夕暮れ時、騒がしい表通りから一本外れた路地裏で、相変わらず九条咲は頬杖をついたまま通り過ぎる人々を眺めていた。欠伸を噛み殺しながら視線を上げれば、空はすでに茜色を失いかけ、藍へと沈みかけている途中だった。
そのとき、空気がわずかに変わる。人混みのざわめきの中に紛れていても見間違えようのない、澄んだ気配が近づいてくるのが分かった。霊力を持つ者特有の、余計な濁りのない輪郭。それに気づいた瞬間、咲はゆっくりと顔を上げる。
「ん? あら神代さん。いらっしゃい」
路地の入口には、一人の老人が立っていた。
神代和光。
都内の神社で神主を務める七十五歳の男であり、そして数少ない本物の霊能力者でもある。雪のように白い髪を整え、年齢を感じさせないほど真っ直ぐに伸びた背筋で立つその姿は、穏やかな神職そのものに見えるが、その奥にある眼差しだけは、この世界の“裏側”を長年見続けてきた者特有の鋭さを帯びていた。
「久しぶりね」
「やあ咲ちゃん。たまたま近くを通ったものでね」
神代は何気ない口調でそう言いながら路地へ足を踏み入れるが、その言葉を本気で受け取る者はここにはいない。咲もまた何も言わず、ただ視線だけでそれを受け流した。彼が自分の場所を見つけられる理由を、互いにわざわざ説明する必要はなかった。咲が不定期に場所を変えることも、その霊力を辿って神代が店を訪れることも、すでに何年も前から当たり前の関係になっている。
神代は慣れたように折り畳み椅子へ腰を下ろすと、懐から財布を取り出すよりも先に、まるで当然の手順のように話を切り出した。
「以前買った札も少なくなって来たから寄らせて貰ったよ」
「そう」
咲は相槌を返しながら机の引き出しを開き、淡々とした動作で在庫を確かめる。そこに特別な感情はない。ただ必要なものを必要なだけ出すだけの手際だった。
「何枚必要なの?」
「結界札と破魔札を共に十枚。あとは呪い避けの札を五枚と、占いもお願いしようかな」
「はいまいどあり。二十五万と千円になるわ」
金額を聞いても神代の表情は変わらない。それどころか、むしろ安いものだとでも言うように静かに頷きながら財布を開いた。
「毎度こんなに安く譲って貰って申し訳ないよ」
「気にしなくていいのよ。神代さんには昔お世話になったしね」
「そうかい?それなら今さら遠慮するのも野暮だね」
神代は受け取った札へ視線を落とす。こうして向かい合っていると、不思議と昔を思い出す。まだ背丈も低く、今よりずっと荒っぽい言葉遣いをしていた頃のことを。
気付けば随分と長い付き合いになっていた。思わず笑みが漏れる。
「ふふ」
「どうしたの?」
「いやなに、昔を思い出していてね。初めて会った頃の君は男の子みたいな喋り方をしていたじゃないか。それが今じゃ、こんなに綺麗なお嬢さんだ。時が経つのは本当に早いね」
「やめて頂戴。もう過ぎたことだわ」
「ごめんごめん。ほら、昔好きだった飴を持って来たんだ。これで機嫌を直してくれないかな?」
「いつまで子供扱いする気かしら。まあ、それは好きだし貰うけれど」
咲は受け取った飴を懐へしまう。その様子を見て神代は小さく笑った。
見た目も口調も随分変わった。だが、こういうところは昔のままだ。
だからこそ神代は安心する。
そして机の上へ並べられた札へ目を向けた。
それらは一見すればただの和紙だが、霊力を感じ取れる者からすれば、その一枚一枚が異質な密度を持っていることは明白だった。何年もかけて寺社が作る護符と比べても遜色ないどころか、それを凌駕するほどの圧がそこにある。
「ほんと咲ちゃんの札は効きがよくて助かるよ。しかも最近さらに強力になってきているね」
「そう?」
「うん。数年前とは比べ物にならないよ」
「ふーん」
「成長期だからかもしれないけどね」
「それはもう過ぎたんじゃないかしら」
