあたりを指ですいてみると、軽い手触りと共に、肩にかかる髪の束が指先からこぼれ、金砂のようにさらりと流れ落ちていく。特別な手入れをしているわけでもないのに絹さながらの手触りだ。
「やっぱり、やめておこう。髪は長いままのほうが安全だよね。なにが切っ掛けになって性別を追及されるかわからないし」
さて、これからどうしたものかと呟きながら、僕はベッドの枕元に置いてある目覚まし時計に目を向ける。時間は、午後四時の少し前。夕食の仕込みならすでに完了しているので、早急に片づけなければならない仕事はもうなかった。
「ひさしぶりにクッキーでも焼こうかな?」
じつはキッチンの戸棚の奥に、メーカー不明かつ生産国も不明、そして異様に溶けにくいという怪しげな板チョコレートが大量に保管されているのだ。少し食べてみたが、カカオの風味が乏しく砂糖の塊かと疑うほど甘ったるいので、おそらく外国製のものに違いない。
ただ栄養補給には最適なので、小腹が空いた時のおやつとして、切れ込みにそって半分に割ったものをメイド服のポケットに忍ばせてある。異様なまでに保存性の高い板チョコなので、きっと溶けはしないだろう。
そのままかじっても、まったくおいしいとは思えないメーカー不明かつ生産国不明の怪しいチョコレートだが、細かく砕いてクッキー生地に混ぜてしまえば、あの甘ったるさもちょうどよいアクセントになるだろう。
僕は何種類かのクッキーを思い浮かべながら自室を後にする。
アリス様が帰ってきたのはその四十九分後だった。
ちょうどクッキーが完成したタイミングで、車が正門を通過する音を察知した僕は、主人の帰りを知った飼い犬みたいに、エントランスホールへと駆け出していた。
「おかえりなさいませ、アリス様」
「ただいま。小春、これ……」
アリス様は鞄の中から、鳥柄のバンダナに包まれた小ぶりなお弁当箱を取り出して、そっと僕に手渡す。お弁当箱は軽かった。ふたを開けずとも、完食されていることがわかって自然と頬がほころんでしまう。
「小春のお弁当、今日もおいしかった」
「ハンバーグ、どうでした?」
「絶品だった」
「よかった。また今度作りますね」
「うん。……そういえば、なんだか甘い匂いがする」
すーっと、かすかに鼻を鳴らして、アリス様は室内の空気を深く吸い込む。自分の鼻は慣れてしまってわからないけれど、おそらく砂糖とバターの焼ける甘い香りが室内に充満しているのかもしれない。
「じつはクッキーを焼いてみたんです。あとで一緒に食べましょう。ちなみに今日の夕食は、クリームシチューです」
「わーい」
アリス様は、ぬぼーっとした仏頂面のまま両腕だけを使って感情を表現する。
よかった。表情は相変わらずだけど、なんだかとても嬉しそうだ。
「…………」
しかしながら、僕は自分の料理に対して一つ悩みを抱えている。
世界的な資産家であるというアリス様に対して、僕は庶民的な料理しか提供できていないのだ。一応、手の込んだ料理もそれなりに作れるが、買い出しを禁止され、使える食材が限れている現状では、カレーとかシチューとか唐揚げとか、どうしてもありきたりな料理ばかりになってしまう。
アリス様は、ほとんど好き嫌いなく、僕の料理をおいしいと言って食べてくれるけど、あといくらかは料理のレパートリーを増やしておきたいというのが本音だった。
「まだちょっと早いですけど、もう夕食にしちゃいますか?」
「そうする。着替えてくるから準備しておいて」
普段よりも早口でそういうと、アリス様は自室へと駆け出した。その小さな後ろ姿を見送ってから、僕は再度キッチンへと向かうのだった。
