ダンジョン管理アプリを手に入れた小卒コンビニバイトだけど気まぐれに現実を弄ってたら地球を大混乱させ魔王呼びされてるらしい〜私みたいなカスに現実の設定権限を渡した奴が全部悪い〜 作:わされいみゅ
ChatGPTの返答は、拍子抜けするほどまともだった。
公共の場に何かを設置するのは法的にも物理的にも危険が大きいので、まずは管理者のいる私有地から始めるべきだ、という趣旨のことが、丁寧な箇条書きで並んでいた。人が集まる場所ほど通報が早く、封鎖も早い。逆に所有者のはっきりしない土地は、揉め事が長引くぶん身元が割れやすい。要するに駅前も繁華街も廃ビルも最悪だと、小夜子の唯一のお友達は静かに諭してきたのである。
小夜子は舌打ちをしたが、内心ではかなり納得していた。自分の頭で考えていた候補が全部潰されたことより、潰した理由が全部まともだったことのほうが腹立たしい。しかも彼女がこの手のことを聞ける相手は、世界にこの一つしかなかった。
「うるさいわね。分かってるわよ、そんなの」
私有地。管理者がいて、人が来なくて、誰も気にしない場所。条件を頭の中で並べていくうちに、小夜子はふと、一年前の記憶に引っかかった。
中華そば さわたり。
あの日、彼女は珍しく遠出をしていた。理由は今となってはどうでもよくて、たしかソシャゲのコラボカフェが整理券制だと知らずに行き、入れず、腹を立てて適当に歩いた先だったと思う。神奈川の、各駅停車しか止まらない駅から徒歩十二分。住宅街の角に、色の褪せた暖簾と、フォントの選び方が絶望的に古い看板が出ていた。
店主が外に立って呼び込みをしていた。五十代の、痩せた男だった。小夜子は呼び込みをされるのが世界で三番目くらいに嫌いなので、本当ならその時点で回れ右をするべきだったのだが、その日は腹が減っていたのと、その男の声の張り方が、あまりにも下手だったのがいけなかった。
下手だった。営業として下手で、人としてまっすぐで、通行人を追い払うことにしか成功していない声だった。
小夜子は逃げるように暖簾をくぐり、券売機がないことに一瞬固まり、指でメニューを差した。店主は嬉しそうに、はい中華そば、と復唱した。カウンターの中で麺を茹でる背中は、はっきりと浮かれていた。
ラーメンは普通に美味かった。魚介と鶏の、流行の一周遅れみたいなスープで、SNSに載せるには地味すぎるが、黙って食えば普通に美味い。問題はそこではなく、メンマだった。小夜子はメンマというものを、ラーメンに乗っている食える発泡スチロールくらいに思って生きてきたのだが、その店のメンマは、噛むたびに香りが変わって、しかも歯応えが最後まで死ななかった。
小夜子は無言でメンマを追加した。指で差して。
帰り際、彼女はレジで千円を出して、メンマだけを持ち帰り用に包んでもらった。店主は本当に驚いた顔をして、それから、目を見開いて笑った。あの時の目を、小夜子は今でも覚えている。何かが確かに報われた人間の目だった。
その後も、小夜子は一年のあいだに五回か六回、あの店に行った。
毎回、一言も喋らなかった。指で差して、頷いて、金を置いて、メンマを買って帰った。喋れば絶対に何かを台無しにする自信があったし、常連ですねと言われたら二度と行けなくなるのが分かっていたからだ。だから彼女はただ、通うだけの客だった。
そして、行くたびに店主の目は死んでいった。
最初は浮かれていた声が、半年で事務的になり、十ヶ月目には掠れ、最後に行った時には、いらっしゃいませの語尾が完全に消えていた。店内の壁には手書きの新メニューが増え、値段の書き方が毎回変わり、増えるほど分かりにくくなっていた。客はいつも小夜子ひとりか、多くて二人だった。
小夜子には、なぜ客が来ないのかが分かってしまった。
そこがまた最悪だった。彼女には社会性も善性も根性もないが、人を釣る構造を考える頭だけはある。看板が読めない、店名が覚えられない、写真映えしない、メニューの並びが意味不明、呼び込みが逆効果、原価をかけすぎ、常連に甘い。ぜんぶ直せば客は来る。来るはずだ。けれど、それを口に出して伝えるという行為は、小夜子にとって現実の物理法則を書き換えるより難しかった。
だから彼女は何もしなかった。何もしないまま、あの目が完全に消えていくのを、月に一度ずつ確認しに行っていた。
