ダンジョン管理アプリを手に入れた小卒コンビニバイトだけど気まぐれに現実を弄ってたら地球を大混乱させ魔王呼びされてるらしい〜私みたいなカスに現実の設定権限を渡した奴が全部悪い〜   作:わされいみゅ

1 / 2
小卒コンビニバイト、ダンジョン管理アプリを手に入れる

序章 人見小夜子はまだ何もしていない

 

 人見小夜子は、自分がカスであるという自覚だけはあった

 

 それは謙遜でもなければ、誰かに否定してもらうための卑屈でもなく、洗面台の鏡に映る自分の顔色の悪さや、床に脱ぎ捨てたままになっている部屋着や、スマホの充電ケーブルを足で引っかけても直さずにそのまま布団へ潜り込む怠惰と同じくらい、ただそこにある事実だった。口が悪く、性格も悪く、根性もなく、努力という単語を見るだけで内心ひどくうんざりするくせに、他人が努力で何かを成し遂げた話を聞くと胸の奥にどす黒い嫉妬が湧く。客観視だけは無駄にできるから、自分がそういう人間だということも分かっているし、分かっているからこそ余計に救いがなかった。

 

 何かの間違いで性格が良くなれば、もう少しまともな人生になったのかもしれない。あるいは性格が悪いままでも、社交性か、コミュニケーション能力か、善性のうちどれか一つでも備わっていれば、ギリギリ社会の隅に引っかかることくらいはできたのかもしれない。しかし小夜子には、そのどれもなかった。ないというより、どこか途中で削げ落ちたのだと思っている。人間を人間たらしめる部品のいくつかが、いつの間にか抜けてしまって、その穴をソシャゲと菓子と海賊版サイトに落ちていない漫画と、顔も知らないVtuberへの少額の投げ銭で埋めている。

 

 それでも自分は完全な馬鹿ではない、という嫌な確信だけはあった。

 

 そこがまた終わっている、と小夜子は思う。自分が救いようのない怠け者で、臆病で、気まぐれで、逃げ癖の染みついた社会不適合者なのに、妙なところで頭だけは回る。人が自分をどう見ているか、自分がどう振る舞えば余計に嫌われるか、今この場で口に出したら関係が終わる言葉がどれか、それらは分かる。分かっているのに言う時は言うし、言わなかったとしても顔に出る。黙っていればまだ見られる顔かもしれないのに、黙っていると根暗に見え、喋ると性格の悪さが漏れるのだから、神様がいるならかなり意地が悪い。

 

 いや、神様のせいにするのも違うわね、と彼女はよく思う。これはだいたい私が悪い。

 

 母親が家を出ていったのは、小夜子が中学生のころだった。声楽家だった母は、小夜子の記憶の中ではいつも背筋が伸びていて、声がよく通り、機嫌が悪い時でも感情を雑に投げつけない人だった。父は天才的なプログラマーであり、収入も学歴も身長も世間的には申し分ない、いわゆる三高の化身みたいな男だったが、家では驚くほど何も喋らなかった。夫婦喧嘩の怒号が飛び交っていたわけではない。皿が割れる音も、泣き声も、罵声もなかった。ただ、会話がなかった。父は必要なことをメールで送り、母はそれに短く返し、小夜子はその間で、うわ、家庭ってこんなに静かに終わるんだ、と妙に冷めた気持ちで見ていた。

 

 母に落ち度はない。少なくとも小夜子はそう思っている。自分と父という、二人のコミュ障しかいない家にいたら、そりゃ出ていきたくもなるだろう。むしろよくあそこまで耐えたものだと思うし、出ていく日、母が小夜子に向けた表情を思い出すたび、胸の奥に何か硬いものが残る。あれは謝罪だったのか、諦めだったのか、愛情だったのか、今でもよく分からない。ただ、その時の小夜子が最初に思ったことだけは、はっきり覚えている。

 

 これで学校に行けと言われなくなる。

 

 その安心が、いまだに一番気持ち悪い。母が出ていく場面で、寂しいとか、行かないでとか、どうしてとか、そういうまっとうな感情より先に、学校へ行かなくて済むかもしれないという安堵が出てきた自分を、小夜子は何年経っても軽蔑している。軽蔑しているのに、その安心がなかったことにはできない。自分はその程度の人間で、しかもその程度の人間であることを今でも覚えている。

