ダンジョン管理アプリを手に入れた小卒コンビニバイトだけど気まぐれに現実を弄ってたら地球を大混乱させ魔王呼びされてるらしい〜私みたいなカスに現実の設定権限を渡した奴が全部悪い〜   作:わされいみゅ

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総理大臣、ファンタジーが十一日で会計の話になったことを嘆いた直後、金塊で後頭部を殴られる

 

 

 

 高市和之が総理大臣になったのは、その年の一月だった。

 

 

 前総理が十パーセントを割った支持率を抱えたまま倒れ、党内の誰もが押しつけ合った椅子に、たまたま敵が少なかったという理由だけで座らされた。就任会見の日、彼はまだ、この国のためにやれることがあると思っていた。八ヶ月半後、彼は官邸の地下で、自分の睡眠時間の中央値が三時間台に落ちたことを、他人の健康診断の数字を眺めるみたいな顔で確認していた。

 

 

 彼は国民を愛していた。

 

 

 これは本心だった。街頭で怒鳴られても、SNSで名前を検索して吐き気がしても、選挙区の高齢者が握手のあとに手を離さない三秒間のことを思い出すと、まだやれると思える。愛していないのは日本国という法人格のほうで、高市はこの八ヶ月で、法律にも制度にも建物にも予算にも、心の中で相当な量の呪いを吐いていた。

 

 

 九月二十五日、金曜日。午前十時。

 

 

 官邸四階の会議室には、十一日前から同じ顔が並んでいる。正式名称は「特定異常空間現象及び関連事象に関する関係省庁対策連絡会議」といい、命名した内閣官房の参事官以外、誰一人としてそらで言えなかった。三日目には配布資料の見出しからして「ダンジョン関係」に変わっていて、高市はそれを見た時、日本国の文書管理に対する信頼を静かに一段階下げた。

 

 

「まず、封じ込めの状況から」

 

 

 報告は淀みなかった。現場一帯は危険物調査名目で規制、周辺住民には期間限定の立入制限として説明済み、報道各社には協定の枠内で自粛を要請、県警・消防・研究班の従事者はすべて誓約書、通信は専用回線。

 

 

「情報統制については、良好です。ただし、完全ではありません」

 

 

 参事官はそこで言葉を選んだ。住宅街のど真ん中で二百メートルの立入禁止を十一日も続けていれば、当然、住民は喋る。近所の主婦が撮った車両の列、深夜に何往復したかを数えた大学生の投稿、望遠で撮られた防護衣の後ろ姿。SNSにはすでに数百件出ている。

 

 

「では、なぜ広がっていない」

「埋もれているからです」

 

 

 この国のネットには、毎日、政府が何かを隠しているという話が流れている。地震も、電波も、水道も、感染症も、ダムの放流も、全部そうなっている。本物は、その棚に並んだだけだった。

 

 

「怪しい車が並んでいる、という投稿の下に、いつもの人たちが、いつもの陰謀論のコメントを付けています。それによって、真実らしさが失われています」

「……つまり、いつもの連中が守ってくれていると」

「結果的には、そうなります」

 

 

 高市は少しだけ黙った。この十一日で一番背筋が寒くなったのは、生物でも空間でもなく、今の一言だったかもしれない。信じてもらえないという性質そのものが、防壁として機能している。それは今日までの話で、明日から先の保証にはならない。

 

 

「発見者の沢渡進氏についても、必要な範囲で言い含めてあります。ホテル滞在中、金融機関への説明も済み、精神面のフォローも入っています。本人からの漏洩リスクは低いと見ています」

「本人は、なんと」

「店をいつ開けられるか、と」

 

 

 高市は資料から目を上げなかった。上げると顔に出る自信があったからだ。

 

 

 その沢渡という人物のことを、彼は写真と経歴でしか知らない。五十二歳、独身、親の借金を十九年で完済、二年前に開業、負債二千八百万円、通報時の負傷は左前腕。それだけの情報でも、一人の男が二十年かけて登った坂の角度は、だいたい分かる。

 

 

「以上です。あ、それと」

 

 

 現地連絡担当として派遣されている経産省の課長補佐が、報告の最後に、資料に書かれていないことを付け足した。

 