午後九時。アリス様ふうに言うならば、
窓の外は真っ暗で、満天の星空の下、物音一つしない静かな夜闇が広がっている。
僕とアリス様は、もう甘いものは控えなければいけない時間帯だと知りつつも、ぽりぽりとクッキーをかじり、たっぷりとハチミツを垂らしたホットミルクを少しずつ飲みながら、一階の居間――高価なマホガニーを贅沢に用いた重厚な色調のリビングにて、のんびりと寛いでいた。
「前からずっと気になっていたんですけど」
「?」
僕のちょうど正面、脚の短いテーブルをはさんだ真向かいのソファにちょこんと座っているアリス様は、すでに入浴を済ませていて、今はラフなパジャマ姿だった。
彼女は例の甘ったるい板チョコをたっぷりと練り込んだクッキーを両手で持ち、リスみたいにかじりついては口を小刻みに動かしている。
「アリス様って朝からよく出かけますけど、どこに行って、なにをされているのですか?」
「突然、どうしたの?」
「別に深い理由はないです。本当ですよ? 純粋に気になっているだけで他意はありません」
「…………」
アリス様は食べかけのクッキーを手元の青い小皿に置くと、こちらを静かに凝視した。
僕は思わずたじろいでしまう。
けれど、ここで引くつもりはなかったので、ぐっと上半身を前のめりに突き出した。
「どうしても言えないというのであれば、わかりました。僕は二度と、この件に関して尋ねないと誓います。アリス様のお世話だって、これまで以上に一生懸命がんばります。ただそのかわり、せめてテレビくらいは映るようにしてくださいよ」
僕は屋根裏部屋の掃除中に偶然発見したテレビのリモコンを取り出すと、すかさずボタンを押した。しかし、壁際に設置された大型のテレビモニターはなにも映さない。
正常に動作するテレビはしっかりと点灯しているのだが、画面にエラー表示が立ち上がっている。
どうやら電波を正常に受信できないらしい。
ネット回線にも接続されていないようだ。
「外との繋がりを完全に断たれてしまうと、さすがに堪えます。記憶喪失のせいで自分が今、日本のどこにいるのかさえわからないんですよ?」
女装に関するあれこれを除外すれば、僕はおおむね鶺鴒館での生活に満足している。
たとえ遠出を禁止され、鶺鴒館に半分軟禁されているような現在の生活が今後一生続くのだとしても、それは揺るぎない。もともと、金銭に関してはまったく執着がないし、特別なにかやりたいことがあるわけでもない。
風雨を凌げて、毎日ご飯をお腹いっぱい食べられるのであれば、細かな疑問などあまり気にならなかった。
「……ふぅ」
アリス様は観念したように小さくため息をつくと、クッキーの残りを口の中に入れ、ゆっくりと味わってからホットミルクと一緒に飲み込んだ。
「小春は、まだ自分自身についてなにも思い出せていない?」
「はい、まだなにも」
「そう。……じゃあ、さっきの質問に答える。小春の意思に関係なく、私は近いうちにあなたに対してすべてを明かすことになると思う。けれどそれは今じゃない。だから今日は、答えられる範囲内で回答する。もちろんその回答も、すべてが嘘偽りなく正確というわけではない。それでもいい?」
「わかりました、それで構いません」
驚いた。アリス様は、なにかと秘密主義なところがある。
だから最初から半分諦めていたのに、これはいったいどういう心境の変化なのだろう。
「…………」
それにしても、こちらの意思に関係なくすべてを明かす、か。
あの口ぶりからすると、アリス様は記憶を失う以前の僕を知っているのだろうか?
