胡散臭いTS美少女占い師は今日も路地裏で笑う   作:高丸

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第八話 夕日

 

 

 開けたままだったはずの扉が、ひとりでに閉まった。

 

「……っ!」

 

 心臓が跳ね上がる。私は反射的に扉へ駆け寄り、ドアノブを掴んで勢いよく捻った。

 

 ガチャッ。

 開かない。

 

「うそ……」

 

 もう一度、今度は力いっぱい捻る。

 ガチャガチャッ。

 力いっぱい引いても押しても、扉はびくともしない。

 鍵なんて掛けていないはずなのに、まるで向こう側から誰かが押さえつけているようだった。

 

「誰か! 誰かいますか!」

 

 声を張り上げるが、返事が返ってくることはなかった。

 

 

「そんな……」

 

 もう一度、私は扉を叩いた。

 

 ドン、ドン、と鈍い音だけが静まり返った音楽室へ響き、返事もないままその音は静寂の中へ吸い込まれていく。

 

 その時だった。

 

 ――ポーン。

 

 また鍵盤が一つ鳴った。

 

 私は息を呑み、恐る恐るピアノの方へ振り返る。窓際には夕日に照らされたグランドピアノが静かに置かれているだけで、そこには誰の姿もなかった。

 

 それなのに。

 

 ――ポーン。

 

 ――ポロン。

 

 誰かが音を確かめるように、一音ずつゆっくりと鍵盤が押されていく。その音は、まるで演奏を始める前に音を合わせているかのようだった。

 

 息が詰まる。

 

 耳の奥では、自分の鼓動だけがやけに大きく響いていた。やがて単音だった鍵盤の音は少しずつ繋がり始める。

 

 ――ポーンポロン。

 

 ――ポロンポロン。

 

 一つひとつの音が旋律となって重なり、知らない曲が音楽室へ静かに流れ始めた。

 

 それは初めて聞くはずの曲なのに、不思議と胸の奥を締めつけるような、どこか物悲しい響きを帯びていた。

 

「やめて……」

 

 震える声でそう呟いても、もちろん返事はない。静まり返った音楽室には物悲しい旋律だけが流れ続け、私はその音に追い立てられるように一歩、また一歩と後ずさっていく。それでも視線だけは、まるで縫い付けられたようにグランドピアノから離せなかった。

 

 夕日に照らされた黒い艶が赤く染まり、その赤色は時間が経つにつれて少しずつ濃さを増していく。

 

「……え?」

 

 思わず息を呑む。

 夕焼けは、こんな色だっただろうか。

 

 血を滲ませたような紅色が教室中を染め上げ、その中心にあるピアノの椅子には、いつの間にか誰かが座っていた。

 

「……っ!」

 

 座っているのは、長い黒髪の少女だった。蜃気楼のように揺らぐその姿は向こう側が透けているのに、細い指だけは確かに鍵盤を叩いている。

 

 曲は少しずつ速く、激しくなり、それに合わせるように少女の輪郭もはっきりしていく。髪が、肩が、腕が赤い夕日に染まり、まるで夕日そのものが少女へ実体を与えているようだった。

 

「いや……」

 

 足が震える。逃げなきゃ、そう思うのに身体は動かない。

少女は振り向かない。ただ機械のように鍵盤を叩き続けている。それなのに、私には分かった。振り向いていないはずなのに、確かに私を見ている。

 

 ドクン、と心臓が大きく鳴った。その瞬間、少女の演奏はさらに速さを増し、鍵盤を叩く音が豪雨のように音楽室へ降り注ぐ。教室を満たす紅色も、ますます濃く染まっていった。

 

「ひっ……!」

 

 恐怖に足がもつれ、その場へ尻餅をついた。

 

 鞄が床へ転がる。

 教科書やノートが飛び出し、その中へ混じって数枚の白い札が滑り落ちる。それは昨日咲さんに宿題として書かされた札だった。私はそれを見つめたまま、荒い息を繰り返す。

 

 胸が苦しい。

 頭の中は「逃げたい」という思いだけで埋め尽くされ、視界の端では少女の指がますます速く鍵盤を叩いている。

 

 このままでは駄目だ。そう分かっていても、恐怖が体を支配していた。震える手で札を拾い上げる。

 

「お願い……!」

 

 札を握り締め、何度も意識を向ける。体の中の何かを流し込むようイメージする。昨日練習したことを思い出しながら、必死に繰り返す。

 

 しかし、何も起きない。

 

「どうして……!」

 

 涙が滲む。

 

 少女の演奏は止まらない。音の洪水が音楽室を満たし、夕日はさらに紅く染まり、少女の輪郭はもう半分以上が実体になっていた。

 

(このままじゃ、間に合わない!)