咲は相変わらず関心の薄い返事をする。その態度は傲慢というより、そもそも比較という概念が存在していないかのような自然さだった。神代はそんな彼女に苦笑しながら札を丁寧に受け取り、まるで神具を扱うように懐へ収めていく。
やがて一息ついたところで、神代の表情だけがわずかに変わった。先ほどまでの穏やかさの奥に、仕事としての緊張が薄く滲む。
「最近何かと忙しくてね」
その言葉だけで、咲には十分だった。神職が忙しくなる理由など限られている。祭事の季節でもない今、その答えは一つしかない。そしてその答えは、咲自身もすでに薄々感じていたものだった。
路地裏に漂う気配がわずかに増えている。本来なら現れないはずの場所に、説明のつかない“何か”が混じることがある。相談に訪れる客の内容も、以前より霊障が絡んだものが増えていた。
「やっぱり咲ちゃんも感じてたんだね」
「ええ。増えているなとは思っていたわ」
「だから念のため、今後の安全を占って貰いたいんだ」
神代の言葉に、咲はほんの少しだけ目を細めた。
「また面倒なものでも出たのかしら」
神代が占いを頼むこと自体は珍しくない。だが、その内容が自分の身の安全となれば話は別だった。
この老人は大抵の怪異なら自力でどうにかしてしまう。だからこそ、わざわざ未来を確認したいと言い出す時は、大抵ろくでもない案件が絡んでいる。
「やっぱりわかっちゃうかい?」
「だって神代さんなら殆どの霊なんて相手にならないでしょう?」
「そう思ってくれるのは嬉しいけどね」
神代は苦笑した。
「最近は少しばかり勝手が違う」
その言葉に、咲はわずかに眉を上げた。
「そこまで言うなんて珍しい」
「私ももう歳だからね」
「よく言うわよ。貴方の霊気は会う度に鋭くなってるのに」
「もう昔ほど無茶な動きが出来なくなったから、せめて霊力だけでも立派に見えるように取り繕っているのさ」
「そういうことにしといてあげるわ」
神代は苦笑しながら頷くと、一度表情を引き締めた。
「それじゃあ、占いの方もお願いしていいかな」
「ああ、そうだったわね」
咲は頬杖を解き、改めて神代へ視線を向ける。相手を見つめ、その先に続く運命の流れを辿ってゆく。紅い瞳が静かに細められ、路地裏に短い沈黙が落ちる。
夕暮れの名残を残していた空はいつの間にか群青へと変わり始めていた。遠くから聞こえる車の走行音や人々の話し声が微かに響く中、咲の意識は神代の未来へと向けられる。
見えたのは今までと何も変わらない光景だった。怪異と対峙し、結界を張り、人々を守る神代の姿。傷を負う場面もあったが致命的なものではなく、老人は相変わらずしぶとく立ち続けている。少なくとも近い未来において、その命が尽きるような兆しはどこにも見当たらなかった。
やがて咲は小さく息を吐いて視線を外す。
「問題ないわね」
その一言に神代はわずかに肩の力を抜いた。
「それは良かった」
「面倒事はいくつか見えるけれど、ちゃんと乗り越えているわ。少なくとも当分は心配いらないんじゃないかしら」
神代は安堵したように笑う。だが咲の意識には、神代の未来を辿る途中で見えた別の光景が残っていた。
それは一人の人間の未来ではなく、東京という街そのものの流れだった。
夜の街並みの向こう側で、何かが少しずつ動き始めている。今まで表に現れなかった怪異が目を覚まし、人知れず世界の裏側が騒がしくなり始めていた。詳しくは読めないが、それでも確実に何かが変わりつつあることだけは分かる。
神代はそんな咲の表情を見て、小さく目を細めた。
「私以外にも何か見えたかな?」
「まあね」
咲は曖昧に答えながら群青色の空を見上げる。夜風が路地裏を吹き抜け、長い黒髪を揺らした。
「原因を探ってみるってのもいいかもしれないわね」
退屈を持て余していた紅い瞳に、わずかな興味の色が宿る。
どうやらしばらくは、退屈しなくて済みそうだった。