 

「私見ですが、あの店の中華そばは、本当に美味いです」

 

 

 会議室の空気が一瞬ゆるんで、すぐに元に戻った。誰も咎めなかったし、誰も返事もしなかった。ただ何人かが、資料の沢渡進という三文字を、一秒だけ長く見た。

 

 

  *

 

 

 前夜、九月二十四日。駅前のビジネスホテル、八階。

 

 

 久住陽介は、コンビニの袋を提げて八〇六号室の扉をノックした。三十四歳、経済産業省、現地連絡担当。十一日前まで彼の仕事は鉱物資源の需給見通しを作ることで、まさか防護衣の講習を受けることになるとは思っていなかった。

 

 

「開いてます」

 

 

 沢渡進は、窓際の小さな机に向かって座っていた。テレビはついておらず、部屋の明かりだけが点いていて、机の上にはホテルの備え付けのメモ帳が広げてある。

 

 

「差し入れです。着替えと、あと、その、飲み物とか」

「すみません。何から何まで」

「いえ。……何を、描いてらっしゃるんですか」

 

 

 沢渡は少し慌ててメモ帳を閉じようとして、途中でやめた。隠すほどのものでもないと思ったのだろう。久住が覗き込むと、そこには看板の絵が描かれていた。

 

 

 店名の文字が、何通りも試されていた。縦書き、横書き、太い字、細い字。その下に、メニューを三つに絞った案が書いてある。値段の位置が揃えられていて、数字の桁が読みやすいように直してある。

 

 

「看板です」

「看板」

「私の店、看板が下手なんだそうです。この間、若い警察の方に言われまして。読めないって。名前も覚えられないって」

 

 

 久住は返事に詰まった。この土地はもう、ほぼ確実に国が押さえる。そうなれば店は戻らない。会議ではもう資源の配分と外交カードの話が始まっていて、五十二歳の男の店舗をどうするかという議題は、優先順位の下のほうで静かに順番待ちをしている。

 

 

 久住はそれを知っていて、この部屋に立っていた。だから、戻れますよ、とは言えなかった。

 

 

「……食べてみたかったです。中華そば」

 

 

 沢渡は少し笑って、それから立ち上がり、部屋の小さな冷蔵庫を開けた。中には缶ビール一本と、白いタッパーがひとつだけ入っていた。

 

 

「あの日、避難する時に、これだけ持ってきてしまって。仕込みの途中だったもので、捨てるのが、その、忍びなくて」

「それは」

「メンマです。よかったら」

 

 

 紙コップに割り箸で盛られたそれを、久住は座ったまま食べた。

 

 

 噛むと、最初に胡麻油と醤油とは違う何かの香りが立って、それが二度目、三度目と噛むうちに変わっていった。歯応えが最後まで死ななかった。彼はメンマというものを、丼の上に乗っている茶色い付属品としか思わずに三十四年生きてきて、その認識をホテルの一室で更新することになった。

 

 

「……これ、なんですか」

「メンマです」

「いや、そうじゃなくて」

「三日、かかるんです。茹でて、干して、戻して、漬けて。手間だけはかけてました。手間しか、かけられるものがなかったので」

 

 

 沢渡は、うまい話を聞かせるつもりで言ったのではなかった。ただ事実として、自分が二年間何をしていたかを述べただけだった。

 

 

「常連の方が、ひとりだけいらしたんです」

 

 

 彼は椅子に戻って、続けた。

 

 

「若い女の方で。一度も、お話ししたことはないんですけども。指で差して注文されて、必ずメンマを追加されて、帰りに千円分、包んで持って帰られるんです。一年くらい、月に一度くらいの割で。あの方だけは、来てくださっていたので」

 

 

 久住は紙コップの底に残った一本を見ていた。

 

 

「あの方に、もう出せないのが、一番、申し訳ないです」

 

 

 その夜、久住は自分の部屋に戻ってから、報告書に書けないことを頭の中で何度も繰り返した。そして翌朝の会議で、資料に書かれていない一言を言った。彼が食べたのは、正確にはメンマだけである。それでも彼は、あの店の中華そばは本当に美味い、と言った。

 

 

  *

 

