朝の通学路は、制服姿の学生たちで賑わっていた。
私はそんな人の流れに混ざりながら、いつもの道を歩いていく。昨日も家へ帰ってから、咲さんに言われた通り瞑想を三十分続けた。
札へ霊力を流す練習は相変わらず上手くいかず、一度も反応はなかった。術式の模様を書き写す宿題も、五十枚のうち十数枚書いただけで手が痛くなってしまった。
それでも、瞑想だけは少し変わった気がする。
初日は目を閉じても色々なことが頭に浮かび、気付けば遊びや学校のことばかり考えていた。それが昨日は、自分の内へ意識を向け続けられる時間が少しだけ長くなっていた。
本当に些細な変化だ。
咲さんなら「まだまだね」と笑うくらいのものだろう。
それでも、昨日よりほんの少しだけ前へ進めた気がして、悪い気分ではなかった。
制服のポケットへ手を入れると、小さな木のお守りが指先に触れた。
何となく握ってみる。
それだけで少しだけ気持ちが落ち着いた。あの日から、登校中もこうして無意識にお守りへ触れる癖がついてしまったらしい。
校門をくぐり、昇降口で上履きに履き替える。教室へ向かう廊下を歩きながら、私は何気なく周囲へ視線を向けた。
……何もいない。
ほっと息を吐いてから、自分でも苦笑する。
考えすぎだ。
そう思っていても、確認せずにはいられない。これも、そのうち慣れるのだろうか。
「一華、おはよう!」
後ろから声を掛けられ、私は振り返った。
「あ、おはよう。」
クラスメイトと並んで教室へ入り、自分の席へ向かう。
いつもと変わらない朝。
私も鞄から教科書を取り出し、一時間目の準備を始めた。
今日も放課後は咲さんのところへ行く。
そう考えるだけで、少しだけ背筋が伸びる気がした。今日はどんな修行をするのだろうか。
そういったことを考えている内に朝のホームルームが終わり、教室はいつものようにざわめき始めた。
先生が教室を出ていくと同時に、教室はいつもの賑やかさを取り戻した。窓際では男子たちがゲームの話で盛り上がり、教室の後ろでは女子たちが新しいドラマの話をしている。
それぞれが思い思いに過ごす中、私は何となく周囲の会話へ耳を傾けていた
「ねえねえ、知ってる?」
前の席の女子が少し声を潜める。
「また出たらしいよ」
「え、何が?」
「音楽室」
その一言で、周囲にいた何人かが反応した。
「あー、あれ?」
「夜になるとピアノ鳴るやつ?」
「違う違う。最近は昼間でも見たって人がいるんだって」
私は思わず手を止める。
音楽室。
怪談。
昨日、咲さんから言われた言葉が頭をよぎった。
『怪談でも心霊スポットでも都市伝説でも何でもいいわ。最近増えているから、そういう類いの噂を集めてきなさい』
自然と耳へ意識を向ける。
「三年生が見たって」
「嘘でしょ?」
「放課後に忘れ物取りに行ったら、誰もいないのにピアノが鳴ってたんだってさ」
「うわぁ……」
「しかもさ、音が止まったと思ったら、黒い髪の女の人が立ってたらしいよ」
「やめてよ!」
教室に悲鳴と笑い声が混ざる。怖がる子もいれば、面白がる子もいる。
いつもなら、そこで終わるような話だった。
でも今の私は違う。
(……本当にただの噂?)