 

 その時、不意に咲さんの落ち着いた声が頭の中によみがえった。

 

『瞑想のときは、心を落ち着かせて、お腹の少し下、丹田のあたりに意識を集中させなさい』

 

 私はぎゅっと目を閉じる。怖い。今も全身が震えるほど怖い。それでも、怖がっているだけでは何も変わらない。

 

『霊力は感情に引っ張られるの。まずは自分の心を落ち着かせる癖をつけないと話にならない』

 

 その言葉を胸の中で繰り返しながら、私はゆっくりと深呼吸した。

 

 一度、二度、三度と呼吸を重ねても耳障りなピアノの音は止まらず音楽室に響き続けていたが、それでも意識を外へ向けることなく、お腹の少し下――咲さんが言っていた丹田へと静かに沈めていく。

 

 すると、そこには小さな温もりがあった。

 

「……あ」

 

 昨日までは気付かなかった。

 いや、気付けなかった。

 

 体の奥底で、小さな灯火のような何かが静かに揺れている。私はその感覚を壊さないように、そっと札へ流すイメージを描いた。

 

 すると。

 札に描かれた術式が、かすかに白く光る。

 

「光った……!」

 

 豆電球ほどの弱々しい光。

 それでも昨日まで何の反応もなかった札が、確かに応えてくれた。

 

「っ!」

 

 私は反射的に立ち上がり、光る札を扉へ叩きつけた。

 

 ――パンッ。 

 

 乾いた音が響き、札は一瞬だけ強く輝くと灰のように崩れ落ちる。同時にドアノブがガチャリとわずかに動いた。

 

「開く……!」

 

 勢いよく扉を引く。しかし数センチ開いただけで止まってしまった。それでも、さっきまでとは違う。確かに隙間ができている。

 

「あと少し……!」

 

 私は散らばった札へ飛び付き、震える手で二枚目を拾った。呼吸を整え、体の奥の灯火へ意識を向ける。今度はさっきより早くその感覚を掴み、淡く光った札をすぐに扉へ貼り付けた。

 

 乾いた破裂音とともに扉がさらに開く。

 

 ギィ……。

 背後で椅子が軋む音がした。その直後、鍵盤を叩く音がぴたりと止む。背中へ突き刺さるような気配だけが、一歩、また一歩と近づいてくる。

 

 焦りを押し殺し、心を深く沈める。乱れれば、札は応えてくれない。

 呼吸を整え、一枚ずつ札へ霊力を流し込む。淡い光を宿した札は、乾いた破裂音とともに少しずつ扉を押し広げていった。

 

 そして六枚目を使った瞬間。

 

 ――バンッ!!

 

 見えない壁が砕け散るような衝撃とともに扉が大きく開き、私は転ぶように廊下へ飛び出した。

 

 床へ手をついたまま荒い息を繰り返す。喉は焼けるように熱く、心臓は今にも胸を突き破りそうなほど激しく脈打っていた。

 

「はぁ……っ、はぁ……っ」

 

 背後では、音楽室の扉がギィ……と重たい音を立てながらゆっくり閉まり、何事もなかったかのように静かに閉じ切った。その向こうからはもう何の物音も聞こえず、不気味な静寂だけが残っていた。

 

「……助かった?」

 

 恐る恐る立ち上がり、もう一度だけ扉を見る。開ける勇気はない。私は震える足でその場を離れ、咲さんに知らせようと廊下を駆け出した。

 

「……あれ?」

 

 数歩進んだところで足が止まる。

 静かすぎた。運動部の掛け声も、生徒たちの話し声も聞こえない。私は窓からグラウンドを見下ろすが、そこには誰の姿もなく、サッカーゴールだけが夕日に長い影を落としていた。

 

「そんな……」

 

 私は階段を駆け下り、一階へ飛び出す。昇降口にも人影はなく、下駄箱には靴さえ見当たらない。

 

「誰か……!」

 

 返事はない。ひんやりとした風を受けながら校門へ向かって走る。正面では、西へ沈みかけた太陽が校舎や木々を茜色に染めている。

 

 不意に、背後から赤い光に照らされた。

 

「……え?」

 

 思わず足を止め、ゆっくりと振り返る。

 東。

 そこにも夕日が浮かんでいた。

 

「…………」

 

 頭が真っ白になる。

 

 西へ沈む本物の太陽と、東に浮かぶもう一つの夕日。二つの赤い光が世界を挟み込むように空を染めている。

 その瞬間、音楽室で感じた違和感が脳裏によみがえる。夕日が差し込んでいた窓。あの窓は――東向きだった。

 

「……全部」

 

 掠れた声が漏れる。

 

「最初から……」

 

 ぞわり、と全身へ鳥肌が立つ。

 

「あの夕日は……本物じゃなかった」

 

 その瞬間、東の夕日がゆっくりと脈打った。

 

 ドクン――。

 

 巨大な心臓が鼓動を打つように赤い光が膨らみ、校舎全体が一瞬だけ揺らいだような錯覚を覚える。

 

「っ……!」

 

 目を擦っても消えない。

 

 東の夕日は、太陽のような眩しさではなく、濁った血のような赤色を放ちながら、遠くにあるはずなのに私だけを見つめ返しているような気配をまとっていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「何……あれ……」

 

 震える声が漏れた直後。静寂だった校舎に、小さな物音が混じる。

 それは廊下の奥や閉ざされた教室、階上のどこかへと次々に広がり、誰もいないはずの校舎がゆっくりと目を覚ましていくようだった。

 

「……っ!」

 

 私は校門へ向かって全力で走る。肺が焼けるように痛み、息が切れても決して足は止めなかった。

 

 校門まであと数十メートル。その時だった。

 

「一華!!」

 

「……!」

 

 聞き慣れた声が夕暮れの静寂を切り裂く。

 

 校門の前に、一人の少女が立っていた。夕風に長い黒髪をなびかせた九条咲。その姿は普段の黒いローブ姿ではなく、学校の制服だった。

 

 普段は何事にも動じない彼女が、今は肩で荒く息をし、額には汗を浮かべている。急いでここまで走ってきたのだと、その姿が物語っていた。

 

 その姿を見た瞬間、張り詰めていた緊張が一気にほどけた。

 

「咲さん……!」

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