超ド級巨大生物 VS 女装メイド   作:細川 晃

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第5話 相州鬼正

 それから六時間ほどが経過した。

 

 外はもう日が落ちている。

 

 夜空には、うららかな白い月が輝いていた。

 

 僕とマコトの二人は、ぼんやりとした明かりに照らされた倉庫の中で、腰ほどの高さがある大きな木箱を真ん中に置いて向かい合っていた。ようするに木箱はテーブルの代わりであり、僕らはこれから夕食を食べようとしていたのだけど……。

 

「言い忘れていたが、飲料水が少ない。この二リットルのペットボトルが最後の一本だ。俺たちを監禁している連中が補充しない限り物資は得られないから、切り詰めるしかない。だから大切に飲んでくれ」

 

「…………」

 

「どうした、早く食べろよ」

 

「……?」

 

 木箱の上には飲料水の入った未開封のペットボトル一本と、共用の薄汚れた紙コップ。

 

 そして、マコトが倉庫の奥から持ってきた本日の夕食が、それぞれの手元に置かれてあるのだが、そのビニール袋に包装された油性粘土そっくりの物体を前にして、僕の表情筋は九割ほど硬直していた。

 

「……なにこれ?」

 手に持ってみると粘土そっくりのそれはズシリと重く、内容量は三百グラムあった。

 

「なにって、ただの〝乙型配給食〟だろ?」

 

 いやだから、それはなに? ……というか配給食って、この粘土って食べ物なの!?

 

「おいおい小春。乙型は口に合わないから、甲型配給食を出せなんて言うなよ? 例の鶺鴒館とかいうお屋敷で、お前がどんな贅沢をしていたのかは知らないが。本来、甲型配給食なんかは統合軍の軍人とか、軍属の優秀な技術者しか食べられないものなんだからな?」

 

「そ、そうなんですか?」

 

 うーん、困った。どうやらマコトは、鶺鴒館における僕の食事が、甲型配給食だったのだと勘違いしているらしい。けれどそれは間違いで、僕はこれまでずっと白いご飯や柔らかいパンを主食にして、お肉や野菜、果物なんかをお腹が一杯になるまで普通に食べてきた。

 

 つまり現状において、甲型乙型含めて配給食全般を食べた経験が一切ないのである。

 

 ただこれは、マコトには伏せておいたほうが賢明かもしれない。

 

 食べ物の怨みは恐ろしいと言うし。

 

「小春も食べてみろよ。慣れれば意外といけるから」

 

「じゃあ、遠慮なく頂きます……」

 

 急かされながらビニールの包装を破って、内容物を素手で一口サイズに引きちぎってみた。

 

 感触はとても柔らかい。引きちぎった断面といい、触れた指に油分が付着することといい、本当に油性粘土みたいだ。ただ、粘土特有の匂いはしない。かすかに焼きたてのパンみたいな芳ばしい香りがする。

 

 この不愛想な見た目に驚いてしまったけど、一応ちゃんとした食べ物ではあるようだ。

 

 肝心かなめの味はまだわからないけど、さすがに食べられないほどマズイなんてことがあるわけがない。

 

 勇気を出して乙型配給食を口に入れ、何度か噛みしめてみた。

 

 すると。

 

「――うぇぇぇ」

 僕は嘔吐した。

 

「小春!? おい、大丈夫か」

 

 マコトは慌てた様子で僕に駆け寄ると、嫌な顔一つせずに背中をさすってくれた。彼女の気づかいが身に染みる。ああ、マコトは優しいなあ。

 

「平気か?」

 

「だいぶ、落ち着きました。まだ気持ち悪いですけど」

 

 ありえない。正気を疑う。これは人の食べるべき物じゃない。

 

 香りが普通だったから油断していたのである。

 

 驚くべきことに、乙型配給食は外見だけでなく、味までも油性粘土と酷似していたのだ。

 

 とにかく朝からなにも食べていなかったのが幸いだった。

 

 僕はただえずくばかりで、口の中のもの以外はなにも吐かずに済んだのである。

 

「ほら、始末は俺がしておくから少し休んでろ」

 

 

「すみません。……ありがとうございます」

 

「気にするな。小春は筋金入りの箱入り娘だったみたいだしな、こうなるのも無理はないさ。しかし困ったな。乙型配給食がダメとなると、食べる物がなにもないぞ」

 

「…………」

 

 マコトは困った困ったと呟きながら、僕が汚してしまったテーブル代わりの木箱を倉庫の奥へと引きずっていく。

 

「あっ、そういえば」

 

 彼女の後ろ姿をぼんやりと眺めていた僕は、急にあることを思い出す。

 

 メイド服のエプロンのポケットには、たしか……。

 

「あった。チョコレートだ」

 

 生産国不明、メーカー不明。カカオの風味が乏しく、砂糖の塊かと疑うほどに甘ったるく、そして異様なほどに溶けにくい謎の板チョコレート。けれど代用品でも、粘土みたいな配給食でもない、カカオと砂糖とミルクで作られた本物の板チョコレートである。

