夜の東京は昼間とは別の顔を見せていた。駅前には仕事帰りの会社員たちが溢れ、居酒屋の看板が色とりどりの光を放っている。どこからか焼き鳥の香ばしい匂いが流れ、酔ったサラリーマンたちの笑い声が夜風に混じって響いていた。
そんな賑やかな街並みから一本外れた裏路地には、相変わらず胡散臭い露店がぽつんと存在している。もっとも当の咲は客引きをするでもなくパイプ椅子に腰掛けながらぼんやりと通行人を眺めていた。
その時だった。
路地の前を一人の女性が通り過ぎる。
二十代後半ほどのOLだった。黒いスーツに肩掛けのバッグというよくある格好だが、どこか様子がおかしい。目の下には濃い隈が浮かび、肌の色も悪い。何日もまともに眠れていない人間特有の疲労が顔に滲んでいた。
だが咲の目を引いたのは別のものだった。
「あら」
思わず声が漏れる。
女性の肩には小さな赤子がしがみついていた。
生後半年ほどだろうか。青白い肌は血の気がなく、月光に晒された蝋細工のように冷たく見える。白く濁った瞳は焦点が定まらず、何かを探すように絶えず揺れていた。
小さな両腕は女性の首へ回されている。その指先は異様なほど細く、食い込むように肩へ絡み付いていた。
人間ならば持っているはずの温もりも、生気もない。
それは紛れもなく怪異だった。
「そこの貴方、占ってかない?」
咲が声を掛ける。
女性は一瞬だけ看板へ視線を向けたが、すぐに興味を失ったように前を向いた。仕事帰りなのだろう。疲れの滲む横顔には、怪しげな路地裏の占いに付き合う余裕など残っていないように見える。
「結構です」
即答だった。女性は足を止めることなく歩き続ける。ヒールの音が乾いたアスファルトを打ち、女性はそのまま雑踏へ戻ろうとする。
咲は小さく肩をすくめた。
「最近、両肩が重いでしょう?」
女性の足が止まった。
ぴたり、と。
まるで時間が止まったかのような不自然な静止だった。
「夜中に物音がしたり…」
女性がゆっくり振り返る。
「毎晩悪夢も見るわね?」
女性の肩がびくりと震える。
「……どうして、それを」
掠れた声だった。
咲は楽しそうに笑う。
「当ててみましょうか。夜中の二時から三時くらいに目が覚めることが多い」
女性の目が大きく開く。
「部屋を歩く音が聞こえる。でも電気をつけると何もいない」
「……」
「夢の中では知らない赤子が泣いている」
女性は何も言えなくなった。
図星だったからだ。
咲は椅子にもたれながらにっこりと微笑む。
「もう一度言うわ」
紅い瞳が細くなる。
「占ってかない? 初回無料よ?」
女性はしばらく迷っていたが、やがて諦めたように路地へ入ってきた。
「……お願いします」
「いらっしゃいませ」
咲は満足そうに笑った。
どうやら今夜の暇潰しは決まったらしい。
◇
女性が椅子へ腰を下ろす。近くで見ると隈の深さがより際立って見える。
「お名前は?」
「佐藤美智子です」
「ふーん」
咲は適当に頷く。
別に名前など必要ない。
見れば分かるからだ。
「一か月前くらいからかしら?」
女性の表情が強張る。
「症状」
「……そうです」
女性は膝の上で手を握り締めた。
「最初は肩こりだと思ってたんです。でも日に日に重くなって……」
「夜も眠れない」
「はい」
「病院には?」
「行きました。でも異常なしで……」
当然だった。
病気ではないのだから。
咲は女性の肩を見る。赤子は相変わらずしがみついたままだった。ただ先ほどから何度も咲を見ている。
赤子の濁った瞳がじっと咲を追っている。見えている相手だと理解したらしい。
「さて」
咲は立ち上がった。
「原因は分かっているわ」
女性が身を乗り出す。
「本当ですか?」
「ええ」
咲は女性の肩を指差した。
「赤子の霊が憑いているもの」
女性の表情が凍り付く。
数秒の沈黙が落ちた。
「……何を、言っているんですか?」
掠れた声だった。
「貴方の肩に、ずっとしがみついているわ」
咲は当たり前のことを告げるように続ける。
女性の顔から血の気が引いていく。
思わず立ち上がりそうになる女性を咲は手で制した。
「落ち着きなさい」
「落ち着けっていったって……!」
悲鳴にも近い声に、咲は「それもそうね」と小さく笑う。自分の肩に赤ん坊の霊が乗っているなどと言われて平然としていられる人間の方が珍しい。
咲は女性を宥めると、その肩にしがみついている赤子へ視線を向けた。赤子は逃げることもせず、ただじっと紅い瞳を見つめ返している。やがて小さな口がゆっくりと開いた。
『まま』
か細く、今にも消えてしまいそうな声だった。
その一言を聞いた瞬間、咲は事情を察する。
