それは、とても静かな夜だった。
寄せては返す波の音と、風で木の葉が揺れる音。あとは時おり小さく爆ぜる焚き火の音だけが、僕の世界になったみたいだった。
木の枝に刺して焚き火で焼いた魚を、一口かじる。味付けなんて一切していない、ただの素焼きのアジだ。それなのに、信じられないくらい美味しく感じた。自分で釣って、自分で火を起こして、自分で焼いたからだろうか。手の中にある木の枝のザラつきや、顔を焼く火の熱さ、指先に残る魚の確かな重みは、なんだかひどく新鮮だった。世界が僕の手に直接『抵抗』してくるような、生々しい感触。薄暗いオフィスでマウスをクリックし続けるだけの毎日には、こんなはっきりとした『手応え』なんてなかった。
ふう、と息を吐き出すと、水面に映る揺れる月が滲んで見えた。
無人島生活、3日目の夜。あれから僕は、狂ったように島中を駆け回り、たぬき開発の用意した不条理なタスクをこなし続けていた。昨日だって突然ローンを組ませようとしてきたのだ。「いざという時、
けれど、こうして一人で火の前に座っていると、張り詰めていた糸が少しだけ緩んでいくのを感じる。
DIYで石から作ったスツールに座り、まめきちのところで買ったばかりの小さなケトルでお湯を沸かし、簡素なマグカップに白湯を淹れる。温かい白湯がゆっくりと食道を通り胃に落ちていく感覚は、夜風で冷えていた僕の芯を確かに温めてくれた。
「……おいしい」
独り言は、波の音に吸い込まれて消えた。
普段の生活では、白湯の味なんて意識したこともなかった。コンビニで買ったペットボトルのコーヒーを、パソコンのモニターから目を離さずにカフェイン補給のためだけに流し込む毎日。食事もゼリー飲料か、味が濃いだけのファストフードばかりだった。
これまでのこと。
これからのこと。
パチッ、と爆ぜた火の粉を見つめながら、僕は自然と自分の人生を振り返っていた。
思い返せば、僕の人生はずっと何かに追われ続けていた。
就職活動をしていた頃の自分を思い出す。あの時は、祈りにも似た気持ちで何十社もエントリーシートを書き、面接官の顔色をうかがい、「御社が第一志望です」と心を殺して嘘をつき続けた。「どこにも選ばれなかったら、自分の人生は終わるんじゃないか」という恐怖で、夜も眠れなかった。そうして何とか滑り込んだのが、今の企業だった。
最初は、それでも社会人になれたことが嬉しかった。けれど現実は甘くなかった。クライアントからの無茶な納期、削られる予算、連日の深夜残業。人生を楽しむ余裕なんてあっという間になくなった。毎日、潰れないように生活を維持するだけで精一杯だったのだ。
いくら働いても、手取りは一向に増えない。毎月引かれる税金や社会保険料の額面を見るたびにため息をつき、生活費と家賃を払えば、手元には僅かな額しか残らない。僕の労働の価値は、誰かの利益のためにピンハネされ、複雑な社会システムの中で見えないように搾取されていく。
「それに比べて……ここは、どうなんだろうな」
手元のスマホ――たぬき開発特製の端末――の画面をぼんやりと眺める。たぬき開発という完全な独占企業に支配されたこの島。インフラも流通もすべて奴らが握っている。
でも。
雑草を抜けば、その分だけ確実にマイルがもらえる。魚を釣って持っていけば、ごまかされることなく目の前で
視線を上げると、遠くの木立の間に、かすかな明かりが見えた。バーバラさんとピータンさんのテントから漏れるランタンの光だ。彼らもまた、たぬきちに連れてこられたデスゲームの参加者だと思っていた。いつ寝首をかかれるかと警戒していたけれど、ピータンさんが無邪気に釣りを楽しんでいる姿や、バーバラさんが花に水をやっている姿を見て、ふと毒気を抜かれてしまった自分がいた。
あの二人は、ただ純粋にこの島での生活を楽しんでいるだけなのかもしれない。常に誰かと競い合い、蹴落とし合い、理不尽な要求に耐え続けるのが『普通』だと思い込んでいた僕は、あらゆる人間を敵だと見なす『フィルター』を通してしか、世界を見られなくなっていたのかもしれない。
「……僕の方だったのかな。狂っていたのは」
自嘲気味に笑うと、目頭が熱くなった。過労と睡眠不足のせいだ、と自分に言い聞かせても、一度溢れそうになった感情は止まらなかった。毎日、怒られないようにビクビクして。他人の仕事まで押し付けられて。誰の役にも立っている実感のない資料を作り続けて。本当は、もうずっと前から限界だった。誰かに「休んでいいよ」と言ってほしかった。
淀んだ空気のオフィスと、狭いワンルームを往復するだけの毎日だった。この島での生活と比べると、雨風に晒されたり泥にまみれたりすることはない。だけどその実、自分を守るために心を閉ざし、傷つかないように、誰の目にも留まらないように、自分の周りに分厚い壁を築いて縮こまっていただけだった。
そうやって築いた見えない壁のせいで、僕は風の冷たさとか、夜空の星の瞬きみたいな、当たり前の実感まで手放してしまっていたんじゃないか。
波の音が、不格好に生きている僕のすべてを許容し、洗い流してくれるような気がした。僕が島に連れてこられてから、今日で三日だ。ちょうどゴールデンウイークの初日に連れてこられたから、休みは残り二日。なら、そのあとは?
