ダンジョン管理アプリを手に入れた小卒コンビニバイトだけど気まぐれに現実を弄ってたら地球を大混乱させ魔王呼びされてるらしい〜私みたいなカスに現実の設定権限を渡した奴が全部悪い〜 作:わされいみゅ
成瀬にとって、そのカードショップは週に三度の延命装置だった。
二十七歳、フリーター。東大に落ちて、滑り止めの早稲田に入って、三年で辞めた。辞めた理由を一言で説明できたことは一度もない。金が続かなかったのも、講義に出られなくなったのも、周りの人間とまともに馴染めなかったのも、たぶん全部が同じ一本の線の上にある。ただ、その線に名前をつけて、それからどうにかしようと考えるだけの気力は、もうとっくに残っていなかった。
九月二十五日、金曜日。午後三時二十分。
トリックスター秋葉原には、三人しかいなかった。平日の昼下がりで大会もなく、店に入ってから三十分ほど、成瀬はガラスケースの前にしゃがんだまま、買う気もないシングルカードの値札を眺めていた。レジには村山がいて、奥の事務室には店長がいる。客と店員を全部合わせても、それだけだった。
閃光は、対戦スペースの壁から来た。
目の前でカメラのフラッシュを焚かれたような白が視界いっぱいに広がり、成瀬は反射的に顔を背けた。光そのものは一瞬で消えたが、目を開けると、さっきまで店の中にはなかった湿った土の匂いが鼻に入ってきた。地下鉄の工事現場の脇を通った時のような、冷たくて、少し重たい匂いだった。
そして、壁がなくなっていた。
「……は?」
声を出したのが自分なのか、それとも村山だったのか、成瀬には分からなかった。
去年張り替えたばかりの白い壁があった場所に、今は灰色の岩肌が広がっている。その中央だけがぽっかりと抜け、緩やかな下り坂になって、そのまま暗がりの奥へと続いていた。ここは雑居ビルの二階で、その壁の向こうは隣のビルとの細い隙間であり、二メートルも進めば九月の秋葉原の空の下へ出るはずだった。
ところが目の前の穴は、どう見ても五十メートル以上先まで続いている。
「……いや、無理だろ」
成瀬は立ち上がり、店の窓から外を覗いた。路地は何も変わっていない。向かいのビルの室外機も、鎖で縛られたまま錆びている自転車も、いつもと同じ場所にある。そこに突然巨大な空間が割り込める余地など、どう考えても存在しなかった。
振り返ると、事務室から出てきた店長が、ドアノブを握ったまま固まっていた。四十代半ばの、腹の出た男である。成瀬の知る限り、この人が責任を取る場面を一度も見たことがない。客同士が揉めても、返品でごねられても、なぜかそういう時だけトイレや事務室へ消える才能があった。
「な、なにこれ。工事?」
「今日、そんな予定ありました?」
「ないよ。ないけど、じゃあ何なの。ねえ、何なのこれ」
誰も答えられなかった。この建物の中に、答えを持っている人間は一人もいない。三人とも同じ異常を見て、同じように困惑しているはずなのに、その中で村山だけが別の速度で動き始めていた。
「うっわ、来た! 来たよこれ!」
村山はレジから飛び出してくるなり、ポケットからスマホを抜き、レジ横に置いてあった小型三脚へ固定した。ついでにリングライトまで点ける。あまりに淀みのない手つきだったので、成瀬はこいつ、異常事態より配信開始のほうが慣れてるんじゃないかと思った。
二十二歳、東大の三年生。カードが好きで、配信もしている。頭が良くて、人当たりもよく、性格だって別に悪くない。成瀬が二十七年かけても一つずつしか手に入れられなかったものを、この男は当たり前のようにいくつも持っていた。
成瀬は村山のことが嫌いだった。
