路地裏で偶然出会った本物の霊能力者――咲さんに弟子入りした翌日の放課後。校門を出た私は制服のポケットへ手を入れた。指先に触れたのは、昨日咲さんから渡された木のお守りだ。
何となくそれを握り締める。
すると胸の奥を誰かに引っ張られるような感覚がした。
不思議だ。
地図を見ているわけでもないのに、どちらへ向かえばいいのか何となく分かる。昨日は必死だったから気付かなかったけれど、このお守りは思っていた以上に凄い物なのかもしれない。
そういえば、咲さんはこれを「目印」だと言っていた。
最初は咲さんの居場所を知るための道具だと思っていたけれど、実際に使ってみるとそんな単純な代物ではない気がする。まるで運命の糸がどこか遠くから伸びていて、その先へ手繰り寄せられているような感覚だった。
その感覚に従って街を歩く。
見慣れた通学路を離れ、知らない路地へ入り、さらに細い道を曲がる。初めて来る場所なのに、不思議と迷うことはなかった。
そうして辿り着いた路地裏では、咲さんが昨日と同じように机へ頬杖をつきながら本を読んでいた。
私に気付くと栞を挟み、本を閉じた。
「来たわね」
「お、お疲れ様です」
「何その会社員みたいな挨拶」
笑われた。
でも仕方ないと思う。
だって師匠への正しい挨拶なんて知らない。
「そういえば、昨日言ったことはちゃんとやったの?」
「昨日言ったこと?」
「寝る前の瞑想」
「ああ、はい……やりましたけど」
正直、よく分からなかった。
三十分も目を閉じてじっとしていたのに、体の中に何かを感じたりだとか、新しい力が覚醒したりだとか、そういう分かりやすい変化は何もなかった。
むしろ途中からは足のしびれの方が気になったくらいだ。
「あれ、本当に効果あるんですか?」
すると咲さんは呆れたようにため息を吐いた。
「一日で効果が出るなら誰も苦労しないわよ」
「そうですよね……」
まあ何となくそんな気はしていた。それでも期待してしまったのだ。
昨日まで怯えるだけで何もできなかった私が、本物の霊能力者の弟子になったのだから。
この一晩で何か変わったりしないだろうか、と。
「まあ続けなさい。霊力は感情に引っ張られるの。まずは自分の心を落ち着かせる癖をつけないと話にならないから」
正直、ピンと来ていない。
私はまだ自分の霊力を感じたことすらないのだ。だから感情がどうとか、制御がどうとか言われても実感は湧かない。
怒ると強くなるのか、落ち着くと扱いやすくなるのか、その辺りもよく分からない。ただ、咲さんが真面目な顔で言っている以上、霊能力者にとっては当たり前の話なのだろう。
「分かりました。とりあえず続けてみます」
「そうしなさい」
咲さんは満足そうに頷いた。
「それじゃあ早速だけど仕事をあげる」
「仕事…」
一体何をやらされるのだろうか。
「ええ。丁度人手が欲しかったところなのよ」
そう言いながら、咲さんは机の上で指を組んだ。
「まずは客引き」
「客引き?」
「それと街の噂集めね」
予想外だった。
霊能力者に弟子入りしたのだから、怪異退治の手伝いでもさせられるのかと思っていたのだ。まさか最初の仕事が客引きだとは思わなかった。
「怪談でも心霊スポットでも都市伝説でも何でもいいわ。最近増えているから、そういう類いの噂を集めてきなさい」
「増えてるって、霊がですか?」
「ええ」
咲さんはあっさり頷いた。
その表情はいつもと変わらない。
だけど何となく、少しだけ真剣な顔をしている気がした。
「ここ数か月、妙に多いのよ。偶然で片付けるには少し気になるくらいに」
怪異が増えている。
昨日までの私なら信じなかった話だ。
だけど、実際に怪異を見て、襲われて、咲さんが祓うところまで見てしまった今となっては信じざるを得ない。
「だから原因を探したいの。手伝ってくれるわよね?」
「はい…わかりました」
頷きながらも、少し不安になる。
昨日霊能力を知ったばかりなのに、いきなりその怪異が増えていると言われても困る。
こっちは未だにその怪異の祓い方すら知らないのだ。
「咲さんは学校で噂を集めないんですか?」