いや、それはないか。そうであったなら、僕を女性だと勘違いしたまま、来栖野家のメイドとして二カ月間も働かせるわけがない。
「まず前提知識として私たちの現在地を説明しておく」
「……はい」
「この鶺鴒館は、日本の神奈川県の賽原市にある。賽原市は、横浜市の臨海部から西におよそ三十キロの地点。神奈川県の中央部に位置している」
「……神奈川、賽原市」
「賽原市の市街地には圏央道――首都圏中央連絡自動車道が縦に走っていて、圏央道とそうように三笠川という一級河川が流れている。圏央道と河川によって賽原市は東西に隔てられ、街の東側を新町、西側を旧町と呼称する。鶺鴒館が存在するのは北西部にある山の中腹。山間部を縫うように道路が整備されていて、正門から山道を道なりに下ると賽原市西部のすみっこ、旧町の田園地帯に出る」
「圏央道……、河川……」
「ここまでは問題ない?」
そうしてようやく口を閉ざしたアリス様は、困惑を隠せない僕を横目に再びクッキーをつまんでいた。もぐもぐと無表情で口を動かすたびに、口元に付着した小さな破片がぽろぽろと落ちていく。
「た、たぶん大丈夫です」
「それなら続ける」
「あの、アリス様。お口のまわりが汚れています」
「むぅ?」
「動かないでくださいね」
すっと立ち上がると、清潔な白いハンカチをポケットから取り出し、テーブルを迂回しつつ素早く近寄った。その口元を拭う際も、アリス様は身じろぎ一つせずされるがままだった。
「はい、綺麗になりました」
「もう平気?」
僕は頷き、行動順序を正確になぞって再びソファに腰を下ろす。
「すみません、話を遮ってしまって」
「かまわない。小春の質問は、たしか私の仕事に関するものだったと思うけど」
「そうです」
「私の仕事は多岐に渡っていて一言で説明するのが難しい。けれど最近の主な仕事は、あるものの研究と開発」
「アリス様は、研究者なのですか?」
「専門は生体工学、エネルギー、ダイヤモンド、人工知能。その他にも量子関係をいくつか。ようするに手広くやっている。賽原市の東側――新町に、設備の整った大規模な研究施設があって、そこを統括する組織のトップを私が務めている」
アリス様が、大規模な組織のトップ……。
「つまり、アリス様が出勤する時に着ている紺色の服は、その組織の制服で、同じ服を着ている運転手のジョージさんも、組織に所属している人間ということですか?」
「彼は大勢いる部下の中でも抜群に優秀だから、私の直属として働いてもらっている」
「……なるほど」
アリス様の回答は、簡単に納得できるかは別にして、少なくともわざとデタラメな情報を伝えて、はぐらかしているわけではないのは理解できた。彼女は常に僕を気遣いながら、言葉を丁寧に選んで口にしている様子だった。
「小春、他に質問は?」
「質問してもいいのですか?」
「かまわない。ただし、まだ答えられないことがらも多い」
「わかりました。じゃあ早速質問です。今朝も言いましたけど、新鮮な野菜とか、生鮮食品が冷蔵庫にほとんどないんです。お肉も野菜もみんな凍らせたものばかりで。補充はいつ頃になりそうですか?」
「…………」
新鮮な食材が補充された時の献立を思い浮かべながら尋ねてみたものの、アリス様は無言で首を横に振るばかりだった。
どうやら答えられないらしい。
僕は気持ちを切り替えて、次の質問に移った。
「えーっと、外出の一切を禁止にする理由はなんですか? 僕は別に重い病気を患っているわけではないですし、日光に特別弱い体質というわけでもありません。短時間でもいいんです。街に買い物へ行きたいのですけど」
「…………」
これもダメか。アリス様はまたしても無言で首を横に振っている。それでもめげずに質問を続けようとしたが、おそらく食料品関連や、僕自身に直接関わる物事はなにも教えてはくれないのだろう。そこで質問の切り口を変えてみることにした。
「今年って西暦何年ですか?」
「…………」
「アリス様って、お幾つなのでしょうか?」
「何歳だと思う?」
「え……。その、若く見えます、とても」
うぅ、質問の選択を間違えてしまった。たとえ十代前半にしか見えなくても、女性に年齢を尋ねるべきではなかったのかもしれない。もしかして怒っているだろうか?
