石の世界で、私ではない私の歌を聞いた 作:ニッチさん
最初に思ったのは、天井が高い、だった。
知らない白い天井。知らない匂い。柔らかすぎるベッド。体に掛けられた布団の重さまで、何もかもが妙に現実的で、だからこそ夢だと切り捨てられなかった。
喉の奥が乾いている。瞬きをすると、睫毛がやけに長く視界にかかった。そこでようやく、自分の体がいつもと違うことに気づいた。
「……あれ?」
出た声は、知らない女の声だった。
いや、知らない、というにはあまりに綺麗すぎた。寝起きの掠れが混じっているのに、耳の奥にすっと残る。発音ひとつに余韻がある。自分の口から出た音だと理解するまで、数秒かかった。
俺は起き上がろうとして、布団の中で自分の手を見た。
細い。白い。爪の形まで整っている。手首は頼りないほど薄く、指はピアノでも弾けそうなくらい長い。少なくとも、昨日まで自分のものだった手ではなかった。
「いやいやいやいや」
慌てて体を起こした瞬間、胸元に重みが来た。
固まった。
待て。落ち着け。こういう時こそ落ち着くんだ。現代人として、それなりに漫画もアニメもゲームも通ってきた俺なら分かる。これは夢か、ドッキリか、事故か、あるいは、あまり考えたくないが、転生とかそういう類の何か。
恐る恐る布団をめくり、もう一度固まった。
「……女の子、じゃん」
声に出した瞬間、体の奥が変なふうに冷えた。驚きと恐怖と、どこか他人事みたいな感覚が混ざっている。自分の体なのに、自分の体じゃない。指先を動かせば動くし、心臓も鳴っているのに、その全部が借り物みたいだった。
ベッド脇の小さなテーブルに、水差しと鏡が置いてあった。
鏡を取る手が震える。見ない方がいい、と内心のどこかが警告した。けれど見なければ、何も始まらない。
鏡の中には、金髪の少女がいた。
青とも緑ともつかない瞳。整いすぎた鼻筋。寝起きで乱れているはずなのに、それさえ絵になる長い髪。年齢は、たぶん十歳前後。子どもなのに、将来どう育つか分かってしまう顔だった。
「……誰だよ、これ」
鏡の中の少女も同じ口でそう言った。
その直後、頭の奥に名前が浮かんだ。
リリアン・ワインバーグ。
自分のものではないはずの名前なのに、舌に馴染む。何度も呼ばれてきた記憶がある。誕生日、家の間取り、両親の顔、好きな食べ物、苦手な野菜。知らないはずの情報が、引き出しを開けるみたいに次々と頭の中へ並んでいった。
それと同時に、別の記憶もある。
日本の狭い部屋。夜更かしして眺めた画面。コンビニの明かり。学校。仕事。くだらない会話。男だった自分。名前は、思い出せる。けれど口にしようとすると、少し遠い。
二つの人生が重なっていた。
どちらが本物か分からない。いや、分からないというより、どちらも本物の重みで胸の中にある。だからこそ気持ち悪かった。
「リリアン? 起きているの?」
扉の外から女の人の声がした。
体が勝手に反応する。母親だ、と分かった。リリアンの記憶がそう教えてくる。優しくて、少し心配性で、寝坊した朝は決まって同じ声を出す人。
返事をしなければ。
そう思ったのに、口から出たのは一拍遅れた声だった。
「……はい。起きています」
私、と言いそうになった。
僕じゃない。俺でもない。自然に出そうになった一人称が「私」だったことに、ぞっとした。
扉が開く。入ってきた女性は、鏡の少女と同じ色の瞳をしていた。彼女は俺を見るなり、安心したように笑った。
「顔色は良さそうね。昨日は熱があったから心配したのよ」
「熱……」
「覚えていない? レッスンの途中で倒れたの。先生も驚いていたわ」
レッスン。
その言葉で、頭の中に音符が流れた。発声練習。ピアノの音。腹式呼吸。英語の歌詞。舞台の照明を夢見るような誰かの感情。
いや、俺はそんなもの知らない。