 

 中学には、もう戻れなかった。

 

 小夜子はそこで、世界が自分を侮辱するために作り替わっていく感覚を覚えた。教室の空気が、自分の机だけを中心にしてじわじわ歪む。誰かが笑うと、自分のことではないと分かっていても心臓が跳ね、実際に自分のことだった時には、ほらね、と妙に納得してしまう。靴箱、廊下、体育館、トイレ、昼休みの教室、黒板に残された雑な落書き、先生の見て見ぬふりと、見てしまった時の困った顔。あの頃の小夜子は、頭の中で何度も相手を言い負かしていたが、現実ではだいたい黙っていた。黙っていればやり過ごせる時もあったし、黙っているから余計に舐められる時もあった。

 

 だから行かなくなった。結果として、最終学歴は小卒になった。

 

 父は何も言わなかった。学校へ行けとも、どうしたとも、これからどうするとも言わなかった。ただ生活費は出し、部屋は掃除し、洗濯物は片づけ、冷蔵庫には食べられるものを入れた。小夜子が昼夜逆転しても、何日も風呂に入らなくても、ネットでくだらないものを見て笑っていても、父は何も言わない。愛情がないのかと問われれば、たぶんそうではないのだろう。愛情があるからこそ何も言えないのかもしれないし、あるいは父自身も、人との接し方をどこかで学び損ねたまま高性能になってしまった人間なのかもしれない。

 

 その沈黙に甘えて、小夜子は二十歳になった。

 

 働きたくはなかった。心の底から働きたくなかったが、ソシャゲのガチャは無料石だけでは足りず、おやつは勝手に湧かず、買いたい漫画は海賊版サイトになかったり、あっても画質が終わっていたりした。推しているVtuberが誕生日配信で泣きそうになりながらスパチャを読み上げているのを見た時、自分の名前も呼ばれたいという欲求が、働きたくないという本能をほんの少しだけ上回った。結果、小夜子は近所のコンビニでバイトを始め、毎回死ぬ思いで出勤し、毎回死ぬ思いで帰ってきた。

 

 客が怖い。店長も怖い。先輩も怖い。新人も怖い。人間が怖い。

 

 そう思いながらも、小夜子はレジを打つ。声だけは不思議と通るので、いらっしゃいませも、ありがとうございましたも、表面上はそこまで悪くない。歌だけなら、昔から褒められることが多かった。母の血なのか、単に声帯の引きが良かったのかは分からないが、音程を外しにくく、声量もあり、カラオケに行けば一曲目で場の空気が少し変わるくらいには歌える。ただ、それで何かできるかと言われれば何もできない。配信でもすればいいのではないか、と考えた時期もあったが、コメント欄に一つでも「声はいいけど性格悪そう」と書かれたら三日は寝込む未来が見えすぎたのでやめた。褒められ耐性が低いくせに、貶され耐性はもっと低い。どうしようもない。

 

 一時期、小夜子はAIで小説を作って投稿していた。

 

 最初は暇つぶしだった。自分の頭の中にある、ゲームじみた妄想や、現実がちょっとだけ壊れる話や、性格の悪い主人公が都合よく世界を蹂躙する話を、AIに投げて形にさせた。最初のうちは拙かったが、プロンプトをいじり、出力を直し、展開を整え、キャラクターの口調を固定し、余計な説明を削り、面白い場面を引き延ばしていくうちに、自分で読んでもかなり面白いものができた。少なくとも小夜子はそう思ったし、読者もそこそこついた。

 

 コメントが来た時、彼女は本当に嬉しかった。

 

 それは、自分でも気持ち悪いくらい真っ当な喜びだった。娯楽なんて履いて捨てるほどある令和に、どこの誰とも知れない社会不適合者の自作に時間を割いて読んでくれる人がいる。続きを待ってくれる人がいる。面白かった、と言ってくれる人がいる。小夜子は腐った性格をしているくせに、そのことだけはひどくまともに感謝していた。読者様、などと内心で呼んでいたのも皮肉ではなく本気だったし、投稿ボタンを押す瞬間だけは、自分がこの世に何かを出している気がした。

 

 だが、小夜子は見てしまった。

 

 AI小説の王、パラパラ・チャーハン。

 