 

「小春、それは?」

 片づけを終えたマコトが倉庫の奥から戻ってきた。

 

 彼女は僕が手に持っている銀紙の包みを眺めながら疑問符を浮かべている。

 

「チョコレートですよ。ポケットに入れていたのを忘れていました」

 

「チョコ……まさか本物かっ!?」

 

 変化は劇的だった。マコトはチョコレートの銀紙を凝視したまま、凄まじい剣幕でこちらに駆け寄ってくる。そのまま僕の両肩を力の限り掴んで、何度も前後に揺さぶった。

 

「本物のチョコレートだなんて、そんなものどこで手に入れたんだよ!」

 

 彼女の慌てぶりからすると、やっぱりチョコレートは貴重な代物だったようだ。

 

「僕が使用人として働いていた鶺鴒館のキッチンにありました。小腹が空いた時のオヤツにしようと思って、ご主人様に無断で一枚貰ったんです」

 

「無断って……。お前、バレたら殺されかねないぞ」

 

「そんな大げさな。まあ、ちょっとは怒られるかもしれませんけど、チョコレートは同じものが大量にありましたから、一枚くらい平気だと思いますよ」

 

「冗談だろ!? そのチョコレートにどれだけの価値が――って、そんなの世間知らずなお前に理解できるわけないか」

 

 マコトはなにかを諦めるように、大きなため息を吐く。

 

「いったい、小春のご主人様は何者なんだよ。どっかの王侯貴族かなにかか?」

 

「身分的には普通の日本人ですよ、たぶん」

 

「じゃあ、職業は? 普段どんな仕事をしてるんだ?」

 

「詳しくはわかりませんけど、人類統合軍の軍人で、かなり偉い人だと思います。賽原基地に勤務しているみたいですね」

 

 賽原基地で、人々から敬われるアリス様の姿を思い出しながらそう答えると、マコトはどこか納得した様子で何度か頷いた。

 

「なるほど、軍のお偉いさんね。それも賽原基地に所属する高級将校となると、有名な技術者の可能性もあるか。――なあ小春、他にはなにか持ってないのか? たとえば、希少な医薬品とかさ」

 

「他に、ですか?」

 鶺鴒館から持ってきたのはチョコレートと、あとは……。

 

 二つ折りにして、ポケットに押し込んであった茶色の封筒を僕はそっと取り出した。それを見た途端、マコトの表情が明るくなる。

 

「かなり厚みがあるけど、まさか統合軍の軍票か? それとも甲型配給食と交換できる引換券だったりするのか!?」

 

「いえ、これはお金です」

 

「お金? もしかして日本円?」

 

「そうです。日本円です。ここに僕のお給料二か月分が――」

 

「あのなあ、小春」

 

「はい?」

 

 どうしたのだろう。マコトの纏う雰囲気が、ついさっきまでとはまるで異なっている。

 

 彼女はどこか憐れむような面持ちで、僕の肩に優しく手を置いた。

 

「日本の紙幣なんて、トイレットペーパー以下だぞ」

 

「どういうこと?」

 

「そのままの意味だ。世界がめちゃくちゃで、日本だってこの有様なのに。こんな紙切れなんかに価値があるわけないだろ? 今時一万円札なんて焚火の火つけに使うのが精々で、実用性で言えばトイレットペーパー以下だ」

 

「……ええぇ」

 どうやら冗談で言っているわけではないみたいだ。

 

 たしかに、マコトの言っていることは正しかった。

 

 少し冷静に考えてみればわかるが、滅亡寸前の国のお金に、価値なんてあるわけがない。

 

 国が滅亡したら文字通り、その国の紙幣はただの紙切れになってしまうのだ。

 

「小春のご主人様が、どうしてそんなもので給料を支払っていたのか知らないけど、変な話だな。統合軍の高級将校だったら、物資には困っていないだろうから、もっと価値のあるものを給料にしてやればいいのに」

 

 マコトはそう言うけれど、自分にはアリス様の真意が手に取るように理解できた。

 

 すべて僕のためだ。この日本円のお給料は、世界が荒廃している事実を隠し、平和な日常を演出するための小道具の一種だったのだろう。

 

 アリス様……。

 

「……っ」

 突然、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。

 

 僕はマコトに気付かれる前に涙を拭うと、小さく鼻を鳴らした。

 

 アリス様のことを思い出すと、なぜだか泣きそうになってしまう。はぁ、今頃あの人はどうしているのかな。心配だ。ちゃんとご飯を食べているだろうか。

 

「ところで、さ」

 

 僕がアリス様に思いを馳せていると、マコトはバツが悪そうに下を向きながら、震える指先で銀紙の包みを指差した。

 

「そのチョコレート、まさかここで食べるのか?」

 

「あっ、マコトも食べますか?」

 

「へ?」

 