悪人だと思ったことは一度もない。むしろ、かなりいい奴だ。カードの相場を聞けば丁寧に教えてくれるし、成瀬が一人でデッキを回していれば、暇な時には付き合ってくれる。それでも時々、腹の底がじわじわと熱くなる。成瀬はその熱の名前を知っていて、知っているからこそ余計に、自分自身のことまで嫌いになった。
「配信します! いいっすよね店長!」
「え、いや、それはちょっと、会社に」
「タイトルどうしよう。『店の壁がなくなった』でいいか。まあいいや、あとで変えます」
止める間はなかった。村山という男は、危ないと思う速度より、面白いと思う速度のほうがいつも三倍くらい速い。
「成瀬さん、行きましょう!」
「行くって、どこにだよ」
「中に決まってるじゃないですか!」
成瀬は、自分の口から「いや無理だろ」が出てくるのを待った。二十七年間、何かが起きるたびにそう言い続けてきた口である。ところが、なぜか今回は出てこなかった。
代わりに腹の底から浮いてきたのは、ここ数年ずっと沈んだままになっている、重たい諦めだった。まあ、もういいか。明日が急に特別いい日になる予定もない。明後日も、来週も、おそらく同じように生きている。ここで妙な穴に入ったところで、今さら何が変わるというのだろう。
「……ああ、うん。行く」
「えっ、行くんですか?」
「行こうって言ったのお前だろ」
「言いましたけど、成瀬さんが乗るとは思わないじゃないですか!」
「うるさいな」
穴の手前には、一本のゴルフクラブが立てかけてあった。
「……ゴルフクラブ?」
「なんでこんなとこに落ちてるんですか」
「知らないよ! 誰かの忘れ物じゃないの」
「こんなもん忘れます?」
成瀬はそれを掴んだ。握った瞬間、これは誰かが置いたものなのだろうな、と思った。誰かがここに人間が入ることを前提にして、使えそうなものを用意している。その気味悪さはもちろんあったが、それ以上に、手の中へ硬い金属の感触が収まったことへの安心感のほうが強かった。そのことが我ながら情けなかった。
「はい、どうもー。トリックスター秋葉原から生放送です。今、店の奥の壁がなくなってまして。ええ、冗談じゃなく。これから入ります」
配信開始時の同時接続は、四人だった。
■■■■
中は、完全に洞窟だった。
足元は湿った岩で、天井は思ったより高く、どこかで一定の間隔を空けて水滴の落ちる音がする。空気も明らかに外とは違っていて、九月下旬の東京にしては冷たすぎる。つい数分前までエアコンの効いた雑居ビル二階にいたはずなのに、数歩進んだだけで、遠い山中の洞窟へでも放り込まれたようだった。
「うわ、ガチだ。ガチの洞窟だこれ」
「村山、足元」
「見てます見てます。うわ、濡れてる。滑るなこれ」
「店長、ちゃんと来てます?」
「来てるよ。来てるけど、これ本当に進んで大丈夫なの?」
村山はスマホを動かしながら、周囲を映していく。その頃には配信の同時接続も四十を超えていた。
「ていうか皆さん、ここライトなしで歩けるんですよ。光源どこですかね? 壁が光ってるわけでもないのに」
「俺に聞くなよ」
「いや、成瀬さんこういうの詳しそうじゃないですか」
「何の偏見だよ」
成瀬はゴルフクラブを両手で持ち、村山の少し後ろを歩いていた。店長は一番後ろでスマホのライトをつけ、二歩進むたびに背後を確認している。逃げる準備をしながら、それでも自分だけ置いていかれるのは嫌でついてきているのだと、成瀬にはすぐ分かった。
三十メートルほど進んだところで、村山の足が止まった。
「あ」
道の先に、何かがいた。
最初、成瀬は床へこぼれた液体かと思った。直径一メートルほどの青みがかった半透明の塊で、表面がゆっくりと波打っている。その内側には、他の部分より色の濃い何かが浮いていた。
それが、こちらへ向かって動いた。
「え、待って。今の見ました?」
「見た」
「気のせいじゃないですよね。こっち来てますよね、これ」
