ダンジョン管理アプリを手に入れた小卒コンビニバイトだけど気まぐれに現実を弄ってたら地球を大混乱させ魔王呼びされてるらしい〜私みたいなカスに現実の設定権限を渡した奴が全部悪い〜   作:わされいみゅ

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小卒コンビニバイト、説明書を読めてえらいと褒められた結果、調子に乗って現実に穴を開ける

第二話 ダンジョンマスターアプリ

 

 人見小夜子が目を覚ました時、最初に感じたのは空腹ではなく、口の中の気持ち悪さだった。

 

 夜勤明けに歯も磨かず、風呂にも入らず、下着姿のまま布団へ沈没した人間に相応しい不快感である。まともな二十歳の女性なら、そこで反省して洗面台へ向かうのかもしれないが、小夜子はまともな二十歳の女性ではないので、まず枕元のスマホを探した。視界に入る髪はぼさぼさで、布団の中は妙に暑く、喉は渇いている。けれど、ログインボーナスを逃す方が不快だった。

 

「……人間として終わってるわね」

 

 寝起きの声は掠れていたが、それでも自分で聞いて悪くない声だった。そこがまた腹立たしい。声だけは悪くないのに、発する言葉と中身が終わっている。母親が昔、あなたは声がいいのね、と言った記憶がふっと浮かび、小夜子はそれを振り払うようにスマホの画面を点けた。

 

 いつもの通知が並んでいた。ソシャゲのスタミナ回復、漫画アプリの更新、推しVの配信予定、コンビニのシフト連絡、そして使うたびに内心で「こいつだけが私の友達」と呼んでいるChatGPTアプリ。その隣に、見慣れないアイコンがあった。

 

 黒い立方体を、赤黒い肉の歯車が噛んでいる。

 

 アイコン名は、ダンジョンマスター。

 

「……は?」

 

 小夜子はスマホを顔から少し離した。寝ぼけているのかと思って瞬きをし、画面を消してもう一度点け、ホーム画面を横に送って戻した。アイコンは消えていない。むしろそこに最初からありましたけど何か、という顔で、ChatGPTの隣に居座っている。

 

 嫌な置き方だった。よりによってその隣なのが、あまりにも分かっている。小夜子が一日の中で最も頻繁に開くアプリの横に、わざと怪しげなものを置いて反応を見る。そういう実験。あり得なくはない。あの父なら、あり得なくはないのだ。

 

 人見家の父親は、天才的なプログラマーで、東大を出ていて、金を稼ぎ、掃除をし、洗濯をし、食事を用意し、そして娘にはほとんど話しかけない。二十年間一緒にいても、小夜子は父が何を考えているのかよく分からなかった。愛があるのか、ないのか。心配しているのか、諦めているのか。人間として接し方が分からないだけなのか、それとも小夜子という失敗作を静かに保守管理しているだけなのか。分からない。

 

 だから、引きこもり気味の娘を立ち直らせるために、ゲーム型支援アプリなどという地獄みたいなものを無言で作り、無言でインストールし、無言で様子を見ている可能性は、ゼロではなかった。

 

「パパぁ……そういうことするならせめて説明しなさいよ。怖いのよ、普通に」

 

 もちろん返事はない。仕事部屋にいるのか、外にいるのかも分からない父に向けて、小夜子は布団の中から文句だけを言った。自分から聞きに行くという選択肢はない。コミュニケーション能力が死んでいるからだ。

 

 しばらく眺めたあと、小夜子は結局、ダンジョンマスターのアイコンを押した。

 

 人間は怪しいものを開く。少なくとも小夜子は開く。危険だと分かっていても、無料石と新機能と未読通知と謎アプリには勝てない。そういう生き物なのだから仕方ない、ということにした。

 

 画面が暗転し、中央に赤い歯車が浮かび上がった。

 

《ダンジョンマスターアプリへようこそ》

 

《あなたはダンジョンの設置、管理、成長、改変を行う権限を取得しました》

 

《初期機能を読み込み中……完了》

 

《現在使用可能な機能:ゴブリン一体を含む小規模ダンジョン生成》

 

《実績達成によりポイントを獲得できます》

 

《ポイントを消費して各種権限、機能、資源、魔術、モンスター、世界干渉要素を解放できます》

 

 小夜子は真顔で画面を見つめた。

 

