石の世界で、私ではない私の歌を聞いた 作:ニッチさん
大きなホールのチラシは、机の上に置いたままだった。
手に取っては戻し、また手に取っては戻す。出演者募集の文字も、会場の名前も、もう何度も読んだ。紙の端は少し柔らかくなっている。たった一枚のチラシなのに、それはリリアン・ワインバーグの未来を勝手に広げていく扉みたいだった。
「……出たいのかな、僕は」
声に出しても、答えは出なかった。
歌うのは好きだ。これはもう認めるしかない。練習室で声を出す時、母が微笑む時、父が妙に誇らしそうにする時、先生が驚いた顔をする時。その全部が、胸の奥を温かくする。
けれど、歌手になるという言葉は重かった。
前世の俺は、そんなに大きな人生を選べる人間ではなかった。目立つことは苦手で、注目されると疲れて、失敗するくらいなら最初からやらない方が楽だと思っていた。なのに今の僕は、ステージの光を少しだけ見たいと思っている。
それがリリアンの夢なのか、僕の夢なのか、まだ分からない。
「リリアン、入ってもいい?」
扉の向こうから母の声がした。
「はい」
母は温かいミルクを持って部屋に入ってきた。机の上のチラシを見ると、少しだけ目元を緩める。
「まだ迷っているのね」
「……はい」
「迷っていいのよ。すぐ決めなくても」
母はそう言って、カップを置いた。
その優しさが少し痛い。母は急かさない。父も先生も、背中は押すけれど無理やり進ませようとはしない。だからこそ、自分の気持ちを自分で決めなければいけなかった。
「お母さんは、どう思いますか」
「私は、あなたが歌いたいなら聴きたいわ」
「歌手に、なってほしいですか」
母はすぐには答えなかった。ベッドの端に腰を下ろし、俺の髪をそっと撫でる。リリアンの体が、その手つきを知っていた。小さい頃、眠れない夜に何度もこうしてもらった記憶がある。
「あなたが幸せなら、それでいいの」
母は言った。
「歌手になっても、ならなくても。大きな舞台に立っても、この家で鼻歌を歌っていても。あなたがあなたの歌を嫌いにならないなら、それでいい」
喉の奥が詰まった。
「……私は、歌を嫌いにはなりたくありません」
「ええ」
母は微笑んだ。
「それが一番大事よ」
その夜、俺はチラシを鞄に入れた。
出ると決めたわけではない。先生に、もう少しだけ話を聞いてみようと思っただけだ。それでも、紙を持っていくという行為は小さな決意のようで、胸の奥が落ち着かなかった。
翌日のレッスンは、いつもより集中できなかった。
先生はすぐにそれに気づいた。発声練習の途中でピアノを止め、俺の顔を覗き込む。
「リリアン。今日は心がどこかへ行っているわね」
「すみません」
「謝らなくていいの。チラシのこと?」
俺は小さく頷いた。
「出てみたい気持ちはあります。でも、怖いです」
「怖いのは悪いことじゃないわ。怖いのに歌いたいなら、その気持ちは本物かもしれない」
「本物……」
「ええ。でも、本物だからこそ大事に扱わないといけない」
先生は譜面を閉じた。
「今日は歌うより、少し話しましょうか」
それから先生は、舞台のことを教えてくれた。大きなホールといっても、子どもたちの音楽会であること。失敗しても誰かが責める場ではないこと。歌手になるかどうかを決める場ではなく、ただ経験を増やすための機会であること。
話を聞いているうちに、胸の奥の怖さが少し形を変えた。
未知の怪物みたいだった未来が、具体的な舞台の広さや、リハーサルの時間や、曲目の候補になっていく。分からないものは怖い。でも分かるものなら、少しは向き合える。
「……出てみたいです」
気づけば、そう言っていた。
先生は嬉しそうに笑った。
「なら、準備しましょう。あなたのペースで」
「はい」
その時、レッスン室の窓の外に黒い車が見えた。
道の向こう側に停まっている。運転席に人影があるように見えたが、ガラスが暗くて顔までは分からない。胸の奥に、薄い違和感が走る。
発表会の日にも、似たような視線を感じた。
「リリアン?」
先生に呼ばれて、俺は窓から目を離した。
「どうかした?」
「……いいえ。何でもありません」
言ってから、少し後悔した。
何でもないと言い切るには、胸の中の冷たさが残りすぎていた。でも先生に話しても、どう説明すればいいのか分からない。黒い車が気になる。知らない大人の視線が怖い。それだけでは、子どもの不安にしか聞こえない気がした。
その日から、黒い車を何度か見るようになった。
学校の近く。レッスン室へ向かう道。家から少し離れた角。いつも同じ車かは分からない。ただ、似た色の車を見るたびに、背中が強張るようになった。
家族には言えなかった。
心配をかけたくなかった。母があの優しい顔を曇らせるのが嫌だったし、父が大げさに騒いで何かを調べ始めるのも怖かった。何より、自分が過敏になっているだけかもしれないという思いがあった。