 

「では、生成物の件に移ります」

 

 

 資料がめくられ、灰色の塊の写真が投影された。

 

 

「累計約六十キログラム。純度は工業的にあり得ない水準です。物質としてはイリジウムで確定しています」

 

 

 説明が始まった。融点が高い。腐食しない。安定している。点火プラグ、坩堝、熱電対、有機ELの発光材料、非破壊検査の線源、がんの小線源治療。用途が読み上げられていくのを、高市は半分ほど聞いていた。

 

 

 そこで、財務省から出ている審議官が手を挙げた。

 

 

「恐縮ですが、これ、どのくらい凄いんですか」

「と、いいますと」

「いえ、資料は読みました。読んだうえで、凄さが分かりにくいという意味です。点火プラグと言われても、私は正直、ピンと来ない」

 

 

 室内が少しだけ静かになった。

 

 

 高市は内心で、よく言った、と思った。彼も同じことを三日前から思っていて、しかし総理大臣が分からないと言った瞬間に議論が止まることを知っていたので、黙っていた。分からないと言えるのは、責任の総量が少ない人間の特権である。

 

 

 招かれていた研究者が、資料を一枚戻した。三浦という、産総研から来た五十代の男だった。

 

 

「では、供給側から申し上げます。イリジウムの世界の年間供給量は、七トンから八トンです」

「……トン、ですか」

「はい。全世界で、年間七トンです。日本の年間の金の輸入量が数十トン単位ですから、それより桁が小さい。しかもこれは、増やせません」

「増やせない」

「イリジウムは単独で採れないんです。白金を掘った時の副産物としてしか出てこない。ですから需要が三倍になっても、白金の採掘量を三倍にしない限り、供給は増えません。そして白金の採掘量は、南アフリカの鉱山の都合で決まります」

 

 

 三浦は次の一枚をめくった。

 

 

「そのうえで、代替がききません。ここが一番重要です。高い金属というだけなら、世の中にはいくらでもあります。ですがイリジウムは、これでなければ物理的に成立しない用途がいくつかある」

「たとえば」

「水素です。水を電気で割って水素を作る装置のうち、いま各国が本命視している方式は、酸素が出る側の環境が極端に過酷でして、そこに耐えられる触媒が、事実上イリジウムしかありません。世界中の企業が、使用量を十分の一に減らす研究に何年も金を突っ込んでいます。技術が惜しいからではなく、地球にそれしか無いからです」

 

 

 審議官が、少し姿勢を変えた。

 

 

「それが、毎日五キロ」

「一年で一・八トンです。世界の年間供給量の、二割を超えます」

 

 

 誰も何も言わなかった。

 

 

 高市は、そこで初めて自分の背中が椅子から離れているのに気づいた。金額の話をされている間はまるで動かなかった心臓が、二割という数字で一度だけ跳ねた。数字というのは不思議なもので、億や兆では何も感じないのに、割合になると急に体に入ってくる。

 

 

「ただ、扱いには相当な注意が要ります」

 

 

 経産省の課長が引き取った。

 

 

「全量を市場に出せば、当然、価格は崩れます。それから、これだけの量が日本から突然出てくれば、必ず出所を問われます。産出国は限られていますので、隠し通すことは不可能に近い」

「では、どうする」

「段階的に、用途を絞って国内へ回すのが第一案です。ただ、率直に申し上げますと」

 

 

 彼は少し言いよどんでから、続けた。

 

 

「最悪の場合でも、アメリカあたりに売れば、金にはなります。向こうも喉から手が出るほど欲しい資源です。交渉材料としては、かなり強い」

 

 

 会議は、そこで実質的に終わった。

 

 

 結論は、当面は全量を国が押さえ、用途と放出量を詰め、最終的には外交カードとしても使える。要するに、金になる。壁の向こうに開いた世界の穴について、十一日かけて到達した結論が、金になる、だった。

 

 

 誰も、壁の向こうに異世界があるという事実そのものについては、もう驚いていなかった。驚く時間がないからだ。空間の性質は理学の班へ、生物は感染症と法医の班へ、金属は経産と資源機構へ、法的な扱いは内閣法制局へ、住民対応は県へ。分解して各所へ配ってしまえば、それはもう怪異ではなく案件になる。人間は本当に、なんでも案件にできる。