咲さんなら、きっとこういう話を調べる。でも、噂だけじゃ何も分からない。
咲さん自身も言っていた。
『私は実物を見ないと占えないの』
だったら私がこの目で確かめるしかない。そう考えたところで、自分の思考に驚いた。
少し前までの私なら、こんな話を聞いた瞬間、その場所には絶対に近付かなかった。
怖いから。見たくないから。
けれど今は違う。
もちろん怖くないわけじゃない。
むしろ怖い。
だけど、逃げても終わらないことは知ってしまった。それなら、咲さんに頼れる今のうちに確かめた方がいい。
昼休み。
私はそれとなくクラスメイトへ話を振ってみた。
「さっきの音楽室の話って、本当なの?」
「あ、一華も聞いてた?」
「うん」
「なんか最近すごい噂になってるよ」
「誰が見たの?」
「三年の先輩らしいけど、詳しくは知らない」
別の女子が会話へ入ってくる。
「でもね、音楽室だけじゃないんだよ」
「え?」
「今、七不思議が進化してるんだって」
「保健室の鏡とか、旧校舎の階段とか、理科室の人体模型とか」
「あ、それ聞いたことある」
「あれね、夜じゃなくても見る人がいるらしいよ」
私は相槌を打ちながら、一つ一つ頭の中へ記憶していく。
音楽室。
保健室。
旧校舎。
理科室。
全部まとめて咲さんへ話そう。放課後になったら路地裏へ行けばいい。そう考えていると、チャイムが鳴った。
◇
授業が終わる頃には、空は夕焼けへ染まり始めていた。私は教科書を鞄へしまいながら、もう一度音楽室の方角を見つめる。
(……見るだけ)
本当に見るだけ。中へ入るつもりはない。危ないと思ったらすぐ戻る。
そう自分へ言い聞かせながら席を立つ。廊下へ出ると、帰宅する生徒たちが次々と昇降口へ向かって歩いていた。
その流れとは逆方向へ足を進める。音楽室は三階の東側。夕方になると人通りも少なくなる場所だ。
階段を上るたびに、校舎の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。音楽室の前まで来ると、私は足を止めた。
廊下は静かだった。
窓の外では運動部が大会へ向けて練習している。それなのに、この廊下だけは音が遠い。まるで学校の中とは別の場所へ迷い込んでしまったような静けさだった。
背後の窓からは西日が床へ長く差し込み、誰もいない廊下を赤く染めている。
私は小さく息を呑んだ。
(……こんなに静かだったっけ)
ここへ来たことは何度もある。
けれど、こんな空気だった覚えはない。
胸の奥がざわつく。帰った方がいい。
そう思うのに、足は音楽室の前から動かなかった。
私はゆっくりと音楽室の扉へ歩み寄り、そっと耳を寄せる。
……静かだ。
教室の中には、ピアノの音どころか物音一つない。
(……普通)
少しだけ肩の力が抜ける。
やっぱり噂は噂なのかもしれない。
そう思った、その時だった。
――キィッ。
小さな音とともに、閉まっていたはずの扉が数センチだけひとりでに開いた。
「……え?」
思わず足を止める。
恐る恐る隙間から中を覗き込むと、夕日が教室の奥まで差し込み、整然と並んだ机や椅子を赤く照らしていた。黒板も、壁際の棚も、グランドピアノも、どれも見慣れた音楽室のままだ。
人影はない。
ふと窓際へ目を向けると、一枚だけ窓が半開きになっていた。夕風が吹き込み、白いカーテンをゆっくりと揺らしている。
(風で開いただけ……?)
そう思うと、張り詰めていた緊張が少しだけ緩んだ。このまま開けっぱなしにしておくのも良くない。
(窓を閉めたら、すぐ帰ろう)
自分にそう言い聞かせながら、私は音楽室へ一歩足を踏み入れた。静まり返った教室に、その音だけがやけに大きく響いた。
窓へ近づき、伸ばした手で窓を閉める。
ガラリ、と窓が閉まると、夕風が止み、揺れていたカーテンも静かに垂れ下がった。
これで大丈夫。
そう思って振り返ろうとした、その瞬間。
――ポーン。
静かな音楽室に、鍵盤を一つだけ押したような音が響く。
「っ!」
反射的にピアノを見る。
誰もいない。なのに、確かに鳴った。
そして、――カチャンッ。
開けたままだったはずの扉が、ひとりでに閉まった。
最近めっちゃ忙しいのと、先の展開が思いつかなくなってきたのでしばらく更新速度落ちます。