たすけて! ボクだけがニンゲンの島   作:五木 いさむ

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5日目

 ――ブーッ、ブーッ。

 

 不快な電子音が、狭いテントの中に響いた。キャンプベッドの枕元に転がしていたスマホの画面が青白く光り、暗いテントの中に『4:30』という数字を浮かび上がらせる。

 

 僕は跳ね起きるように上体を起こし、すぐにアラームを止めた。浅い眠りのせいか、頭の奥がズキズキと痛む。けれど、不思議と眠気はまったくなかった。アドレナリンが全身を駆け巡り、指先まで感覚が研ぎ澄まされているのを感じる。

 

 とうとう、5日目の朝がやってきた。

 

 僕はテントの入口を静かにまくり上げ、外へ出た。突然、ひんやりとした空気が肺に飛び込んでくる。初夏とはいえ、夜明け前の空気は予想以上に肌寒い。Tシャツ1枚の僕は、とっさに自分の二の腕をさすった。

 

 空はまだ深い群青色で、星がまばらに瞬いている。あたりは濃い暗闇に包まれていて、静寂が重くのしかかってくるようだった。

 

 それから僕はポケットに手を入れた。中にはパチンコといくつかの石が入っている。その樹皮のざらつきと、ゴツゴツとした硬さを確かめるように、ゆっくりと手を動かす。

 

 そのリアルな感触が、僕が今からやろうとしていることは誤魔化しのきかない現実なのだという実感を僕に与えてくれる。僕は今から、飛行機を奪う。ただそれだけを頭の中で繰り返した。

 

 足音を殺して、南へ向かって歩き出す。広場の西側では、ピータンさんとバーバラさんが例の一軒家で、何も知らないまま眠っているのだろう。同じように島に連れてこられたのに、たぬきちと契約を交わしこの島で生きていくことを受け入れた二人と、島から逃げ出そうとしている僕。ここにはいない二人が、ひどく遠い、僕とはまったく別の世界の存在に思えた。

 

 海岸に出ると、波の音が少しだけ僕の足音を隠してくれた。桟橋の向こうに、飛行場の小さな建物がぽつんと浮かび上がっている。入り口のドアからはオレンジ色の暖かな光が漏れていて、中では今もモーリーさんがキーボードを叩いているはずだった。

 

 手元のスマホを見ると、時刻は4:40。

 

 僕は飛行場の建物のすぐ横――右手の砂浜に鎮座する、黒く大きな岩の裏側に身を潜めた。ここなら、飛行場の中からも、海に突き出た桟橋からも完全に死角になる。潮風に晒されて表面がしっとりとした岩に背中を預け、荒くなりそうな呼吸を必死に整える。岩の縁からそっと顔を出し、一段高くなっている木の桟橋の様子をうかがった。

 

 もし、タヌポートで注文した履歴から、僕の意図が全てたぬきちにバレていたら。飛行機から、僕を処理するための別の何かが降りてきたら。そんな最悪の想像が頭をよぎるたび、ポケットの中の石を強く握りしめた。

 

 その時、遠くの空から、低く重いプロペラ音が響いた。

 

 音はみるみるうちに近づき、緑色の水上機が暗い空から降りてきた。やがて海面に激しい水しぶきを上げながら、水上機は滑るように桟橋へと近づき、静かに横付けされた。そしてプシュー、と空気が抜けるような音がして、機体のドアが開く。

 

 降りてきたのは、黒いサングラスをかけた大柄な鳥だった。顔だけ真っ黄色という特徴的なその見た目は、モーリーさんにそっくりだった。彼の右手には小さな段ボール箱が抱えられており、おそらくあれが、僕が昨日タヌポートから注文した商品だろう。

 

 本当に来たッ……。たった290ベルの『ほん』。それを届けるためだけに、島外から飛行機を呼び出すことに成功したのだ!

 

 脱出作戦が計画通り進んでいることに、気持ちが高ぶる。それと同時に、いよいよもう後戻りができないのだという実感に恐怖した。気づけば足は震え、ガチガチと歯が鳴っていた。

 

 けど目の前の現実はそんな僕の迷いを待ってくれるはずもなく、刻一刻と事態は進行していく。

 

「こちらロドリー」

 

 サングラスをかけた鳥――名前はロドリーと言うらしい――が、頭に付けたインカムを左手で操作して、仕事の報告をし始めた。

 

 僕の足はまだ震えていた。くそっ、動け、動け!!