知らないはずなのに、知っている。
「……大丈夫です。少し、ぼんやりしているだけで」
女の人は俺の額に手を当てた。温かい。触れられた瞬間、体が少し安心したのが分かった。自分の意志とは関係なく、リリアンの体が母親を信頼している。
「今日は無理しないで。レッスンも休ませてもらうから」
その言葉に、ほっとした。
けれど同時に、胸の奥が小さく疼いた。休みたくない。歌いたい。そんな感情がどこかから湧いてくる。俺のものではない。少なくとも、昨日までの俺ならそんなことを思わない。
歌なんて、カラオケでふざけるくらいだった。音楽は好きでも、人生を賭けるようなものではなかった。
なのに、喉が歌を覚えていた。
その日は一日、部屋から出なかった。
ベッドの上で、自分の手を握ったり開いたりした。髪を触り、声を出し、歩き方を確かめる。小さな体は軽く、重心も違う。何より、ふとした瞬間に髪が肩や頬に触れる感覚が落ち着かなかった。
鏡を見るたび、知らない美少女がこちらを見る。
美少女。そう、美少女だ。前世の俺なら、画面越しに見て「顔が良い」と言っていたかもしれない。だが、それが自分だと話は別だった。
夕方、母親が温かいスープを持ってきた。俺は慎重にスプーンを持ち、口に運んだ。味は優しかった。舌が知っている味だった。
「少し食欲が戻ったみたいね」
「……はい。おいしいです」
母親が嬉しそうに笑う。
その顔を見た瞬間、胸の奥が柔らかくなる。リリアンの感情だ。けれど、それを完全に他人のものだとは思えなかった。俺も、この人を悲しませたくないと思ってしまった。
厄介だ。
この体の記憶も、感情も、生活も、全部が中途半端に俺を受け入れている。拒絶したいのに、拒絶しきれない。
食事を終えたあと、母親は少し迷ってから言った。
「リリアン。無理にとは言わないけれど、声を少し出してみる? 昨日、喉を痛めていないかだけ確認したいの」
背中が強張った。
歌う。そう言われただけで、喉の奥が熱くなる。怖い。けれど、怖い理由が分からない。知らない才能が、自分の中にある気配がした。
「……少しだけなら」
母親はピアノの前に座り、柔らかく鍵盤に触れた。
短い旋律が部屋に広がる。知らない曲のはずだった。なのに、体は歌い出すタイミングを知っていた。息の吸い方も、音の置き方も、喉の開き方も、何もかも自然に分かる。
俺は、最初の一音を出した。
世界が変わった。
自分の声が、部屋の空気を震わせる。壁に当たり、窓辺でほどけ、母親の肩を揺らす。ただの音ではなかった。息に感情が乗って、言葉になる前から誰かの胸に届いてしまうような、そんな声だった。
俺は歌いながら、自分の声に飲み込まれかけた。
悲しい曲ではない。明るい、短い練習曲だ。それなのに、胸の奥から知らない感情があふれてくる。歌うことが好きだ。誰かが笑ってくれるのが嬉しい。音が伸びる瞬間、どこまでも行ける気がする。
違う。
これは俺じゃない。
そう思ったのに、歌を止められなかった。むしろ、もっと歌いたいと思ってしまった。喉も、肺も、指先も、全部が音に向かって開いていく。
曲が終わった時、部屋は静かだった。
母親は鍵盤に手を置いたまま、じっとこちらを見ていた。目に涙が浮かんでいる。俺は何か悪いことをしたのかと思って、慌てて口を開いた。
「……変、でしたか?」
「いいえ」
母親は首を振った。
「とても綺麗だったわ。前より、ずっと」
その言葉に、心臓が跳ねた。
前より。つまり、今の俺が歌った声は、元のリリアンよりも何かが違ったということだ。前世の記憶が混ざったせいなのか。死んだかもしれない俺が、この子の人生に割り込んだせいなのか。
分からない。
ただ、母親は嬉しそうだった。誇らしそうだった。だから俺は、笑わなければいけないと思った。
