記憶の
「ああ、ああああああああああぁぁぁ!!」
頭が割れるような痛み。
喪われていたはずの、記憶の濁流。
激痛に頭を抱えて叫び続ける。
「あはは! あはははっ! いい反応! 用意しておいた甲斐があったよぉ! 口頭で伝えるだけじゃ、大したことないんだもん! 最初は愉しかったけどさぁ、一々リセットしといて良かった! 診察する中で気づいたんだって。アイツも
そんな僕を見て、戸賀崎さんは腹を抱えて笑う。
フラッシュバックのように脳裏を様々な景色が過ぎる。
戸賀崎さん。初めて会った屋上。家の前。どちらでも言われた、姉が姉でないという話。そして、
先生。先生は僕に何度もキスをしていた。愛撫を繰り返させられていた。あのマッサージの時には、交わった。僕の初めては、知らない内に奪われていた。
あの人──いや、姉さん。姉さんもまた、同じ日に僕と交わっていた。僕が初めてだと思っていたものは、記憶は、まやかしだった。
その前のことまでは、まだよく思い出せない。
ただ、戸ヶ崎さん、先生、そして姉さん。直近の数ヶ月の間、僕の記憶は、その三人に好き勝手に弄ばれていた。
戸賀崎さんに利用しようとしている僕は、反対に、彼女の愉悦を満たす玩具として使われていた。先生と、姉さんには、その欲望の捌け口になっていた。
──この世界は、悪意に満ちている。
先生の、言葉の通りだった。
世界は残酷だった。
ヒトは悪だった。
こんな真実など知りたくはなかった。友人と思っていた存在すら、ただ金に目が眩んだだけなのだから。
もう、何も、考えたくない。
もう、全て忘れたい。
誰か言葉を。
魔法の言葉を。
僕に。
「その感じだと全部思い出した? 忘れたい? 忘れたいよね?」
戸賀崎さんの言葉に希望を感じて、僕は縋るように彼女を見つめる。
「ざーんねん! そんなこと許すわけないじゃーん!」
僕の事を指差しながら、もう片手では真横に傾けたピースマークを目元に当てウインクが投げつけてくる。彼女は、そう、愉しんでいた。僕の苦痛を。心の底から。
この場に、希望なんてものはなかった。
未だに痛む頭をソファの背に預ける。世界から、色彩が失われていく。心が、底まで落ちていく。粉々になって、沈殿していく。
上澄みには、もう、何も、残らない。
▼
「んー? 壊れちゃった?」
さっきまで絶叫を上げていた透くんは、今は全身を弛緩させて、光のない眼で天井を見ている。その真上で手の平を振ってみても、なんの反応も無い。
「え、これで終わり? つまんなーい! もっともっと苦悶を、憔悴を、絶望を私に見せてよ!!」
地団駄を踏んでも、やはり何の反応も返っては来ない。
でも、そう、まだ、心だけ。心など、幾らだって修復は出来る。それに──
──まだ、その身体は残っている。
「何か反応あるかなー? あるといいなー。でも、まぁ、いずれにしても透くん
唇に立てた人差し指を当て、蠱惑的な笑みを浮かべる。僅かにその瞳が動いた気がした。
「やだー、透くんのえっち! こういうのには反応しちゃうんだから、もー。じゃっ、花音ちゃんも張り切ってやっちゃうぞー!!」
右肩を掴み、ぐるぐると回して気合いを込める。私は軽い足取りで、適当な鼻歌を奏でながら、沢山の
──世界は、私の都合の良いようにすればいい。
▼
透がいなくなってから、三日目。
私は食事も喉も通らず、まともに寝れずにもいた。あれから、隣町も含めて思い当たる節を探したというのに、一向に見つからない。
透の携帯に連絡を取っても、勿論返事は無い。透は、今頃どうしているだろうか。きっと苦しい思いをしているだろう。
だから、私が、姉である私が護らなきゃ。助けてあげなくちゃ。
朝日が昇る。
部屋を照らす日光に目を細める。思い当たる節は粗方探し終えてしまった。今日からは、当てどない捜索が始まる。
けれど、確信がある。きっと見つかると。何故なら、私と透は結ばれる運命にあるのだから。奪うことしか知らなかった、荒みきった私の前に現れた、天使。神の存在を信じるほどの、運命。これは、乗り越えられる試練。愛の試練。
