来たるゴールデンウイーク、社会人6年目の僕はもう限界だった。僕が勤めている会社は従業員50人程度で、大手エンジニア系企業からの下請けで食いつないでいる、典型的な中小企業だ。元請けからの納期と予算指示を絶対に守るため、命を削りながら働く日々が続いていた。
このごろは売り手市場だからか、新人はなかなか入らず、入っても続かない子が多いので、無理な仕事はアサインしない。上の世代はのらりくらりとやり過ごすか、上司のご機嫌取りが上手い奴らが要領よく立ち回っている。結果、僕らのような中堅世代にすべてのしわ寄せが回ってくる。
今日は世間一般のカレンダーではゴールデンウイークが始まる前の最後の平日。有休を繋いでゴールデンウイークを満喫……ということは当然なく、連休明けに納期が設定されている案件を片付けるため、薄暗くなったオフィスで絶賛残業中だ。
来週からの祝日は休めるだろうか。上司からは休日出勤を直接指示されてはいないが、すれ違いざまに「ゴールデンウイーク明けの納期は必ず守るように」と念を押されている。
ふと壁の時計を見ると、両の針が頂点を超えた辺りだった。いつの間にか日付が変わっていたようだ。
「はぁ……」
重いため息が出るが、それでも目の前の状況が変わることはない。凝り固まった首と肩をほぐすため軽く腕を上に伸ばしてから、僕は血走った目でモニターを睨み、とにかく無心でキーボードを叩き続けた。
***
翌日。
カーテンの隙間から差し込む暴力的なまでに眩しい初夏の日差しと、遠くで聞こえる近所の子供たちのはしゃぎ声で、僕は重い泥の底から引きずり出されるように目を覚ました。
頭がガンガンと痛む。口の中はひどく乾燥していて、砂を噛んだようにザラザラしていた。のろのろと手を伸ばし、枕元に転がっていたスマートフォンを手繰り寄せる。画面の強い光に目を細めながら時刻を確認すると、デジタル時計は容赦なく『13:45』の数字を叩きつけてきた。
完全に昼過ぎだ。昨日は確か……と、靄のかかった記憶を探る。午前3時だったか4時だったか……誰もいない静まり返ったオフィスで、とにかく何とか連休明け納品の目途が立って、フラフラになりながら深夜割増のタクシーを拾って、それから――
「あ」
体を起こそうとして、強烈な違和感に気づいた。昨日から服が変わっていない。シワだらけになったスラックスに、かすかに汗とオフィス特有の埃っぽいニオイが染み付いたワイシャツ。首元だけを緩めた状態で、どうやら玄関を上がってそのままベッドにダイブし、寝落ちしてしまったらしい。
今日が土曜日で本当に良かった。もしこれが平日で寝坊したのだとしたらと思うと、背筋が凍る思いだ。
「……シャワー、浴びるか」
独り言は虚しく六畳のワンルームに吸い込まれた。床には何日も前から放置されたままのコンビニ袋や、宛名すら見ていない郵便物、脱ぎ捨てた靴下が散乱している。それらを面倒くさそうに跨ぎながら、僕は重い足取りでバスルームへ向かった。
熱めのシャワーを浴びて、こびりついた皮脂と疲労を強制的にお湯で洗い流す。鏡に映った自分の顔は、目の下に濃いクマが張り付き、頬もこけていて、とても20代とは思えない生気を失った目をしていた。適当にヒゲを剃り、休日にしか着ないヨレヨレのボーダーTシャツに袖を通し、デニムパンツを履く。
「おなか減った……」
そういえば、昨日の昼にゼリー飲料を流し込んで以来、まともな固形物を口にしていない。冷蔵庫を開けてみたが、賞味期限の切れたドレッシングと飲みかけのミネラルウォーターしか入っていなかった。
仕方ない。僕は乾いた喉に水を流し込み、財布とスマホだけをポケットに突っ込んで、外へご飯を食べに出かけることにした。