「ちょっと待ってくださいね。今、半分にしますから」

 

 うっかりしていた。こちらとしても、武装した犯罪者集団に拉致監禁されたこの状況下で、栄養価の高い貴重な食料を独り占めするのは気が引ける。

 

 僕は均等に分けられるよう注意しながら、板チョコレートをパキっと二つに折った。

 

 明らかに記憶の中の市販品とは異なる肉厚な外観の板チョコレートは、半分にしてもかなりの量がある。

 

 やはりと言うべきか、チョコレートは一切溶けていなかった。

 

 乾燥させた昆布みたいに、表面に白い粉が付着しているけど、まあ、この程度は気にしても仕方がない。きっと砂糖が析出したのだろう。チョコレートが腐るだなんて聞いたこともないし、たぶん害はないはず。たぶん。

 

「はい、どうぞ」

 

「ほ、本当にいいの?」

 

「もちろん」

 

 どういうわけか、マコトの言葉遣いが急に女の子っぽくなっていた。どうしたのだろうか?

 

「た、食べた後で返せって言われても、絶対に返さないからな!」

 

「言いませんよ、そんなこと。というか、食べてしまったものをどうやって返すんですか?」

 

「そりゃ、いろいろ方法はあるだろ……」

 

「そんな方法があるのですか!?」

 

 マジですか。食べてしまったものを返す方法が複数あるだなんて、かなり衝撃的です。

 

 もしかしてその方法は、普段から誰もが行っているものなのでしょうか? だとするなら、これも記憶喪失の弊害で僕個人が知らないだけで実は誰もが――。

 

「あーっ! もーっ!」

 

 マコトは奇声を発しながら、両手で自分の髪の毛をグチャグチャにすると、僕が差し出していた半分のチョコレートを強引に掴み取った。

 

「小春には俺の常識が一切通用しないってのが、ほんとーにっ、よくわかった。お前の非常識な行動を警戒して、あれこれ勘ぐるのはもうやめるっ! 頭がどうにかなりそうだっ!」

 

「え、警戒?」

 

「気づいてなかったのかよ!?」

 

「まったく気づきませんでした」

 

「こいつは本当に……。今時どうしてここまで無邪気でいられるんだ……。こっちの気も知らずに……。打算であれこれ優しくしてた俺がバカ丸出しじゃねえか」

 

 そうぶつぶつと呟きながら、マコトはいじけた様子で頬を膨らませてうつむいてしまう。

 

 というか、さっきまで僕に優しかったのは打算だったんだ……。

 

「……本物だ」

 マコトはうつむきながら呟くと、表面の溝にそってチョコレートを慎重に砕き、その小さな欠片を震える指先で口へと運んだ。

 

「どうですか?」

「……おいしい」

 

 よかった。その一言を聞いてほっとした僕は、自分の分を口に入れると、舌の上でアメ玉みたいに転がした。そうしないと、なかなか溶けてくれないのである。

 

 むむむむ。乙型配給食よりは断然美味しいけど、相変わらずこのチョコは甘すぎる。それにカカオの風味もほとんどしない。ここは熱くて渋い緑茶が飲みたいところだけど、残念ながらそんな贅沢品はここにはなかった。

 

 仕方がないので、地面に置かれていたペットボトルの飲料水を一つしかない共用の紙コップへと注ぎ、それを一息に飲み干して舌に広がる強烈な甘みを押し流した。

 

「マコトも飲みますか?」

 

「…………」

 

「あの、お注ぎしますね」

 

「……っ」

 

「マコト?」

 どういうわけか反応がない。

 

 僕は水を注いだ紙コップを差し出しながら、マコトの様子を静かにうかがった。

 

「……うっ……うぅ……」

 彼女は泣いていた。

 

 泣きながら、嗚咽を必死になって押し留めている。けれどこぼれ落ちる大粒の涙はどうしようもなく。いくら拭おうと、とめどなく両頬を伝い落ちていく。

 

「うぅ……。すごくうまい……。チョコレートを食べたのなんて、何年ぶりだろう」

 

 マコトは震える声でそう言うと、あとはひたすら泣きながら、むさぼるようにそれを食べ進める。

 

「うっ、うぅ……ぐっ……ひっぐ……」

 

 僕は泣きながらチョコレートを食べるマコトの姿に圧倒されてしまって、指一つ動かせないまま、彼女が落ち着くのを黙って待ち続けるのだった。

 

 

 それからしばらく経って。

 

「大丈夫ですか?」

 

 そう尋ねると、マコトは気落ちした様子で何度かうなずいた。

 

「大丈夫。ごめんな、見苦しいもの見せちまって」

 

「いえ。……そんなに美味しかったですか?」

 

「うまかった。チョコレートを食べたのなんて、記憶にある限りだと六歳の誕生日以来だったから。その、懐かしくて。いろいろと思い出しちまった」

 

「……そうだったんですか」

 

