石の世界で、私ではない私の歌を聞いた   作:ニッチさん

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2:歌手になる前夜

 

 

 リリアン・ワインバーグとして目覚めてから、三か月が過ぎた。

 

 最初の頃は、鏡を見るたびに心臓が跳ねた。金色の髪も、青緑の瞳も、細い手足も、どれだけ触れても自分のものだと納得できなかった。けれど人間というのは案外しぶといもので、毎朝同じ顔を見て、同じ声で返事をして、同じ名前で呼ばれ続けると、少しずつ慣れてしまう。

 

「リリアン、朝食よ」

 

「はい、すぐ行きます」

 

 返事は自然に出るようになった。

 

 家族の前では「私」。先生の前でも「私」。近所の人に声をかけられても、笑顔で「私」を使える。最初は借り物みたいだったその言葉が、今では薄い手袋のように自分の手に馴染んでいた。

 

 ただ、一人になれば違う。

 

 髪を梳かしながら鏡を見る時、寝る前に天井を眺める時、胸の奥から出てくるのは「僕」だった。焦ったり、どうしようもなく気持ち悪くなったりした時には、もっと奥から「俺」が顔を出す。

 

 その三つが混ざったまま、どうにか毎日を歩いている。

 

「リボン、また曲がってる」

 

 鏡の前で呟いて、俺は眉を寄せた。

 

 白いブラウスに、淡い青のリボン。リリアンの体で着れば何でも似合う。似合うのだが、だからこそ腹立たしい。前世の俺なら絶対に選ばなかった服が、妙にしっくり来る。

 

「美少女補正、強すぎるだろ……」

 

 ぼそっと言った瞬間、扉の外から母の声がした。

 

「リリアン? 何か言った?」

 

「いいえ。少し、リボンに苦戦していただけです」

 

「手伝いましょうか?」

 

「大丈夫です。今日は、自分でできます」

 

 言ってから、俺は少しだけ笑った。

 

 自分でできる。たかがリボンひとつで大げさだと思う。けれど、この体になってからは、そういう小さなことが妙に大事だった。服を着る。髪を整える。笑顔を作る。食卓で自然に話す。全部が、リリアンとして生きていくための練習だった。

 

 朝食の席では、父がいつものように新聞を広げていた。

 

 父は真面目そうな顔で紙面を見つめているが、だいたい三分に一度は変な冗談を挟む。最初は対応に困った。今は少しだけ分かってきた。この人は、家族が笑うのを見るのが好きなのだ。

 

「リリアン、今日はレッスンだったね」

 

「はい。午後からです」

 

「なら、先生を驚かせすぎないように」

 

「私、そんなに驚かせていません」

 

 母が横で小さく笑った。

 

「先生から昨日電話があったわ。最近のリリアンは、声が変わったみたいだって」

 

 スプーンを持つ手が止まった。

 

「……悪い意味で、ですか?」

 

「いいえ。とても良い意味で。けれど、無理をしていないか心配していたの」

 

 無理はしていない。

 

 たぶん。

 

 そう答えようとして、言葉が喉に引っかかった。歌うこと自体は、苦しくない。むしろ楽しい。息を吸って、音を置いて、声が空気を震わせる瞬間だけは、自分の中のぐちゃぐちゃしたものが綺麗に整列する。

 

 でも、怖くないと言えば嘘になる。

 

 自分の中にある才能が、あまりにも大きい。俺が努力して手に入れたものではない。リリアンの体が持っていたものなのか、前世の記憶と混ざったせいで変質したものなのか、それすら分からない。

 

「大丈夫です。先生の言うことは、ちゃんと聞いています」

 

「それならいいの」

 

 母は安心したように微笑んだ。

 

 その顔を見ると、胸の奥が温かくなる。リリアンの感情なのか、自分の感情なのか、もういちいち分けるのも難しくなっていた。ただ、この人を心配させたくないと思う気持ちは、たぶん今の僕のものでもある。

 

 午後のレッスン室は、よく磨かれた木の匂いがした。

 

 窓から入る光がピアノの黒い表面に反射している。譜面台には新しい楽譜が置かれていた。先生は俺を見ると、少しだけ目を細めた。

 

「今日は、少し違う曲を試してみましょう」

 