「ありがとうございます」
鏡で見た少女のように、柔らかく笑う。
それは思ったより簡単だった。唇の上げ方も、目元の緩め方も、体が覚えていた。リリアン・ワインバーグという少女は、人に心配をかけない笑い方を知っていた。
夜になって、部屋に一人になる。
ベッドに潜り込んでも眠れなかった。歌った時の感覚が、まだ喉に残っている。自分の中に知らない楽器が入っていて、それが勝手に鳴ったような感覚だった。
「……僕は」
小さく呟く。
僕。
その一人称が、いちばん落ち着いた。俺ほど剥き出しではなく、私ほど借り物でもない。今の自分をどうにか受け止めるための、細い足場みたいな言葉だった。
「僕は、リリアンなのか?」
答えはなかった。
前世の記憶はある。けれど、その記憶のどこを探しても、リリアン・ワインバーグという少女の人生は見つからない。少なくとも、俺にとってこの名前は、今日初めて自分のものになった名前だった。
なのに、体は知っている。
母親の声も、父親の笑い方も、先生の癖も、好きな歌も、苦手な音程も。何もかも、俺より先にリリアンの体が知っている。
それが怖かった。
自分がどこまで自分で、どこからがリリアンなのか分からない。知らないうちに、俺が薄くなっていく気がする。逆に、リリアンという少女の中に俺が勝手に居座っているような罪悪感もある。
「最悪すぎるでしょ……」
声に出すと、少しだけ楽になった。
現代人だった頃の俺なら、たぶんここでスマホを探して検索していた。転生、対処法。TS転生、初日。知らない美少女になった、どうする。そんな馬鹿みたいな検索履歴を作って、少しは落ち着いていただろう。
でも、この部屋にスマホはない。
あるのは鏡と、楽譜と、柔らかなベッドと、リリアン・ワインバーグとしての生活だけ。
俺は枕に顔を埋めた。
泣きたいのか、笑いたいのか分からない。けれど、何もしないでいると頭がおかしくなりそうだった。
「生きるしかない、か」
小さく言って、目を閉じる。
少なくとも、今すぐ死ぬわけじゃない。体は健康で、家族は優しい。歌の才能もある。性別と人生については、まあ、だいぶ問題がある。だいぶどころではないが、考えても今はどうにもならない。
なら、まずはこの人生に馴染むしかない。
リリアンとして笑って、リリアンとして話して、リリアンとして生きる。そうしているうちに、何か分かるかもしれない。元の自分のことも、この体のことも、この声のことも。
翌朝、俺は鏡の前に立った。
髪を整えるのに苦戦し、服の着方にも少し手間取った。リボンを結ぶ段階で三回失敗して、思わず舌打ちが出かける。鏡の中の美少女が不満そうな顔をしているのを見て、つい吹き出した。
「似合わないな、この顔で舌打ちは」
練習するように微笑む。
昨日より自然だった。
階下へ降りると、母親が朝食を用意していた。父親も新聞を畳み、こちらを見て笑う。リリアンの記憶が、二人の好きな話題や、朝の挨拶の仕方を教えてくれる。
「おはようございます」
自然に、綺麗な声が出た。
「おはよう、リリアン。体調はどうだい?」
「もう大丈夫です。昨日より、ずっと」
父親が安心したように頷いた。
その瞬間、胸の奥で何かが温かくなる。前世の俺ではない。けれど、完全に他人でもない。リリアンの家族を見て、リリアンの体で安心する。そんな自分を、少しだけ許せた気がした。
朝食の途中、父親が冗談を言った。母親が呆れ、俺は思わず笑った。
笑い声が、鈴みたいに響いた。
自分の笑い声に驚いて、また笑いそうになる。なんだこれ。声が良いと笑い声まで良いのか。前世の俺に聞かせたら、絶対にずるいと言う。
その日から、俺は少しずつリリアンとしての日常を歩き始めた。