 

 

 高市は資料を閉じながら、心の中でひとりごとを言った。

 

 

 最終的に金にするなら、最初から金でも出してくれればよかったのに。

 

 

 誰にも言わなかった。総理大臣が言っていい種類の感想ではないし、言ったところで、そこにいる誰も笑わない疲れ方をしていた。

 

 

  *

 

 

 九月十四日から十一日間、この会議は一日三回開かれていた。朝、昼過ぎ、そして深夜。三匹目が湧くかどうか、四匹目が湧くかどうか、迷宮が広がるかどうか、二か所目が出るかどうか。誰も寝ていなかった。

 

 

 その日、初めて夜の回が見送りになった。

 

 

 現象が安定していること、封じ込めが機能していること、金属の性質が確定したこと。危機管理というのは、悪いことが起きない日が続くと、少しずつ会議を減らしていく生き物である。

 

 

「総理、本日は以降の公務がありません」

 

 

 小池尚人がそう言ったのは、廊下に出て三歩目だった。

 

 

 総理秘書官。三十九歳。高市より若く、高市より頭が回り、高市より野心があり、一月の段階では、この男が半年以内にこの政権を内側から刺すというのが永田町の共通見解だった。実際、小池はそのつもりだったし、準備もしていた。

 

 

 やめたのは、四月ごろだ。

 

 

 理由は単純で、高市の目が死んでいくのを毎日見ていたからである。この椅子は座った人間を確実に殺す。殺されるのは座った人間であって、その隣で書類を渡す人間ではない。総理秘書官というのは、情報の九割に触れられて、責任の九割を負わない、この国でもっとも割の良い席だった。

 

 

 小池は野心家であることをやめてはいない。ただ、彼の野心は、この椅子をもう少し長く空けておくという方向に修正されただけである。

 

 

「本日は、と言いましたが」

「言いました」

「本当か」

「本当です」

 

 

 高市は立ち止まって、ネクタイを緩めた。

 

 

「休むぞ」

「はい」

「今日だけは休むからな。誰にも言うなよ。風呂に入って、飯を食って、九時に寝る。九時だ。九時に寝るなんて小学校四年生以来だぞ、俺は」

「承知しました」

「俺はな、小池。この八ヶ月、この国のことをかなり本気で呪ったが、今日だけは許してやってもいい気分だ」

 

 

 小池は笑わずに頷いた。この人が冗談を言うのは、限界の少し手前だと知っていたからだ。

 

 

 高市は数歩進んでから、思い出したように振り返った。

 

 

「あのラーメン屋、営業再開の目処は」

「土地の扱いが決まらないと動けません。正直に申し上げて、あの場所で店として戻すのは難しいかと」

「……そうか」

「はい」

「美味いんだろう」

「聞いた限りでは」

 

 

 高市は、ふん、と鼻から息を出して、また歩き出した。彼は総理大臣で、五キロの金属と六十兆円の予算と一億二千万人の生活を毎日天秤に載せている男で、そのうえで今、名前も知らない男の店が潰れることを、地味に、けっこう気にしていた。

 

 

 愛しているのは国民のほうだ、と彼は思う。国のほうではない。

 

 

  *

 

 

 小池のスマートフォンが震えたのは、その二十歩あとだった。

 

 

 着信ではなく、通知だった。彼は歩きながら画面を見て、足を止め、もう一度見て、それから顔を上げた。表情の作り方が間に合っていなかった。

 

 

「総理」

「なんだ」

「……すみません、少しお待ちを」

 

 

 小池は端末を数回操作した。指の速度が明らかにおかしかった。高市はその横顔を見て、この八ヶ月で覚えた反射で、腹の底が冷えるのを感じた。小池尚人という男が表情を作り損ねる場面を、彼はこれまで一度しか見ていない。

 

 

「二か所目です」

「……なに」

「本日午後五時ごろ、東京都千代田区外神田。秋葉原駅から徒歩三分の、カードショップです」

「カードショップ」

「はい。奥に対戦スペースのある店で、発生時、店内には客が二十名ほどいました。その壁に、同型の入口が」

 