「来てるな。遅いけど」
《なんだこれwww》
《スライムで草》
《作り物にしては動きキモすぎん?》
「コメントでスライムって言われてますけど、いやいや、まさか。何なんですかねこれ。粘菌の親玉とか?」
「デカすぎるだろ」
「変形菌ってけっこう伸びますよ。数メートルいくやつもいるらしいですし」
「一メートルの球にはならないだろ」
店長が二人の後ろから首だけを突き出した。
「あれ、危ないやつじゃないの。実験室から逃げたとかさ」
「この辺に実験室ありました?」
「知らないけど、こういうのって大体そうでしょ」
「大体って何ですか」
根拠は何もなかったが、妙にそれらしく聞こえてしまうのが嫌だった。
《生物学者ニキおらんか》
《デカいアメーバでしょ》
《アメーバがカードショップに湧くかよ》
《秋葉原なら湧く》
《湧かねえよ》
塊はゆっくりと距離を詰めてくる。人間が普通に歩く速度の三分の一もなく、逃げようと思えばいつでも逃げられそうだった。
だからこそ、誰もすぐには逃げなかった。
「ちょっと突いてみません?」
「馬鹿、やめろって」
「でも、何なのか分からないまま帰るのも気持ち悪くないですか? あ、そこに枝落ちてる」
「お前そういう好奇心でいつか死ぬぞ」
「成瀬さんも今ここにいるじゃないですか」
「俺はお前ほど楽しそうじゃねえよ」
道の脇には乾いた棒が一本転がっていた。村山はそれを拾い、スマホを片手に持ったまま、恐る恐る腕を伸ばす。
枝の先端が、青い塊へ触れた。
「うわっ!」
村山が飛び退いた。枝の先が白く濁り、三センチほどの部分が妙に柔らかくなっている。折れたわけでも焦げたわけでもなく、木の繊維そのものが緩んだような変化だった。
《え、なんかなってる?》
《溶けてる?》
《レモン汁みたいなもんか》
《村山ちょっと下がれって》
「これ、溶かしてきますね。そんなに強くないですけど。素手はやめたほうがいいやつだ」
「当たり前だろ」
塊は速度を変えないまま、そのままこちらへ進んでくる。距離が三メートルを切ったところで、店長が短い悲鳴を上げて後ろへ走った。ところが五歩ほどで止まり、振り返り、そのまままた二人の方へ戻ってくる。逃げたいのに、自分のいない間に何かが決まってしまうのも嫌らしい。
「成瀬さん、それ、棒!」
「分かってる」
成瀬はゴルフクラブを構えた。構えたところで、どこを叩けばいいのか分からない。ゼリー状の何かを外側から殴っても大した意味がないことくらい、子供でも想像がつく。
そこで、半透明の体の内側にある濃い赤色の塊が目に入った。握り拳ほどの大きさで、青く透けた体の中をゆっくり動いている。そこだけが妙にはっきりした色を持っていて、見れば見るほど「ここを狙え」と主張しているようにしか見えなかった。
「あ、核だ」
言ったのは村山だった。
成瀬が横を見ると、村山はすでにカメラを赤い塊へ寄せている。目が完全に据わっていた。この男もゲーマーである。何千時間も、攻撃できる敵と弱点を分かりやすく示されたモンスターを見てきた人間の脳は、ああいう配置を一瞬で「デザイン」として読む。
「あそこ潰したら終わりでしょ、絶対」
「……だろうな」
「はい、どうぞ」
村山はそのまま体をずらして、成瀬の前を空けた。
「え?」
「棒持ってるの成瀬さんじゃないですか。俺、スマホなんで」
あまりにも自然な言い方だったので、成瀬は一瞬、何をされたのか分からなかった。
譲られたのだ。
人生で最初に手が届いた一番いい場面を、二十二歳の東大生が、何の気負いもなく差し出してきた。悪意どころか、特別な善意すらない。単に、武器を持っているのが成瀬だから任せる。それだけだった。