 その名前を初めて見た時、小夜子は馬鹿にした。どうせ界隈で持ち上げられているだけの内輪人気だろうと思ったし、AIで小説を書いている人間なんて、自分も含めてどこかに胡散臭さがあるのだから、読者が騒いでいるほど大したことはないはずだと決めつけていた。ところが読み始めると、すぐに分かってしまった。あちらは本物だった、あっち側だった。天才という言葉を、普段なら鼻で笑う小夜子ですら、その作品には使わざるを得なかった。

 

 百話を超えても失速しない。十万字、二十万字、五十万字、百万字と積み上がっても、読者が半分も振り落とされずについていく。継続率を集計するサイトで、長編の最上位陣に当然の如く食い込み続ける。導入が上手い、引きが上手い、キャラが強い、設定が広がる、けれど散らからない。非WEBの商業作家まで含めれば、世の中にはもっと化け物じみた上澄みがいるのかもしれないが、それはまだいい。小夜子にとって本当に最悪だったのは、その人もまたAIでやっていたことだった。

 

 同じ道具を使っているのに、見えている景色が違う。

 

 その事実が、小夜子の中の何かを折った。自分が好きだった自作が、急に色褪せて見えた。昨日まで宝物だった文章が、今日にはもう、箱庭の砂場で作った城みたいに見えた。読者様に失礼だということも、自分が勝手に比べて勝手に潰れているだけだということも分かっていたが、分かっていたところでどうにもならなかった。小夜子は更新を止めた。もう二度と書かない、と決めた。そう決めた夜、掲示板に匿名で書き込んだ。

 

 最高級SAKATAじゃん、あれ。異常投稿ペースの化け物。中身何人いんの?

 

 面識など一切ない相手に向けた陰口だった。嫉妬と敗北感を、冗談めかした悪意に変換して吐き出しただけの、どうしようもない書き込みだった。送信した瞬間だけ少し気が晴れ、次の瞬間には自分が嫌になった。消せるなら消したかったが、どうせ消したところで自分の中からは消えない。結局その夜、小夜子は布団の中でスマホを握ったまま、パラパラ・チャーハンの最新話を最後まで読んだ。面白かった。最悪だった。

 

 そんなふうにして、人見小夜子の人生は、特に劇的な事件もなく、ただじっと湿って腐っていた。

 

 ある日の午前十時すぎ、小夜子は夜勤明けの身体を引きずって帰宅し、玄関で靴を脱ぎながら、またバイト先の客の顔を思い出して腹を立てていた。電子レンジの使い方も分からない老人、支払い方法を言わずにスマホを差し出す会社員、袋いりますかと聞いただけで不機嫌そうに眉を寄せる女。全員が全員、自分よりまともに社会で生きているのだろうと思うと腹が立つし、そのまともな人間たちを相手に自分が最低賃金で頭を下げている事実にも腹が立つ。結局何にでも腹が立つのだから、自分の性格が悪いだけなのだが、それを認めたところで気分が良くなるわけではなかった。

 

 リビングには父の気配だけが残っていた。本人は仕事部屋にいるのか、あるいはもう外に出たのか分からない。ダイニングテーブルの上にはラップをかけた朝食が置かれていて、横に付箋が貼られていた。温めて食べてください。父の字だった。小夜子はそれを見て、食べるかどうか少し迷い、結局あとで食べることにして自室へ向かった。あとで食べると言ったものは、だいたい夜まで放置される。

 

 部屋は綺麗だった。

 

 そこがまた、小夜子の終わり方を際立たせていた。床にゴミは落ちていないし、シーツも替えられている。机の上に積まれていた菓子の袋も消え、洗濯物も畳まれ、空気清浄機まで動いている。小夜子が何もしなくても、父が毎日掃除しているからだ。自分の部屋なのに、自分の生活能力はほとんど反映されていない。人間の形をした汚部屋生成装置が、無口な高収入プログラマーの保守管理によって辛うじて人間の生活空間に収められている。それが人見家における小夜子の正しい状態だった。

 

 小夜子はスマホを充電器に挿し、パーカーを脱ぎ捨て、下着姿のまま布団へ倒れ込んだ。シャワーを浴びるべきだった。歯も磨くべきだった。冷蔵庫の朝食も食べるべきだった。そういう、まともな人間なら自然にこなすべき工程が、彼女には巨大なクエストのように見える。眠い時の小夜子にとって、風呂はラスボスであり、着替えは高難度ギミックであり、歯磨きは報酬のしょぼいデイリーミッションだった。

