石の世界で、私ではない私の歌を聞いた   作:ニッチさん

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3:悪夢

 

 

 大きなホールのチラシは、机の上に置いたままだった。

 

 手に取っては戻し、また手に取っては戻す。出演者募集の文字も、会場の名前も、もう何度も読んだ。紙の端は少し柔らかくなっている。たった一枚のチラシなのに、それはリリアン・ワインバーグの未来を勝手に広げていく扉みたいだった。

 

「……出たいのかな、僕は」

 

 声に出しても、答えは出なかった。

 

 歌うのは好きだ。これはもう認めるしかない。練習室で声を出す時、母が微笑む時、父が妙に誇らしそうにする時、先生が驚いた顔をする時。その全部が、胸の奥を温かくする。

 

 けれど、歌手になるという言葉は重かった。

 

 前世の俺は、そんなに大きな人生を選べる人間ではなかった。目立つことは苦手で、注目されると疲れて、失敗するくらいなら最初からやらない方が楽だと思っていた。なのに今の僕は、ステージの光を少しだけ見たいと思っている。

 

 それがリリアンの夢なのか、僕の夢なのか、まだ分からない。

 

「リリアン、入ってもいい?」

 

 扉の向こうから母の声がした。

 

「はい」

 

 母は温かいミルクを持って部屋に入ってきた。机の上のチラシを見ると、少しだけ目元を緩める。

 

「まだ迷っているのね」

 

「……はい」

 

「迷っていいのよ。すぐ決めなくても」

 

 母はそう言って、カップを置いた。

 

 その優しさが少し痛い。母は急かさない。父も先生も、背中は押すけれど無理やり進ませようとはしない。だからこそ、自分の気持ちを自分で決めなければいけなかった。

 

「お母さんは、どう思いますか」

 

「私は、あなたが歌いたいなら聴きたいわ」

 

「歌手に、なってほしいですか」

 

 母はすぐには答えなかった。ベッドの端に腰を下ろし、俺の髪をそっと撫でる。リリアンの体が、その手つきを知っていた。小さい頃、眠れない夜に何度もこうしてもらった記憶がある。

 

「あなたが幸せなら、それでいいの」

 

 母は言った。

 

「歌手になっても、ならなくても。大きな舞台に立っても、この家で鼻歌を歌っていても。あなたがあなたの歌を嫌いにならないなら、それでいい」

 

 喉の奥が詰まった。

 

「……私は、歌を嫌いにはなりたくありません」

 

「ええ」

 

 母は微笑んだ。

 

「それが一番大事よ」

 

 その夜、俺はチラシを鞄に入れた。

 

 出ると決めたわけではない。先生に、もう少しだけ話を聞いてみようと思っただけだ。それでも、紙を持っていくという行為は小さな決意のようで、胸の奥が落ち着かなかった。

 

 翌日のレッスンは、いつもより集中できなかった。

 

 先生はすぐにそれに気づいた。発声練習の途中でピアノを止め、俺の顔を覗き込む。

 

「リリアン。今日は心がどこかへ行っているわね」

 

「すみません」

 

「謝らなくていいの。チラシのこと?」

 

 俺は小さく頷いた。

 

「出てみたい気持ちはあります。でも、怖いです」

 

「怖いのは悪いことじゃないわ。怖いのに歌いたいなら、その気持ちは本物かもしれない」

 

「本物……」

 

「ええ。でも、本物だからこそ大事に扱わないといけない」

 

 先生は譜面を閉じた。

 

「今日は歌うより、少し話しましょうか」

 

 それから先生は、舞台のことを教えてくれた。大きなホールといっても、子どもたちの音楽会であること。失敗しても誰かが責める場ではないこと。歌手になるかどうかを決める場ではなく、ただ経験を増やすための機会であること。

 

 話を聞いているうちに、胸の奥の怖さが少し形を変えた。

 

 未知の怪物みたいだった未来が、具体的な舞台の広さや、リハーサルの時間や、曲目の候補になっていく。分からないものは怖い。でも分かるものなら、少しは向き合える。

 

「……出てみたいです」

 

 気づけば、そう言っていた。

 

 先生は嬉しそうに笑った。

 

「なら、準備しましょう。あなたのペースで」

 

「はい」

 

 その時、レッスン室の窓の外に黒い車が見えた。

 

