三日前の出来事が、高橋悠真の頭から離れなかった。
大学帰りに偶然見つけた路地裏の占い屋。ヒビの入ったガラス玉に手書きの看板、そして黒いローブを纏った美少女占い師。今思い返しても怪しさしかない。普通なら関わろうとも思わないような相手だった。
それなのに、あの時交わした会話だけは妙に鮮明に記憶へ残っている。
『あなた、三日後に死ぬわよ』
初対面の相手にそんなことを言われて信じる人間などいるのだろうか。少なくとも悠真は信じなかった。大型トラックが突っ込むだの、駅北口には近付くなだの、どう考えても冗談か詐欺だと思っていた。
だが、完全に忘れることもできなかった。
妙に具体的だったからだ。
三日後の夕方。大学の講義を終えて駅へ向かっていた悠真は、改札へ続く人混みの中でふと足を止めた。目の前にはいつも利用している北口への案内表示がある。
行こうと思えばすぐだった。だが、あの占い師の言葉が脳裏をよぎる。
馬鹿馬鹿しい。そんなものを気にする必要はない。そう思いながらも、胸の奥に小さな引っ掛かりが残っていた。
結局、悠真は南口へ向かった。占いを信じたわけではない。ただ何となく気が進まなかった。それだけだ。
そしてその日の夜、自宅で夕食を終えた悠真は何気なくスマートフォンを眺めていた。
突然、ニュース速報が画面へ表示される。
『○○駅北口付近で大型トラックが歩道へ突入』
その瞬間、全身の血の気が引いた。
震える指で記事を開く。
事故発生時刻は十七時四十二分。
場所は○○駅北口交差点。
運転手が意識を失った大型トラックが歩道へ突っ込み、複数の重傷者が出たと書かれている。
スマートフォンを持つ手が震えた。あまりにも一致していたからだ。
場所も、時間も、事故の内容も。
「嘘だろ……」
乾いた声が漏れる。
もし自分が普段通り北口を利用していたら。もしあの日の忠告を完全に無視していたら。そう考えた瞬間、背筋を冷たい汗が流れ落ちた。偶然だと言い聞かせようとしても無理だった。なぜなら、自分は今こうして生きているのだから。
◇
翌日。
悠真は講義が終わると真っ先にあの路地裏へ向かった。
だが、占い屋はなかった。
露店もない。
看板もない。
あの少女の姿もない。
そこにあるのは薄暗い路地だけだった。
「いない……」
肩透かしを食らったような気分だった。
それから数日間、悠真は時間を見つけては周辺を探し回った。帰宅ルートを変え、別の駅まで足を伸ばし、似たような路地裏を覗いてみる。
だが見つからない。
探せば探すほど、自分が見たものは夢だったのではないかという気さえしてくる。しかし事故のニュースを見るたびに、その考えは打ち消された。
あれは現実だった。間違いなく、自分は助けられたのだ。
そして五日目の夜。
ベッドへ寝転がった悠真は、スマートフォンで検索を始めていた。
『東京 路地裏 占い師』
『未来予知 初回無料 占い師』
『黒髪 占い師 美少女』
胡散臭いサイトばかりが並ぶ中、一つだけ気になるものがあった。
オカルト掲示板。
スレッドタイトルは――
【東京】路地裏の占い師を見たことある奴いる?【都市伝説】
「なんだこれ……」
半信半疑のまま開く。
そこには数百件を超える書き込みが並んでいた。
『またその都市伝説か』
『黒髪の美少女だろ?』
『場所が毎回違うらしい』
『事故を当てたって話聞いた』
『俺は財布の場所を当てられた』
『私ずっと不眠と肩こりで悩んでたんだけど、この人が解決してくれた』
『はいはい嘘松』
『俺の友達が会ったことある』
『怪異専門とかいう意味不明な噂もある』
『会えたらラッキーイベント扱いされてて草。普通逆じゃね?』
最初は冗談だと思った。
だが読み進めるうちに悠真の表情は真剣になっていく。書き込みの内容が妙に具体的だったからだ。
未来を当てられた者。
失くし物を見つけてもらった者。
事故を回避した者。
どれも証拠はない。それでも目撃談だけは不思議なほど途切れていなかった。悠真はスマートフォンの画面を見つめながら小さく息を吐く。
いる。
少なくとも自分は知っている。