ふと疑問に思って聞いてみる。私などよりも咲さんの方が詳しそうだし、顔も広そうだ。
と、思ったが、咲さんは何とも言えない表情をしていた。
「うちの高校は結構頭のいいところでね」
「はい」
「しかも来年受験だから皆ピリピリしてるのよ。怪談だの都市伝説だのに現を抜かしてる暇があるなら参考書と睨めっこしてるような連中ばかりなの」
「ああ……」
確かに受験生ならそうかもしれない。怪談より模試の判定の方がよほど怖そうだ。
「だから中学生の貴方の方が向いてるわ」
それなら納得だ。
私の学校でも怪談や七不思議の話はよく聞く。でも高校生になるとそういう話は減るのかもしれない。
少なくとも受験勉強で忙しい人たちよりは、私の方が噂を集めやすそうだった。
「もちろんタダ働きさせる気はないわよ」
「え?」
「客引きに成功したらお小遣いをあげる」
思わず耳がぴくりと反応した。
お小遣いという言葉の誘惑は中学生には強い。
「本当ですか?」
「ええ。ただし成果次第だけど。一人につき二千円ね」
「頑張ります!」
気付けば即答していた。
だって二千円だ。
私の毎月のお小遣いの三分の二を占める金額なのだ。多少テンションが上がったって仕方ないだろう。
「現金ね」
「だって中学生ですし……」
「まあ、それもそうね」
咲さんは苦笑すると、話はここまでとばかりにローブの袖に手を入れた。
「じゃあそろそろ本題に入りましょうか」
取り出されたのは真っ白な札だった。
昨日、怪異を祓った時にも見た紙だ。
「今日から訓練を始めるわ」
さっきまでお小遣いのことで浮かれていた気持ちが、一瞬で引き締まった。
そうだった。
私は弟子入りしたのだ。
客引きも大事かもしれないけれど、本来の目的はこちらである。
「まずはこれに霊力を流し込む練習ね」
差し出された札を受け取る。
手にした瞬間にわかった。
昨日の瞑想のおかげなのか、それとも単に私の意識が変わっただけなのかは分からないが、この札に何かが込められていることだけは感じ取れた。
「霊力が通れば札が反応するようになっているわ。光れば成功よ」
咲さんはそう言って札を指差した。
「できるかな……」
思わず弱気な言葉が漏れる。
「できるわ」
咲さんは即答した。
迷いも何もない声だった。
「才能はあるもの。時間はかかるでしょうけどね。まずはやってみなさい」
才能なんて言われると、少し照れくさい。さっきまでの弱気が嘘みたいに、挑戦してみようという気持ちが湧いてきた。
「はい!」
すっかりその気になった私はそれから一時間ほど練習を続けたのだが、結果だけ言えば惨敗だった。
目を閉じて集中し、手の中の札へ意識を向ける。体の奥にある何かを探るように感覚を研ぎ澄ませながら、そこから霊力を流し込むイメージを何度も繰り返した。
しかし、札は沈黙したままだ。光ることもなく、ただの紙切れのように静かに指先へ触れているだけだった。
何度試しても結果は変わらず、時間だけがむなしく過ぎていく。
「難しい……」
最後には机へ突っ伏したくなるくらい疲れていた。
「最初はそんなものよ」
咲さんは欠伸を噛み殺しながら立ち上がった。
「まあ、そのうちできるようになるわ」
その励ましはありがたい。
ありがたいのだが、何となく根拠が適当な気もする。本当に大丈夫だろうか。
そんなことを考えていると、咲さんが指を鳴らした。
「ああ、そうだわ」
「?」
「教材を渡してなかった」
教材。
霊能力者の教材と聞いて真っ先に思い浮かんだのは、呪文集や怪しい巻物だった。もしくは古びた秘伝書のようなものかもしれない。
少し楽しみだった。
「付いてきなさい」
そう言って咲さんは荷物をまとめ始めた。
私は慌てて後を追いかける。
十分ほど歩いた先にあったのは、住宅街の中に建つ古いアパートだった。
思わず建物を見上げる。
「ここですか?」
「そうよ。ここが私の家」
咲さんの後に続いて階段へ足をかける。錆の浮いた鉄階段は一段上るごとにギシギシと悲鳴のような音を立て、思わず壊れないかと不安になった。