「二〇〇〇年以降、アルバトロスの出現によって外国から食べ物を輸入できなくなった日本が食糧不足に陥ったのは、小春も知ってるだろ?」

 

「はい」

 もちろん知らなかった。

 

 もしかすると現代社会に対する僕の知識は、二〇〇〇年を境に途切れてしまっているのかもしれない。

 

 けれど自分は記憶喪失なのだと説明するために、わざわざ話の腰を折るわけにもいかず、黙ってマコトの言葉に耳を傾けるのだった。

 

「まあ俺は、二〇〇五年生まれの十八歳で、生まれた時から日本は食糧不足だったから、あんまり深刻に考えていなかったんだけどな。食べ物をえり好みしなければ餓える心配はなかったし、誕生日とかの特別な日に、小さなチョコレートケーキを買うくらいの余裕は、当時はまだあったんだ」

 

「…………」

 

「ただそれも二〇一二年を境に一変した。沖縄を飲み込み、九州地方に上陸したアルバトロスが日本本土を蹂躙してからは、地獄のような毎日だった」

 

 マコトは淡々とした口調で当時を語る。

 

 けれど、彼女の両手はなにかを耐えるように強く握り締められていた。

 

「だから、そのアルバトロスを倒してくれた人類統合軍、特に賽原基地所属の軍人さんには、本当に心から感謝しているんだ」

 

「……アルバトロスを倒した部隊が、賽原基地の所属だったからですか?」

 

 アリス様との会話を思い出しながらそう答えると、マコトは小さくうなずく。

 

「ああそうさ。戦略機動部隊、あの偉大な〝ハミングバード〟が世界で初めてアルバトロスの完全撃破に成功した日のことは、今でもよく覚えてる。辛気臭いスラムの空気なんて全部吹き飛んで、誰もがみんな目を輝かせて喜びを分かち合っていた。もちろん、俺もな」

 

 マコトはぼんやりと遠くを眺めていた。きっと過去の情景を思い浮かべているのだろう。

 

「部隊がアルバトロスを撃破する度に、スラムは上を下への大騒ぎで、いつもは爪に火を灯すような切り詰めた生活をしていた奴まで、明るい顔で子供みたいにはしゃぎ回っていたんだ。だから第六次討伐作戦が失敗して、部隊が全滅したって聞いた時は、それはもうショックだった。最後の作戦が成功していれば、人類は復興に全力を注ぐことができたからな」

 

「…………」

 

「それでも、俺たちは彼らに感謝しているんだ。アルバトロスが撃破されるごとに、統合軍は少しずつ難民支援に力を注ぐようになって、ゆっくりとだけど生活が楽になっていったんだ。彼らは間違いなく、本物の英雄だった。軍事機密の関係で、所属隊員の氏名が伏せられたままなのが残念でならない」

 

「……英雄」

 

「なあ、小春。お前のご主人様は、統合軍の高級将校なんだろ?」

 

 マコトはとても真剣な面持ちで、僕に詰め寄った。

 

「ええ、そうみたいですけど……」

 

「名前は? その人の名前はなんて言うんだ?」

 

 一瞬、正直に答えてしまっていいのだろうかと悩んだが、仮にここで言いつくろったところで、それは簡単に見破られてしまうだろう。彼女の琥珀色の瞳に見つめられていると、そんな気がしてならなかった。

 

「来栖野有栖様です」

「来栖野?」

 

 だから僕は正直にアリス様の本名を伝えたのだけど、その直後から、マコトは明らかに気を動転させていた。

 

「それってまさか来栖野博士のことか!?」

 

「来栖野博士……? マコトはアリス様のことを知っているのですか?」

 

「知ってるもなにも、来栖野博士は天才科学者だ! 戦略機動部隊〝ハミングバード〟を発足させた立役者で、現在普及しているサイボーグ技術を、たった一人で確立させた人類史上最高の天才だぞ!?」

 

 ……え? アリス様が天才科学者?

 

「その呆けた顔を見る限り、なにも知らなかったみたいだな。……はぁー、まったく。今日はなんて日だ」

 

 マコトは深いため息を吐きながらズルズルと近くの壁に寄りかかった。

 

 まもなくなにかを決心した彼女は、両ひざを叩いて姿勢を正し、こちらに歩み寄って僕の手を握る。彼女の手は震えていた。

 

「……小春、ここから逃げるぞ」

 

「どうしたんですか、急に」

 

「どんな理由があるにせよ、お前が来栖野博士にとって大切な存在なのは間違いない。でなきゃ、このご時世にお前みたいな世間知らずを使用人にしておく理由が俺には思いつかない」

 

 マコトの手は震えていたが、決してこの手を離しはしないという強い決意がひしひしと伝わってくる。確かにこのまま倉庫で大人しくしていても、僕らを待ち受けているのは、目を覆いたくなるほど悲惨な結末に違いない。 

 

「だから逃げるぞ! お前はこんなところに居ちゃいけない人間だ!」

 

