夕暮れの東京は、昼と夜の境界が曖昧になる時間だった。高層ビル群の窓ガラスは西日に照らされて赤く輝き、幹線道路を走る車列のライトが少しずつ存在感を増していく。仕事帰りの会社員や学校帰りの学生たちが絶え間なく行き交う表通りは活気に満ちていたが、その喧騒から一本外れた裏路地には別種の静けさが漂っていた。古びた雑居ビルの壁に挟まれた細い通路には人影もまばらで、どこか空気が淀んでいるようにも感じられる。
その路地の奥に、場違いな露店がぽつりと店を構えていた。
安物の折り畳み机の上には色褪せた紫色の布が敷かれ、その中央には大きなヒビの入った球体が置かれている。遠目には水晶玉にも見えるが、近づいて見ればただのガラス玉にしか見えない代物だ。脇には『占い 初回無料』と書かれた手製の看板が立て掛けられており、雑な筆跡と安っぽい見た目が胡散臭さをこれでもかと主張していた。
そして、その机の向こう側には一人の少女が腰掛けている。
艶やかな黒髪は腰まで流れ、沈みかけた夕陽を受けて絹糸のような光沢を放っていた。白磁のように滑らかな肌に映える紅い瞳は妙に印象的で、夕闇の中でも不思議な存在感を放っている。年齢は十六、七歳ほどにしか見えないが、その双眸の奥には同年代の少女にはない落ち着きが宿っていた。
黒いローブを羽織ったその少女――九条咲は、頬杖をつきながら通り過ぎる人々を眺めていた。
暇だった。
今日訪れた客はまだ二人だけで、そのどちらも恋愛相談だったからだ。彼氏が浮気しているのではないかと悩む女子大生と、告白する勇気が出ない男子高校生。
結果はどちらにも教えてやった。
もちろん当たる。
当たり前だ。
咲には未来が見えるのだから。
恋愛運、金運、将来起こる出来事、人間関係の変化。見ようと思えば大抵のことは分かる。ついでに霊の存在も見えるし、怪異の気配も感じ取れる。本人ですら把握しきれないほどの能力を持っていた。
転生特典。
そう呼ぶのが一番近いのだろう。
前世では男だった記憶がある。平凡な日本人として生き、平凡な人生を送り、そして死んだ。その後どういう理屈か知らないが、気が付けば少女として生まれ変わっていた。
最初は戸惑ったものだ。しかし今では慣れた。人間という生き物は意外と適応力が高いし、能力のおかげで金には困らない。
こうして適当に占い師をやっているだけでもある程度は稼げるのだから。
「さて、今日はどんな人が来るのかしらね」
呟きながら咲は欠伸を噛み殺した。
その時だった。
路地の入口を一人の青年が通りかかる。
二十歳前後だろうか。大学生らしいラフな服装をしており、片手でスマートフォンを操作しながら歩いている。だが看板を見つけた瞬間、その足がわずかに止まった。
『占い 初回無料』
そしてローブ姿の少女。
どう見ても怪しい。
青年の顔にはそう書いてあった。咲は思わず笑いそうになる。
いい顔だ。
実にいい。
その疑いと警戒心に満ちた表情がたまらない。
「占っていかないかしら? 初回無料よ?」
咲が声を掛けると、青年は露骨に身構えた。
「いや……占いとか別に信じてないんだけど」
「そうねぇ、別に信じなくてもいいわよ」
あっさり返されて、今度は青年が戸惑う番だった。もっとしつこく勧誘されると思っていたのだろう。
咲は興味なさそうにガラス玉を指先で転がしている。
「本当に無料?」
「ええ」
「あとで金取られたりしない?」
「しないわ」
「壺とか買わされたり」
「そんな物が置いてあるように見える?」
真顔で返され、青年は思わず吹き出した。
少しだけ警戒が解ける。
「じゃあ……試しに」
青年は空いている椅子に腰を下ろした。咲は青年を見た。ただそれだけだった。
名前も生年月日も聞かない。
手相も見ない。
視線を向けた瞬間、情報が流れ込んでくるからだ。
未来。
運命。
近い将来起こる出来事。
そして青年にまとわりつく黒い影。
「あら」
咲は小さく目を細めた。
「何?」
「あなた、三日後に死ぬわよ」
青年の表情が凍りついた。
「……え?」
「交通事故ね」
「は?」
「大型トラックね。信号待ちしているところに突っ込まれるわ」
あまりにも淡々とした口調だった。
まるで週末の天気予報でも話しているような気軽さである。
「お、おい」
「○○駅北口には近寄らないようにしなさいな。少なくとも三日後の夕方は特に」
「何なんだよ、それ」
「忠告よ」
「いきなりそんなこと言われて信じられる訳ないだろ」
青年の顔が険しくなる。
当然だった。
初対面の占い師に突然死を宣告されたのだ。信じろという方が無理だろう。だが咲は気にしない。信じるかどうかは本人の自由だ。
忠告を聞いて助かる者もいれば、聞かずに死ぬ者もいる。
結果はそれぞれだ。
咲は机の引き出しから小さな札を取り出した。白い和紙に墨で文字が書かれた簡素なお守りだった。
「これ、持って行きなさい。初めてだからサービスしてあげるわ」
「何これ」
「お守り」
「いや、いらないんだけど」
「そう」
咲は肩をすくめた。
「別にいらないならいいわよ」
そう言われると逆に気になるのが人間というものだ。青年はしばらく札を見つめた後、結局ポケットへ押し込んだ。
「じゃあな」
「ええ」
青年は半信半疑のまま路地を去っていく。その背中を見送りながら、咲は静かに笑った。事故死する未来は存在している。だが、お守りを持ち歩けばその未来は変わる。
だから助かるだろう。
きっと三日後には必死になって自分を探し始める。死ぬはずだった自分が生きている理由を理解した時、人は面白い顔をする。
最初は詐欺師を見るような目を向けていた客が、次に会う頃には救世主でも見つけたような顔になる。その変化を見るためだけに、この胡散臭い格好を続けていると言っても過言ではなかった。
その時、咲がふと路地の奥を見ると、首のない女が立っていた。白いワンピースは赤黒く汚れ、首の断面からは血が絶えず滴り落ちている
「あら?」
咲は目をぱちりと瞬かせる。
「貴方も占っていく?」
まるで近所の子供にでも話しかけるような気軽さだった。
その瞬間、女の身体がびくりと震えた。女は数歩後ずさると、怯えるように身を縮こまらせた。そして次の瞬間には、黒い靄となって霧散する。路地裏には何事もなかったかのような静寂だけが残った。
咲は特に気にした様子もなく頬杖をつく。
三日後にはもうこの場所にはいない。次の駅前かもしれないし、別の路地裏かもしれない。探してもそう簡単には見つからないだろう。
だからこそ面白い。
東京には人間が知らないものが無数に潜んでいる。
深夜のホームを歩く影。誰もいない部屋から聞こえる足音。監視カメラにも映らない何か。年間の行方不明者や変死事件の中には、確かに人ならざる存在が関わっているものがある。
だが人々は知らない。
怪異がすぐ隣にいることを。
そして今この路地裏で、そんな怪異すら相手にならない存在が暇潰しに占い屋を開いていることも。
夕陽が沈み、街に夜の帳が下り始める。薄暗くなった路地裏で、九条咲は次の客を待ちながら静かに微笑んでいた。