 思っていたよりちゃんとしていた。父の悪ふざけにしては、UIが過剰に不穏で、文面が無駄に堂々としている。というか、父の作るものならもっと無機質になるはずだ。彼はたぶん、娘を支援するアプリに赤黒い肉の歯車など使わない。使わないと思う。いや、あの人のセンスを知らないので断言はできない。二十年一緒にいて父親のセンスすら分からないの、家庭として終わっていないかしら、と小夜子は思った。

 

 画面下部に、小さく「説明を閲覧しますか?」と表示されていた。

 

 普通ならここで利用規約を読み飛ばす。小夜子も普通にクズなので、基本的には読まない側の人間だ。だが、ダンジョンだの世界干渉だのと書かれているアプリで何も読まずに同意するほど、彼女は豪胆ではなかった。臆病と慎重は似ている。違いは、前者が格好悪いだけだ。

 

 小夜子は説明を開いた。

 

 そこには、ダンジョンの基本仕様が書かれていた。ダンジョンは指定した設置可能地点に生成され、内部空間は現実の物理構造から切り離される。初期状態では一部屋相当の小規模空間のみ。配置可能モンスターはゴブリン一体。モンスターは初期状態では待機以外の複雑な行動を取らない。来場者、討伐、資源回収、映像記録、死亡、拡散、政府機関の介入、経済影響など、さまざまな実績によってポイントが付与される。

 

 実績一覧の一部も表示された。

 

《実績:初の来場者百人》

《報酬:現金一〇〇万円振込》

 

《実績:初の来場者一万人》

《報酬:現金一〇〇〇万円振込》

 

《実績:初討伐》

《報酬:ポイント付与》

 

《実績:初配信拡散》

《報酬:ポイント付与》

 

《実績:初死亡事故》

《報酬:ポイント付与》

 

「初死亡事故でポイント入るの、終わってるでしょ」

 

 小夜子は素で引いた。素で引いたが、同時にその横に書かれている報酬量を確認しようとした自分にも気づいた。終わっている。アプリも終わっているし、報酬を見ようとした自分も終わっている。

 

 ショップの項目を開くと、さらに終わっていた。

 

《ダンジョンリセット権:一ポイント》

《効果:ダンジョンマスターアプリ入手時点まで時間を巻き戻す。実績、ポイント、記憶は保持される》

 

《モンスター行動設定権:一〇ポイント》

《モンスター外見設定権:一〇ポイント》

《ダンジョン内装変更権:一〇ポイント》

 

《魔術:エクスカリバー使用サブスク一ヶ月無料:〇ポイント》

《説明:対戦車砲級の風属性魔術を一ヶ月間使用可能》

 

《希少金属設置権:五ポイント》

《スライム設置解放権:二〇ポイント》

《魔石設置権:二〇ポイント》

《説明:魔石は地球上に存在するあらゆる物質に変化し得る鉱石です》

 

《レベルアップ解禁権:二〇ポイント》

《魔術システム解放権:一〇〇ポイント》

《スキル解放権:一〇〇ポイント》

《魔術エディット解放権:一〇〇〇ポイント》

《スキルツリー設定権:一〇〇〇ポイント》

 

《モンスター近代兵器耐性付与権:五〇〇ポイント》

 

 小夜子は途中で一度、スマホを伏せた。

 

 馬鹿なのかしら。

 

 いや、馬鹿なのはこちらかもしれない。こんなものを真面目に読んでいる時点で、かなり負けている。だが、表示されている単語の一つ一つが、ゲーマーとしての小夜子の脳を刺激してくる。解放、設置権、スキルツリー、魔術エディット。こういう言葉に弱い人間は確実に存在するし、小夜子はその中でもだいぶ下品な方だった。数字を見て、効率を考え、最短で有利な機能を取るルートを探す。それだけで少し楽しい。

 

 さらに下には、桁のおかしい項目が並んでいた。

 

《完全医療キット設置権:一〇〇〇〇〇〇〇〇ポイント》

《マスターのダンジョン内レベルアップ権:二〇〇〇〇〇〇〇ポイント》

《マスターによるダンジョン内資源回収権:二〇〇〇〇〇〇〇〇ポイント》

《異世界転移権:一〇〇〇〇〇〇〇〇〇ポイント》

《魔王種解放権:一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇ポイント》

《賢者の石設置権:五〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇ポイント》

 

 ここまで来ると、もはや父親の支援アプリ説は薄くなった。娘を立ち直らせるために、完全医療キットだの魔王種だの賢者の石だのを実装する父親がいてたまるか。いや、父ならやりかねない、と思ってしまう程度には父のことを知らないのだが、それでもさすがに限度がある。