***
アパートのドアを開けると、初夏の爽やかな風が頬を撫でた。雲一つない見事な青空。通りを行き交う人々は皆、ゴールデンウィークの連休を満喫しているようで、足取りも軽く笑顔に溢れていた。家族連れや、手を繋いで歩くお洒落なカップルたち。その眩しすぎる光景は、疲弊しきった僕の心にはただただ毒だった。
「ふぅ……」
あれから駅前の牛丼チェーン店に逃げ込み、味もよく分からないまま特盛の牛丼で無理やり胃袋を満たした。時刻は15時を回ろうとしている。いつもなら食後はまっすぐ暗い部屋に帰り、スマホを見ながら夜まで泥のように眠って過ごすのが関の山だ。
しかし今日は、外の明るさと陽気に当てられたのか、なんとなくすぐにあの荒んだ部屋に戻る気になれず、特にあてもなく町を歩き続けていた。自分の住んでいる町なのに、明るいうちから外を散策するというのは不思議と新鮮な気分だった。
……いつまでこんな生活が続くんだろうな。
とりとめもなくそんなことを考える。転職してキャリアアップ、と思わないわけでもないが、しかしこれと言って仕事で実現したいことや明確なプランもない。たまの休みでも特にやりたい趣味はなく、無為に過ごす。けれど常に胸にある将来への漠然とした不安。先輩たちみたいにもっと割り切って上手く立ち回れば楽になるのだろうか。いや、でも――
「ん?」
そんな答えの出ない悩みを考えながら無意識に歩いていたからだろうか、気が付くと思ったよりも遠くに来てしまっていた。町外れの閑散としたエリア。人通りも少ない中、ふと僕の目を引いたのは、
たぬき開発
無人島移住パッケージ
説明会開催中
と書かれた一枚の青いのぼり旗だった。
たぬき開発? 聞いたことのない会社だ。正面のガラスドア越しには、ちらりとオフィス風の内装が見える。『開発』と言っていることから不動産関係の事務所だろうか。
それよりも気になるのは、『無人島移住パッケージ』という部分だ。
無人島生活かぁ。都会の喧騒や満員電車から離れて、面倒な人間関係や仕事の納期を気にする必要もなく、自由気ままな生活。正直、ものすごく憧れる。
……まぁ、現実には無理だろうな。どうやって生きていくんだよって話だ。このひ弱な現代人である僕が、サバイバルなんてできるわけがないのだ。
そしてのぼりにはもう一行。『説明会開催中』という文字が躍っていた。
説明会、というからには、パンフレットか何かもらって、担当の人から少し勧誘されるくらいだろう。どうせ話を聞いたところで、すぐに無人島行きが決まるわけでもない。現実には無理でも、クーラーの効いた涼しい部屋で話を聞いて、ちょっとくらい非日常感を味わうのも悪くない。
そう思って僕は、疲れた日々の中でのちょっとした気分転換のつもりで、たぬき開発の店内に足を踏み入れたのだった。
***
「こんにちは! ようこそ、お越しくださいましたー!」「ましたー!」
店の中に入ると、二匹のたぬきに挨拶された。何を言っているのかわからないと思うが、どう見てもたぬきにしか見えない人たちが、カウンター越しに声をかけてきたのだ。
「こちらは、無人島移住パッケージの手続きカウンターでございまーす!」
「そして僕たちは、この移住パッケージのガイドを務めております、『たぬき開発』のまめきちと……」
「つぶきちでございまーす!」
二匹の……いや、二人の? たぬきが何やら満面の笑みで自己紹介をしているが、どうにも話が頭に入ってこない。人がたぬきに見えるなんて、僕は自分が思っているよりもだいぶ疲れているらしい。幻覚を見るレベルだ。どうしよう、やっぱり帰ろうかな。
「――ご利用は初めてでございますか?」
おっと、話を聞き逃してしまっていた。「当店のご利用は初めてですか?」的なおなじみのやりとりだろう。どう見てもたぬきにしか見えない店員さんたちだが、今のところ会話は成立している。『たぬき顔女子』という言葉を聞いたことがあるし、たぶんこの人たちは奇跡的なまでに超たぬき顔の人なんだろう。よく聞いていなかったけど、とりあえず無難に答えておこう。