 道の向こう側に停まっている。運転席に人影があるように見えたが、ガラスが暗くて顔までは分からない。胸の奥に、薄い違和感が走る。

 

 発表会の日にも、似たような視線を感じた。

 

「リリアン?」

 

 先生に呼ばれて、俺は窓から目を離した。

 

「どうかした?」

 

「……いいえ。何でもありません」

 

 言ってから、少し後悔した。

 

 何でもないと言い切るには、胸の中の冷たさが残りすぎていた。でも先生に話しても、どう説明すればいいのか分からない。黒い車が気になる。知らない大人の視線が怖い。それだけでは、子どもの不安にしか聞こえない気がした。

 

 その日から、黒い車を何度か見るようになった。

 

 学校の近く。レッスン室へ向かう道。家から少し離れた角。いつも同じ車かは分からない。ただ、似た色の車を見るたびに、背中が強張るようになった。

 

 家族には言えなかった。

 

 心配をかけたくなかった。母があの優しい顔を曇らせるのが嫌だったし、父が大げさに騒いで何かを調べ始めるのも怖かった。何より、自分が過敏になっているだけかもしれないという思いがあった。

 

 歌のことで注目され始めたから、少し怖くなっているだけ。

 

 そう自分に言い聞かせた。

 

 けれど、視線は消えなかった。

 

 音楽会への参加を決めてから、日々は慌ただしくなった。曲を決め、衣装を相談し、先生と何度も練習する。母は無理をしないようにと何度も言い、父は相変わらず自分のことのように緊張していた。

 

 その温かさの中で、俺は少しずつ前を向いていた。

 

 怖いけれど、歌いたい。

 

 その気持ちを、初めて自分のものとして抱き始めていた。

 

 拉致されたのは、そんな日の帰りだった。

 

 レッスンが少し長引き、外はもう夕方だった。先生が送ろうかと言ってくれたが、母が近くまで迎えに来る予定だったので断った。レッスン室から母との待ち合わせ場所までは、歩いて数分しかない。

 

 鞄の中には楽譜が入っている。音楽会で歌う候補曲。まだ決定ではないけれど、先生は今日の出来なら十分だと言ってくれた。

 

 足取りは軽かった。

 

 角を曲がったところで、白いワゴン車が停まっていた。

 

 車の横に立っていた女性が、俺を見るなり近づいてくる。スーツ姿で、首から身分証のようなものを下げていた。柔らかい笑顔。けれど、どこか作り物めいている。

 

「リリアン・ワインバーグさんですね?」

 

「……はい」

 

「お母様から連絡を受けています。少し体調を崩されたそうで、代わりに私たちが送ることになりました」

 

 心臓が跳ねた。

 

「母が?」

 

「ええ。こちらへ」

 

 女性は自然な仕草で車のドアを開けた。

 

 おかしい。

 

 そう思った。

 

 母なら、知らない人を寄越す前に先生へ連絡するはずだ。あるいは、直接俺に伝えるはずだ。けれど、この時代の連絡手段や、今の家の習慣を完全に把握しているわけではない。もしかしたら、急な体調不良で誰かに頼んだのかもしれない。

 

 疑うには材料が足りなかった。

 

 それでも、体は動かなかった。

 

「確認してもいいですか。先生に」

 

 俺が言うと、女性の笑顔がほんの少しだけ固まった。

 

「ええ、もちろん。ただ、お母様が心配されていますから、できるだけ早く」

 

 背後で足音がした。

 

 振り返る前に、口元を布で塞がれた。

 

「っ……!」

 

 薬品の匂い。

 

 甘くて、鋭くて、鼻の奥を焼くような匂いがした。息を止めようとしたが遅かった。腕を掴まれる。鞄が地面に落ちる。楽譜が少しはみ出した。

 

 やばい。

 

 叫ぼうとした声は、布の中で潰れた。

 

 俺は必死に暴れた。細い腕を振り回し、足をばたつかせる。けれど相手は大人で、こちらは子どもの体だった。力の差がありすぎる。爪を立てても、蹴っても、腕は簡単に押さえ込まれた。

 

 視界の端で、女性が落ちた鞄を拾っていた。

 

「抵抗反応あり。意識低下まで十秒程度」

 

 その声は、さっきまでの柔らかさを失っていた。

 