歌のことで注目され始めたから、少し怖くなっているだけ。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、視線は消えなかった。
音楽会への参加を決めてから、日々は慌ただしくなった。曲を決め、衣装を相談し、先生と何度も練習する。母は無理をしないようにと何度も言い、父は相変わらず自分のことのように緊張していた。
その温かさの中で、俺は少しずつ前を向いていた。
怖いけれど、歌いたい。
その気持ちを、初めて自分のものとして抱き始めていた。
拉致されたのは、そんな日の帰りだった。
レッスンが少し長引き、外はもう夕方だった。先生が送ろうかと言ってくれたが、母が近くまで迎えに来る予定だったので断った。レッスン室から母との待ち合わせ場所までは、歩いて数分しかない。
鞄の中には楽譜が入っている。音楽会で歌う候補曲。まだ決定ではないけれど、先生は今日の出来なら十分だと言ってくれた。
足取りは軽かった。
角を曲がったところで、白いワゴン車が停まっていた。
車の横に立っていた女性が、俺を見るなり近づいてくる。スーツ姿で、首から身分証のようなものを下げていた。柔らかい笑顔。けれど、どこか作り物めいている。
「リリアン・ワインバーグさんですね?」
「……はい」
「お母様から連絡を受けています。少し体調を崩されたそうで、代わりに私たちが送ることになりました」
心臓が跳ねた。
「母が?」
「ええ。こちらへ」
女性は自然な仕草で車のドアを開けた。
おかしい。
そう思った。
母なら、知らない人を寄越す前に先生へ連絡するはずだ。あるいは、直接俺に伝えるはずだ。けれど、この時代の連絡手段や、今の家の習慣を完全に把握しているわけではない。もしかしたら、急な体調不良で誰かに頼んだのかもしれない。
疑うには材料が足りなかった。
それでも、体は動かなかった。
「確認してもいいですか。先生に」
俺が言うと、女性の笑顔がほんの少しだけ固まった。
「ええ、もちろん。ただ、お母様が心配されていますから、できるだけ早く」
背後で足音がした。
振り返る前に、口元を布で塞がれた。
「っ……!」
薬品の匂い。
甘くて、鋭くて、鼻の奥を焼くような匂いがした。息を止めようとしたが遅かった。腕を掴まれる。鞄が地面に落ちる。楽譜が少しはみ出した。
やばい。
叫ぼうとした声は、布の中で潰れた。
俺は必死に暴れた。細い腕を振り回し、足をばたつかせる。けれど相手は大人で、こちらは子どもの体だった。力の差がありすぎる。爪を立てても、蹴っても、腕は簡単に押さえ込まれた。
視界の端で、女性が落ちた鞄を拾っていた。
「抵抗反応あり。意識低下まで十秒程度」
その声は、さっきまでの柔らかさを失っていた。
俺は目を見開いた。
違う。
これは送迎じゃない。
母じゃない。先生じゃない。誰も知らない。
逃げろ。
逃げなきゃ。
けれど体から力が抜けていく。膝が折れ、誰かに抱えられる。白いワゴン車の中へ押し込まれる瞬間、地面に落ちたチラシが見えた。
音楽会のチラシだった。
次の舞台へ繋がるはずだった紙が、夕方の風で裏返る。
そこで意識が途切れた。
目を覚ました時、最初に感じたのは寒さだった。
背中が硬い。柔らかいベッドではない。体を動かそうとして、腕が動かないことに気づいた。手首が固定されている。足首も。胸元にも何かが巻かれていて、深く息を吸うと圧迫感がある。
白い天井。
白い壁。
白い光。
部屋全体が、あまりにも白かった。
「……っ」
声を出そうとして、喉が掠れた。
口の中が乾いている。頭が重い。薬のせいだ。そう理解した瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
誘拐された。
その事実が、遅れて体に落ちてくる。
「お母さん……」
呼んでも、返事はない。
母はいない。父もいない。先生もいない。ここがどこかも分からない。手首の拘束具が冷たい。動くたびに金属が鳴る。その音だけで、呼吸が浅くなった。
「誰か……!」
叫んだつもりだった。
けれど声は思ったほど出なかった。歌うための喉が、今はただ震えている。あれほど遠くまで届くと言われた声が、この白い部屋の中では何の役にも立たない。
扉が開いた。
白衣を着た男が二人、女が一人入ってくる。顔には薄いマスク。手には端末と書類。俺を見る目は、医者のものに似ていた。けれど違う。心配する目ではない。
観察する目だった。
「覚醒確認」
「投与量は想定内」
「記憶混濁は?」
「反応を見る」
俺は奥歯を噛んだ。
「あなたたち、誰ですか」
声が震えた。
それでも、できるだけリリアンの声で、丁寧に言おうとした。怖がっていると思われたくなかった。泣き叫んだら、何かが終わる気がした。
「私を、家に帰してください」
白衣の女が端末に何かを入力する。
「言語反応正常」
「質問への理解も問題なし」
「情緒反応は年齢相応か」
無視された。
俺の言葉が、会話として扱われなかった。
ぞっとした。