 

「……無理。人間やめたいわ」

 

 自分で言っておいて、もう半分くらいやめているのではないかと思った。

 

 布団の中でスマホを開くと、ソシャゲのログインボーナスが表示された。石は少ない。推しVのアーカイブも溜まっている。漫画アプリの無料話も更新されている。通知欄には、かつて投稿していた小説サイトからのメールが一件だけ残っていた。あなたの作品に新しい感想が届きました。小夜子はそれを見なかったことにして、通知を横に流した。見れば嬉しくなる。嬉しくなれば、また書きたくなる。書きたくなれば、あの王の作品を思い出す。思い出せば、自分がワナビでしかないことを再確認する。そんな面倒な感情の連鎖を、夜勤明けの脳で処理したくなかった。

 

 画面を消し、小夜子は目を閉じた。

 

 眠りに落ちる直前、母の声を思い出した。昔、何かの発表会で歌った時、あなたは声がいいのね、と言われた記憶だった。褒め言葉のはずなのに、小夜子はそれをあまり信じていない。声がいいだけで人生がどうにかなるなら、私は今こんな布団の中で腐っていないでしょうに、と眠気の底で思う。ただ、誰かに声を褒められた記憶だけは、捨てるには少し惜しかった。自分の中に残っている数少ない、他人から肯定された痕跡だったからだ。

 

 それから小夜子は眠った。

 

 その間に、世界はまだ何も知らないまま、最初の異常を受け入れた。

 

 人見小夜子のスマートフォンは、枕元で静かに充電されていた。国内メーカーの型落ち機種で、画面の端には薄いヒビが入り、ケースには菓子の油と指紋が染みついている。OSは最新ではないが、使えないほど古くもない。小夜子が眠っている間も、端末はいつものように通知を受け取り、メールを同期し、ソシャゲのスタミナ回復を数え、動画アプリのおすすめを更新していた。

 

 午前十一時四十二分。

 

 誰も触れていない画面が、一度だけ淡く光った。

 

 通知音は鳴らなかった。バイブレーションもなかった。アプリストアの購入履歴にも、インストール履歴にも、セキュリティスキャンのログにも、何も残らなかった。ただ、ホーム画面の三ページ目、普段なら小夜子自身もほとんど見ない、使わないアプリを雑に押し込んだフォルダの隣に、見慣れないアイコンが一つ増えていた。

 

 黒い立方体を、歯車のような赤い肉が噛んでいる。

 

 その下には、こう表示されていた。

 

 ダンジョンマスター。

 

 送り主の欄には、アプリとしては意味をなさない文字列が入っていた。

 

 血肉の歯車。

 

 同じ時刻、東京の空はよく晴れていた。株価は動き、電車は遅れ、どこかの国会議員はまた失言を切り抜かれ、誰かが結婚し、誰かが炎上し、誰かが死に、誰かが生まれ、SNSでは新しいミームが生まれて数時間で使い潰されていた。警察庁も、内閣府も、防衛省も、国土交通省も、どの企業の監視システムも、そのアプリをまだ異常として検知していない。人見家の無口な父親だけが、仕事部屋でコードを書きながら一瞬だけ眉を動かしたが、それもただの気のせいとして処理された。

 

 人見小夜子は眠っている。

 

 まだ何も選んでいない。まだ何も壊していない。まだ誰も殺していないし、救ってもいない。スマホの中に現れた小さなアイコンが、これから現実の床下に穴を開けるのか、社会の底を抜くのか、あるいは彼女のしょうもない人生に、しょうもないまま取り返しのつかない意味を与えるのか、それを知る者はどこにもいなかった。

 

 ただ一つ確かなのは、世界を変えるものが必ずしも勇者や聖女の手に届くとは限らない、ということだった。

 

 それは時に、口が悪く、性格が悪く、臆病で、怠惰で、嫉妬深く、褒められたいくせに褒められると逃げ出したくなる、二十歳の小卒コンビニバイトの枕元にも届く。

 

 そして現実は、そういう相手に力を渡してしまった時ほど、だいたい面倒な方向に転がる。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。