記憶の澱   作:ゆゆみみ

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第2話 女は笑う

 

「なるほど、ね。何もキーになることが無かったのにも関わらず、一時的な記憶の喪失が発生したのか。その前にフラッシュバックなどは起こしていたかい?」

 

 数日後、僕は通院しているメンタルクリニックを訪れ、先日の一件を話していた。話を聞いていた僕の主治医である白衣を着た女は、ペンを手元でくるくると回し、その根元をこめかみに当てる。

 

「いえ、特には……」

 

「ふむ、一応レキサルティが効いてるのかな? フラッシュバックに効果があるってデータはあるからね。ちなみに昔の記憶に関してはどうだい?」

 

「それも変わらないですね」

 

 僕には、中学一年から前の記憶がほとんど残っていない。幼い頃から中学一年までの間の全てだ。

 理由は、両親が惨たらしく殺されたこと。血塗れの部屋の中で、僕は放心状態で立っていたらしい。らしい、というのもその事件を起因として、その前の記憶が朧げになってしまったからだ。所謂PTSDによる記憶障害らしい。

 唯一、ぼんやりと覚えているのは僕を守るために目の前に立っている、一つ歳の離れた姉の姿。残っている記憶は、ただそれだけ。幸いだったのは、自分が何者かなど根本的な記憶は失われなかったこと。

 

 しかし、過去の記憶の喪失以外にも、僕は一時的に記憶を失う症状があった。例えば、姉さんと十分ほど会話をしていたのに、その目の前の事実を忘れてしまう。僕には会話の内容は残っておらず、ただ目の前に姉がいるだけ。その困惑する様子を見て、状況を察する。そうして失った記憶は戻ってこない。

 ただ、記憶を失うのは突然ではなく、何かしらのキーとなる出来事がある。

 

 例えば、フラッシュバック。記憶はなくとも、あの時の恐怖心に襲われる。

 

 例えば、何か強いショックを受けた時。それも大抵は過去に関連する何かに対してだ。

 

 けれど、何が原因かも記憶からは失われてしまうから、厳密な所は分からない。多分そうであろう、という自分自身と、主治医との共通見解である。

 

 ──ふと、脳内に(もや)がかかる。

 

 記憶を失った時、特有の感覚だ。今、起こったのだろうか。

 

「すみません、先生。僕、今……」

 

「ん? あぁ、なるほど。記憶障害が起きたのか。少し、先日の話を詳しく聞かせて貰っていたところだよ。カルテには書いたから問題ない」

 

 先程までとほとんど変わらない体勢で座ったままの先生が言う。何か普段とは別の光を一瞬瞳に宿して、僅かに舌で唇を舐めた。それが妙に艶やかに見えて心臓がどきりと大きく跳ねるが、瞬きをした後にはいつも通りに戻っていた。

 

「頻度が高くなってる気がして・・・」

 

「今の段階では何とも言えないねぇ。一応、処方している薬のミリ数を上げておくから、それで様子見かな」

 

「はい……」

 

「なに、そう不安がるな。学校生活が心配なんだろう? ちょうど夏休みの期間でもある。今のうちに薬や体調を調整して、再発防止に努めていこうじゃないか」

 

 先生が優しげな笑みを浮かべる。僕が記憶障害を追ってから数年お世話になっている人だが、いつも親身になってくれてとても助かっている。

 

「……ところで、私からの求愛については再考してくれたかい」

 

「ははっ、もう揶揄(からか)わないでくださいよ」

 

「これでも本気のつもりなんだがねえ」

 

 不意に話が切り替わり、デスクに頬杖をついて見つめられる。こんな風に、半年ほど前から先生に好意を伝えられていた。若くて綺麗な先生だから少しドキドキしてしまうが、正確な歳は分からないが十歳近くは離れているだろう。それに僕は高校生だ。さすがに本気だとは思わず、雰囲気が重くなりそうな時にさり気なくフォローしてくれているのだろう。

 話題がそれなのはどうか?とは思うが、ありがたい気遣いではあった。

 

「……ま、今日は素直に引き下がるよ。じゃ、今日はこんなところで」

 

「はい、ありがとうございました」

 

 お辞儀をして、診察室を後にする。

 

 

 

 

 

 

 

 診察室の扉が閉まる。

 女は再び舌なめずりをした。その瞳には僅かに情欲の光が浮かんでいる。

 

「いやあ、役得役得。ほんと、都合が良い症状だよ。やっぱり、人生には刺激がなくちゃ」

 

 そうして浮かぶのは、愉悦に満ちた笑みだった。

 

 

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