レッスンでは先生の言葉を聞き、分からないふりをしながら体の記憶に従った。発声練習は奇妙なほど上手くいった。息を吸えば、どこに音を当てればいいか分かる。音程を外す方が難しい。
先生は何度も目を丸くした。
「リリアン、昨日から何か変わった?」
「そう、でしょうか」
「ええ。前から素晴らしかったけれど、今日は……まるで、歌の中に別の人生が入ったみたい」
心臓が冷えた。
笑顔だけは崩さなかった。リリアンの顔は便利だった。少し首を傾げ、照れたように目を伏せるだけで、大抵の違和感は才能や体調のせいにできた。
「昨日、熱を出したからかもしれません」
「そう。なら、無理はしないでね」
「はい」
私、と自然に言えるようになっていた。
それが少し怖かった。
家族や先生の前では「私」。一人で考える時は「僕」。どうしようもなく焦った時、胸の奥で「俺」が顔を出す。三つの自分が、同じ体の中で微妙に距離を取っていた。
それでも日々は進む。
歌えば褒められた。笑えば喜ばれた。少し冗談を言うと、周囲は意外そうにして、それから笑った。リリアンは元々、少し控えめな少女だったらしい。けれど俺の軽さが混ざったせいで、前より明るくなったと言われるようになった。
悪い気はしなかった。
むしろ、楽しかった。
歌うことは怖い。自分のものではない才能に触れるたび、足元が揺らぐ。けれど、誰かが笑ってくれる瞬間だけは、その怖さを忘れられた。
僕はリリアンなのかもしれない。
俺は俺のままなのかもしれない。
どちらでもいいと思える時間が、少しずつ増えていった。
数週間が過ぎた頃、レッスン室でいつもの練習曲を歌い終えると、先生がしばらく黙っていた。
ピアノの余韻が消えても、先生は譜面を見つめたまま動かない。俺は不安になって、そっと声をかけた。
「先生?」
先生は顔を上げた。
その目は、いつもの優しい目ではなかった。興奮と驚きと、何か大きなものを見つけてしまった人の目だった。
「リリアン」
「はい」
「あなたの声は、きっとたくさんの人を幸せにできるわ」
胸の奥が、強く鳴った。
たくさんの人を幸せにする。そんな大きなことを考えたことはなかった。前世の俺は、自分一人のことで精一杯だった。なのに今、その言葉は不思議なくらい深く刺さった。
歌で人を幸せにする。
それは、リリアンの夢だったのか。
それとも、今ここで生まれた僕の夢なのか。
「……そんなこと、できるでしょうか」
先生は迷わず頷いた。
「できるわ。あなたが望むなら」
望むなら。
その言葉を、俺はその日ずっと考えていた。
夜、窓を開けると、遠くの街明かりが見えた。人が歩き、車が走り、どこかの家から小さく音楽が流れている。何でもない夜だった。特別なことなんて、何もない。
でも、その何でもない世界が、今の俺にはひどく眩しかった。
母親は明日の朝もスープを作るだろうし、父親はまたつまらない冗談を言うだろう。先生は譜面を用意し、俺は歌う。リリアンとしての日常は、あまりにも普通に続いていく。
それでいいのかもしれない。
自分が何者かは分からない。けれど、今ここで声を出すことだけはできる。
俺は小さく息を吸った。
歌詞のない、短い鼻歌だった。
夜風に乗った声は、自分でも驚くほど柔らかかった。誰かに聞かせるためではない。自分がここにいると確かめるための音だった。
私はリリアン・ワインバーグ。
僕は、まだ僕の名前を忘れきれていない。
俺は、どうしようもなくこの体で生きている。
三つの言葉が胸の中で重なり、歌にならないまま消えていく。
それでも、喉にはまだ音が残っていた。
この時の僕は、まだ知らなかった。
この声が、いつか誰かのものになることを。
この名前が、僕ではない誰かの人生を歩くことを。
そしていつか、僕が僕ではない私の歌を聞くことになるなんて。
何も知らないまま、僕はその夜も歌っていた。