「初めてです」
「それでは、お申込みの確認をいたしますので、お客様のお名前とお誕生日を教えていただけますか?」
ん? お申込み? ただの説明会だと思っていたんだけど、ユーザー登録みたいなものが必要なのかな。まあ彼らも仕事だしな。多少の営業は仕方ないだろう。
「じゃあ、これでお願いします」
名前: ボク
誕生日: 〇月×日
言われた通りに申し込み用紙を記入し、たぬき顔の店員さんに渡す。
「はい、確認できました!では続きまして、今度はボクさんのお写真を撮らせていただきまーす!」
本人確認みたいなものだろうか。それなら免許証とかでいいと思うんだが。
「では、このお写真で登録させていただきますね」
言われるがままに写真を撮られて、ユーザー登録? が完了したようだ。
それにしても、休日のささやかな気分転換が、無人島移住の説明を聞くこととは。個人情報も登録してしまったし、あとから無理な勧誘の電話とかかかってこなければいいなぁ。
「――当社の無人島移住パッケージの特徴は、四季の流れる環境で、季節の変化を楽しんでいただけることでございます!」
などと警戒していると、いよいよ無人島移住パッケージとやらの説明が始まったみたいだ。よし、ここからはしっかりと話を聞かないとな。
それから、住むとしたらどのような気候の地域が良いかを相談したり、移住先の候補となる島の地図を見せてもらったりして、無人島への移住をシミュレーションしていった。なるほど、こうやって客自身に無人島での生活をイメージさせることで、契約意欲を高めていくのか。確かに営業の手法としては悪くない。
「それでは最後に、もう一つだけ質問です! もし無人島に一つだけ物を持っていくとしたら、この中のどれを選びますかー?」
・寝袋
・灯り
・食料
・ヒマつぶし
おぉ、無人島あるあるだな。なんだっけか、こういうの心理テストとかでもありそうだ。でもせっかくだ、ここは、もし自分が無人島にいきなり飛ばされたとして、何をもっていくかを真剣に想像してみよう。
「食料で」
うーん、面白味のない回答だったか? でもサバイバルにおいては食料の確保が一番大事だと思うし。
「なるほど、なるほどー」
さて、どんな返答が返ってくるかな。ちょっとだけワクワクしながら待っていると、
「……あっ、すみません。今のは無人島といえば定番かなと思って興味本位で聞いてみただけです!」
「えー……」
がっかりしたような、困惑したような、でもどこか楽しそうな声が思わず出てしまった。この人は意外とお茶目なところがあって面白い人なのかもしれない。ちょっとだけこの人のことが好きになった。……相変わらず見た目はたぬきに見えてしかたがないが、それはそれで愛嬌のある顔にも思えてきた。
――ピンポンパンポーン
『アテンションプリーズ』
突然流れた館内放送に、意識が引き戻される。いかんいかん。こういう営業職は、まず担当個人のファンになってもらって、心理的ハードルを下げてから契約に持ち込むと聞いたことがある。ひとしきり説明も終わったし、そろそろ契約のお誘いが来るのだろう。ここは油断せずに、しっかりと断らないと。
そう思って気を引き締めていると、館内放送からは予想外な言葉が聞こえてきた。
『たぬき開発 無人島移住パッケージ』
『チャーター便は、ただ今ご搭乗の準備が完了いたしました』
『お客様は すみやかにゲートまでお越しくださいませ』
え? チャーター便?
「ちょうどいいタイミングで飛行機の準備も終わったようですねー!」
ちょうどいいタイミングってなに? まさか今から無人島へ出発するとか言わないよね。
「ではボクさん、一緒に出発しましょう!」
え、どういうこと、ちょっ、押さないで!! 小柄な見た目に反したすさまじい力で両脇をガシッと固められる。カバンも何も持ってないんだけど!! 待っ…!?