「違う曲、ですか?」

 

「ええ。今のあなたなら、たぶん歌えるわ」

 

 渡された楽譜は、いつもの練習曲より明らかに難しかった。

 

 音域が広い。途中で息を長く保たなければならない箇所がある。感情の起伏も大きい。前世の俺なら、譜面を見ただけで「無理」と言って閉じていた。

 

 けれど、リリアンの体は違った。

 

 視線で音符を追うだけで、喉の奥が準備を始める。どこで息を吸うか、どこで音を細くするか、どこで言葉を立てるか。知らないはずの答えが、体の内側から静かに浮かび上がってくる。

 

「一度、通してみてもいいですか?」

 

 俺がそう言うと、先生は少し驚いたように瞬きをした。

 

「もちろん。でも、無理はしないで」

 

「はい」

 

 ピアノの前奏が始まる。

 

 最初の音を待つ数秒、心臓が少し速くなった。緊張している。人前で歌うことには慣れてきたはずなのに、新しい曲を前にすると、まだ足元が揺れる。

 

 それでも、息を吸った瞬間に迷いは消えた。

 

 声が出る。

 

 高い天井へまっすぐ伸びて、窓際の光に触れるように広がっていく。柔らかく、けれど芯がある。幼い体から出ているとは思えないほど深い感情が、歌詞の隙間から滲んでいた。

 

 先生の手が、一瞬だけ鍵盤の上で遅れた。

 

 俺は歌いながら、それに気づいた。気づいたのに、止まれなかった。曲が俺を連れていく。いや、違う。俺が曲を掴んでいる。怖いくらい自然に、声が次の音を欲しがっていた。

 

 最後の音を伸ばしきったあと、部屋に沈黙が落ちた。

 

 先生はピアノに手を置いたまま、何も言わなかった。怒っているわけではない。失敗したわけでもない。それは分かる。けれど、沈黙が長すぎて、逆に不安になる。

 

「先生?」

 

 声をかけると、先生はゆっくり息を吐いた。

 

「リリアン。あなた、今の曲をどこかで歌ったことがある?」

 

「いいえ。初めてです」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 先生は困ったように笑った。

 

「困ったわね」

 

「……困らせましたか?」

 

「ええ。とても」

 

 心臓が嫌な跳ね方をした。

 

 先生は立ち上がり、譜面を閉じた。それから俺の前に膝をつき、目線を合わせてくる。その顔は真剣だった。いつもの優しさの奥に、隠しきれない興奮がある。

 

「リリアン。あなたの声は、ただ上手いだけじゃないの」

 

「ただ上手いだけじゃない?」

 

「聴いている人の心を、勝手に動かしてしまう声よ。技術だけなら、練習で近づける子はいる。でも、あなたの声には、それ以上のものがある」

 

 褒められている。

 

 それは分かった。

 

 けれど、素直に喜べなかった。声がすごい。才能がある。たくさんの人を幸せにできる。そう言われるたびに、自分の足元が少しずつ別の場所へ運ばれていく気がする。

 

 俺はまだ、何者か決めていない。

 

 それなのに、周りはリリアン・ワインバーグの未来を見つけ始めている。

 

「先生」

 

「なに?」

 

「私は……歌手になりたいのでしょうか」

 

 自分でも変な質問だと思った。

 

 けれど、先生は笑わなかった。少しだけ目を伏せて、それから静かに答えた。

 

「それは、あなたが決めることよ」

 

「私が?」

 

「ええ。才能があるから歌わなければならない、なんてことはないわ。歌は義務になった瞬間、苦しくなるもの」

 

 その言葉に、胸の奥が少し軽くなった。

 

「でもね、リリアン」

 

 先生は続けた。

 

「あなたが歌いたいと思うなら、私は全力で支える。あなたの声は、きっと遠くまで届くから」

 

 遠くまで。

 

 その響きに、喉の奥が小さく震えた。

 

 遠くまで届く声。知らない誰かを笑わせる声。寂しい人を慰める声。そんなものを自分が持っているのだとしたら、それは少しだけ怖くて、少しだけ誇らしい。

 

「……考えてみます」

 

「ええ。それでいいわ」

 

 先生は笑った。

 

 その日の帰り道、母と並んで歩いた。

 