その記録が、小夜子のカス同然の良心に、ずっと薄く出血させていた。
「……別に、いい人だから選ぶわけじゃないから」
小夜子は誰にも聞かれていない部屋で、わざわざそう言った。私有地で、管理者がいて、客が来なくて、倉庫がある。条件に合うから選ぶのだ。決して、メンマが美味かったからではないし、あの目が消えたのが嫌だったからでもない。理屈は完璧だった。完璧すぎて、自分でも信用していなかった。
彼女は九月十四日の月曜、二年ぶりに電車で一時間以上かけて神奈川へ向かった。引きこもり気味の人間にとって、これは登山に等しい行為である。
昼下がりの店には、やはり客がいなかった。
「……いらっしゃいませ」
声はもう、ほとんど音になっていなかった。
小夜子は指でメニューを差し、中華そばを食い、メンマを追加し、テイクアウトを頼み、千円を置いた。その間ずっと、スマホの画面には設置可能地点の一覧が出ていて、店舗、厨房、客席、そして倉庫が青く光っていた。
メンマは、一年前とまったく同じ味だった。
この人は何ひとつ手を抜いていない。それだけ確認して、小夜子は倉庫を選択し、生成を実行した。何も言わずに暖簾をくぐって外に出て、駅までの十二分をずっとうつむいて歩いた。
これで許して、と彼女は思った。誰に言っているのかは自分でも分からなかった。
*
沢渡進、五十二歳。
その日の売上は、六人分だった。
彼はもう、閉店後に自分が何をするかを決めていた。決めた日から数日が経っていて、決めてしまうと不思議に落ち着くものだと知り、その落ち着き方が一番おそろしかった。親が遺した借金を十九年かけて返し終え、五十を過ぎてようやく自分の店を持ち、二年で運転資金まで借りて、家賃の督促が三通たまっている。味は悪くないはずだった。悪くないはずなのに、誰も来ない。
最後に倉庫を片づけようと思ったのは、善人だったからだ。散らかしたまま終わるのは、大家にも、次に借りる誰かにも申し訳ない。そういう人間だったから、彼は最後の夜に掃除をしようとして、倉庫の引き戸を開けた。
奥が、遠かった。
二畳ほどの、寸胴と乾麺の段ボールと古い冷蔵庫しか入らない倉庫の奥に、湿った石の匂いのする穴が開いていた。壁があったはずの場所が岩肌になり、その先が下に向かって続いている。彼は自分の頭がとうとうおかしくなったのだと思い、実際その可能性を三十秒ほど真剣に検討したが、頬をつねっても目を閉じても、穴は閉じなかった。
入口の手前に、ゴルフクラブが一本、立てかけてあった。
沢渡はゴルフをしない。道具を持っていたこともないし、この倉庫に誰かが入った形跡もない。鍵は今しがた自分で開けた。それなのに、そこに一本だけ、まるで置いておきましたよという顔でクラブがあった。
その意味を考える前に、穴の奥から足音が来た。
現れたものを見た瞬間、沢渡の中で、考えるより先に結論が出た。人間ではない。追い払っても駄目だ。これを外に出したら、誰かが死ぬ。理屈ではなく、内臓のあたりが直接そう言った。彼は五十二年間まっとうに生きてきて、こんな確信を持ったことは一度もなかった。
だから彼は、クラブを掴んだ。
戦闘と呼べるものではなかった。素人が悲鳴を上げながら金属の棒を振り回し、緑色の小さいものが低い姿勢で喉と目を狙い、狭い入口で二度すれ違い、三度目に頭蓋に当たった。それだけだった。左の前腕が浅く裂け、白いシャツに血が滲み、沢渡はその場に膝をついて吐いた。
殴り殺した感触が、手の中に残っていた。
その感触に耐えられずに何分か座り込んでいた彼は、そこで初めて、穴の中に光るものがあるのに気づいた。這うようにして手を伸ばすと、それは灰色の、地味な金属の塊だった。持ち上げようとして、思っていたより十倍くらい重くて、両手を使った。
五キロ。見た目より、ありえないほど重い。
沢渡は倉庫の扉を閉め、金属を店の床に置き、椅子に座って、自分がまだ生きていることに気づいた。
今夜、彼は死ぬはずだった。
けれど、倉庫に死体がある。穴が開いている。あれがまた出てきたら、隣の家の子が危ない。金属が何なのか分からない。警察に言えば店は終わる。終わるが、言わなければ誰かが死ぬかもしれない。頭の中がやるべきことでいっぱいになって、死ぬという予定が、明日以降に押し出された。