「そう」
どうやら心配は杞憂だったらしい。僕が若く見えると答えた直後、心なしかアリス様の表情がやわらいだ。よくわからないけれど、機嫌を損ねていないようで安心するばかりだ。
「ただ小春が想像しているよりも、おそらく私は年上だと思う。こんな外見だけど、私はもうお酒が飲める年齢だから」
「そうなんですかっ!?」
驚きのあまり、僕は思わず叫んでいた。お酒が飲めるってことは、つまり最低でも二十歳は過ぎているわけで……。いやいや、嘘でしょ!?
アリス様は、とても小柄で体の線も細く、とびきり幼くは見えるけど、それにしたって限度ってものがある。
今年小学校を卒業したばかりの女子中学生が、私はもう成人しているからお酒が飲める、と言い張るくらいには無理があった。
「意外?」
「意外というか、信じられないというか。アリス様が去年までランドセルを背負っていたとしても、僕は納得しちゃいますよ」
「……ランドセル?」
やらかした。あまりにも、うかつだった。その低い声音に冷や汗が噴き出た。
「えっ!? あ、違います! 言葉のアヤですよっ!? 若く見るという意味で、子供っぽく見えるという意味では決してありませんっ!」
「ふーん」
アリス様はすっかり冷めてしまったホットミルクをズビビっと飲み干しながら、ものすごく不機嫌そうにこちらを睨んでいる。
「あの、ホットミルクのおかわりはいかがですか?」
「もらう」
「はい、ただいまっ」
僕は弾かれたように席を立ち、キッチンへと一直線に走った。
結局その後、斜めに傾いたアリス様の機嫌は、一杯のホットミルクと数枚のクッキーで元通りになったが、もう彼女に質問するための時間は残されていなかった。
五月上旬。
しばらく穏やかな日々が続き、一週間ほどが過ぎていった。
「よい、しょっと」
今日も今日とて、僕は来栖野家のメイドとしての業務をまっとうするべく、朝早くから女装に励んでいた。
いつも通り女性用のパンツを履き、慣れた手つきでブラジャーを身に着けた僕は、少しでも自然な女性に見えるように、鏡の前で体をひねったり屈めたりしながら入念なチェックを繰り返す。
「よしよし、いい感じ」
僕が着用しているブラジャーは、どういうわけか、自然なバストラインが形成されるような細工が施された、ようするにパッド入りのブラジャーだ。
ちなみにパッドは、ブラジャーに最初から附属していたものを使用している。これこそまさに、女性用品を製造する企業ならではの細やかな気配りというやつなのだろう。
「…………」
そんなどうでもいいことを考えながらの現実逃避も、結局長くは続かなかった。
ふとした拍子に正気を取り戻し、冷静に現実を認識してしまう。
鏡に映っている今の自分が、女性用下着を慣れた手つきで着用し、バストを少しでも大きく見せようと奮闘している変態女装野郎でしかないことを再認識した途端、心にぽっかりと風穴が開き、頬を熱いものが流れ落ちていく。
「はははっ、つらい」
目元を拭って、笑うしかなかった。
もう限界かもしれないな。
いっそのこと、自分は男性なのだと、カミングアウトしてしまうべきなのかもしれない。
それでもって潔く警察に自首して、司法の判断のもと罪を償うべきなんだ。
「……なんでこんなことに」
ただ、それでも結局はアリス様に多大な迷惑をかけてしまう。とても心苦しいけれど、真実が明るみに出る前に、なにも告げずに鶺鴒館を離れるべきだろうか。
「……はー」
どうしたらいいのだろう。
もちろん、いくら考えたところで正しい答えなど出るはずもなかったので、再び問題を先送りにして、昨夜のうちにクローゼットから出しておいた清潔なメイド服を手に取った。
下着姿のまま、僕が力なくメイド服を抱えていると――。
バーンっ!
