石の世界で、私ではない私の歌を聞いた   作:ニッチさん

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4:もう一人の私

 

 

 L-00。

 

 それが、白い部屋での名前になった。

 

 リリアン・ワインバーグという名前は、書類の上で赤い線を引かれた。誰も口にしなくなったわけではない。むしろ研究者たちは、必要があればその名前を使った。けれど、それは俺を呼ぶためではなく、データの出所を示すためのラベルだった。

 

「L-00、覚醒確認」

 

「心拍数、上昇」

 

「音声反応を取る。簡単な質問から」

 

 朝も夜も分からない部屋で、俺は何度も起こされた。

 

 白い天井。白い壁。白衣。消毒液と薬品の匂い。腕に巻かれる測定器。喉に向けられる器具。耳元で鳴る機械音。自分の体が、自分より先に研究者たちのものになっていく感覚があった。

 

「名前を言ってください」

 

 女の研究者が、端末を持って言った。

 

「……リリアン・ワインバーグ」

 

「自己認識維持」

 

「違う」

 

 掠れた声が出た。

 

「私は、リリアンです。L-00じゃない」

 

 女は一瞬だけ俺を見た。それから、何事もなかったように端末へ入力する。

 

「名称変更への拒否反応あり。前回と同程度」

 

 会話にならない。

 

 どれだけ言葉を尽くしても、研究者たちにとってそれは訴えではなく反応だった。怒りも、恐怖も、涙も、全部数値になる。俺が何を言ったかではなく、言った時に心拍がどれだけ上がったかを見ている。

 

 最初の数日は、ずっと抵抗していた。

 

 拘束具を引っ張り、叫び、泣き、家に帰せと訴えた。母の名前を呼んだ。父の名前を呼んだ。先生に連絡してくれと頼んだ。けれど、誰も答えなかった。

 

 ある時から、俺は叫ぶ回数を減らした。

 

 喉が痛くなったからではない。叫んでも、誰も人間として聞いてくれないと分かったからだ。

 

「発声テストを開始する」

 

 そう言われるたび、胃の奥が重くなる。

 

 歌わされるのではない。最初は単音。次に音階。母音の長さ。息の持続時間。共鳴の位置。喉の動き。俺の声は歌ではなく、分解される素材になった。

 

「あ……」

 

「もう一度。今度は三秒長く」

 

「ああ……」

 

「声帯振動が安定しすぎている。通常の年齢範囲から外れるな」

 

「神経反応も異常です。感情負荷をかけた時の変化を確認しますか」

 

「段階的に行う」

 

 感情負荷。

 

 その言葉を聞いた時、手首の拘束具が小さく鳴った。体が勝手に逃げようとしたのだと、音で分かった。

 

「やめてください」

 

 外向きの私で言う。丁寧に。できるだけ静かに。

 

「私は、歌いたくありません」

 

「歌唱ではない。測定だ」

 

「嫌です」

 

「拒否反応、強」

 

 研究者はそれだけを記録した。

 

 俺の嫌だは、嫌だとして扱われない。

 

 それが、何より怖かった。

 

 実験は、声だけでは終わらなかった。

 

 血を採られ、髪を切られ、皮膚の反応を見られた。薬を投与され、眠らされ、起こされる。簡単な記憶テストを受けさせられ、映像を見せられ、同じ質問を何度も繰り返された。

 

「昨日の朝食は?」

 

「……知らない」

 

「自宅での最後の記憶は?」

 

「レッスンの帰り」

 

「母親の名前は?」

 

「言わない」

 

「拒否」

 

 言わないことくらいしか、抵抗できるものがなかった。

 

 家族のことを口にすると、そこまで奪われる気がした。母の声も、父の冗談も、先生のピアノも、全部この白い部屋に持ち込まれて数値にされそうで、怖かった。

 

 けれど、研究者たちは必要な情報をすでに持っていた。

 

 ある日、端末の画面に家の写真が映された。

 

 俺の家だった。

 

 母が庭に立っている。父が車のそばで誰かと話している。レッスン室の外観。先生の姿。小さなホールで歌う俺の映像。知らない場所から撮られたものばかりだった。

 

「やめろ」

 

 素の声が出た。

 

「見るな。あの人たちを見るな」

 

「家族映像提示時、反応増大」

 

「記憶定着の錨として有効かもしれません」

 

「ふざけるな!」

 

 拘束具が鳴る。

 

 叫んだ声が白い壁に跳ね返った。研究者の一人が顔をしかめた。音量に驚いただけで、俺の怒りに驚いたわけではない。

 

 男が淡々と言った。

 

「次段階へ進める」

 

「損傷修復試験ですか」

 