二階へ上がると、咲さんは廊下の突き当たりにある部屋の前で立ち止まる。ポケットから鍵を取り出して解錠し、そのまま慣れた手つきで扉を開いた。
「入っていいわよ」
「お邪魔しま――」
言葉が途中で止まる。部屋の中を見た瞬間、私は思わず固まった。想像していた部屋と違う。いや、かなり違ったのだ。
机の上には本やノートが積み上がり、床には雑誌やコンビニ袋が散らかっている。椅子には洗濯物が掛けられ、本棚の周囲には読みかけらしい本の山まで築かれていた。
汚部屋と呼ぶほど酷くはない。
足の踏み場もあるし、生活もできている。
だけど、少なくとも私が想像していた女子高生の部屋ではなかった。
「咲さん……」
「なに?」
「部屋、汚くないですか?」
「そうかしら?」
本気で不思議そうな顔だった。
嘘でしょ。
昨日、怪異を祓った時はあんなに格好良かったのに。
神秘的で、頼りになって、いかにも凄い霊能力者という感じだったのに。
どうして部屋はこうなるのだろう。
「いや、そういう反応されると私の方がおかしいみたいになるんですけど」
「別に生活できてるんだから問題ないでしょう?」
そう言いながら本棚へ向かっていく咲さんは全く気にした様子はなかった。
本気で問題だと思っていないらしい。
私が呆然としている間にも、咲さんは本棚の前で腕を組み始めた。
「どこだったかしら」
呟きながら本の山を漁る。
数秒後。
本を何冊か引き抜き、その奥へ手を突っ込んだ。
さらに数冊どかし――。
「……あった」
取り出されたのは分厚い大学ノートだった。
しかも一冊ではない。
二冊。
三冊。
四冊。
どんどん出てくる。
最終的には両腕いっぱいになるほど抱えていた。
「ほら」
差し出されたノートを受け取った瞬間、思わず腕に力が入った。
重い。
「これが…教材…?」
「そうよ」
咲さんは近くの椅子へ腰を下ろした。
椅子の上に積まれていた本を適当にどかして座る辺り、この人は本当に細かいことを気にしないらしい。
「昔、師匠に教わったことを書き写したものよ」
私は思わず顔を上げた。
「咲さんにも師匠がいたんですか?」
「当たり前でしょう」
呆れたような声が返ってくる。
「私だって最初から何でもできたわけじゃないのよ」
そう言ってノートを軽く叩いた。
「占いや霊視は生まれつきできたけど、霊力の扱い方や札術、結界術なんかは全部その人に叩き込まれたの」
少し意外だった。
昨日から見てきた咲さんは、最初から特別な人に見えていたからだ。
怪異を祓えて、未来も見えて、色々知っている。
そういう人なのだと思っていた。
「霊能力なんて見よう見まねで身につくものじゃないわ。ちゃんと教えてくれる人がいたから今の私があるの」
「そうなんですね」
「まあ修行は厳しかったけどね」
そこで咲さんは少し笑った。
「今でもたまに店に来るわよ」
「え?」
「私の師匠」
私は思わず目を瞬かせる。
「名前くらい覚えておきなさい。神代和光さんよ」
「神代和光さん……」
小さく復唱する。
何となく凄そうな名前だった。いや、実際凄い人なのだろう。
咲さんの師匠なのだから。
「凄い人なんですか?」
「凄いわよ」
即答だった。
「少なくとも今の時代じゃ指折りでしょうね」
私は感心して頷く。
だからそんな人に教わったから咲さんも凄いのか。
妙に納得した。
「じゃあ咲さんよりも?」
何気なく聞いてみる。
すると咲さんは少しだけ考える顔をした。
「流石に今なら私の方が強いわ」
「えっ」
思わず声が出た。
師匠より弟子の方が強い。そんなことってあるんだ。
「弟子が師匠を追い抜くなんて別に珍しい話じゃないでしょう?」
咲さんは苦笑した。
「それに、だからといって偉そうにできる話でもないしね」
その言葉には少しだけ実感が籠もっていた。
「今の私があるのは全部あの人のお陰だもの」
そう言った横顔は、どこか懐かしそうだった。私はそんな横顔をしばらく見つめていた。
適当だし、胡散臭いし、部屋は散らかっている。
でも師匠の話をしている時だけは少し違った。
本当に尊敬しているのだろう。
「だから、自分の全てを授けてくれたあの人には未だに頭が上がらないわ」