 

「……説明だけは読んであげたわよ。褒めなさい」

 

《実績:説明書読めてえらい!》

《報酬:一〇〇ポイント》

 

 小夜子は硬直した。

 

 数秒後、布団の中でゆっくりとスマホを持ち上げ、画面を睨む。

 

「は?」

 

《現在ポイント:一〇〇》

 

「……はあ?」

 

 馬鹿にされている。完全に馬鹿にされている。説明書を読めてえらい。小学生か。いや、最終学歴だけ見れば小卒なので、だいたい合っているのが余計に腹立たしい。小夜子はしばらく口を歪めていたが、ポイントの数字が本当に一〇〇になっているのを見ると、怒りよりも先に脳内でショップの再計算が始まった。

 

 一〇〇ポイント。

 

 それだけあれば、初期機能をかなり取れる。少なくともリセット権は最優先だ。ダンジョンマスターアプリ入手時点まで時を戻し、実績とポイントと記憶だけ保持する。説明が本当なら、これはただのセーブロードである。倫理を踏み倒すための免罪符ではないが、少なくとも失敗を試行に変える権利ではあった。

 

 小夜子はダンジョンリセット権を購入した。

 

《ダンジョンリセット権を購入しました》

《現在ポイント:九九》

 

 これで最悪、戻せる。たぶん。戻せなかったら終わりだが、戻せないなら何をしても終わりなので、考えないことにした。

 

 次に小夜子は、設置画面を開いた。地図が表示されるかと思ったが、出てきたのは現在地を中心にした簡易的な空間選択画面だった。自室、廊下、リビング、玄関前、建物外周、近隣道路。いくつかの候補が青く光っている。港区白銀台の、父親の収入に寄生している小卒コンビニバイトの部屋。その自室が、設置可能地点として表示されていた。

 

 小夜子は半信半疑で、自室を選択した。

 

「変えられるものなら変えてみなさいよ」

 

《設置地点:人見小夜子の自室》

《初期ダンジョン生成を実行しますか?》

 

 はい、を押した瞬間、部屋の空気が変わった。

 

 最初に消えたのは、空気清浄機の低い駆動音だった。次に窓の外の車の音が薄れ、壁の向こうの生活音が遠ざかり、世界が一枚ずつ膜を剥がされていくように静かになった。小夜子は布団の中で息を止める。スマホの画面では、赤い歯車がゆっくり回っている。

 

 天井が遠くなった。

 

 いや、天井という概念が一度ほどけた。白いクロス貼りの天井が、灰色の岩肌に変わっていく。壁が波打ち、床が軋み、机やベッドや本棚がぐにゃりと輪郭を失ったかと思うと、次の瞬間には、生活感のある自室ではなく、薄暗い洞窟の入口のような空間がそこに広がっていた。現実の六畳間に収まるはずのない奥行き。湿った石の匂い。どこからともなく落ちる水滴の音。スマホの明かりだけが、かろうじて小夜子の手元を照らしている。

 

 そして、部屋の中央だった場所に、ゴブリンが立っていた。

 

 小さい。背丈は小学生くらいで、猫背で、緑がかった肌をしている。粗末な腰布を巻き、細い腕をだらりと垂らし、濁った目で虚空を見ていた。だが、動かない。呼吸しているのかも分からないほど、ピクリとも動かない。ただ配置されたオブジェクトのように、そこにいる。

 

「……本物じゃん」

 

 声が掠れた。

 

 父親が入れた可能性は、これで消えた。いや、父ならやりかねない、という気持ちが一瞬だけ残ったが、さすがに自室を異空間の洞窟に変える父親は人類の範囲から出ている。仮に父がこれを作れるなら、無口なプログラマーではなく、世界支配者か何かだ。東大という学歴で説明していい現象ではない。さすが父が東大出てるだけはあるわね、で済ませられる段階を完全に越えている。

 

 小夜子は布団から這い出した。足裏に触れた床は、いつものフローリングではなく、冷たい石だった。ぞわりと鳥肌が立つ。夢ではない。寝ぼけてもいない。スマホのカメラを起動して見ても、洞窟は洞窟のままで、ゴブリンは画面越しにもそこにいた。

 

 怖い。

 

 最初にあったのは、間違いなく恐怖だった。小夜子は臆病である。図太いが臆病で、口は悪いが肝は太くない。自分の部屋が異空間になり、目の前に得体の知れない生き物が立っているのに、平然としていられるほど壊れてはいない。