 俺は目を見開いた。

 

 違う。

 

 これは送迎じゃない。

 

 母じゃない。先生じゃない。誰も知らない。

 

 逃げろ。

 

 逃げなきゃ。

 

 けれど体から力が抜けていく。膝が折れ、誰かに抱えられる。白いワゴン車の中へ押し込まれる瞬間、地面に落ちたチラシが見えた。

 

 音楽会のチラシだった。

 

 次の舞台へ繋がるはずだった紙が、夕方の風で裏返る。

 

 そこで意識が途切れた。

 

 目を覚ました時、最初に感じたのは寒さだった。

 

 背中が硬い。柔らかいベッドではない。体を動かそうとして、腕が動かないことに気づいた。手首が固定されている。足首も。胸元にも何かが巻かれていて、深く息を吸うと圧迫感がある。

 

 白い天井。

 

 白い壁。

 

 白い光。

 

 部屋全体が、あまりにも白かった。

 

「……っ」

 

 声を出そうとして、喉が掠れた。

 

 口の中が乾いている。頭が重い。薬のせいだ。そう理解した瞬間、心臓が嫌な音を立てた。

 

 誘拐された。

 

 その事実が、遅れて体に落ちてくる。

 

「お母さん……」

 

 呼んでも、返事はない。

 

 母はいない。父もいない。先生もいない。ここがどこかも分からない。手首の拘束具が冷たい。動くたびに金属が鳴る。その音だけで、呼吸が浅くなった。

 

「誰か……!」

 

 叫んだつもりだった。

 

 けれど声は思ったほど出なかった。歌うための喉が、今はただ震えている。あれほど遠くまで届くと言われた声が、この白い部屋の中では何の役にも立たない。

 

 扉が開いた。

 

 白衣を着た男が二人、女が一人入ってくる。顔には薄いマスク。手には端末と書類。俺を見る目は、医者のものに似ていた。けれど違う。心配する目ではない。

 

 観察する目だった。

 

「覚醒確認」

 

「投与量は想定内」

 

「記憶混濁は?」

 

「反応を見る」

 

 俺は奥歯を噛んだ。

 

「あなたたち、誰ですか」

 

 声が震えた。

 

 それでも、できるだけリリアンの声で、丁寧に言おうとした。怖がっていると思われたくなかった。泣き叫んだら、何かが終わる気がした。

 

「私を、家に帰してください」

 

 白衣の女が端末に何かを入力する。

 

「言語反応正常」

 

「質問への理解も問題なし」

 

「情緒反応は年齢相応か」

 

 無視された。

 

 俺の言葉が、会話として扱われなかった。

 

 ぞっとした。

 

「聞いてください。私は、リリアン・ワインバーグです。両親が心配しています。先生も、きっと」

 

「名前への固執あり」

 

 男が言った。

 

「自己認識は維持。初期状態としては良好」

 

 名前への固執。

 

 その言い方に、喉の奥が冷たくなった。

 

 違う。固執じゃない。名前は名前だ。俺は、リリアンだ。まだ完全にそう言い切れなくても、少なくともこの人たちに奪われるものではない。

 

「ふざけないで」

 

 声が低くなった。

 

「ここはどこですか。何のつもりですか」

 

 男は俺の顔を見た。

 

 初めて、目が合った。

 

 そこに怒りはない。嘲笑もない。悪意さえ、はっきりとは見えなかった。ただ、興味だけがあった。珍しい標本を見つけた人間の目だった。

 

「リリアン・ワインバーグ。君には、これからいくつかの検査を受けてもらう」

 

「嫌です」

 

「拒否権はない」

 

 即答だった。

 

 体が冷えた。

 

「なぜ、私なんですか」

 

「適合したからだ」

 

「何に」

 

 男は答えなかった。

 

 代わりに、女が俺の腕に触れた。袖をまくり、肌を確認する。反射的に振り払おうとしたが、拘束されていて動けない。触られる。見られる。測られる。

 

 それだけで、体の奥から吐き気が上がってきた。

 

「やめて」

 

 声が震える。

 

「触らないで」

 

「脈拍上昇」

 

「恐怖反応あり」

 

「記録」

 

 記録。

 

 俺の恐怖が、ただの数値として扱われる。

 

「やめろ……」

 

 思わず、素の声が出た。

 