 

「定刻通り着水」

 

 インカムに向かって話しながら、ロドリーが機体から離れて歩き出した。カチッ、カチッ、と硬い爪先が桟橋の板を叩く音が近づいてくる。彼は飛行場の搭乗口へと繋がる扉へ向かうため、僕が隠れている岩の前を通り過ぎようとしていた。

 

 僕はもう一度、ポケットの中の石を思いきり握りしめた。

 

「……っつ」

 

 鋭利な角が手のひらに食い込み、痛みに思わず顔をしかめる。

 

「これより荷物(ターゲット)の搬入を開始する。オーバー」

 

 通信を終えたロドリーが、飛行場の入り口へ向かってまっすぐに一歩踏み出し、完全にこちらへ背を向ける。

 

 その一瞬、握りこんだ石の痛みで、震えが止まった。

 

 その間もロドリーは迷うことなく、一歩、二歩と板の上で歩みを進めていく。

 

 ――今だッ。

 

 僕は岩陰から飛び出し、柔らかい砂を力強く蹴り上げて、桟橋へと勢いよく飛び乗った。ダッ、と木の板が乾いた音を鳴らすが、もう構わない。入り口へ向かおうとしていた彼の背中まで一気に距離を詰め、握りしめていた石をパチンコのゴムにあてがって思いきり引き絞った。狙いは、彼の後頭部だ。

 

「動くなッ!」

 

 自分の声が、驚くほど低く、かすれて響いた。ロドリーの足がぴたりと止まる。

 

「そのまま、両手を上げて……!」

 

 バクバクと暴れる心臓の音がうるさくて、自分の声がちゃんと届いているのか不安になる。ゴムを引く指が震えそうになるのを、必死に抑えつけた。少しでもナメられれば終わりだ。

 

 しかし、ロドリーは両手を上げなかった。それどころか彼は、僕の制止を無視して、時間をかけてゆっくりとこちらを振り返ったのだ。

 

「あっ……」

 

 思わず声が漏れる。背後を取られ、武器を突きつけられているというのに、彼は微塵も怯えた様子を見せなかった。顔の半分を覆うサングラスの奥で、じっと僕の手元のパチンコを見下ろしている。

 

 やがて、ゆっくりとロドリーは口を開いた。

 

「これは、ボク様! これから荷物をお届けにあがるところでしたが、わざわざ受け取りに来られたのですか! お待たせして申し訳ありません! こちらがご注文の品でございます。ドーゾ」

 

「……は?」

 

 だがその口から出てきた予想外すぎる反応に、僕は間抜けな声を漏らしてしまった。

 

 恐怖も、焦りも、反撃の意思すら感じられない。目の前の異常を異常とも認識していないような、完璧に業務的な対応。僕が必死の覚悟で放った殺気は、この男の前では完全に空回りしていた。

 

 ――ざり。

 

 そのとき、パチンコを構えたまま桟橋の上で硬直する僕の背後で、砂浜のほうから小さな足音が聞こえてきた。

 

「やあやあ、ボクさん。ずいぶんと早起きだなもね」

 

 弾かれたように振り返る。そこには、いつものアロハシャツを着て、両手を後ろで組んだたぬきちが立っていた。早朝だというのに、その表情には一切の疲労も焦りもない。底知れぬ真っ黒な瞳が、静かに僕を見つめていた。

 

「……ッ、来るな! 近づくな!」

 

 僕は半ばパニックになりながら、たぬきちに向けてパチンコを構え直した。ギリギリと引き絞られたゴムの音が、静かな桟橋に不気味に響く。ロドリーに向かって放っていた殺気を、今度は目の前の黒幕へとぶつける。

 

「分かってるんだ! 僕をピータンさんたちみたいに、ローンで縛り付けて。家を与える代わりにこの島に閉じ込めてッ…… 一生労働させる気だろう!! そうはいくか、僕はもう騙されない。このままこの飛行機で帰るんだ!」

 

 しかし、たぬきちは困ったような、少しだけ悲しそうな顔をして、ゆっくりと口を開いた。

 

「一生労働、だなもか? ……ボクさん。彼らは、自分で選んだんだなも。この島で、より自分らしい豊かな暮らしをするために、自分の意志で家を建てるという『責任』を背負っただけだなもよ。ローンはそのための手段であって、首輪なんかじゃない。誰も彼らに強制なんてしていないんだなも」

 

「嘘だ! じゃあ、あの海岸に打ち上げられていたカモメの男はなんだ!」

 

 ゴムを引き絞る僕の腕が、限界を迎えて小刻みに震え始めていた。

 

「この島の秘密を知って逃げようとしたから、お前たちが見せしめに海に沈めたんじゃないのか! 通信装置まで壊して……っ」

 

「……あぁ、ジョニーさんのことだなも?」

 

 たぬきちはポンッと手を叩き、まるで世間話でもするかのように明るいトーンで言った。

 

「彼はただの船乗りだなも。寝ぼけて甲板から海に落ちちゃっただけの、ちょっとドジな遭難者だなもよ。仲間との通信装置が壊れて連絡が取れなくて困ってたみたいだけど、島民の誰かが無くなったパーツを探してあげたおかげで、次の日には無事に仲間と合流できたみたいだなも」