「……マコト」

 

 こういうのは早く決断するほうが良いに決まっている。

 

 僕は、その震える手を強く握り返した。

 

「わかりました。逃げましょう」

 

 即答すると、マコトは心底驚いた様子で、こちらの顔をまじまじと見つめてくる。

 

 おそらく僕が怖気づくと踏んでいたのかもしれない。

 

「それで、どうやってここから脱出するのですか?」

 

 それはきっと最善の選択ではないのだろう。脱出が無事に成功する確証なんて微塵もありはしない。でもこのまま、ここでじっとしていても廃工場を根城にしている連中は僕らをなぶり殺しにするに決まっている。

 

 だから腹をくくるしかない。不思議なもので、一度決意してしまうと心の奥底で渦巻いていた不安と恐怖がスッと消えていく。脳内はクリアで、思考が冴えわたり、微かな緊張によって気分が高揚する。

 驚いた。意外にも、僕は本番に強いタイプなのかもしれない。

 

「小春って、意外と度胸あるよな」

 

「かもしれません」

 

「ははっ。じゃあ早速、肝心の作戦についてだが」

 

「作戦があるのですか?」

 

「ある。じつはな、周囲の見張りは一定時間で交代するんだが、それには規則性あって」

 

 僕らが身を寄せ合って、小声で脱出作戦について話し合おうとしていると――。

 

 ガラガラと音を立て、誰かが倉庫の扉を押し開いた。

 

 まさか、このタイミングでっ!?

 

 

 

「はぁ、やっぱここはクセーな」

 

「まったくだ。近づいただけで養豚場みたいな臭いが漂ってきやがる」

 

「――っ!」

 聞こえてきた軽薄な会話に、僕らは自分たちの不幸を嘆きながら、息を殺して身をすくませるしかなかった。

 

 まもなく倉庫内に、二人組の男が入ってくる。市街地の廃墟で銃口を突きつけて、僕を拉致したあの二人組である。彼らは無骨なライフル銃を所持し、ニタニタと薄気味悪い笑みを顔にはりつけ、ゆったりとした歩調でこちらに近づいてきた。

 

「おいセクサロイド、こっちに来い」

 ……セクサロイド。

 

 そういえば彼らは、僕のことを人型の女性ロボットだと勘違いしているのだった。

 

「どうした、早くしろ」

 

 有無を言わせぬ口調でそう言うと、以前対戦車ロケットを所持していた大柄の男は、真っ黒な銃口を突きつけた。

 

 脳裏に浮かび上がった明確な死の予感が、反抗する気力を根こそぎむしり取る。そして恐怖は瞬時に全身へと伝播し、心臓を鷲掴みにされたような息苦しさと胸の痛みに、ただただ驚き戸惑うばかりだった。

 

「……っ」 

 ダメだ。逆らえない。そう直感で悟った。

 

 あの銃口を前にすると、僕はどこまでも臆病になってしまう。

 

 ごめんなさい、マコト。どうやら脱出作戦は延期しなければならないようです。

 

 お願いですから、僕を置き去りになんてしないでくださいね? 彼らに殺されてしまったらそれまでですけど、ここから逃げ出す時は、絶対に二人一緒じゃないと嫌ですからね?

 

 置き去りにされるのがなによりも心配だった僕は、奴らに悟られないよう細心の注意を払いながら、マコトに対してアイコンタクトで意思の疎通を試みた。

 

 けれど効果は今一つみたいだ。

 

「いつまで待たせるつもりだ! 早くしろっ!」

 

「ひっ」

 情けないことに、怒鳴られただけで全身が縮みあがり、小さな悲鳴が漏れてしまう。

 

 どうやら時間切れみたいだ。これ以上、男たちは待ってはくれないだろう。

 

 恐怖に震える足を強引に動かし、彼らのもとに向かおうとすると。

 

「お、おい、ちょっと待ってくれよ」

 

 武装した二人組の視線から僕を遮るように、マコトが前に進み出た。そのまま静かな足取りで歩み寄っていく。

 

「こいつは、まだここに連れてこられたばかりで、いろいろと混乱しているんだ。なあ、今日のところは勘弁してくれないか? その代わりと言っちゃあアレだが、今夜は俺がアンタらの相手をする。だからさ――」

 

「…………」

 

 男は銃口をこちらに突きつけたまま、眼球だけを動かしてマコトをいちべつしたが、それもすぐに止めてしまった。深淵を映したような銃口と、感情の読み取れない冷酷な眼差しを向けられ、僕の身動きは封じられていた。

 

「――――」

 それは一瞬の出来事だった。

 

 倉庫内に重たい銃声が響き渡った。

 

 ついさっきまで、こちらに突きつけられていたはずの銃口は、いつの間にかマコトへと向けられていて、銃声の後に排出された空薬莢が乾いた音を立てて地面をはねた。

 

 発射された一発の銃弾は、どうやら彼女の胸部中央を撃ち抜いたようである。

 