「石化因子の適用範囲を確認する」

 

 その日から、痛みが始まった。

 

 何をされたのか、細かく思い出したくない。

 

 ただ、体のどこかが傷つけられるたびに、研究者たちは俺の反応を見た。悲鳴ではなく、損傷の広がりを見る。涙ではなく、皮膚の変化を見る。恐怖ではなく、投与した物質への反応を見る。

 

 そして、初めてそれが起きた時、部屋の空気が変わった。

 

 腕に走った鋭い痛みのあと、皮膚の一部が硬くなった。

 

 灰色に近い石の質感。冷たい。重い。自分の腕なのに、そこだけ生き物ではなくなったようだった。研究者たちは一斉に近づいてきた。

 

「局所石化反応」

 

「自然発生です」

 

「投与量に対して反応が速い。損傷部位に限定されている」

 

「修復保持を確認しろ」

 

 俺は腕を見つめた。

 

 そこだけが石になっていた。

 

 痛みは消えていない。むしろ、石の奥に痛みが閉じ込められたみたいだった。叫びたいのに声が出ない。体の一部が勝手に止まる感覚が、どうしようもなく気持ち悪い。

 

「戻して」

 

 声が震えた。

 

「戻してください」

 

「復元処理を試す」

 

 液体がかけられた。

 

 時間を置いて、石の部分がひび割れるように剥がれた。中から現れた肌は、傷の前より綺麗だった。血もない。跡もない。何もなかったことになっている。

 

 なのに、痛みの記憶だけは残っていた。

 

「成功」

 

 誰かが言った。

 

 成功。

 

 その言葉で、吐きそうになった。

 

 俺にとっては失敗だった。

 

 助かったのではない。治ったのでもない。壊しても戻せると証明されてしまった。俺の体は、壊していいものになった。

 

 その日から、研究者たちの目が変わった。

 

 前より熱を帯びた。前より遠慮がなくなった。声も、血も、皮膚も、神経も、記憶も、すべてが「使える」と判断されたのだと分かった。

 

 眠る前、俺は自分の腕を抱きしめる。

 

 傷はない。跡もない。けれど、そこに痛みがあったことを俺だけが覚えている。体は元に戻る。だから研究者たちは成功と言う。でも、俺の中に残ったものは戻らない。

 

「僕は……」

 

 声が小さすぎて、自分でも聞き取れなかった。

 

 僕は、まだ人間なのか。

 

 それを考えるのが怖くて、目を閉じた。

 

 何度目かの覚醒のあと、俺は別の部屋へ運ばれた。

 

 いつもの白い部屋より広い。壁の片側が厚いガラスになっている。向こう側には、別の部屋があった。そこにも白いベッドがあり、機械が並んでいる。

 

 研究者たちは妙に静かだった。

 

 何かを待っている。

 

 それが分かった。

 

「L-00、視覚反応を確認する」

 

「何を……」

 

 言いかけた時、ガラスの向こうで誰かが動いた。

 

 金色の髪。

 

 青緑の瞳。

 

 細い手。

 

 俺と同じ顔。

 

 そこに、リリアン・ワインバーグがいた。

 

 呼吸が止まった。

 

 鏡ではない。反射でもない。ガラスの向こうの少女は、自分の意思で瞬きをし、ゆっくりと起き上がった。研究者に支えられながら、少し不安そうに周囲を見回す。

 

「……ここは?」

 

 声まで同じだった。

 

 いや、同じではない。俺より少し柔らかい。震えが少ない。白い部屋の匂いを知らない声だった。

 

 俺は、ガラスに手を伸ばそうとした。

 

 拘束が邪魔をする。指先が届かない。それでも体が勝手に前へ出ようとした。

 

「あれ、何」

 

 掠れた声が漏れた。

 

「何だよ、あれ」

 

「複製体、覚醒」

 

「記憶反応は?」

 

 ガラスの向こうで、研究者が少女に尋ねる。

 

「名前を言ってください」

 

 少女は少し戸惑って、それから答えた。

 

「リリアン・ワインバーグ、です」

 

 世界が遠くなった。

 

 俺の名前だった。

 

 さっきまで、俺が必死に守ろうとしていた名前だった。

 

「年齢は」

 

 少女は答える。

 

「家族の名前は」

 

 答える。

 

「昨日のレッスンで歌った曲は」

 

 少し考えてから、答える。

 

 全部、知っていた。

 

 母のことも、父のことも、先生のことも、音楽会のチラシのことも。俺が誰にも渡したくなかったものを、ガラスの向こうの少女は自然に抱えていた。

 

 彼女は嘘をついていない。

 

 それが分かった。

 