彼は救われたのではなかった。ただ、忙しくなっただけだった。
*
九月十五日、火曜。
沢渡はほとんど眠れないまま、いつもより一時間遅れて店を開けた。倉庫からは何の音もしなかったが、扉を見るたびに心臓が縮んだ。死体からは、動物とも人間ともつかない匂いが立ち始めていて、食い物を出す店の敷地にそれがあるという事実が、彼を内側から削っていた。
午前中、彼は金属の塊をリュックに入れ、電車で二駅の非鉄金属の買取業者へ行った。大学の知り合いも、商社の伝手もない。彼にできる調べ方は、スマホで「重い 銀色 金属 鑑定」と打つことだけだった。
カウンターに塊を置いた時点で、業者の若い男の顔つきが変わった。手持ちの分析器を当て、画面を見て、もう一度当てて、それから奥に人を呼んだ。
「お客さん、これ、どこで手に入れました」
「うちの、倉庫で」
「倉庫」
「はい」
「……何かの部品を溶かしたとかじゃなく」
「いえ。落ちてたんです」
沈黙のあと、奥から出てきた年配の男が、塊を指の腹でこすった。
「イリジウムですね。それも、こんな純度のものは私は見たことがない」
「いくらくらいに、なりますか」
「言いたくないですね。買えないので」
「買えない」
「うちで買ったら、私が捕まる可能性のほうが高い。出所が証明できないものは扱えないんですよ」
沢渡が食い下がると、男は困った顔で、参考までに、と前置きをした。
「グラムで、二万円は下らないと思いますよ。今の相場なら、もう少し上かもしれない」
五千グラム。沢渡は電卓を出して、桁を三回間違えた。
一億円。
彼の借金は、運転資金まで含めて二千八百万円だった。目の前の、両手で持つのがやっとの灰色の塊ひとつで、それが三回以上消える。彼はその事実に喜ぶ前に、猛烈な恐怖を感じた。こんなものが自分の倉庫にあるということは、自分は何か、途方もなく悪いことに巻き込まれているのだ。
店に戻り、開店し、その日の客は四人だった。
そして午後九時前後、倉庫の中で、二匹目が生まれた。
新しい金属の塊も、一緒にあった。
沢渡は二匹目も殺した。一度目より上手くなっていて、そのことに吐き気がした。血のついたクラブを持って、一匹目の死体と、二匹目の死体と、合計十キロの金属の前に立って、彼はようやく、これが一度きりの悪夢ではないと理解した。
明日も出る。明後日も出る。
自分が寝込んだ日は。腕を怪我して振れなくなった日は。買い出しで店を空けた日は。営業中に、客が入っている時間に出たら。
沢渡進は善人だった。だから彼は、一億円の金属を前にして、スマホを取って、一一〇番を押した。
「……あの、すみません。うちの店の倉庫に、人間じゃない生き物が、出るんです。昨日と今日、一匹ずつ、私が殺しました。明日も出ると思います。金属も出ます。人を襲うので、早く来てもらえませんか」
自分の声が完全に狂人のそれだと分かっていて、それでも彼は最後まで言い切った。
*
最初に来た二人の警察官は、沢渡を保護対象ではなく警戒対象として扱った。
二匹殺したと言っている男が、血のついたゴルフクラブを持って立っているのだから、当然である。彼らは沢渡を店の外に出し、クラブから離れさせ、そのうえで倉庫を確認した。死体を見ても、彼らは怪物だとは思わなかった。奇形の霊長類か、違法に持ち込まれた動物か、映画の造形物か、それとも加工された人体か。可能性のうち、いちばん最悪のものから順に潰していくのが仕事だからだ。
午後十時四十分。臨場した機動捜査隊員の目の前で、三匹目が生まれた。
そこで、通常の事件としての処理が壊れた。
あとのことは早かった。応援要請、規制線、県警本部への報告、消防の特殊災害対応隊の投入、防護衣、検知器、未知の病原体を想定した除染テント。倉庫のある一角が朝までにブルーシートで覆われ、周辺二百メートルが立入禁止になり、住宅地の細い道に、そこに絶対に入らないはずの車両が並んだ。
中華そば さわたりは、九月十六日付で営業できなくなった。
処罰ではない。未知生物、感染症の可能性、血液による食品汚染、現場保存、住民の安全。理由はいくらでもあった。ただ、沢渡にとってそれは、十九年かけて借金を返し、二年守った店が、二日で取り上げられたということでしかなかった。
