放課後の校舎は、昼の喧騒が少しずつほどけていく時間帯だった。部活に向かう足音と帰宅する生徒の話し声が交差し、夕日が窓ガラスを橙色に染めている。長く伸びた影が廊下の端で揺れ、どこか現実感の薄い静けさが混じり始めていた。
菅原一華は、その流れの中を一人で歩いていた。
黒髪は肩に触れる程度の長さで整えられ、細いフレームの眼鏡の奥で瞳が落ち着きなく揺れている。表情は普通の中学生と変わらないはずなのに、その眼差しだけが常に周囲と噛み合っていない。
昔から、少しだけそうだった。
誰もいない廊下に立つ影。夜道で一瞬だけ感じる気配。聞こえるはずのない呼び声。
それは幼い頃から確かにあったが、最初は数ヶ月に一度あるかないかの些細なものだった。疲れているだけだとか、気のせいだと片付けられる程度の違和感。
それが変わったのは、ここ数年の内だった。
月に一度。
週に一度。
数日に一度。
そして今ではほとんど毎日のように“それ”は現れる。
ただ見えるだけではない。
最近は明らかに違っていた。
見えているだけだったはずの“何か”が、時たまこちらを認識しているような様子を見せる。視線が合うはずのない場所で、確かに目が合う瞬間がある。
それでも一華は誰にも言えなかった。
父は帰りが遅く、家にいる時間はほとんどない。母はもう何年も前に家を出ている。友達にも相談できる相手はいないし、何より言ったところで信じて貰えない。
だから必死に目を反らし、知らないフリをする。気のせいだと、疲れているんだと言い聞かせる。
しかしその異常は、ただの思い込みで済ませるには、もう遅すぎるところまで来ていた。
靴音が廊下に響く。
一華は小さく息を吐き、校舎の外へ向かった。
昇降口を抜けた瞬間、夕焼けが視界を開く。校門へ向かう生徒たちの流れに混ざりながら歩いていた、その時だった。
視界がわずかに歪むような感覚がした。
一華は反射的に後ろを見た。
校舎の影の奥に、何かがいる。
人の形に似ているのに、人ではない。輪郭が揺れていて、目を凝らすほど形が崩れていくような存在。
その“何か”が、こちらを見ていた。
呼吸が止まる。
次の瞬間には走り出していた。
校門を抜け、通学路を外れ、人気の少ない裏道へと飛び込む。背後から追ってくる気配は、距離を詰めるごとに濃くなっていく。足音はないのに、確かに“追われている”という確信だけがあった。
息が上がる。胸が痛い。
それでも止まれなかった。
曲がり角をいくつも抜けた先で、一華は路地へと転がり込むように逃げ込んだ。薄暗い裏通り、古い建物の隙間、夕暮れの光が届かない場所だった。
そこでようやく、一瞬だけ息を整える。
──いない?
そう思った瞬間だった。
振り向いた視界の端に、それが写り込む。
さっきより近い。形もはっきりしている。顔のようなものが、こちらを覗き込むように歪んでいる。
逃げ場はない。
その事実が頭に落ちた瞬間、足がすくんだ。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
そのとき、路地のさらに奥から別の気配が流れ込んだ。薄暗い空間の中に、不自然なほど整った静けさ。
そこにいたのは高校生くらいの黒いローブを羽織った女だった。
場違いなほど落ち着いた空気の中で、安っぽい折り畳み机とひびの入ったガラス玉を前に座っている。
夕暮れの光が届かないはずの場所なのに、その女だけがやけに鮮明だった。
「占っていかないかしら。初回無料よ」
間の抜けたほど軽い声。
状況が理解できなかった。
だが背後の“それ”が動いた途端に、心臓を握り込まれるような悪寒が走る。
「──やかましいわね」
彼女の指先が軽く動く。
それだけで路地裏の喧騒が遠のいたような錯覚が走った。
背後の気配がぴたりと止まる。それはまるで見えない壁に阻まれているかのようだ。
一華は呆然とその光景を見る。
彼女はようやく視線をこちらへ向け、紅い目が一瞬だけ細められる。
「あら珍しい。コッチ側ね」
彼女はガラス玉へ手を置き、何事もなかったように言う。
「運が悪いわね、貴方」
「な、なんなんですか……あなた……」
「ただの占い師よ?」
あまりにも雑な答えだった。
一華が言葉を失っていると、興味深そうに目を覗き込でくる。
「霊感持ち。しかも最近になって急に強くなってる」
「……え?」
「見えるだけじゃなくて、向こうにも見つかるようになってるわね」
思わず息を呑む。
「どういうことですか……?」
「後で話すわ」
女は立ち上がった。
その動きは軽いのに、空気の重さだけが一段階変わる。机の上のガラス玉が微かに鳴った気がした。
彼女は路地の奥、背後の“それ”へ視線を向ける。
「随分としつこいわね。どうやら貴方に相当お熱みたいよ」
少しおどけたような声だった。
恐怖も嫌悪もない。ただ事象を楽しんでいるだけの声。
一華の方が理解できずに固まっている間に、彼女はローブの袖から模様の書かれた細長い紙束を取り出した。和紙に近いが、普通のそれとは明らかに違う。
「下がって」
有無を言わせない声に、反射的に身を引く。
紙片を指先で軽く弾くと、刻まれた紋様が淡く光を帯びた。その光に触れた瞬間、異形の輪郭が崩れ始め、黒い霧となって空気へ溶けていく。
数秒も経たないうちに、その姿は跡形もなく消え去っていた。
そして何事もなかったように紙を戻し、彼女は椅子に座り直した。
「はい終わり」
「……終わり……?」
自分の声は混乱からか掠れていた。
「とりあえずこれで今すぐは死ななくなったわ」
「今の……何なんですか……?」
「霊よ」
彼女は淡々と続ける。