 

 高市は口を開けたが、声が出るまでに一拍かかった。

 

 

「第一報は」

「四十分前です。所轄経由で、既に警察庁に上がっています」

「生成物は」

 

 

 高市の声が、自分でも驚くほど平坦に出た。

 

 

「金です」

「……金」

「純金です。一日五百キログラム」

 

 

 高市和之は、その場で笑った。

 

 

 笑ってしまったのだ。自分でもどうしようもなかった。二時間前、彼はあの会議室で、最終的に金にするなら最初から金でも出してくれればよかったのに、と思った。誰にも言わなかった。心の中だけで言った。それが二時間で叶っている。

 

 

 この国の神様がどこにいるのかは知らないが、性格が悪いことだけは確定した。

 

 

「規制は」

「かけました。ですが、総理」

 

 

 小池は、そこで一度だけ息を吸った。

 

 

「うちの人間が、中に入れません」

 

 

 高市は、笑ったままの顔で止まった。

 

 

「所轄の二名が入ろうとして、入口の手前で押し返されています。壁があるわけではありません。ただ、進めない。二人とも、階段を上るように前に進んで、そのまま元の位置に戻されたと言っています。応援も同じです。今のところ、弾かれた人間は全員、警察官、消防、区の職員です」

「……公務員か」

「はい」

「民間人は」

「入れます。全員、問題なく入っています」

 

 

 小池は端末を差し出した。

 

 

 画面には、動画があった。狭い店内の、カードの並んだガラスケースの向こう側で、制服の警察官が二人、見えない何かを押すように前傾している。その横を、リュックを背負った男子高校生が、ためらいなくすり抜けていく。奥には、壁があるべき場所に、ないはずの奥行きがあった。

 

 

 撮影者が笑っていた。何人もが笑っていた。

 

 

「拡散状況は」

「日本のトレンド一位から四位まで、関連です。転載は既に数万件。海外にも出ています。総理、これは今、日本で一番おもしろい動画になっています」

 

 

 小池は画面を切り替えた。流れていくのは、投稿の羅列だった。マジで異世界きた。ダンジョンって本当にあった。俺の生きてる間にファンタジーが来た。オークがいるらしい。金が湧くらしい。警察が入れないの草。今から行く。もう秋葉原にいる。

 

 

 高市は理解した。

 

 

 国民にとって、これが最初の一つなのだ。神奈川は存在しないことになっている。十一日かけて封じ込め、資源政策に落とし込み、外交カードにまで換算したあの穴は、国民の側から見れば、この世に一度も存在していない。だから彼らにとって今日は、人類が初めてファンタジーと出会った日だった。

 

 

 驚いていないのは、この国でたった数百人。驚いているのは、一億二千万人。

 

 

 その全員が、今、秋葉原へ向かおうとしている。

 

 

「総理。官邸に戻ります。招集を──」

 

 

 高市は答えなかった。彼は廊下の壁に肩をつけて、そこで数秒、黙っていた。

 

 

 神奈川では、入れたのだ。

 

 

 防護衣を着た人間が十一日間、毎日出入りして、死体を運び出し、金属を計量し、映像を記録して、湧く周期まで割り出した。誰も弾かれなかった。誰も押し返されなかった。

 

 

 そして今日、二か所目では、公務員だけが入れない。

 

 

 条件が、変わっている。

 

 

 自然現象は、相手を選ばない。台風は警察官を避けないし、地震は区の職員を弾かない。選んでいるということは、選んだ者がいるということだ。つまり、こちらの十一日間は見られていた。誰が入って、何を運び出して、どう封じ込めたのか、全部見られていて、そのうえで、次はそれができないように作られた。

 

 

 高市和之は、その先を考えるのをやめた。

 

 

 今考えれば、たぶん立てなくなる。それは総理大臣にできることではないし、彼はこの八ヶ月で、考えるべきことを後回しにする技術だけは異常に上達していた。彼は壁から肩を離し、ネクタイを締め直した。

 

 

「……九時に寝るはずだったんだがな」

「はい」

「行くぞ」

 

 

 小池尚人は、半歩下がって、そのあとに続いた。

 

 




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