記憶の澱   作:ゆゆみみ

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第13話 女と少年と

 

「……ふぅむ。なるほど? つまり、記憶障害が起こった感覚がないのに、身に覚えのないことが発生していると」

 

 通院の日、ここ数日に身の回りで起こったことを先生に話していた。先生はいつになく真剣な表情で僕の話を聞き、目を瞑ってペンでこめかめを叩く動作をしている。何かを考えている時の癖だ。

 

「快方に向かっているのか、はたまた悪化しているのか、ひとまずはどちらとも判断できないねえ」

 

 ピタリとその動きを止めるとゆっくりと目を開け、小さく息を吐いてから一先ず結論付けた。それはその通りだろう。ここ数日起きたことだけでは何も推し量ることは出来ない。

 それでも、胸中の不安は肥大化する。感覚があれば、まだ何とかすることもできる。それが、何もなく起こってしまっていた、となれば、最初こそ誤魔化すことは出来てもいずれは限界が来る。僕の障害が、周囲に発覚する。

 即ち、僕の日常は崩壊する。

 

「……不安になる気持ちはよく分かるよ。君は平穏に日々を送りたいのだから。しかし、今は事実の確認をしよう」

 

 優しげな表情を浮かべた先生はカルテを手に取ってペンのキャップを取った。現状把握を行うためにも、第三者の目は必要だ。

 

「さて、記憶障害が起こった可能性についてだが、最近は安定していると言っていたね? 実際のところ、時間が急に飛んだり、突然別の場所にいたりしたことはあったかい?」

 

「……いえ、考える限りはありません。細かいところまでは分かりませんが、少なくとも僕の認識では時間は連続していたと思います」

 

 そう、それが不可思議な点の一つではあった。記憶が飛ぶ以上、障害が起きた時には認識している時間のズレが生じる。しかし、今回はそれがなかった、はずだ。

 抜けている時間はないはずなのに、抜けている記憶が存在している。それがどういったことなのか自分でも判断がつかない故に、より恐怖は大きくなる。

 

「そうか。では、……これは例えばの話だが、記憶力の低下、なども考えられるだろう。実際にその瞬間は存在していたのに、記憶障害としてではなく、単純に忘れてしまっている、と。」

 

「でも、遊びに行く約束や、名前で呼び合うようなことって忘れますかね? しかも、その相手の名前すら僕は分かってないんです」

 

 記憶障害ではなく、記憶力の低下。もっと簡単に言えば、物忘れが酷くなる、ということだ。確かにこれであれば、説明が付く。しかし、それにしては発生箇所が具体的すぎるような気がしていた。それに、物忘れが極端酷くなる、例えば若年性アルツハイマー、そうだとしたら今よりもより状況が悪くなるという怖さもあった。

 

「ふむ、それもそうだねえ。何にせよ、不安やら何やらで疲れたろう。もう少し様子を見てみないと何を処方すべきかも判断がつきかねる。……というわけで、そこのソファーで仰向けで横になりたまえ」

 

「…………はい?」

 

 先生はカルテを書き終えペン先で紙面を軽く叩くと、それをデスクの上へと置いてから、薄らと笑みを浮かべて僕に突然言い放った。

 指さす先にあるソファーは無駄に広い診察室の壁際に寄せられたもので、成人男性一人が余裕で横になれる横幅はあるものの、あまりに突然の発言には大きく首を傾げる他ない。

 

「あはは! いい反応だねえ。ま、なんだ。マッサージをしてあげようと思ったんだよ。精神的にではなく、物理的に緊張を解すことも大切なことさ。まあまあ、物は試し、だよ。早く早く」

 

 困惑する僕の様子を見て先生は笑う。いつものような冗談かと思いきや、立ち上がってソファーの方を何度も指差している様子からどうやら本気らしい。

 これも治療の一環なのかもしれない。そう思って僕は結局言うことに従い、靴を脱いで言われた通りに仰向けになった。

 

「よしよし、先生の手腕を見せてやろう。気持ちよかったら、そのまま寝てくれていいからねえ」

 

 不意に眼前に先生の顔が現れる。にやにやとした何とも言えない表情をしていても、先生は美人だ。つい恥ずかしさを覚えて視線を逸らす。

 

 ──そうして、先生の手が僕の足へ伸びた。

 

 

「…………えっ?」

 

 記憶障害時の靄のかかった感覚を覚え、僕は素っ頓狂な声を漏らす。

 慌ててソファーから体を起こすと、その横では丸椅子に座った先生が組んだ足を土台にして、頬杖を付きながら微笑んでいた。

 

「おや、お目覚めかい? やっぱり私は才能があるんだろうねえ、マッサージしていたらいつの間にか眠っていたよ。ほら、一時間くらいさ」

 

 先生の指差す先にある時計を見ると、確かに先程から一時間程度が経過していた。マッサージされていた故か、僅かに着衣が乱れているのを直す。正直に言うと、特に体が楽になった、ということはなかった。むしろ何とも言えない気怠さを覚えている。

 とはいえ、わざわざそれを指摘するような野暮なことは出来ず、のっそりとソファーから立ち上がる。

 

「さて、今日の診察はこれで終わりだ。……ふぅ、マッサージは私にとってもいい運動になるから助かるよ。医者が不養生じゃ意味ないからねえ」

 

 言葉の通り、先生の肌はうっすらと上気しており、何故だか色気のようなものを感じてしまう。それに気まずさを覚えたこともあり、僕は挨拶もそこそこに診察室を後にする。

 

「あぁ、経過を見たいから次は一週間後に宜しくね」

 

 ひらひらと手を振る先生に軽くお辞儀をして、僕はマッサージしてもらったにしては、寧ろ重くなったように感じた体を引きずるようにして病院を後にした。

 次回はマッサージを提案されても断ろうと、心に決めながら。

 

 

 

 

 ──女は、嗤う。

 

「あはは! 我ながら立派な犯罪行為だねぇ! ま、せっかくの機会なんだからさ、これからも(たの)しませてもらうよぉ? ね? 透くぅん?」

 

 病院を後にする少年の後ろ姿をブラインドを下げて見つめながら、私は熱を帯びた声で、愛を込めて彼の名を呼ぶ。

 未だ震える下腹部を宥めるようにさすりながら、来週を想って唇を舐めた。

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