成瀬には、こういう場面を人から譲られた記憶がなかった。順番は自分のところへ来る前に終わるか、回ってきた頃には自分にはできないものになっている。そのくせ村山は、こんな妙な場所で、何でもないことのように一番いい場所を渡してきた。
嬉しかったし、それと同時に、腹の底がいつもの熱を持った。
こいつは一生、こういうことを自然にできる側の人間なのだろうと思うと、成瀬はやっぱり村山のことが嫌いだった。
「……どけよ」
「はい!」
《核あるぞ核》
《そこ殴れ》
《なんで一発で弱点分かんの、この二人》
《ゲーマー特有の勘やめろ》
成瀬は踏み込んだ。人生で一番速く動いた自覚があった。面接でもバイトの初日でも、こんなふうに迷わず体が動いたことはない。
ゴルフクラブのヘッドが半透明の体へ沈み込む。思ったほど抵抗はなく、そのまま奥へ押し込むと赤い塊へ当たった。硬いものを砕いた感触が手のひらまで伝わってきて、成瀬は反射的に何度もクラブを押し込んだ。
「死ね死ね死ね! いや生き物だったらごめん、でも死ね!」
二度、三度と核のあった場所を叩くうちに、青い塊は輪郭を失っていった。風船から空気が抜けるように平たく崩れ、床に薄く広がったかと思うと、数秒後には湿った岩の上から跡形もなく消えていた。
成瀬は肩で息をしながら、白く曇ったクラブの先を見た。左手の甲が少しひりついたので確認すると、飛沫でも当たったのか、うっすら赤くなっている。日焼けの初日ほどの赤みで、痛みもレモン汁が小さな傷に触れた程度だった。
「成瀬さん、手」
「これくらい平気だよ」
「洗ってくださいね、あとで絶対」
「分かってる」
「店長も大丈夫です?」
「大丈夫だよ。後ろ見てたからね」
店長は五メートルほど後ろの壁際に張りついたまま、逃げもしなければ近寄りもしない。その口では何かをぶつぶつ言っていて、よく聞くと「うちの店の中だよね」と何度も確認しているらしかったが、この時はまだ誰も相手にしなかった。
村山はカメラを床へ向けた。
「はい、今、倒しました。倒しちゃいました。えー、これ、生き物だったらまずいですかね」
《生き物だったら普通に事案では?》
《人間じゃないんだから殺しても問題ねーよ》
《いやそういう話じゃなくてだな》
《あんだよ馬鹿》
《やめろ喧嘩すんな》
そこで村山が「あ」と声を漏らした。
青い塊が消えた場所の少し先に、木の箱が置かれていた。
さっきまで、そこには何もなかった。三人とも断言できたし、配信の映像にもその場所は映り続けていた。ところが今は、古い木材と黒い金具で作られた箱が、最初からそこにあったような顔で道の真ん中に鎮座している。
「宝箱じゃん、これ!」
村山の声が弾んだ。その声とは反対に、成瀬の背中を冷たいものが走った。
「……なあ」
「はい?」
「これ、誰かが用意してるよな」
村山のスマホが、ほんの少し下がった。
「入口の棒もそうだよ。武器が置いてあって、殺したら箱が出て、中身が入ってる。そういう順番って、勝手には起きないだろ」
「……順番、ですね」
「誰かが、ルールを分かってて置いてんだよ。俺らが分かる形で」
ここまでは、まだ何とか未知の自然現象へ押し込める余地があった。巨大な粘菌かもしれないし、どこかの研究施設から逃げた生物かもしれない。あり得ないほど奥行きのある洞窟だって、説明できないだけで自然現象なのだと言い張ることはできる。
しかし、宝箱だけは違った。
生き物を倒した直後、何もなかった場所へ、人間が見れば一目で「報酬」だと分かる形の箱が現れる。そこには偶然では片づけられない、あからさまな意図があった。
《は?》
《宝箱?》
《おかしいだろ》
《AI生成説出てきたな》
《ライブでずっと店から繋がってんだぞ》
《仕込みなら規模おかしすぎるだろ》
《これマジのダンジョンか?》
同時接続は二百二十を超えていた。
「開けますね」
「待て」
「え?」