 街路樹の葉が風に揺れている。車が通り過ぎ、犬を連れた老人が挨拶をしてくる。母は買い物袋を片手に、俺の歩幅に合わせてゆっくり歩いていた。

 

「先生、何か言っていた?」

 

「私の声は、遠くまで届くかもしれないと」

 

「そう」

 

 母は嬉しそうに、けれど少し寂しそうに笑った。

 

「お母さんも、そう思うわ」

 

「お母さんも?」

 

「ええ。あなたが歌っている時、部屋の空気が変わるもの」

 

 大げさだ、と言いかけてやめた。

 

 俺自身、歌うたびに同じことを感じている。自分の声が空気を変えてしまう。人の表情を変えてしまう。大げさでも勘違いでもなく、それは実際に起きていることだった。

 

「でも、急がなくていいのよ」

 

 母が言った。

 

「あなたが歌を好きでいてくれることが、一番大事だから」

 

 その言葉が、妙に深く刺さった。

 

 好きでいていい。

 

 歌手になるとか、才能があるとか、将来どうするとか、そういう大きな話の前に。ただ歌うことを好きでいていい。その当たり前の許可が、今の僕にはありがたかった。

 

「はい」

 

 俺は小さく頷いた。

 

「私は、歌うのは好きです」

 

 口にしてから、少し驚いた。

 

 嘘ではなかった。

 

 自分のものではないと思っていた才能。借り物だと思っていた声。怖くて仕方なかったはずの歌。それでも、歌うこと自体は好きだった。誰かが笑ってくれると、胸が温かくなる。

 

 その気持ちまで否定する必要はないのかもしれない。

 

 数日後、先生から小さな発表会に出てみないかと誘われた。

 

 発表会といっても、大きな劇場ではない。地域の音楽教室が合同で開く、家族や関係者向けの小さな会だという。母は心配そうに俺を見たが、父はなぜか自分が舞台に立つような顔で頷いていた。

 

「リリアンなら大丈夫だ」

 

「お父さんが緊張してどうするの」

 

「父親とはそういうものだ」

 

 母に呆れられても、父は胸を張っていた。

 

 その光景が少しおかしくて、俺は笑った。リリアンの笑い声が食卓に転がる。父はそれだけで満足したように笑う。平和だった。あまりにも平和で、時々怖くなるくらいだった。

 

「出てみたいです」

 

 俺がそう言うと、母の目が少しだけ大きくなった。

 

「本当に?」

 

「はい。怖くないわけではありません。でも……歌ってみたいです」

 

 それは、前世の俺なら絶対に言わなかった言葉だった。

 

 人前に立つなんて面倒だ。注目されるなんて疲れる。失敗したら嫌だ。そうやって、何かが始まる前から理由をつけて逃げていた。

 

 でも今は違う。

 

 リリアンの体が、声が、歌いたいと願っている。僕も、それを完全には拒めなくなっている。

 

 発表会の日、会場は小さなホールだった。

 

 客席には家族連れが多い。花束を持った母親、カメラを構える父親、落ち着きなく椅子に座る子どもたち。ステージ脇に立つと、思ったより足が震えた。

 

 大きな舞台ではない。観客も多くない。

 

 それでも、視線が集まる場所に立つのは怖かった。

 

「大丈夫」

 

 先生が隣で囁いた。

 

「いつも通りに歌えばいいわ」

 

 いつも通り。

 

 そんな簡単に言うな、と内心の俺が文句を言う。だが口には出さない。リリアンの顔で、柔らかく頷く。

 

「はい」

 

 名前を呼ばれた。

 

 ステージに出る。照明は強くないのに、客席の顔が少し遠く見えた。母と父が前の方に座っている。父は手を振りかけて、母に止められていた。

 

 危うく笑いそうになった。

 

 そのおかげで、少し肩の力が抜けた。

 

 ピアノの前奏が始まる。

 

 息を吸う。

 

 歌い出した瞬間、客席のざわめきが消えた。

 

 音がホールの天井へ昇っていく。練習室よりも広い空間で、声が伸びる。自分の声なのに、どこまで届いているのか分からない。けれど、届いていることだけは分かった。

 