 胸を至近距離から撃たれたマコトは、真正面から車に衝突されたみたいに吹き飛ばされて、目を見開いたまま仰向けに倒れ込んだ。

 

「あーあー、なにも殺すことないのに」

 

「お前は、垢塗れの臭い女がいいのか?」

 

「でも、もったいないじゃん。簡単に殺しちゃうのはさー」

 

「こいつ、病気持ちだったみたいだぞ」

 

「ウゲっ、マジかよ」

 

「ああ、だからボスが先週くらいからペニシリン系の抗生剤を――」

 

 僕は状況が飲み込めないまま、血の海と化した地面に倒れ、身じろぎ一つしないマコトへと視線を送る。

 

「…………」

 なんだ、これは?

 

 彼女はすでに死んでいた。おそらく心臓を撃ち抜かれて即死したのだろう。

 

「マコト?」

 

 もう死んでしまったのだと頭では理解していたが、僕は彼女のもとに歩み寄った。

 

 血だまりの上を歩く度に、びちゃびちゃと水音がしてメイド服のスカートの裾に赤黒い斑が飛び散っていく。血だまりの上で立ち止まると、静かに足元を見下ろした。そうしていると男たちが騒ぎ始めたが、そんなのはもはや気にもならなかった。

 

 僕はその場で膝を折ると、血の海に沈んだマコトを抱き寄せる。瞳孔の開いた両目が虚空を見上げていた。彼女の背中はザクロみたいに裂けて大穴が貫通し、明らかに致死量と思われる大量の血液が、細切れの肉片ともども流れ出ていた。

 

 ああ、やっぱり死んでいる。

 

 わざわざ確認するまでもない。すでに分かりきっていることだった。

 

「あ……ああぁ……ああぁぁ」

 

 世界は血と汚物に塗れていた。

 

 弱者は一方的に虐げられ、辱められ、食い物にされていた。

 

 なんて醜悪な世界なんだ。

 

 これが人の住む世界なのか。

 

「あ、あ、アァァァァァァーーーッ!!」

 

 おぞましい二匹のケダモノが、こちらを指差してわらっていた。

 

 

 

 ――この世界を必ず守ってみせる。

 

 軍に徴兵されたばかりの少年が、真剣な眼差しで己の決意を語っていた。

 

 これがその守るべき世界だというのか? 

 

 命を賭してまで守る価値のある世界だというのか?

 

 ――死して護国の鬼とならん。

 

 そう言って笑いながら死んでいった人々が、かつて大勢居たような気がする。

 

 彼らは、こんな荒んだ国を守るために死んでいったというのか?

 

 ――こんな世界滅んでしまえばいいのに。

 

 そう誰かが呟いていた。

 

 ところが、その言葉を聞くと途端に冷静になる。

 

 そう思わずにはいられないからといって、じゃあ本当に世界は滅ぶべきなのかと真剣に考えてみると、やっぱり滅ぼしていいはずがないんだ。これほど醜悪な世界でも、マコトのような心根の優しい人々が生きていた。まだ希望は残されているはずなのだから……。

 

「なにか聞こえないか?」

 

「いや、なんも聞こえないけど」

 

 刹那、ミサイルが低空を飛翔し、大気を斬り裂く轟音が周囲にこだました。

 

「おいおいマジかよッ」

 

「マズい、近づいてくる。伏せろッ」

 

 ついさっきまで絶対者のように振る舞っていた彼らは、その音を聞いた途端に血相を変え、ワラジムシみたいに這いつくばった。

 

 まもなく空中から爆弾が投下されたような、あの特徴的な風切り音が聞こえてきたかと思うと、白い物体が上空から飛来し、衝撃波を伴って倉庫の古びた天井を突き破った。

 

 それは全高一・五メートルほどの精巧な機械の塊であった。

 

「――ああ、これか」

 砂埃が晴れると、僕は無意識に呟いていた。

 

 天井の大穴から差し込む月明りに照らされ、全体を覆うセラミックスに似た純白の装甲が、夜露に濡れたような光沢を放っている。

 

 その機械の外見は、例えるなら頭部が存在しない人型ロボットであり、博物館に展示されたフルプレートの甲冑と同じく、内部は空洞であった。

 

 どういうわけか、僕はこいつをよく知っている。

 

 これは見た目通りの防具ではなく、凄まじい殺傷能力を秘めた攻撃兵器だ。

 

 それを裏づける多様な兵装が、機体の随所に搭載されている。

 

 両腰には、複数の近接兵装を収納可能な機械化された鞘〝ブレードランチャー〟を装着し、腕部には大出力の遠距離兵装を内蔵。

 

 左右の肩甲骨付近には、荷電粒子推進機構――荷電粒子を亜光速で放出して推進力を得る装置と、三次元推力偏向パドルをそれぞれ備え、地上での極めて柔軟な極超音速戦闘を可能としていた。

 