 自分を本物だと信じている顔だった。拉致された記憶はない。白い部屋の恐怖もない。L-00という番号も知らない。彼女にとってリリアン・ワインバーグの人生は、最初から彼女のものなのだ。

 

 だから余計に、壊れそうだった。

 

「やめろ」

 

 俺はガラスの向こうを見ながら呟いた。

 

「それは、僕の……」

 

 言葉が続かない。

 

 本当に、僕のものなのか。

 

 母の優しさも、父の冗談も、先生の期待も、歌う喜びも。元はリリアンという少女のものだった。そこに前世の俺が混ざった。今、ガラスの向こうにも同じ記憶を持つリリアンがいる。

 

 どれが本物だ。

 

 誰が盗んだ。

 

 誰が奪われた。

 

 分からない。

 

 ただ、苦しかった。

 

 ガラスの向こうの少女が、不安そうに研究者を見る。

 

「あの、私は帰れるんですか? 母が心配していると思います」

 

 その言葉を聞いて、胸が裂けそうになった。

 

 彼女は母を心配している。

 

 本気で。

 

 彼女は悪くない。

 

 その事実が、俺をさらに追い詰めた。

 

「帰宅調整を行う」

 

 研究者が答えた。

 

「体調不良による一時検査、という扱いで問題ない」

 

「よかった」

 

 少女は小さく笑った。

 

 その笑顔は、俺が鏡の前で練習したリリアンの笑顔によく似ていた。人を安心させるための笑い方。心配をかけまいとする癖。全部同じだった。

 

 俺は叫べなかった。

 

 ガラスの向こうの彼女に、返せとも言えなかった。消えろとも言えなかった。彼女は俺の人生を奪ったのではない。奪ったのは、この白い部屋にいる人間たちだ。

 

 それでも、彼女が歩いていく。

 

 俺が戻れない場所へ。

 

「複製体、安定」

 

「社会復帰プロトコルへ移行」

 

「L-00は継続観察」

 

 L-00。

 

 また、その名前。

 

 いや、名前ですらない記号。

 

 ガラスの向こうで、リリアンが部屋を出ていく。最後に少しだけこちらを見たような気がした。けれど、ガラスは暗く処理されているらしく、彼女の目に俺は映っていなかった。

 

 俺だけが、彼女を見ていた。

 

 もう一人の私を。

 

 それからの日々は、途切れ途切れにしか覚えていない。

 

 起こされる。測られる。傷つけられる。石になる。戻される。歌わされる。黙る。怒る。眠らされる。また起こされる。

 

 時間の感覚が消えていった。

 

 母の顔を思い出そうとすると、ガラスの向こうのリリアンが母に抱きしめられる映像が混ざる。父の冗談を思い出そうとすると、あの子が笑っている気がする。先生のピアノを思い出すと、もう自分が歌っていたのか、彼女が歌っていたのか分からなくなる。

 

 研究者たちは、時々外の映像を見せた。

 

 リリアン・ワインバーグが日常へ戻ったこと。音楽会へ出たこと。歌の評価がさらに高まったこと。小さな記事に名前が載ったこと。

 

 彼女は生きていた。

 

 俺が歩めなかった場所で、ちゃんと笑っていた。

 

 俺はそれを憎もうとした。

 

 でも、憎みきれなかった。

 

 彼女の歌声は綺麗だった。彼女は本気で歌っていた。誰かを喜ばせたいという気持ちまで、たぶん本物だった。だから、余計に自分が何なのか分からなくなった。

 

「L-00、反応が鈍い」

 

「情緒応答が低下しています」

 

「継続実験の影響か」

 

「問題ない。安定化とも見られる」

 

 問題ない。

 

 それも、よく聞く言葉になった。

 

 俺が叫ばなくなっても、問題ない。泣かなくなっても、問題ない。笑わなくなっても、問題ない。歌を拒まなくなっても、問題ない。研究が進むなら、俺が少しずつ空っぽになっていくことは問題ではなかった。

 

 ある日、発声テストで声が出なかった。

 

 喉に異常はない。研究者たちが調べても、声帯は正常だった。けれど、俺は歌えなかった。歌おうとすると、ガラスの向こうのリリアンが浮かぶ。彼女の方がずっと自然に歌っている。彼女の方が、リリアンらしい。

 

 なら、俺は何だ。

 

「もう一度」

 

 研究者が言う。

 

「……」

 

「L-00、発声」

 

 声が出ない。

 

「感情負荷映像を」

 

 画面に家が映る。

 

 母が庭で洗濯物を干している。父が誰かと電話している。玄関から、リリアンが出てくる。あの子だ。俺ではない。けれど母は、彼女に笑いかけている。

 

 その瞬間、喉が裂けるように震えた。

 