「聞いてください。私は、リリアン・ワインバーグです。両親が心配しています。先生も、きっと」
「名前への固執あり」
男が言った。
「自己認識は維持。初期状態としては良好」
名前への固執。
その言い方に、喉の奥が冷たくなった。
違う。固執じゃない。名前は名前だ。俺は、リリアンだ。まだ完全にそう言い切れなくても、少なくともこの人たちに奪われるものではない。
「ふざけないで」
声が低くなった。
「ここはどこですか。何のつもりですか」
男は俺の顔を見た。
初めて、目が合った。
そこに怒りはない。嘲笑もない。悪意さえ、はっきりとは見えなかった。ただ、興味だけがあった。珍しい標本を見つけた人間の目だった。
「リリアン・ワインバーグ。君には、これからいくつかの検査を受けてもらう」
「嫌です」
「拒否権はない」
即答だった。
体が冷えた。
「なぜ、私なんですか」
「適合したからだ」
「何に」
男は答えなかった。
代わりに、女が俺の腕に触れた。袖をまくり、肌を確認する。反射的に振り払おうとしたが、拘束されていて動けない。触られる。見られる。測られる。
それだけで、体の奥から吐き気が上がってきた。
「やめて」
声が震える。
「触らないで」
「脈拍上昇」
「恐怖反応あり」
「記録」
記録。
俺の恐怖が、ただの数値として扱われる。
「やめろ……」
思わず、素の声が出た。
僕でも私でもない。もっと奥の、剥き出しの声だった。
「やめろよ……!」
男が少しだけ眉を動かした。
「一人称の変化。記録しておけ」
その瞬間、頭の中で何かが切れかけた。
こいつらは、俺を見ていない。
リリアンも、僕も、俺も見ていない。声も、怖さも、名前も、全部ただの反応だ。材料だ。データだ。
白衣の女が、細い針を準備する。
腕を掴まれた。
「やめて!」
叫んだ。
今度は声が響いた。白い部屋の壁にぶつかって、鋭く返ってくる。自分でも驚くほど強い声だった。白衣の一人がわずかに肩を跳ねさせる。
けれど、それだけだった。
拘束は外れない。針は止まらない。大人の手は、子どもの腕を簡単に押さえ込む。
針が刺さった。
痛みは小さかった。けれど、それ以上に、何かを奪われた感覚がした。血が採られる。体を調べられる。自分の中にあるものが、勝手に外へ持ち出される。
涙が出た。
悔しかった。
怖かった。
泣きたくなんかなかった。
「泣かないで、リリアン」
白衣の女が言った。
優しい声だった。
その優しさが、一番気持ち悪かった。
「君の声も、体も、とても価値があるの」
「価値……?」
「ええ。人類の未来に関わる価値よ」
人類の未来。
あまりにも大きな言葉だった。
その大きな言葉で、俺の恐怖を踏み潰そうとしている。俺の家族も、先生も、歌も、音楽会のチラシも、全部どうでもいいと言われている気がした。
「僕は……」
声が擦れる。
「僕は、そんなものになりたくない」
女は答えなかった。
ただ、血液の入った小さな容器を確認し、男に渡した。男はそれを光にかざすように見て、端末の数値と照らし合わせる。
数分後、部屋の空気が変わった。
端末を見ていた研究者たちが、互いに視線を交わす。小さな興奮が、白いマスクの奥から滲み出ていた。
「適合率、基準値を大幅に超過」
「神経反応、予測値以上」
「声帯組織、保存対象として極めて有用」
「記憶定着率の検証を急ぐべきです」
知らない言葉が並ぶ。
けれど、自分が何かに合格してしまったことだけは分かった。
合格したくなかったものに。
「やめてください」
声が小さくなった。
「家に、帰してください」
男は端末から目を離さないまま言った。
「帰すことはできない」
「どうして」
「君は、候補ではなくなった」
嫌な予感がした。
男がこちらを見る。
「正式に、研究対象として登録する」
白衣の女が新しい書類を出した。そこに名前が書かれているのが、遠目にも見えた。リリアン・ワインバーグ。その文字に赤い線が引かれる。
代わりに、別の記号が入力された。
「やめて」
俺は首を振った。
「それは、私の名前です」
誰も聞いていなかった。
「対象識別名を変更」
男が淡々と言う。
「以後、L-00と呼称する」
L-00。
その音が、白い部屋に落ちた。
リリアンではない。
僕でもない。
俺でもない。
ただの記号。
喉の奥から、声にならないものが込み上げた。歌うためにあるはずの喉が、泣くことも叫ぶことも上手くできない。拘束具が鳴る。白い光が眩しい。薬品の匂いが鼻に残る。
ふざけるな。
内心の俺が、低く唸った。
名前を消すな。
俺を見るな。
測るな。
勝手に、俺を人間じゃなくすんな。
けれど口から出たのは、かすれた声だけだった。
「……お母さん」
白衣の研究者たちは、その声すら記録した。
誰かが言った。
「複製計画の準備を開始する」
その言葉の意味を、この時の僕はまだ知らなかった。
ただ一つだけ、分かった。
リリアン・ワインバーグとしての優しい日常は、この白い部屋で終わったのだと。