悪意は感じない。人を呪おうという気配もなければ、害を成そうという意思もない。ただ強く残った未練だけが、その小さな魂をこの世に縛り付けているのだろう。
「なるほどね」
咲が呟くと、赤子は落ち着きなく視線を巡らせながら、もう一度だけ小さな声を漏らした。
『まま……』
寂しそうな声だった。
咲は少しだけ目を細める。
たまたま波長の合った女性にしがみついてしまったのだろう。
「仕方ないわね」
咲は女性へ近付いた。
そして肩へそっと手を伸ばす。
赤子はびくりと震えたが、逃げようとはしなかった。
「大丈夫よ」
咲は優しく声を掛ける。
「怖くないわ」
そのまま赤子を抱き上げる。
すると女性の身体から重苦しい気配が一気に消え去った。
「え……?」
女性が目を見開く。
「肩が……軽い……」
まるで何十キロもの荷物を降ろしたかのようだった。
咲は腕の中の赤子を見下ろす。
赤子は彼女の胸元へ擦り寄りながら、不安そうに辺りを見回していた。
『まま……?』
「違うわ」
咲は静かに首を振る。
「私はママじゃない」
赤子は理解できない様子で首を傾げた。
そしてまた小さく呟く。
泣きそうな声だった。
咲は小さく息を吐く。
未来は見える。
怪異も見える。
だが失われた命を取り戻すことはできない。
だからできることは一つだけだ。
「帰りましょうか」
咲が優しく頭を撫でると、その瞬間、赤子の身体から淡い光が溢れ始めた。最初は小さな灯火のようだった光は徐々に強さを増し、夜の路地裏を柔らかく照らしていく。女性にはその光は見えていないはずだったが、それでもなぜか胸の奥がじんわりと温かくなり、気付けば一筋の涙が頬を伝っていた。
理由は分からない。ただ、どうしようもなく切なくて、どこか懐かしいような感覚が胸を締め付ける。
光の中で赤子はゆっくりと空を見上げていた。先ほどまで不安そうに揺れていた瞳から怯えは消え、代わりに穏やかな安堵の色が宿っている。その小さな顔はまるでようやく帰る場所を見つけた子供のように静かで、優しいものだった。
咲は最後にもう一度だけ頭を撫でた。
「大丈夫」
静かな声だった。
「ちゃんと会えるわ」
赤子は咲を見上げる。
そして、ふわりと笑った。
無邪気で、あどけなくて、どこにでもいる子供と変わらない笑顔だった。
次の瞬間、その身体は無数の光の粒となって夜空へ舞い上がる。
月明かりの下で光はゆっくりと空へ昇り、やがて見えなくなった。
後には静かな夜だけが残る。
「終わったの……ですか?」
女性が恐る恐る尋ねると、咲は何事もなかったかのように椅子へ腰を下ろしながら頷いた。
「ええ。今日から悪夢も見ないわ」
女性は肩へ手を置く。
確かめるように何度か動かしてみるが、もうあの重さはどこにもなかった。
「ありがとうございました……」
深く頭を下げる。
その声は安堵で震えていた。
「あの……お代は……」
遠慮がちに尋ねる女性へ、咲はひらひらと手を振った。
「気にしなくていいわ。初回無料だもの」
そう言って机の脇に立て掛けてある看板を指差す。手書きの『占い 初回無料』という文字を見て、女性は思わず苦笑した。
つい先ほどまで得体の知れない怪しい占い師だと思っていた相手が、今では命の恩人のように見えている。その変化が少しだけ可笑しかった。
「本当に……ありがとうございました」
女性は再び深く頭を下げる。その目元にはまだ涙の跡が残っていたが、路地へ入ってきた時に浮かんでいた疲労や怯えはもう見当たらない。
今夜はきっと久しぶりにぐっすり眠れるだろう。
「困ったことがあったらまた来なさいな」
咲は椅子にもたれながら気軽な口調で言った。
「次もここにいる保証はないけれどね。ああ、次からはキッチリ代金を貰うわよ?」
冗談めかした言葉に、女性は小さく笑う。
「はい。その時はちゃんと払います」
「よろしい」
咲が満足そうに頷くと、女性はもう一度だけ礼を言って路地の外へ歩き出した。その足取りは、ここへ来た時とは比べ物にならないほど軽い。
何度もこちらを振り返りながら去っていく女性を見送り、咲は夜空へ視線を向けてふぅと息を吐いた。
「これだから怪異絡みは飽きないのよねぇ」
ぽつりと呟きながら背もたれへ身体を預ける。恋愛相談や進路相談も嫌いではない。だが、未来を少し覗いて助言をするだけの仕事よりも、怪異が絡む案件には独特の面白さがある。
咲は欠伸を一つ漏らしながら、再び通りを行き交う人々へ視線を向ける。
さて、次はどんな客が来るのだろうか。
そんなことを考えながら、九条咲は今夜も路地裏で静かに笑っていた。