突然、大きな音と共に部屋のドアが押し開かれ、廊下から紺色の制服に身を包んだアリス様が現れた。
なぜか彼女は茶色の紙袋を小脇に抱えている。
「小春」
「へ?」
現実を受け止められず、頭の中が真っ白になる。
僕は素肌をさらしたまま古いパソコンみたいにフリーズしていた。
「これに着替えて」
彼女は無表情のままそう告げると、抱えていた紙袋から真新しい紺色の制服を取り出して、それをベッドの上に放り投げた。
ああ、いけませんアリス様……。
そんな乱暴に扱っては、せっかくの新品のお洋服がシワだらけになってしまいます。
「玄関で待ってるから、着替え終わったらすぐに来て」
とにかく早くして、と言い残し、アリス様は部屋を出ていった。
「――きゃああああああああッ‼」
ひとり残された下着姿の僕は、ただただ甲高い悲鳴を上げるしかなかった。
それからしばらくは錯乱状態に陥って身動き一つとれなくなっていたが、時間の経過と共に近代美術の抽象画のようにグチャグチャだった僕の感情も、ひとまず一定の落ち着きを取り戻していった。
「ああーっ、あああーっ、もうやだーっ」
しかし冷静になったらなったで、今度は強烈な羞恥が胸の奥底から湧き上がる。
穴があったら入りたい、なんて生やさしいものではなかった。
路上の淡雪になりたかった。そのままさらりと、この世から消えてしまいたかった。
「……最悪だ。どうしよう。アリス様は、僕が男だって気づいてしまったかな? でも、全裸じゃなくて、下着姿を見られただけだし。……いや、でも」
どれほど体の線が細くて、顔立ちが女っぽくても、僕は男だ。それは体格からしても明らかで、骨格はもちろん、脂肪や筋肉のつき方はまぎれもなく男性特有のものだ。
それが明確に現れる下着姿を、絶対に見られたくなかった人物に直接見られてしまったのである。
だが、それでも、アリス様の指示は僕にとって絶対だ。
着替え終わったらすぐに来るようにと命令されている以上、塞ぎ込んでいる暇はない。
すぐさま行動を開始しなければならなかった。
「……うう」
真新しい紺色の制服に袖を通し、ワッペンが縫いつけられた深い青色のベレー帽をかぶり、僕はよろよろと鏡の前に立つ。
「……サイズが、ぴったりだ」
着苦しさをまったく感じなかった。
制服は新品のはずだったが、まるで長年着続けた学校の制服のように馴染んでいる。
きっと前々からアリス様が用意していたものなのだろう。
だからこそ僕は、これを着るわけにはいかなかった。
「もう限界だ」
根元から、心がぽっきりと折れてしまっていた。
せっかく用意していただいた制服を早々に脱いでしまうのは心苦しかったが、僕はもう一度下着姿に戻ると、この二カ月間ですっかり着慣れてしまった来栖野家のメイド服を手に取って抱き寄せる。
「アリス様にすべてを打ち明けよう」
僕はそう決断した。
一生性別を偽って今の生活を続けようだなんて、どう考えても無理があったんだ。
それになにより、命の恩人であるご主人様に対して、もう嘘をつきたくなかった。
だからきっと、これはいい機会なんだ。制服は着られない。いつまでも下着姿ではいられない。僕は、自分の本当の性別を告白するべく、再度メイド服に身を包む。
「……お金、日本円。それから、変な板チョコレート」
真実を知ったアリス様が激高し、そのまま鶺鴒館から追い出されてしまう事態も想定して、二か月分のお給料が入った茶封筒と、異様に溶けにくい例の板チョコレートをエプロンのポケットに押し込んだ。
おそらく二度と、この部屋に戻ってくることはないだろう。僕は最後に、これまで生活してきた自室をゆっくりと眺めてから廊下に出た。
長い廊下を無言でこつこつと歩く。
足取りはとても重い。
さながら十三階段をゆく死刑囚の気分だった。
きっと僕の顔色は真っ青で、情けなく恐怖に引きつっていることだろう。
「小春、遅い」
「申し訳ございません」