そう言って咲さんは肩を竦める。
私は改めて手元のノートへ視線を落とした。
これには咲さんが師匠から受け継いだ知識と技術が詰まっている。そう考えると、手にしているだけで妙な緊張を覚えた。
少しだけ表紙を開く。
「うわ……」
思わず声が漏れた。
中には文字がびっしりと並んでいた。札の模様や霊力の流し方、結界の組み方に怪異の特徴と対処法。基礎知識から実践的な内容まで幅広く書き込まれている。
しかも余白にまで大量の書き込みがあった。
『この方法は効率が悪い』
『こっちの方が簡単』
『初心者向け』
そんな走り書きがページのあちこちに残されている。一冊のノートとは思えないほどの情報量だった。
「本当に教科書みたいですね……」
咲さんは頷いた。
「元々は自分用だったんだけど」
自分用。
これが。
私は改めてノートの厚みを見る。
どう考えても自分用のメモの量ではなかった。
もはや辞書だ。
「最初はそこに書いてある基礎だけ覚えなさい」
「はい」
反射的に返事をした後、静かに安堵する。
もし全部覚えろと言われたら泣いていた。
「あと」
咲さんが私の手からノートを取り、途中のページを開く。
そこには複雑な紋様がいくつも描かれていた。
曲線と直線が何重にも重なり合い、一目見ただけでは何が書かれているのか分からない。
「家でこれを書いてきなさい」
「え?」
思わず聞き返す。今何と言っただろう。
書いてこいと言わなかったか。
「別に霊力は込めなくていいわ」
咲さんは模様を指先で軽く叩いた。
「まずは形を覚えること。札は霊力だけあっても駄目なの。術式が正しく書けていないと意味がないわ」
理屈は分かる。
分かるのだが。
私はもう一度模様に視線を落とす。だが、見ているだけで目が疲れた。
「極端な話、漢字を一文字間違えただけで文章の意味が変わるでしょう? あれと同じよ」
「難しそう……」
正直な感想だった。
これを真似して描けと言われても自信がない。
「最初は皆そう言うのよ」
咲さんは少し楽しそうに笑った。
絶対に昔同じことを言われた側だと思う。
「だから模様だけでいいから何枚か作ってきなさい。上手く描けるようになったら次の段階へ進むわ」
「何枚くらいですか?」
「そうねぇ」
少し考える仕草をする。
嫌な予感がした。
こういう時の予感は大体当たる。
「五十枚」
「多い!」
思わず叫んだ。
「少ない方よ」
しかし返ってきたのは即答だった。
「私なんて昔は百枚単位で書かされたもの」
「百枚……」
思わず遠い目になる。
咲さんの師匠怖い。まだ会ったこともないのに怖い。
そんな私を見て咲さんは小さく笑った。どこか懐かしそうな笑い方だった。
きっと昔、自分も同じ顔をしていたのだろう。文句を言って、嫌がって、それでも結局全部やらされたに違いない。
「まあ安心しなさい」
咲さんは椅子から立ち上がると、床で崩れていた本をまとめて空いた椅子へ置いた。
本人は片付けたつもりなのかもしれないが、私には散らかす場所を移しただけにしか見えなかった。
「霊能力なんて才能より積み重ねの方が大事だから」
その言葉は妙な説得力があった。
占いや霊視の才能は生まれつきのものなのだろう。けれど、今の咲さんがあるのはそれだけではない。ここまで積み重ねてきた努力があるからこその強さなのだ。
そういう意味なのだろう。
私はノートを抱え直した。ずっしりとした重みが腕に掛かる。少し痛くなるくらいの重さだったが、不思議と嫌な気はしなかった。
この中には、私がまだ知らない世界の知識が詰まっている。昨日までの私なら、一生関わることのなかった世界の知識が。
――本当に弟子になっちゃったんだな。
改めて実感する。
不安はある。怪異は怖い。今でも昨日の出来事を思い出せば少し震えそうになる。
それでも胸の奥には、不安だけではない感情があった。
知らない世界への期待、いつか咲さんみたいになれるかもしれないという憧れ。
そんな気持ちが、少しずつ大きくなっていた。
まさか寝る前にしてた妄想が日刊ランキング7位に入るなんて……