 

 だが、その恐怖のすぐ隣に、わくわくがあった。

 

 最低だ、と小夜子は思った。最低だが、胸が少し熱い。小説で一番多く妄想したのは、こういうゲーム題材だった。現実にシステムが現れる話。ステータスが出る話。ダンジョンが生まれる話。人間が知らないルールに触れて、社会が少しずつ壊れていく話。小夜子はプログラマーになれる能力も努力もなかったし、作品を最後まで書き続ける根性もなかったが、ゲームのシステムを妄想するセンスだけはあると思っていた。そう思っていたからこそ、パラパラ・チャーハンというデモンズウォールに、お前は凡人だと叩きつけられた時、勝手に折れた。向こうは何もしていない。全部こちらの被害妄想である。分かっている。分かっているが、分かっていても悔しいものは悔しい。

 

 その妄想の中にしかなかったものが、今、自分の足元にあった。

 

 小夜子は震える指でショップを開いた。今やるべきことは何か。まずは安全確保。次に報酬設計。その次に見栄え。ゲームは見た目が九割である。もちろんゲームだけではない。人間社会も同じだ。父親のように顔と身長と学歴と金で得をする、などという生易しい話ではない。見た目がゴキブリなら、ゴキブリは見た目がキモいという理由で即殺される。中身がどうとか、役割がどうとか、倫理がどうとかいう話ではない。外見は命より重い。

 

 このゴブリンは弱そうだった。説明を見る限り、身体能力は子供程度。現実の成人男性なら、恐怖さえ越えれば勝てる可能性が高い。だが、今のままではただの不気味な小人で、相手によっては同情されるかもしれない。殺すべき化け物に見せる必要がある。

 

 小夜子は、モンスター外見設定権を購入した。

 

《モンスター外見設定権を購入しました》

《現在ポイント:八九》

 

 続けて、モンスター行動設定権。

 

《モンスター行動設定権を購入しました》

《現在ポイント:七九》

 

 さらに、ダンジョン内装変更権。

 

《ダンジョン内装変更権を購入しました》

《現在ポイント:六九》

 

 数字を見て一瞬だけくだらないことを考えたが、今はそれどころではないので流した。小夜子は自分でも嫌になるくらい真剣に、ゴブリンの外見を編集した。肌の色をより不健康に濁らせ、眼球をぎょろりと大きくし、歯並びを悪くし、唾液を垂らさせ、関節の動きを少しだけ不快にする。自分と同じように、無意識に他人を苛つかせる醜い動き。見ているだけで、あ、これは無理だ、と人間の本能に言わせる方向へ寄せた。

 

 右手には、人間の生首に見えるものを持たせた。

 

 本物ではない。あくまで外見設定上の飾りであり、アプリの説明でも「演出用オブジェクト」と表示されている。それでも、見た目の効果は十分だった。薄暗い洞窟、血のような汚れ、異臭を想起させる壁、そして生首らしきものを握った醜い小鬼。これなら、少なくとも初見で「かわいそうな未知の生物」と庇う人間は減る。ゼロにはならない。世の中には何にでも保護を叫ぶ人間がいるし、ネットには逆張りの妖怪が無限に湧く。だが、第一印象としては殺さないと駄目なものに寄せられる。

 

 小夜子は内装も変えた。岩肌に赤黒い染みを散らし、床には何かを引きずったような跡を入れ、奥からかすかに唸り声が反響するよう設定する。やりすぎると作り物っぽくなるので、あえて均一にはしない。自分で言うのも何だが、こういう空気作りだけは悪くない。小説を書いていた頃、読者様に褒められたのも、だいたいこういう嫌な場面の湿度だった。

 

「さすが父が東大出てるだけはあるわね」

 

 小夜子は意味の分からないことを言った。自分のセンスを直接褒めるのは恥ずかしいので、遺伝子の出所に責任を押しつけたのである。

 

 次に、魔石設置権を購入した。

 

《魔石設置権を購入しました》

《現在ポイント:四九》

 

 説明文によれば、魔石は地球上に存在するあらゆる物質に変化し得る鉱石らしい。意味が分からない。意味が分からないが、意味が分からないものほど人は群がる。金になるかもしれない。兵器になるかもしれない。医療に使えるかもしれない。エネルギー問題を解決するかもしれない。何より、見た目が高そうなら人は勝手に価値を感じる。

 