 最前列の子どもが、ぽかんと口を開けている。隣の女性がハンカチを握りしめている。父は笑っているのに、なぜか泣きそうな顔をしていた。母は両手を胸の前で重ね、祈るように見つめている。

 

 歌いながら、胸が熱くなった。

 

 これは誰の感情だろう。

 

 リリアンのものか。僕のものか。前世の俺が、こんなふうに誰かの前で何かを届けたかったのか。それとも、この体に刻まれた夢がそうさせているのか。

 

 分からない。

 

 でも、今だけはどちらでもよかった。

 

 歌い終えると、数秒だけ静寂があった。

 

 失敗したのかと思った。

 

 次の瞬間、拍手が来た。

 

 小さなホールにしては大きすぎる音だった。客席の人たちが立ち上がるわけではない。それでも、全員が何かを受け取ったような顔をしていた。俺はその光景を見て、息を忘れた。

 

 怖い。

 

 嬉しい。

 

 怖い。

 

 どうしようもなく、嬉しい。

 

 深くお辞儀をしてステージを降りると、先生が俺を抱きしめた。

 

「素晴らしかったわ」

 

「……ありがとうございます」

 

「リリアン、あなたは本当に」

 

 先生はそこで言葉を切った。

 

 その先を言うのを、少し迷ったようだった。天才。歌姫。スター。たぶん、そんな言葉が喉元まで来ていたのだと思う。

 

 けれど先生は言わなかった。

 

「よく頑張ったわ」

 

 代わりにそう言った。

 

 その言葉が、何より嬉しかった。

 

 発表会のあと、何人もの大人が話しかけてきた。

 

 素晴らしかった。どこで習っているのか。将来が楽しみだ。もっと大きな舞台に立てる。そういう言葉が次々に降ってくる。俺はリリアンの笑顔で受け答えをしながら、少しずつ疲れていった。

 

 褒められるのは嬉しい。

 

 でも、その視線が全部、自分の未来を勝手に遠くへ運んでいくようで怖かった。

 

「リリアン」

 

 母がそっと肩に手を置いた。

 

「少し休みましょう」

 

「はい」

 

 控室に戻る途中、廊下の奥に一人の男が立っているのが見えた。

 

 黒いスーツ。整えられた髪。笑っていない目。発表会の関係者かと思ったが、手に花束もプログラムも持っていなかった。ただ、こちらを見ていた。

 

 一瞬だけ目が合う。

 

 背筋に、薄い冷たさが走った。

 

「リリアン?」

 

 母に呼ばれて、俺は視線を戻した。

 

「どうしたの?」

 

「……いいえ。何でもありません」

 

 振り返った時、男はもういなかった。

 

 気のせいかもしれない。発表会には知らない大人がたくさんいた。俺が少し疲れて、過敏になっていただけかもしれない。

 

 そう思うことにした。

 

 控室では父が待っていた。

 

 父は俺を見るなり、何度も頷いた。何か言いたいのに言葉が出ないらしい。その様子があまりにも分かりやすくて、俺はつい笑ってしまった。

 

「お父さん?」

 

「リリアン」

 

「はい」

 

「私は今、人生で一番誇らしい」

 

「大げさです」

 

「大げさではない。父親とはそういうものだ」

 

 またそれか、と母が笑う。

 

 俺も笑った。

 

 この人たちの娘として笑うことに、以前ほど抵抗はなかった。前世の自分を忘れたわけではない。男だった自分が消えたわけでもない。それでも、この温かい場所に立つ自分を、少しずつ認め始めていた。

 

 帰りの車の中、母が小さく言った。

 

「リリアン。今日は本当に素敵だったわ」

 

「ありがとうございます」

 

「でも、疲れたでしょう?」

 

「少しだけ」

 

「無理に歌手にならなくてもいいのよ」

 

 その言葉に、胸が揺れた。

 

 母は前を向いたまま続けた。

 

「もちろん、あなたが望むなら応援するわ。お父さんも、先生も、きっとそう。でも、歌が好きなことと、歌で生きることは違うでしょう?」

 

「……はい」

 

「だから、ゆっくり考えましょう」

 

 ゆっくり。

 

 その言葉に救われる。

 

 まだ決めなくていい。今日歌って、拍手をもらって、少し嬉しくなっただけで、一生を決めなくてもいい。そう思うと、体から力が抜けた。

 