ここでなら、心穏やかに生きていけるかもしれない。
けど、本当にそれでいいのだろうか。
たぬきちが用意したこの奇妙な楽園の中で、疑問を捨ててただ波の音に身をゆだねて生きていくこと。それは、あの無機質なオフィスで何も考えずに己の役割をこなして生きていたのと、根本的なところで何が違うのだろうか。現実から目を背け、周りに流されて生きていくという意味では結局同じなのではないか。
――パチり。
焚き火が爆ぜる。
いくら考えても答えは出ない。ただ、胸の奥で何かが燻っているのを感じながら、僕はただ目の前で揺れる炎を眺めていた。
***
少し、歩こう。
いつまでも同じ考えを巡らせてしまう自分を切り替えるように、僕は夜の砂浜を歩くことにした。
ひんやりとした夜風が頬を撫でる。ザザーッ、と一定のリズムで打ち寄せる波の音だけが響く空間は、どこまでも穏やかだった。本当に、美しい場所だ。ここでなら、理不尽な納期に追われることも、誰かのミスを被ることもない。明日も明後日も、ただ自分のためだけにマイルを稼ぎ、魚を釣って暮らせばいい――。
そう思いながら波打ち際を歩いていた僕の足が、ふと止まった。
少し先の砂浜に、何か黒い影のようなものが打ち上げられていた。流木だろうか。いや、違う。月明かりに照らされたそのシルエットは、どう見ても――服を着た『誰か』だった。
「……えっ?」
心臓がドクンと跳ねた。恐る恐る近づいていくと、それは青と白のセーラー服を着た、カモメのような姿をした人物だった。うつ伏せのまま、ピクリとも動かない。
「おい、嘘だろ……」
まさか、死体!? 血の気が引くのを感じながら、僕は慌てて駆け寄り、その体を揺さぶった。
「もしもし! 大丈夫ですか!? しっかりして……!」
「……うぅ……」
微かにうめき声が聞こえた。死んではいない。だが、意識は完全に混濁しているようだ。海難事故だろうか。しかし、この絶海の孤島に、都合よく遭難者が流れ着くものだろうか。
「……たすけ、を……」
カモメの男が、うわ言のように呟いた。
「え?」
「……通信、装置……アレバ……」
「ッ――」
通信装置。
その単語を聞いた瞬間、僕の脳内でバラバラだった点と点が、最悪の形で一本の線に繋がった。
たぬき開発という単一の企業に支配された、外部との連絡手段が完全に遮断されているこの島。そこへ、外部への『通信装置』を持った男が、死にかけの状態で打ち上げられた。
そうだ、これは遭難事故なんかじゃない。
彼は――この島からの逃亡を図った参加者だ。僕がずっと感じていた、たぬきち達への不信感。その核となる部分に彼は触れてしまったのではないか? この島の根幹に関わる何かを知った彼は、その事実を白日に晒すために外部と通信しようとしたところ、不運にもヤツらに見つかってしまい、証拠隠滅のために通信装置を破壊された……。そして口封じとして海に沈められたのだとすれば……ッ!!
「ひっ……!」
僕は思わず、そのカモメの男から手を離して後ずさった。
ここでなら心穏やかに生きていける? 冗談じゃない! 僕は数分前までの平和ボケしていた自分を思いきり殴りたかった。
ここは平和な無人島などではなく、逃げ場のない監獄だったのだ。従順な奴隷でいるうちは生かしておいてもらえるが、少しでも逆らえば、容赦なく処分されてしまう。
だとしたらマズい。もし僕がこの男と接触したことがたぬきちにバレれば、間違いなく僕も目をつけられてしまう。
僕はその場から逃げるように自分のテントへと走り出そうとした。けど足がもつれて大きく転んでしまった。頭の中では警鐘が鳴り響いているのに、上手く身体が動いてくれなかった。必死に身体を引きずりながら、近くの岩になんとか縋り付く。震える足に鞭を打ち、何とか立ち上がることができた。
――ザッ…ザザァ
さっきまで僕を癒やしてくれていたはずの波の音が、今は、底知れぬ組織の闇を隠す恐ろしいノイズにしか聞こえなかった。
そこからはどうやって戻ってきたのか覚えていない。気が付くとテントの前に立っていた僕は、無我夢中でテントに飛び込み、砂浜に放置してきた焚き火の始末すら忘れて布団にくるまった。