 事前に知り得ていたそれらの情報が正しいとするならば、この兵器の名は――。

 

「戦略兵装機構〝渡り鳥〟」

 

 母なる大地を食い荒らす巨大生物を、今度こそ地球上から駆逐するために造り出された人類の切り札。来栖野式特二十型装甲義体〝アマツバメ〟の外部兵装にして、対アルバトロス用の決戦兵器であった。

 

「…………」

 

 僕は意を決し、腕に抱いていたマコトの遺体をゆっくりと地面に横たえた。

 

 余裕を失って喚き散らす目標を横目に見ながら立ち上がると、一歩二歩と血だまりの上を歩き、血液にまみれた真っ赤な手で渡り鳥の装甲表面をするりとなぞる。

 

 高度な応用数学の結実たる魅惑的な曲線を描く純白の装甲群が、マコトから流れ出た血液によって深紅に染まっていく。

 

《メインシステム、オンライン。コールサイン、パックス・ワン》

 

 突如、中性的な機械音声が脳内で響いた。

 

《お久しぶりです、少佐。戦略機動部隊〝ハミングバード〟所属、雪風小春少佐の認証コードを確認しました。セーフティを解除します》

 

 渡り鳥は端的に言うならばパワードスーツであり、パイロットが体に纏う形で使用する兵器である。

 

「戦闘形態」

 

《了解。戦闘形態へ移行します》

 

 命令によって、渡り鳥は兵器として覚醒した。

 

 搭載された人工知能が機体を自律的に操縦し、天井を突き破って着地した際に埋まってしまった脚部を引き抜くと、前面に並ぶ無数の装甲板をムカデの足のようにシャラシャラと動かして、コックピットを開放する。

 

 それと同時に、背後から向けられていた二つの銃口を機体そのもので遮り、パイロットを守る盾となった。

 

 直後、機体で遮られた向こう側から幾重もの銃声が鳴り響いたが、あの程度の個人用火器ならば渡り鳥の極めて高度な防御機能を使用するまでもなく、持前の装甲板だけで十分防ぐことが可能である。

 

 銃声が鳴り止んだのを見計らって、僕は靴を脱ぐと機体内部に体を滑り込ませた。

 

 すると装甲板は再び滑らかに動き始め、はみ出ていたスカートやエプロンなどを素早く切り裂いて、内側へと折りたたんでいく。

 

《ムクドリ型永久発電機構とのコネクトを確認》

 

 次第に、強く指圧されたような鈍い痛みが背中から首筋にかけて広がり、数秒視界が明滅する。

 

《機体の内圧を設定してください》

 

「……優しく、抱きしめるように」

 

 両手で後ろ髪を根元から持ち上げると、首回りの装甲の隙間から、一息に機体の外へとかき出した。突き破られた天井より降り注ぐ月の光を浴びて、昼間よりも白く輝く金色の長髪が、羽ばたく鳥のように広がっていく。

 

《機体各部、正常。戦略兵装機構〝渡り鳥〟戦闘形態に移行しました》

 

 さあ、始めよう。

 

 

 

「あ、ありえねぇ、軍用のパワードスーツだなんてウソだろッ!? そんなのありかよッ!?」

 

「なにボサっとしてんだ! 撃て、撃てッ!」

 

 僕は困惑していた。目標の動きが、あまりにも緩慢すぎたのである。

 

 重金属粒子を亜光速で後方へと発射し、反作用で爆発的な推進力を得る荷電粒子推進機構を使用するまでもない。

 

《ムクドリ型永久発電機構、超並列発電始動。並行世界に遍在する不特定多数の当該ユニットからの電力供給を確認しました。総出力、三百メガワットを突破》

 

 一秒を百倍に引き伸ばしたような時間感覚の中で、外部兵装たる渡り鳥によって、数百倍にまで増強された電磁筋肉の瞬発力をいかんなく発揮し、瞬時に目標との距離を詰めると、その軽薄そうな男の顔面に飛び膝蹴りを見舞った。

 

 メキっという鈍い音がして、脊椎と頭蓋骨を粉砕する感触が膝先の装甲から伝わり、目標はコンクリートに叩きつけられたゴム玉もかくやと跳ね飛んでいく。

 

 老朽化していた倉庫の正面扉を豪快に突き破り、いくつかの肉塊が工場敷地内の舗道に散らばった。そんな光景を前にして、取り残された男はしばし呆然と立ち尽くしていたが、それでもなお戦意を失いはしなかった。

 

「な、何なんだよッ! お前はッ!?」

 

 驚くべきことに、男は想像以上に優秀な戦士であった。彼は恐慌状態に陥りながらも、決して脅威に背を向けることはなかった。戦友の骸によって開け放たれた扉から狭い倉庫を脱し、友軍の射線が通りやすい工場敷地内へと後退しつつ、構えた小銃を指切り点射した。

 

 わずかな時間で機体の弱点を的確に見抜き、排熱の問題から唯一装甲化されていない機体の頭部を正確に射撃してのけたのだ。

 