「罠かもしれないだろ」
「……成瀬さん、いま完全にゲームの理屈で考えてますよね」
「他に何で考えるんだよ!」
「確かに!」
結局、成瀬がゴルフクラブの先を蓋に引っかけ、離れた位置から持ち上げることになった。何かが飛び出すことも、床が抜けることもなく、箱の中には一つだけ、黄色い金属の塊が入っていた。
「……金?」
「にしては色が濃くない?」
《でかくね?》
《いや金メッキの鉄だろ》
《色が黄色すぎるって》
表面には刻印も傷もない。角は少し丸みを帯び、握り拳を二つ並べたほどの大きさだった。成瀬は箱の中へ手を入れ、それを持ち上げようとした。
持ち上がらなかった。
正確には、いったん数センチ浮いたところで、想像していた重さに腕が耐えられず、そのまま下へ持っていかれた。成瀬は慌てて両手を使い、膝を曲げて抱え直し、今度は腰から持ち上げる。
その動きは、配信に最初から最後まで映っていた。
《おい待て》
《持ち方》
《持ち方がガチのやつだわ》
《普通にクソ重そう》
《何キロあんのこれ!?》
「重い! めちゃくちゃ重い。四キロ? 五キロ?」
塊は冷たかった。金属特有の、触れた場所から一気に体温を奪っていく冷たさで、サイズから想像するよりずっと重い。
横から手が伸びてきた。
「あ、成瀬くん。それ、うちのだから」
「はい?」
「この空間、店の中でしょ。だからうちの資産だよ。ね。本部に報告しないといけないから」
「さっき逃げてましたよね」
「逃げてないよ。後方を警戒してた」
成瀬は塊を抱え直しながら、低い声で呟いた。
「……クズだな」
「嫌というほど知ってるっす」
村山がカメラを構えたまま、間髪入れずに返した。
《店長wwww》
《野獣の眼光》
《さっきまで一番びびってたのに》
《バイトの即答で草》
《成瀬それ絶対離すなよ》
「とりあえず、外出ましょう。ここにいても何も分かんないですし」
■■■■
洞窟から出ると、店内は何事もなかったように普通だった。蛍光灯が白く光り、ガラスケースにはカードが並び、レジがあって、有線から聞いたことのない曲が流れている。それなのに対戦スペースの奥には、秋葉原とはまるで関係のない洞窟が口を開けたまま残っていた。
現実の店内と異常な洞窟が、わずか数メートルの距離で繋がっている。
成瀬は黄色い塊を抱えたまま、その境目をしばらく見ていた。異空間よりも、物を溶かす生き物よりも、今こうして腕へかかっている重さのほうが、心臓を速くしているのが自分でもおかしかった。
もし本物なら、これはいくらになるのだろう。
一グラムいくらか、ニュースで見た記憶がある。ここ数年ずっと金の値段が上がっているという話くらいなら、成瀬でも知っていた。腕の中にあるのが本当に五キロ近い金なら、計算するのが怖くなるような金額になる。
命より重いなどという言い回しをされるものが、実際に腕の中でずっしり重い。
「本物かどうかも分かってませんよね」
成瀬は店長へ向かって言った。自分でも意外なくらい、声がはっきり出た。こういう場面で相手の顔を見て、自分の意見を口にできたのは、たぶん人生で初めてだった。
「まず調べたほうがいいんじゃないですか。偽物だったら、揉める意味もないでしょう」
「……それは、まあ、そうだけど」
「貴金属の買取店、この辺にありますよね。中央通りのほう」
《それだ》
《査定行け》
《配信は切るなよ絶対》
《店長が持ち逃げするに一票》
「行きましょう!」
村山がカメラを持ち直した。その頃には、同時接続は八百六十まで増えていた。
■■■■
中央通り沿いの貴金属買取店は、雑居ビルの一階に入った、間口の狭い店だった。
カウンターの向こうにいた店員は、三人が入ってきた時、少しだけ困ったように眉を下げた。夕方に、スマホを構えた若者と無精髭のフリーター、それに汗だくの中年男が揃って押しかけてくれば、そういう顔にもなる。