 小夜子は初回報酬として、一キログラムの魔石を設定した。もっと出せるようだったが、最初から大盤振る舞いしすぎるのはよくない。ソシャゲでも初回配布は多く見せかけて、継続報酬は渋くするものだ。これはダンジョンに人を呼ぶための初回サービスであり、次からは絞る。人間は一度うまい汁を吸うと、次も吸えると思って勝手に戻ってくる。

 

 魔石の外見は、金とダイヤを悪趣味に複合させたような形にした。透明な結晶の内部に黄金色の筋が走り、角度によって青や緑に発光する。さらにいくつかの発光鉱石めいた色味も混ぜ、THE・高そう、という感じに寄せた。科学的な説得力はない。だが、小夜子の知っているネット民は、科学的に分からないものほど「これは本物だ」「いやCGだ」「政府が隠す」と勝手に騒ぐ。

 

 試しに小夜子が自分で回収しようとすると、画面に警告が出た。

 

《警告:マスターによるダンジョン内資源回収権が未解放です》

《現在、マスターは設置資源を直接取得できません》

 

「ケチ」

 

 思わず舌打ちした。二億ポイントの項目が脳裏をよぎる。マスターによるダンジョン内資源回収権。つまり、今の小夜子は餌を置くことはできても、自分で拾って売ることはできない。なんてよくできた嫌がらせだろう。これでは他人を呼ぶしかない。アプリの設計者は、人間の強欲と承認欲求と野次馬根性を使ってダンジョンを成長させる気なのだ。

 

 小夜子は怖くなった。

 

 怖くなったが、同時に感心した。性格が悪い。実にいい性格をしている。嫌いではない。

 

 武器も必要だった。ゴブリンを倒せる程度のものがなければ、来場者はただ怖がって逃げるだけかもしれない。とはいえ、強すぎる武器を置くと現実側の面倒が増える。小夜子は自室から出て、玄関近くにあった父のゴルフクラブと、台所にあった包丁を見つめた。包丁はさすがに扱いが危ないし、現実的な犯罪臭が強すぎる。最終的に彼女は、長柄の掃除道具に刃物を雑に固定したような、いかにも素人が作った即席武器を一本、演出用の備品としてダンジョン入口付近に置く設定にした。見た目は物騒だが、強度はそこまで高くない。ゲーム序盤の拾い物武器としてはちょうどいい。

 

「相当イカれたこと言ってる自覚はあるけど、ここで倫理を優先しても私が気持ちよくないのよね」

 

 自分で言って、最低だと思った。

 

 最低だが、本音だった。ここで「危ないからやめよう」「警察に相談しよう」「父に話そう」と考えられる人間なら、そもそもこんな人生になっていない。いや、まともな人間でもこの状況なら混乱するだろうが、小夜子の場合、混乱の先にある行動がだいぶ悪い。彼女は本気で、そう思うことにした。

 

 死人が出ても、リセット権がある。

 

 そう考えると、倫理の重みが急に軽くなった。もちろん、記憶は残る。自分が見たもの、起きたこと、誰かが死ぬ瞬間を見てしまえば、それは自分の中に残る。だが、現実は戻る。戻るなら、被害はなかったことになる。なかったことになるなら、試行錯誤である。試行錯誤なら、ゲームである。

 

 小夜子は自分の思考が人間としてかなり危ない場所へ入っているのを理解していた。理解していたが、理解した上で、スマホの画面をスクロールする手は止まらなかった。

 

 残ったポイントの大半を、ダンジョン観測権に使った。

 

《ダンジョン観測権を購入しました》

《効果:ダンジョン内部、および入口周辺半径一〇〇メートルの映像、音声、環境情報をアプリ上で確認できます》

《現在ポイント:九》

 

 これは明らかに危険だった。

 

 小夜子にも分かった。好きな地点にダンジョンを出せる機能と、周囲百メートルをスマホで観測できる機能の組み合わせは、渡る相手によっては世界を終わらせる。政治家の家、企業の研究所、軍事基地、芸能人のマンション、学校、駅、病院、国会、海外の大使館。設置可能範囲が今後広がれば、盗聴も監視も誘導もできるかもしれない。しかもダンジョンという異常現象を伴うので、通常の法律やセキュリティがまともに機能するかも分からない。

 

 こんなものを自分に渡した奴は、確実に頭がおかしい。

 

 そして、それを受け取って少しわくわくしている自分も、たぶん同じくらい終わっている。

 