エントランスホールに顔を出すと、さっそく怒られてしまった。
けれどそれも当然だ。アリス様が制服を持って僕の部屋を訪れてから十分以上が経過している。気づかぬうちにそれだけの時間を、自問自答に費やしてしまったようだ。
「なぜメイド服? 制服は?」
アリス様は、制服ではなくメイド服を着てきた僕に対して、怪訝そうな視線を向けている。
正直なところすでに挫けそうだった。今すぐこの場から逃げ出したかったけれど、勇気を振り絞って踏み止まった。
「あの、じつはお話したいことが――」
「仕方ない。小春、ついてきて」
「あ! ちょっと待ってくださいっ! 大切なお話が……っ!」
「あとにして」
「……はい」
これが恩人を騙し続けた変態女装野郎に対する報いなのだろうか。
罪の告白という、死を覚悟するほどに多大な気力を消耗する行為の最中であったにも関わらず、アリス様は僕の懺悔に耳を傾けることなく、スタスタと歩いて玄関扉から屋外へ出て行ってしまった。
もうすぐ迎えの車が到着するのかもしれない。
これ以上、こちらの事情で他人を待たせるわけにはいかない。
断腸の思いで罪の告白を中断すると、僕はアリス様の背中を追いかけた。
「……?」
ところがこちらの予想に反し、正門を通り抜けて玄関前のロータリーに進入してきたのは、見慣れた黒いセダンではなかった。
けたたましいエンジン音が周囲の山林に木霊する。
灰色を基調とした都市塗装が施され、八つもの戦闘用タイヤと、三十ミリ口径の重機関砲を車体上部に備えた無骨な装輪装甲車が計三台も、わがもの顔で鶺鴒館のロータリーに押し寄せてきたのだ。
一般の乗用車では絶対にありえない、大型ディーゼルエンジン特有の強烈な排ガスの臭いが周囲に充満する。
「来栖野閣下、お迎えに上がりました」
「ご苦労」
異様な光景だった。肩掛けのベルトに自動小銃をつり下げ、手榴弾や予備弾倉を大量に収納した防弾ベストを身に着けた完全武装の屈強な男たちが、装甲車の後部ハッチから続々と現れて整列し、一糸乱れぬ敬礼を行っている。
武装状態で降車した男たちは、総勢十二名。肌の色や髪の色はバラバラで人種は統一されておらず、おそらく国籍も異なる彼らは、ただ一心にアリス様へ忠誠と敬意を示していた。
「あの、彼らはいったい」
「全員、私の部下。小春が気にする必要はない」
「わ、わかりました」
「今日はあれに乗って、私の職場に向かう。小春も一緒に来てほしい」
「ジョージさんは、どうされたのですか?」
「彼は昨日の夕方、私を鶺鴒館に送り届けた後の帰り道で、複数の暴漢に襲われて重傷を負ってしまった。だから居ない」
「えっ、襲われたっ!?」
世界的にみて治安のいい日本で暴徒だなんて……。ジョージさんは無事なのだろうか。
「幸い、命に別状はない。ただ、彼はしばらく入院することになる。だから防犯対策も兼ねて代わりを手配した。それが彼ら」
いかに防犯対策であっても、あまりにも戦力が過剰だ。まさか賽原市は治安が悪いのだろうか? いや、それはないか。長年紛争が絶えない貧困国であっても、これほどの戦力が必要になるとは思えない。
というか、武装した装甲車が街中を走ったりしたら、警察に通報されてしまうと思うのだけど、そのあたりは大丈夫なのだろうか。
「小春は、私と一緒に真ん中の車両に乗って」
僕は言われるがまま、車両後部の分厚い金属扉から装甲車に乗り込んだ。
車内には、白く塗装された装甲鋼板を背にする格好で、硬い折り畳み式の座席が二列分用意されている。運転席とは完全に壁で仕切られているため内部に窓はなかった。
僕の正面にアリス様が座り、最後に口ひげを蓄えた二名のアラブ系男性が乗車すると、後部ハッチは閉じられ、まもなく装甲車はけたたましいエンジン音を響かせながら発車した。
山道だからか、道中はアップダウンが激しい。慌てて四点式のシートベルトを装着する。