「一般には幽霊や妖、あるいは怪異と呼ばれるものね」
その口調はまるで明日の天気でも話すみたいに軽く、一華にとっては余りにも現実味のない言葉だった。
「幽霊……って……」
言葉が遅れて追いかける。
彼女は小さく首を傾げた。
「見えてる時点で説明はいらないと思っていたけど」
机の上のガラス玉を指で軽く弾く。
「貴方も薄々わかってはいるでしょう?今後、こういうの増えるわよ」
「え……?」
「貴方、引き寄せるタイプだから。中途半端に霊気が漏れてるのよ。向こうからしたら目立って仕方ないでしょうね」
一華の背中に冷たいものが走る。
「それ、どうすれば……」
彼女は少しだけ考える素振りをしてから、再び袖に手を入れた。
中から取り出したのは、掌に収まるほどの小さな木のお守りだった。
丸く削られた木片には見慣れない紋様が細かく刻まれており、上部には穴が開けられて赤い紐が通されている。神社で売られているお守りにも似ているが、どこか違う。不思議な存在感があった。
「これ、持っていきなさい」
投げ渡されたそれを一華は反射的に受け取る。
「初めてだからサービスしてあげるわ」
木の感触が指先へ伝わる。温かくも冷たくもないはずなのに、なぜか手放してはいけないもののように思えた。
「それ、目印」
「目印……?」
彼女は机に頬杖をついたまま視線だけを向ける。
「持っている限り、位置が分かるようにしてあるわ」
そのままゆっくりと告げた。
「私の位置も、貴方の位置もね」
「それって……監視じゃ」
「違うわよ。放置すると死ぬから見てるだけ」
一華は返す言葉を失った。
彼女は頬杖をついたまま続ける。
「貴方、このままじゃ危ないもの」
「じゃあ……どうすればいいんですか…?」
「学べばいいんじゃない?」
一華は思わず顔を上げた。
「学ぶ?」
「力の使い方をよ」
彼女は肩をすくめる。
「見えるだけで終わるか、それとも扱う側になるか。その違いよ」
「私……普通に戻れないんですか」
一瞬だけ沈黙が落ちた。
「無理ね。貴方の体質は生まれつきのものだもの。変えることは出来ないわ。他の誰であってもね」
机の上の札を軽く叩く。
「でも鍛えれば今よりずっと生きやすくなるわ」
その言い方は妙に現実的で、逃げ道を塞ぐわけでも突き放すわけでもなかった。
視線が少しだけ細くなる。
「あとそのオドオドとした態度も直しなさい。怯えてると寄ってくるわ。一々祓うのも面倒なのよ」
一華は無意識に唾を飲み込んだ。
「で、どうするの?」
問いかけは淡白だった。選ばせているようで、実際には殆ど決められた答えを問うているだけ。しかしその言葉を受けても、一華はすぐには答えられなかった。
頭の中が追いついていない。
ほんの数十分前まで、自分はいつも通り学校で授業を受けていたはずだった。友達と話し、帰り支度をして、家へ帰るだけの平凡な一日になるはずだった。それなのに今は、幽霊がいると言われ、怪異がいると言われ、そのうえ自分はそれらに狙われているらしいと告げられている。
理解できるはずがなかった。
いや、本当は理解したくなかったのかもしれない。
「私……」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しく、掠れていた。
「普通に生きていただけなんです」
彼女は何も言わない。
その沈黙に促されるように、一華は続けた。
「見たくて見えてたわけじゃないし……こんなの、好きでなったわけじゃないのに……」
俯いた視界がじわりと滲む。
「お母さんは出ていって…お父さんに言っても理解してくれなくて…必死に気のせいだと思い込もうとして…」
怖かった。見えないはずのものが見えることも、誰にも相談できなかったことも。そして何より、今日見たあの異形が自分の妄想などではなく、本当に存在していたことが。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「そうでしょうね」
その返答は慰めでも同情でもなかった。ただ目の前の事実を認めるだけの声だった。
「でも残念だけど、それは変わらないわ」
一華は唇を噛む。
「貴方が望まなくても、向こうは来る」
静かな声だった。
「今日みたいにね」
反論はできなかった。
思い出すだけで背筋が冷え、胸の奥がざわつく。自分は逃げた。必死に逃げた。それでも追いつかれた。もしあの路地がなかったら。もしここに彼女がいなかったら。その先を想像しただけで呼吸が浅くなる。
「だから選びなさい。見ないふりを続けるか」
一拍置く。
「それとも生きるために向き合うか」
二人の間に静寂が広がった。
遠くで車の走り去る音が聞こえる。西の空には燃えるような夕焼けが広がり、沈みゆく太陽の光が高層ビルの窓を赤く染めている。
一華は掌の中の木のお守りを見つめた。
震えていた指は、いつの間にか少しだけ落ち着いている。
怖い。
その気持ちは今も変わらない。
けれど、もう見なかったことにはできなかった。今日までのように目を逸らし続けても、向こうは勝手に現れる。逃げても追ってくる。その現実だけは嫌というほど思い知らされていた。
やがて一華は顔を上げた。
怖さは消えていない。
明日になれば後悔するかもしれない。
それでも、何もしないまま怯え続ける未来だけは嫌だった。
「……教えてください」
声は小さかった。けれど今までで一番はっきりしていた。
目の前の女は何を言うでもなく、ただじっと一華を見つめる。
やがて、小さく頷いた。
「いいわ」
短い返答。
その瞬間、路地の空気がわずかに軽くなった。
「私は九条咲。今日からよろしくね」