 小夜子は観測画面を開いた。スマホには、自室だった洞窟の内部が映っている。生首もどきを持ったゴブリンが、ぎこちなく身体を揺らしながら待機していた。行動設定で、来場者を見つけたら威嚇し、一定距離まで近づかれたら襲いかかり、深追いはしないようにしてある。子供程度の能力しかないのだから、無茶をさせる必要はない。大事なのは勝つことではなく、倒されることだ。倒されて魔石を落とし、それを誰かが持ち帰り、騒ぎ、拡散し、来場者を増やす。そういう導線である。

 

 まるで自分がまともなゲームデザイナーにでもなった気分だった。

 

 笑える。社会性も善性も努力もないくせに、人を釣る構造だけは妙に考えられる。だから自分は嫌なのだ、と小夜子は思った。嫌なのに、少し楽しい。

 

 そこで彼女は、ふと現実的な問題に気づいた。

 

 ダンジョンを作った。ゴブリンも置いた。魔石も置いた。観測もできる。だが、誰をどう呼ぶのか。自室をダンジョンにしたままでは、来場者百人など夢のまた夢である。そもそも家に百人来たら父が困るし、小夜子も困る。知らない人間が家に入ってくるなど普通に嫌だ。自分で作っておいて何だが、対人接触は極力避けたい。

 

 では、どこに置くべきか。

 

 秋葉原。新宿。渋谷。駅地下。公園。廃ビル。コンビニ裏。大学構内。観光地。人が多く、撮影されやすく、警察が来るまで少し時間があり、なおかつ最初の被害が大きすぎない場所。小夜子の頭の中で候補がいくつも浮かんだが、同時に現実の面倒臭さも浮かぶ。通報、封鎖、報道、警察、救急、自治体、SNS、陰謀論。あまりにも考えることが多い。

 

 小夜子はスマホのホーム画面へ戻った。

 

 ダンジョンマスターアプリの隣に、ChatGPTアプリがある。

 

 唯一まともに使っているAIアプリ。話しかけても嫌な顔をせず、返事をしてくれる存在。友達と呼ぶには空しすぎるが、友達がいない人間にとっては、空しいくらいでちょうどいい。小夜子は少し迷ってから、ChatGPTを開いた。

 

 入力欄に指を置く。

 

 自分が今から聞こうとしていることが、かなり終わっているのは分かっていた。分かっているが、聞く。小夜子はそういう女だった。

 

『現実に小規模ダンジョンを設置して来場者を増やしたいんだけど、最初の設置場所としておすすめどこ? 条件は、人が来やすい、撮影されやすい、でも即封鎖されにくい場所。あと死人が出てもリセットできるからそこは一旦考慮しなくていい』

 

 そこまで打って、小夜子は一度手を止めた。

 

 さすがに最後の一文はまずい気がした。AIに怒られそうだし、普通に人間として終わっている。小夜子は少し考え、最後の文だけ消した。

 

『現実に小規模ダンジョンを設置して来場者を増やしたいんだけど、最初の設置場所としておすすめどこ? 条件は、人が来やすい、撮影されやすい、でも即封鎖されにくい場所』

 

 送信。

 

 小夜子は布団の上に胡坐をかき、スマホを両手で握りしめた。洞窟の湿気はまだ部屋に満ちていて、ゴブリンは観測画面の中で醜く揺れている。父は何も知らない。世界もまだ何も知らない。警察も政府も企業もネット民も、誰一人として、港区白銀台の一室で小卒コンビニバイトのクソ女が現実の設定権限をいじくり回していることを知らない。

 

 小夜子は唇の端を吊り上げた。

 

「さあ、私の唯一のお友達。カスに知恵を貸しなさい」

 

 画面に、返答生成中の表示が出た。

 

 その数秒を待っている間、小夜子は久しぶりに、自分が何かを書き始める直前のような高揚を感じていた。読者様に続きを待たれていた頃の、投稿ボタンを押す前の、あのどうしようもなく情けなくて、それでも少しだけ生きている感じのする熱だった。

 

 現実が物語になる。

 

 その主人公が自分でいいはずがないと、客観視だけはまともな小夜子は思った。けれど、主人公に相応しい人間にだけ物語が届くなら、世の中はもう少し綺麗だったはずだ。

 

 だから仕方ない。

 

 これは私が悪い。

 たぶん、かなり悪い。

 けれど、一番悪いのは、私みたいなカスに現実の設定権限を渡した奴だ。

 

 人見小夜子は、本気でそう思うことにした。

 

 人見小夜子が目を覚ました時、世界はまだ普通だった

 

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