 僕でも私でもない。もっと奥の、剥き出しの声だった。

 

「やめろよ……!」

 

 男が少しだけ眉を動かした。

 

「一人称の変化。記録しておけ」

 

 その瞬間、頭の中で何かが切れかけた。

 

 こいつらは、俺を見ていない。

 

 リリアンも、僕も、俺も見ていない。声も、怖さも、名前も、全部ただの反応だ。材料だ。データだ。

 

 白衣の女が、細い針を準備する。

 

 腕を掴まれた。

 

「やめて!」

 

 叫んだ。

 

 今度は声が響いた。白い部屋の壁にぶつかって、鋭く返ってくる。自分でも驚くほど強い声だった。白衣の一人がわずかに肩を跳ねさせる。

 

 けれど、それだけだった。

 

 拘束は外れない。針は止まらない。大人の手は、子どもの腕を簡単に押さえ込む。

 

 針が刺さった。

 

 痛みは小さかった。けれど、それ以上に、何かを奪われた感覚がした。血が採られる。体を調べられる。自分の中にあるものが、勝手に外へ持ち出される。

 

 涙が出た。

 

 悔しかった。

 

 怖かった。

 

 泣きたくなんかなかった。

 

「泣かないで、リリアン」

 

 白衣の女が言った。

 

 優しい声だった。

 

 その優しさが、一番気持ち悪かった。

 

「君の声も、体も、とても価値があるの」

 

「価値……?」

 

「ええ。人類の未来に関わる価値よ」

 

 人類の未来。

 

 あまりにも大きな言葉だった。

 

 その大きな言葉で、俺の恐怖を踏み潰そうとしている。俺の家族も、先生も、歌も、音楽会のチラシも、全部どうでもいいと言われている気がした。

 

「僕は……」

 

 声が擦れる。

 

「僕は、そんなものになりたくない」

 

 女は答えなかった。

 

 ただ、血液の入った小さな容器を確認し、男に渡した。男はそれを光にかざすように見て、端末の数値と照らし合わせる。

 

 数分後、部屋の空気が変わった。

 

 端末を見ていた研究者たちが、互いに視線を交わす。小さな興奮が、白いマスクの奥から滲み出ていた。

 

「適合率、基準値を大幅に超過」

 

「神経反応、予測値以上」

 

「声帯組織、保存対象として極めて有用」

 

「記憶定着率の検証を急ぐべきです」

 

 知らない言葉が並ぶ。

 

 けれど、自分が何かに合格してしまったことだけは分かった。

 

 合格したくなかったものに。

 

「やめてください」

 

 声が小さくなった。

 

「家に、帰してください」

 

 男は端末から目を離さないまま言った。

 

「帰すことはできない」

 

「どうして」

 

「君は、候補ではなくなった」

 

 嫌な予感がした。

 

 男がこちらを見る。

 

「正式に、研究対象として登録する」

 

 白衣の女が新しい書類を出した。そこに名前が書かれているのが、遠目にも見えた。リリアン・ワインバーグ。その文字に赤い線が引かれる。

 

 代わりに、別の記号が入力された。

 

「やめて」

 

 俺は首を振った。

 

「それは、私の名前です」

 

 誰も聞いていなかった。

 

「対象識別名を変更」

 

 男が淡々と言う。

 

「以後、L-00と呼称する」

 

 L-00。

 

 その音が、白い部屋に落ちた。

 

 リリアンではない。

 

 僕でもない。

 

 俺でもない。

 

 ただの記号。

 

 喉の奥から、声にならないものが込み上げた。歌うためにあるはずの喉が、泣くことも叫ぶことも上手くできない。拘束具が鳴る。白い光が眩しい。薬品の匂いが鼻に残る。

 

 ふざけるな。

 

 内心の俺が、低く唸った。

 

 名前を消すな。

 俺を見るな。

 測るな。

 勝手に、俺を人間じゃなくすんな。

 

 けれど口から出たのは、かすれた声だけだった。

 

「……お母さん」

 

 白衣の研究者たちは、その声すら記録した。

 

 誰かが言った。

 

「複製計画の準備を開始する」

 

 その言葉の意味を、この時の僕はまだ知らなかった。

 

 ただ一つだけ、分かった。

 

 リリアン・ワインバーグとしての優しい日常は、この白い部屋で終わったのだと。

 

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