《電磁流体装甲、起動》

 

 しかし、こちらのダメージは皆無だった。以前、統合軍の兵士からレーザー兵器を向けられた際に発生した粒子状の光の膜、それを何十倍にも濃くしたものが周囲に現れ、飛来する銃弾を跡形もなく蒸発させたのだ。

 

 これは〝電磁流体装甲〟と呼ばれる防御兵装であり、荷電した特殊な重金属粒子を循環させてバリアを形成し、飛来する銃弾やレーザーなどの威力を減衰させる効果がある。

 

 機械化された体――アマツバメ単体でも同様のバリアは展開できるが、それは簡易的なもので、重金属粒子の濃度は低い。

 

 そのため対人用のレーザー兵器程度ならば安全に防ぎきれるが、アマツバメ単体のバリア性能では、銃弾やロケット弾などの実弾を阻止できない。質量のある物体を蒸発させるには出力が不足しているのだ。

 

「……ッ」

 男は恐怖に歪んだ顔で何度もトリガーを引いていたが、もはや弾薬は尽きている。

 

 僕はゆったりと歩きながら、腰部に装着された金属製の鞘〝ブレードランチャー〟に右手を伸ばす。瞬時にセンサーが反応して、ランチャー内部から柄が自動的に押し出された。

 

 眼前の男を次の目標に定め、ランチャーから押し出された柄を握り、一息にその刃を抜き放つ。

 

《近接兵装〝対物ブレード〟抜刀。銘、相州五十七代鬼正(そうしゅうごじゅうななだいおにまさ)

 

 刃渡り二尺四寸。

 

 火焔乱れ込む大切先が剣呑に輝く、重ねの厚い剛毅な出で立ち。

 

 軍用ナイフに類似した無機質な柄、鍔は存在せず、刀身にはごくわずかな反りがある。

 

 ゆるやかに波打つ刃文は優美なのたれ刃であったが、本来白く冴えるはずの刃は灰色に染まり、地鉄に至っては刀剣的美しさの一切が排除された漆黒であった。

 

 世界一有名な刀、正宗。

 

 その作風である相州伝の趣きをわずかに残す、異質な軍用の長刀。

 

 この長刀は、瓦礫撤去用の切断工具を、世界最高峰の技術者が対アルバトロス用の近接兵装に造り替えた代物で、いわゆる高周波ブレードの一種であり、超高速で振動する刃が文字通り万物を斬り裂く兵器であった。

 

 現時点で、目標との距離はわずか十二メートル。

 

 一足一刀の間合いだ。

 

 むろん、鬼正の刀身が十二メートルもあるわけではないが、今現在の義体性能をもってすればこの程度の距離はないも同然である。

 

「……当方、雪風小春。推して参ります」

 

 相手にこちらの初動を悟られる前に、つま先だけで地面を蹴って瞬時に彼我の距離を詰めると、ほぼ同時に刃を三度繰り出した。

 

「――ふっ」

 狙うは、眉間、のど、胸部の三か所である。

 

 超高速で振動し、鋼鉄すら容易に斬り裂く相州鬼正の浅黒い刀身が、頭上から降り注ぐ月光を浴びて三度煌めき、一瞬にして頭脳、延髄、心臓を刺し貫く。

 

 目標である男は膝から崩れ落ち、悲鳴はおろか自身の死を知覚する間もなく絶命した。

 

 対象が完全に死んでいることを入念に確認すると、刃こぼれは無論のこと、血液すらも付着していない相州鬼正を片手のみで半回転させ、逆手に持ち、切っ先からランチャーへと瞬間的に投げ戻す。

 

「はぁー」

 

 屋外、星空の下で深く息をはくと、冬場でもないのに大量の白い蒸気が立ち昇った。

 

 口内から吐き出されたのは摂氏数百度の過熱蒸気であり、主機出力の向上によって発生した膨大な熱が呼吸と共に排出されていく。

 

「…………」

 

 夜空を見上げたまま、僕は手のひらに残留する人間を殺めた感触と静かに向き合った。

 

 思考が霞んでいく。

 

 ――ああ、ごめんなさい、式上(しきじょう)中尉。あなたの造り出した刀で、僕はよりにもよって日本人を殺めてしまいました。なんと言ってお詫びすればいいか。

 

 霞がかった脳裏に、統合軍の軍服を身に纏った見知らぬ人物の後ろ姿が描き出された。

 

 それはとても小柄で、新雪のように真っ白な長い髪が特徴的な若い女性であった。

 

「式上中尉って誰だっけ?」

 

 しかし、僕はふと気づく。

 

 フルネームは、たしか〝式上ゆき〟だったはずだ。

 

 けれど変だな、名前は出てくるのに彼女の顔が一切思い出せない。

 

「…………」

 

 まあ、こっちは記憶喪失なわけだし、こういうこともあるか。

 

 




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