九月十七日、彼は駅前のビジネスホテルの一室にいた。
部屋には、名刺をくれた背広の男が二人いた。片方は県警の人間で、もう片方は名刺の肩書きが妙に長く、どこの役所なのかよく分からなかった。彼らは沢渡に、当面ここに泊まってほしいと言い、宿泊費と食費が出ると言い、腕の治療費も出ると言った。
「借入先には、こちらから事情を説明します。督促は当面止まると思ってください」
「……止まる」
「はい」
「あの、それは、あれですか。お国が、うちの土地を」
「そのあたりの話は、私の階級ではまだ何も申し上げられません。ただ、沢渡さんに不利にはしないという方向で動いています」
役所側の判断は、温情ではなく合理だった。
迷宮の唯一の目撃者であり、三匹を実際に倒した人間であり、発生の周期を知っている人物を、無補償で破産させれば、彼は自殺するか、逃げるか、あるいは週刊誌に全部喋る。どれも国にとって最悪だった。だから金が出た。それだけの話である。
沢渡は膝の上で両手を握って、それから小さな声で聞いた。
「店は、いつ開けられますか」
二人の背広は、少しのあいだ黙った。
*
九月二十一日、月曜。敬老の日。
人見小夜子は自室の布団の上で、コンソメ味のポテトチップスを食いながら、スマホの観測画面を見ていた。
ダンジョン観測権に、この一週間で拡張された周辺感知が乗って、入口を中心にした半径の映像と音声が、ほぼリアルタイムで彼女の手のひらに流れ込んでくる。ブルーシート。パイロン。防護衣。テント。制服。背広。ライトバン。三脚。無線。人間、人間、人間。
そして、来場者カウントは十二だった。
「クソ共がァ!」
小夜子は画面に向かって中指を立てた。
「なんで封鎖してんのよ! 入りなさいよ! 入って死になさいよ! こっちは百人集めなきゃ百万円が入らないの!」
三連休である。しかも祝日である。人が集まる条件は完璧に揃っていたのに、集まっているのは全員、公務員だった。しかも彼らは慎重で、中に入るのは装備を着た数人だけで、あとは外で交代しながら記録を取っている。実績、初の来場者百人。達成率、十二パーセント。
ポテトチップスの油のついた指で、小夜子は画面をスクロールした。
初討伐の報酬は入っていた。ポイントも増えた。だがそれは、あの店主が三回も命がけで殴った結果であって、小夜子の設計が偉かったわけではない。彼女が設計した部分は、全部裏目に出ていた。人が来やすい場所を選んだつもりで、通報が早い場所を選んでいた。管理者がいる私有地を選んだつもりで、責任の所在がはっきりした場所を選んでいた。責任の所在がはっきりしているということは、国が動きやすいということだ。
「……次は、来場者の条件を絞るわ」
小夜子は口の中で計算を始めた。誰でも入れるようにしたのが敗因なら、誰かを入れないようにすればいい。制服を着ている人間が入れない迷宮。公的な身分証を持っている人間が弾かれる迷宮。それができるなら、封鎖という手段そのものが無効になる。ショップに該当する権限があるかどうかは分からないが、あるなら買う。ないなら、あるまで実績を積む。
彼女は自分の思考が、また人としてかなり危ない場所に入っているのを理解していた。理解した上で、指は止まらなかった。
そこで、画面の端に流れたものに目が留まった。
「……ん?」
周辺感知の範囲には、迷宮の入口だけでなく、店舗そのものも入っている。営業停止のはずの中華そば さわたりの引き戸が開いていて、中に人がいた。ひとり、ふたりではない。カウンターも、四つしかないテーブル席も埋まっていた。
全員、背広か作業着だった。
小夜子は音声を上げた。現場に張りついた人間には休憩場所が要る。住宅街のど真ん中で、二百メートルの規制線の内側にある屋内で、飲食を提供できる設備があって、当事者が協力的な場所。要するに、あの店しかなかったのだ。飲食営業としては停止でも、行政側の要請で、関係者向けに賄いを出す形になっているらしい。
カウンターの中に、沢渡がいた。
「はい、お待ちどおさま」
声が、戻っていた。
小夜子は画面を凝視した。集まっているのは全国から呼ばれた人間たちで、そこには研究者も、キャリアも、県警の管理官もいた。出張と会食で舌だけは無駄に育った連中である。その連中が、狭いカウンターに肘を詰めて座り、丼を抱えて、うまい、と言っていた。