「私は、まだ分かりません」

 

 正直に言った。

 

「歌うのは好きです。誰かが喜んでくれるのも、嬉しいです。でも、歌手になると言われると……怖いです」

 

「怖くていいのよ」

 

 母は優しく答えた。

 

「大切なことほど、怖いものだから」

 

 その夜、俺はなかなか眠れなかった。

 

 ベッドの中で、発表会の拍手を思い出す。客席の静けさ。父の泣きそうな顔。母の手。先生の抱擁。廊下の奥にいた、知らない男の目。

 

 最後の記憶だけが、他の温かさに混ざらず残っていた。

 

 俺は寝返りを打つ。

 

「気にしすぎ、だよな」

 

 小さく呟く。

 

 そうであってほしかった。

 

 翌日から、周囲の空気は少し変わった。

 

 先生は俺のレッスン内容を本格的なものに変えた。父は音楽関係の知人について話すようになり、母は慎重に俺の体調を気遣った。発表会を聞いていた誰かが、さらに別の誰かへ話をしたらしい。小さな反響が、少しずつ広がっていく。

 

 リリアン・ワインバーグの名前が、俺の知らない場所で動き始めていた。

 

 それでも日常は続く。

 

 朝はリボンと戦い、昼は学校へ行き、午後はレッスンを受ける。夜には家族と食卓を囲み、時々父の冗談に笑う。俺はその毎日を、できるだけ大切にしようと思った。

 

 歌手になるかどうかは分からない。

 

 けれど、歌うことは好きだ。

 

 それだけは、もう否定できなかった。

 

 数日後、先生から一枚のチラシを渡された。

 

「来月、もう少し大きなホールで子どもたちの音楽会があるの。リリアン、出てみない?」

 

「大きなホール……」

 

「無理にとは言わないわ。でも、あなたには良い経験になると思う」

 

 俺はチラシを見つめた。

 

 印刷された会場名も、日時も、出演者募集の文字も、前世の俺なら流し見して終わっていたはずだ。けれど今は違う。紙一枚の向こうに、知らない未来が広がっている気がした。

 

 怖い。

 

 でも、少し見てみたい。

 

「考えても、いいですか?」

 

「もちろん」

 

 先生は微笑んだ。

 

 帰り道、俺はチラシを鞄に入れたまま何度も触った。紙の角が指に当たるたび、胸の奥が落ち着かなくなる。歌手になる覚悟なんて、まだない。それでも、次の舞台を考えている自分がいる。

 

「僕、変わったな」

 

 小さく呟いて、少し笑った。

 

 前世の俺が見たら、何と言うだろう。美少女になって、歌って、拍手をもらって、次の舞台に迷っている自分。たぶん、困った顔で笑う。いや、案外ノリノリで「行けるとこまで行け」と言うかもしれない。

 

 どちらにしても、今の僕は少しだけ前を向いていた。

 

 だから気づかなかった。

 

 道の向こう側に停まっていた黒い車の中から、こちらを見ている視線があったことに。

 

 その夜、どこかの部屋で一つの映像が再生されていた。

 

 小さなホール。ステージに立つ金髪の少女。歌い出した瞬間に、客席の空気が変わる。録音機材の性能は高くない。それでも、声の異常さは十分に伝わった。

 

 画面の前に座る男が、短く言った。

 

「声帯特性は想定以上。神経反応も記録と一致する可能性が高い」

 

 隣の女が資料をめくる。

 

「年齢は?」

 

「候補範囲内です」

 

「接触は?」

 

「まだです。家族、教師、生活圏を確認中」

 

 画面の中で、少女が歌い終えてお辞儀をする。

 

 拍手が響く。

 

 男は、その拍手には何の関心も示さなかった。ただ少女の喉元を見て、次に瞳を見た。まるでそこに、歌でも感情でもない何かを見つけようとしているようだった。

 

「対象名」

 

 女が確認する。

 

「リリアン・ワインバーグ」

 

 男は資料の端に、短い言葉を書き込んだ。

 

 適合候補。

 

 それから、映像の中で笑っている少女をもう一度見た。

 

「観察を続けろ。必要なら、確保する」

 

 誰かの人生が動き出す音は、拍手よりずっと静かだった。

 

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