今日は、Tシャツにジーンズ。動きやすさを重視した格好だ。そして、いつもの物も後ろのポケットに入れる。直ぐに、抜けるように。髪を後ろで結いながら家の扉を開ける。
そこには、目の前に亜麻色の髪をした女が立っていた。ワインレッドのドレスシャツと黒のタイトスカートの上に、白衣を羽織っている女。見覚えがある。
──透の主治医。大事な透を穢した女。
「やぁ、お困りかい?」
飄々とした、軽薄な態度で、女は片手を上げる。私は反射的に後ろのポケットから其れを抜き、切っ先を真っ直ぐに向ける。
「何も困ってない。私は貴女が憎い。殺していい?」
「おいおい、展開早いな。というか、タクティカルナイフなんて何処で手に入れたんだい? その刀身の長さじゃ、立派な銃刀法違反じゃないか。……全く、スタンガンやら
女は胸の前で両手を上げて無抵抗を示してはいるが、へらへらとした笑みも軽薄な語り口も決して崩れず、怯える様子も見えない。それに酷く苛立ちを感じた。
「困ってるだろう? 愛しい愛しい弟くんが見当たらない、とかさあ?」
「お前、何か知ってるのか」
感情の無い声で、真っ黒な眼で、私は続きを促すように刃先をあげる。ふるり、と僅かに女は震えた。怯えではないようだった。
「……いやぁ、三度目だよ。美少女に睨まれるのは。ふむふむ。やっぱり中々良いものだね、これは」
意味不明な発言と恍惚めいた笑みを浮かべる女に、私は一歩踏み出して切っ先を胸の前へと近付ける。
「悪かったよお、ちょっと自分の世界に入っちゃっただけだって。……で、本題。私はキミの弟くんの居場所を知ってる。私もそろそろ動こうと思って、さ。でも、主役の一人を欠いた状態じゃあ愉しめないだろう?」
「巫山戯《ふざけ》ているの?」
「本気も本気さ」
「透の居場所、知っているの?」
「まぁねえ」
どう考えても、嘘にしか思えなかった。運命の糸で結ばれた私が必死になっても見つからなかったのに、こんな軽薄な女が知っているはずがない。騙そうと、しているのか。ナイフを持つ手に力が入る。
「んー、花音ちゃんと私は従姉妹同士なんだよ。花音ちゃんは私のこと嫌いみたいで悲しいんだけどねえ。……ともあれ、彼女の周辺事情は知っている。少なくとも、キミよりは。そして、彼女は存外浅はかだ。基本、脳筋なんだよ。パワープレイヤー。キミと同じく脳き──止めてくれ、また興奮しちゃうだろ?」
発言に信憑性がまるでない。
自然と眉間に皺が寄って睨みつけると、女はまた体を震わせる。全くもって、意味が分からない。一方的な緊張感に我ながら呆れを感じてナイフを下げる。女は、それに対して安堵する様子すら見せなかった。
「何か証拠は。お前を信じるに足る証拠」
「そんな事言われてもなあ……。──ああ! そうだ! 割と気になってたんだけど、首切った後にわざわざ折るのって何でなんだい? それとも折るのが先かい?」
「……っっ!」
私が何者なのか、こいつは知っている。その確信を持った上での問いかけ。しかし、それは決して鎌を掛けているわけではなく、純粋な疑問。
「……分かった。私を透のところに連れて行って」
「回答になってないんだが。対話をしてくれよ、対話をさあ」
半笑いが返ってくる。先程の言葉は、こいつを信じる要素にはなり得ない。しかし、こいつにはその情報を集めるだけの力がある。それに、可能性があるのならば縋りたかった。少しでも可能性があるのならば。騙そうとしているのであれば、その場で始末すればいい。
「連れて行って。早く」
「……その気になってくれたならいいか。表に車を置いてある」
そうして女と私は、白いセダンへと乗り込む。隣り合うのは嫌だったために後部座席へと入った。そこには雑多に複数の黒いビニール袋が置かれていた。私はそれも一瞥するも、既に心は透のことで埋まっている。
「さぁ、行くよ。なに、ほんの
そうして、荒々しく車は発進した。
タイトル回収話です。