「これ、なんでこの店潰れかけてたんですか」
「……看板が、下手なんです」
「看板」
「はい。あと、名前も、覚えてもらえなくて」
「もったいないな。このメンマ、どうやってるんですか」
沢渡は一瞬黙って、それから、笑った。
小夜子は、ポテトチップスの袋を持つ手を止めた。
結末は分かっている。あの土地はもう彼のものではなくなる。迷宮が湧いている以上、国が押さえないわけがないし、押さえたら店は戻らない。補償は出るだろうが、彼が十九年かけて手に入れたものは、形としては消える。救われたように見えて、彼は自分の夢を国に買い上げられただけだ。
それでも、今あの店には人がいて、全員が丼を抱えていて、全員がうまいと言っていた。
彼が欲しかったのは、たぶん一億円ではなかった。
スマホの画面の下に、通知が積み上がっていた。
《観測対象施設の売上:前週比一二〇〇パーセント》
《実績:初の政府機関接触 達成》
《実績:初の営業停止 達成》
《報酬:ポイント付与》
小夜子はその表示を、しばらく黙って見ていた。
気のせいだと思う。文字列に感情などない。赤い歯車がいつもより少し速く回っているように見えたのも、通知の並べ方が妙に自慢げに見えたのも、全部こちらの投影だ。それでも小夜子には、このアプリが、なんだか喜んでいるように見えた。
人が死ななくて、店が繁盛して、公務員が丼を抱えている状況で。
「……気持ち悪いのよ、あんた」
小夜子はポテトチップスの最後の一枚を口に放り込み、袋を丸めて床に落とした。父が明日、それを拾うだろう。
「まあ良いや。次は失敗しない」
*
その頃、日本のどこにも、まだ正式な発表はなかった。
九月十六日から二十一日までの六日間で、迷宮内に発生した金属は累計三十五キログラムに達していた。分析結果が経済産業省の担当部局に届いた時、最初に確認されたのは価格ではなく純度で、次に確認されたのが、それが本当に毎日湧いているのかどうかだった。
イリジウムは、地球上でもっとも産出量の少ない金属のひとつである。
世界の年間供給量は、およそ七トンから八トン。プラチナを採掘した際の副産物としてしか手に入らないため、需要が増えても供給を増やせない。融点が高く、腐食に強く、他の何かで代替することがきわめて難しい。点火プラグに使われ、坩堝に使われ、有機ELの発光材料に使われ、非破壊検査の線源に使われ、がんの小線源治療に使われる。
そして近年、この金属が最大のボトルネックになっていた分野が一つある。
水を電気で分解して水素を作る装置の、陽極側の触媒である。この方式は反応が速くて設備を小さくできるが、酸素が出る側の過酷な環境に耐えられる物質が、事実上イリジウムしかない。世界中の企業が、この金属の使用量を十分の一に減らす研究に何年も金を注ぎ込んでいたのは、単純に、地球にそれしか無かったからだ。
一日五キログラム。一年で、一・八トン。
世界の年間供給量の、二割を超える量が、神奈川県の住宅街にある小さなラーメン屋の倉庫から、毎日、無から生えていた。
この数字の意味を最初に理解した官僚は、資料を二度読み直してから、椅子の背もたれに体重を預け、天井を見上げて、しばらく何も言わなかった。
その頃には、水素の実証プラントの計画を予算不足で縮小した研究者も、線源の値上がりで治療計画の見直しを迫られていた病院も、点火プラグの調達に頭を抱えていた部品メーカーも、まだ何も知らない。彼らが知るのは、もう少し先である。
そして、この金属を選んだ人間が、その用途を一つも知らなかったことは、最後まで誰にも知られない。
人見小夜子はショップの一覧を上から下まで眺めて、いちばん高そうな名前の金属を指で選んだだけだった。イリジウム。響きが強くて、聞いたことがあって、たぶん貴重。それだけの理由である。
世界を変えるものは、必ずしも理解している人間の手から出てこない。
時にそれは、メンマが美味かったという理由だけで他人の人生に穴を開けた、二十歳の小卒コンビニバイトの、油のついた指先から落ちてくる
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