実際に会ったのだから。
◇
さらに数日後の夕方だった。
空は茜色に染まり、高層ビルの窓ガラスが夕陽を反射して輝いている。仕事帰りの会社員たちが駅へ向かって足早に通り過ぎる中、悠真は何気なく裏通りへ視線を向けた。
そして足を止める。
見覚えのある看板が目に入ったからだ。
『占い 初回無料』
一瞬、自分の目を疑った。
何日も探し回っても見つからず、もう二度と会えないのかもしれないと思い始めていた相手が、今まさに目の前にいる。その姿を目にした瞬間、あの日味わった戦慄が鮮明によみがえり、背筋を冷たいものが走った。
咲はぼんやりと通行人を眺めていたが、やがて悠真の存在に気付く。そして少しだけ目を丸くした後、楽しそうに口元を緩めた。
「あら、生きてたのね」
まるで昨日の続きでも話すような気軽さだった。
礼を言いたかったし、確かめたいことも山ほどあった。だがいざ本人を前にすると、それらはすべて喉の奥で絡まり、何を言えばいいのか分からなくなる。
しばらくして、ようやく一つだけ言葉を絞り出す。
「貴方は……何者なんですか……?」
「ただの占い師よ?」
その答えは何一つ説明になっていなかった。
「占いって、あんなに細かく分かるものなんですか?」
「分かるわよ」
「そんな簡単に……」
「見えたものを言っただけだもの」
「でもテレビとかで見る占いはもっと抽象的でしたよ」
「人には人のやり方があるのよ」
咲は頬杖をついたまま言う。
「人って勝手よね。分からないことがあると、とりあえず理解できる形に押し込めようとする」
「理解できる形?」
「手品には種がある。占いには理屈がある。超能力にはトリックがある。そう思っていたほうが安心できるのでしょう?」
「それは……」
「別に悪いことじゃないわ。知らないものを知らないまま受け入れるのは難しいもの」
悠真はしばらく咲を見つめていたが、やがて諦めたように小さく息を吐く。どうして未来が見えるのかも、きっと聞いたところで教えてはくれないのだろう。路地裏の外では人々が絶えず行き交い、街の喧騒が流れ続けている。だがこの場所だけが、まるで別の世界のように感じられた。
「……助けていただきありがとうございました」
結局、悠真が口にしたのはそれだけだった。
咲は少し意外そうに瞬きをする。
「律儀ね」
「助けてもらったのは事実ですから」
咲は数秒だけ悠真を見つめ、「そう」とだけ返した。それ以上何かを言うこともなく、引き止めようともしない。
悠真は軽く頭を下げる。
「じゃあ」
「ええ」
「もう事故に遭ったりしませんよね?」
半ば冗談のつもりだった。
だが咲は少しだけ考える仕草を見せ、顎へ指を当てながら宙へ視線を向けた。まるで本当に未来を確認しているかのような様子に、悠真は思わず身構えてしまう。
「少なくともすぐに死ぬ予定はないわね」
「基準が低すぎません?」
「人間、生きてるだけで十分よ」
咲は当然のことのように言い切った。
未来を知る者だからなのか、それとも人の死を誰よりも近くで見てきたからなのかは分からない。ただ、軽い口調のはずなのにその言葉には妙な説得力があった。
悠真は苦笑する。
「そういうものですか」
「そういうものよ。それに明日のことなんて分からないほうが面白いでしょう?」
そう言って肩を竦めた咲は、すぐにいつもの飄々とした笑みへ戻った。
「困ったことがあったらまた来なさいな」
それが別れの合図だった。
その言葉に悠真は曖昧に笑った。そもそも次に会える保証すらない。それでも不思議と、またどこかで会う気がしていた。数歩進んでから振り返ると、咲はすでに別の通行人へ声を掛けていた。
「そこの貴方、占ってかない?」
相変わらず胡散臭い営業だった。思わず笑みが漏れる。だが今なら分かる。あの路地裏には本物がいる。誰にも信じてもらえなくても、自分だけは知っている。
悠真は小さく息を吐き、人混みへ向かって歩き出した。
『占い 初回無料』
そんな胡散臭い文字を見つけたら、今度は迷わず声を掛けるだろう。夕暮れの雑踏へ紛れながら、悠真は静かに笑った。