「買取ではなくて、まず査定だけお願いしたいんですけど」
「はい、お預かりします。……っと」
黄色い塊を受け取った瞬間、店員の肘がわずかに落ちた。
それでも表情までは変えず、まず重量を量り、寸法を確認し、電卓を叩いていく。ここまでは、何度も繰り返してきた仕事の手つきに見えた。
「刻印がないんですね」
「ないですね」
「少し確認しますので、お待ちください」
店員は奥から測定器を持ってきて、塊の表面へ慎重に当てた。その前に一度だけ、指先で表面を撫でている。成瀬には何を確認しているのか分からなかったが、その指が途中で不自然に止まったことだけは分かった。
測定器の画面に数字が出るまで、十秒ほどかかった。
村山は何も言わなかった。喋らないほうがいいと分かる程度には、配信者として場数を踏んでいる。カメラは塊と店員の顔が両方入る位置で止まっていた。
数字が出た。
店員の目が、一度だけ大きく開いた。視線が数字と金属の塊の間を二往復し、口がわずかに開く。そこで自分がどんな顔をしているかに気づいたのか、すぐにいつもの営業用の表情へ戻ろうとした。
戻るまでに、一秒ほどかかった。
その一秒が、配信を見ていた人間には十分すぎた。
《は?》
《店員の顔wwww》
《今すごい顔したぞ》
《戻そうとして失敗してるの笑う》
《これガチの反応じゃん》
《偽物なら笑って終わりだもんな》
「……お客様、これ、どちらで手に入れられました」
「うちの店の、壁の向こうです」
「はい?」
「その、説明が難しいんですけど。穴が開いてまして」
店員は三人の顔を見比べたあと、もう一度塊へ目を落とした。
「重量、四九九八グラム。比重は、金としておかしくありません。表面の分析でも、かなり高い数値が出ています」
言葉を選ぶように少し間を置いてから、彼は続けた。
「私がこの場で確認できる範囲ですと、本物の可能性はかなり高いと思います。ただ、表面だけの測定ですし、五キロ近い無刻印のインゴットとなると、こちらだけで真贋を断定することはできません」
「じゃあ、買い取りは?」
「申し訳ありませんが、この状態ではできません。金額も非常に大きくなりますし、入手経緯なども確認が必要になります。私の判断だけで扱える品物ではありません」
《買い取り拒否=偽物じゃなくてヤバすぎるってことなんだよな》
《この人めちゃくちゃ慎重だな》
《逆にその対応が一番怖いわ》
「参考までに、いくらぐらいですか」
身を乗り出したのは店長だった。
店員は一度だけ電卓へ目を落とした。
「……現在の相場で計算するなら、五キロで、一億二千万円前後になります」
店長の顔から血の気が引いた。今度は、さっきの店員よりずっと長い間、その顔が元に戻らなかった。
同時接続は四千三百を超えていた。
《一億》
《一億二千万》
《成瀬逃げろ》
《マジで強盗来るぞ!》
《店もう特定されてるからな》
《トリックスター秋葉原店だろこれ》
《言うなよ》
《もう遅い》
《顔出てるのやばくない?》
《反社に狙われるって》
村山がコメント欄へ目を落とし、ここへ来て初めて表情を変えた。
好奇心が危機意識を上回る男ではあるが、危機意識そのものがないわけではない。四千人を超える人間が同時に見ていて、そのうち相当数が、金塊の出た店と三人の顔をすでに把握している。この先に何が起こるかは、東大生でなくても分かる。
「あー……えっと、すみません。ごめん、一回切ります。ちょっと色々、整理してから。はい。ほんとすみません」
村山はカメラを自分へ向けて短く頭を下げ、そのまま配信を終了した。
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