窓がないため、外を眺めて気分をまぎらわせることもできない。
車内では誰もが無言だった。同乗している二名のアラブ系男性は、よほど職務に忠実なのか身じろぎ一つせず向かい合って座っている。
「…………」
僕の正面にはアリス様が座っている。性別の偽りを告白し、許されるなら今日中にも鶺鴒館を立ち去るはずが、今はこうして狭い車内で彼女と膝を突き合わせてた。
またしても嘘を塗り重ねてしまった気がして、ひたすら心苦しかった。
「ゆ、揺れますね」
「我慢して」
「……我慢します」
ひかえ目に言っても乗り心地は最悪で、山道を抜けて平地を走行していても、石かなにかに乗り上げるたびに車体が大きく揺れるので、必死になって硬い座席のフレームにしがみつくしかなかった。
出発してから十五分ほどが経過しただろうか。
「アリス様、到着するまであとどのくらいですか?」
「もうすぐ」
その言葉通り、装甲車はまもなく停車し、武装した軍人たちは開いた後部ハッチから素早く車外へと飛び出していった。
「ここは」
頭をぶつけないように気をつけながら降車すると、そこは野外ではなかった。
柱の少ない地下駐車場とでも表現すべき広大な空間であった。
壁面は無味乾燥な打ちっぱなしのコンクリート、地面はとても硬質な、おそらく塗装された分厚い鉄板で構築されており、それがずっと奥まで続いている。
「小春、ついてきて」
「あ、待ってください!」
多国籍なボディガード集団に敬礼で見送られながら、異質な地下駐車場をひたすらに奥へと突き進むアリス様の背中を追いかける。
「……すごい場所」
今この時をもって、平和な日常は終わりを告げたのだと僕は直感していた。
軍事関係には明るくない僕だって、ものものしい装甲車や銃火器を見せられた時点で、一応気づいてはいたんだ。けれど、無意識に気づかないふりをしていた。
僕らを鶺鴒館から連れてきたボディガード集団は、本物の軍人たちだったのだろう。
そして、そんな軍人たちに直立不動で敬礼され、敬われるアリス様も、なんらかの軍事組織に属する人間であり、彼らに閣下と呼ばれていたからには、相当高位の階級を得ているに違いない。
「ずいぶん、大きな施設ですね」
「…………」
僕は終始無言のアリス様を追いかけながら、最奥の物資搬出用と思しき扉から施設の内部へと入り、古い病棟を想起させる真っ白な通路を延々と歩いて、エレベーターを乗り降りしながら地下へと向かっていく。
すると。
「――まさか、そんな……」
「――ありえない……」
「――少佐殿……」
「?」
途中何度も、例の紺色の制服を着用した人々とすれ違う。その度に彼ら彼女らは立ち止まって、それこそ幽霊かなにかを目撃してしまったかのような顔つきで、なぜかこちらをじっくりと眺めてくる。
「――えっ、うそ……」
「――雪風少佐……」
「――隊長殿……」
年齢や性別に関係なく、通路ですれ違った全員が、必ずこちらへと振り向くのである。
まるで不出来なホラー映画みたいだった。
「あの、アリス様。さっきからやけに視線を感じますけど、気のせいですよね?」
「…………」
最初は単純に、この場違いなメイド服姿が人目を引いているのだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
彼ら彼女らの中には、おそらく上官であるはずのアリス様に対してではなく、僕個人に対して慌てて敬礼する人もいる。どういうわけか、そういう人たちに限って僕の顔を凝視しながら口々に〝少佐殿〟〝隊長殿〟と呟き、ときには大粒の涙すらも流すのだった。
「入って」
「お、お邪魔します」
ようやく目的の場所にたどり着いたらしい。
この施設は、地下へ降りるほどセキリティのレベルが上がっていく仕組みになっているのだろう。アリス様はポケットから取り出したカードを機械にかざし、電子ロックを解除してからその部屋へと僕を招き入れた。