「……あ」

 

 音が出た。

 

 歌ではない。泣き声に近かった。

 

 研究者たちは満足そうに記録した。

 

「感情刺激により発声回復」

 

「記憶定着は複製後も本体に残存」

 

「損傷と修復の反復による因子固定化も進んでいます」

 

 本体。

 

 複製。

 

 その言葉が、遠くで響く。

 

 もう怒る力もなかった。

 

 俺はただ、画面の中の母を見ていた。あの人は何も知らない。知らないまま、もう一人のリリアンを抱きしめている。それでいいのかもしれないと思う自分がいた。少なくとも母は、娘を失って泣かずに済んでいる。

 

 その考えが浮かんだ時、自分の中の何かがまた少し削れた。

 

 どれくらい時間が経ったのか分からない。

 

 俺は白い部屋に戻され、いつものように横たえられていた。手首の拘束具はもう必要ないくらい、体は動かなかった。それでも研究者たちは拘束を外さなかった。彼らにとって手順は手順で、俺の抵抗心の有無は関係ないらしい。

 

 天井を見ていると、遠くで警報が鳴った。

 

 最初は、実験開始の合図かと思った。

 

 けれど音が違う。廊下の向こうが騒がしい。足音が走る。研究者たちの声が重なる。いつも白く整えられていた世界が、初めて乱れていた。

 

「外部観測に異常!」

 

「通信途絶が広がっています」

 

「何の光だ、これは」

 

「全域です。映像、切り替えます!」

 

 壁のモニターに、外の景色が映った。

 

 街だった。

 

 どこかの交差点。人が歩き、車が停まっている。次の瞬間、画面の端から緑色の光が流れ込んだ。

 

 綺麗だった。

 

 あまりにも綺麗で、最初は何が起きているのか分からなかった。光は波のように街を飲み込み、人々の姿を一瞬で変えていく。動いていたものが止まる。叫んでいた口が開いたまま固まる。人が、人ではない形になっていく。

 

 研究者たちが凍りついた。

 

「石化反応……?」

 

「あり得ない。広域すぎる」

 

「施設遮断!」

 

「間に合いません!」

 

 緑の光は、モニターの中だけでは終わらなかった。

 

 壁の向こうから、淡い光が漏れてくる。白い部屋が、薄い緑に染まる。研究者たちが慌てて何かを操作している。誰かが俺を見た。初めて、観察ではなく恐怖の目で。

 

 その顔を見て、俺は少しだけ笑いそうになった。

 

 あなたたちも怖いのか。

 

 そんなことを思った。

 

 光が近づく。

 

 俺の体が先に反応した。腕の奥が冷える。何度も傷つけられ、石にされ、戻された場所がざわつく。体中に仕込まれた何かが、外から来る光に呼ばれているようだった。

 

「L-00に異常反応!」

 

「因子が活性化しています!」

 

「固定具を」

 

 誰かが近づこうとした。

 

 その前に、光が部屋を満たした。

 

 冷たくはなかった。

 

 熱くもなかった。

 

 ただ、すべてが止まっていく感覚があった。指先から、足元から、胸の奥から、自分というものが硬く閉じていく。呼吸も、痛みも、恐怖も、白い部屋の匂いも、全部が遠ざかる。

 

 嫌だ、と思わなかった。

 

 助けて、とも思わなかった。

 

 ただ、疲れていた。

 

 もう、測られなくていい。

 もう、歌わなくていい。

 もう、誰かに見られなくていい。

 

 そんな考えが、ゆっくり沈んでいく。

 

 最後に浮かんだのは、母の声だった。

 

 リリアン、と呼ぶ声。

 

 それが俺を呼んだのか、もう一人の彼女を呼んだのか、分からなかった。

 

 分からないまま、俺は石になった。

 

 白い部屋は沈黙した。

 

 研究者たちも、機械も、逃げようとしていた足も、叫びかけた口も、すべてが止まった。モニターには緑の光に飲まれた世界が映ったまま、やがて電源が落ちる。

 

 地下施設の奥で、L-00と呼ばれた少女は眠り続けた。

 

 リリアン・ワインバーグという名前を奪われたまま。

 自分ではないリリアンが世界のどこかで生きていることも知らないまま。

 その歌声が、遠い未来に残ることも知らないまま。

 

 長い長い時間が、白い部屋を埋めていく。

 

 壁は朽ち、機械は沈黙し、記録は壊れ、地上の景色は変わっていった。けれど地下の奥深く、ひび割れた保存区画の中で、半ば石に閉じ込められた少女だけが残された。

 

 誰にも見られず。

 

 誰にも呼ばれず。

 

 ただ、いつか目覚めるその時まで。

 

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