 

「は……?」

 

 頭を殴られたような衝撃だった。海難事故。ただの遭難。救助。あまりにも真っ当で、あまりにも当たり前の現実が、僕の脳内に突きつけられる。

 

「そ、それじゃあ、ニン〇ンドーから届いていたあの作業台のレシピは……! あれは、僕を管理者側に取り込むための踏み絵じゃ……」

 

「? ……何を言っているのかよくわからないけど、あれは移住者歓迎のための初回特典みたいなものだなも。せっかく無人島に来たんだから、ボクさんにも自分の手でモノを作る喜びを知ってほしかったんだも」

 

「自分の手で……作る喜び……」

 

「そうだなも。誰かのためじゃなく、自分のために生み出す喜びだなも」

 

 たぬきちはゆっくりと僕に近づき、波の音だけが響く静寂の中で、静かな声で問いかけた。

 

「ボクさんはさっき、この島で一生労働させられると言っただなも。……でも、思い出してほしいんだも。この島でボクさんが魚を釣り、雑草を抜き、自分の手でマイルを稼いだとき。ボクさんが汗水流して生み出した価値を、誰かが勝手に掠め取ったり、理不尽に搾取されたりしたことが……この島で一度でもあっただなも?」

 

「それは……っ」

 

 そうだ。思えば最初から、そうだったんじゃないか。

 

 初日、テントの場所を迷っていたバーバラさんは、ただ僕を頼って相談してくれただけだったのに、僕はそれを『牽制』だと思い込み、勝手に監視の目を恐れていた。ピータンさんが広場近くにテントを張ったのも、運営への反旗なんかじゃない。ただみんなと交流したかっただけだ。たぬきちが僕を『島民代表』と呼んだのも、厄介な労働組合の責任を押し付けたわけじゃなかった。僕が名付けた島の名前が選ばれたから、代表として敬意を表してくれただけだったんだ。

 

 2日目に教わったDIYだって、生き残るための武器作りなんかじゃない。自分の手で生活を豊かにするための、純粋な『作る喜び』だった。

 

 そして昨日。ピータンさんやバーバラさんの立派な家と作業台を見て、僕は彼らを、悪魔の契約を受け入れた愚かな『被害者』だと見下していた。でも本当は違った。彼らは自分の意志で、この島で生きていくための『責任』を背負っただけだったんだ。

 

「あっ……。ああ……」

 

 限界まで引き絞っていたパチンコから、力が抜けていく。引き絞っていたゴムがゆっくりと緩んでいき、たぬきちに向かって今にも飛び出そうとしていた石は、やがて重力に従って僕の手から離れていった。

 

 カツン、と木の板に何かが転がる乾いた音がした。

 

 行き場を失った強烈な殺気とアドレナリンが、急激に冷えていく。全身の血が足の裏から一気に引いていくような感覚だった。自分が立っている場所がひどく曖昧に思えて、膝からガクガクと崩れ落ちていく。

 

 馬鹿だ。僕は、本当に馬鹿だ。

 

 この島は監獄なんかじゃなかった。黒幕なんてどこにもいなかった。ここはただの、自然のままの島だったんだ。雑草を抜けば抜いた分だけ対価がもらえ、何もしなければ何も手に入らない。ただそれだけの、極めてシンプルで原始的な世界。自分が動いた結果がそのまま100パーセント自分に返ってくるだけで、そこには理不尽な中抜きも、誰かのミスを被るシステムも存在しない。

 

 僕は勝手に、社会人生活で味わった理不尽な搾取構造や、ブラック企業で過ごした日々のトラウマをこの島に重ね合わせ、一人で勝手に敵を作り出して怯えていただけだったのだ。

 

 ピータンさんたちは『被害者』なんかじゃない。自然の厳しさを知った上で、それでもこの島の大地に根を張り、自然と向き合って生きていくことを自分自身で選んだんだ。

 

「あ――」

 

 その時、暗い海の向こうの境界線が割れた。

 

 雲の切れ間から、鋭い朝陽が射し込んできた。水平線から溢れ出した最初の陽光が、桟橋の先端を掠め、崩れ落ちた僕の全身を包み込む。

 

 驚くほど、熱かった。

 

 恐怖と緊張でカチカチに凍りついていた僕の皮膚に、朝陽が容赦なく熱を注ぎ込んでくる。その熱が、強張っていた肉体の芯を、ゆっくりと、しかし確実に解かしていくのが分かった。冷え切っていた指先に、じわりと血が巡る感覚が戻ってくる。

 

 朝の光は、僕が勝手に作り上げていた幻影を綺麗に消し去り、ただの美しい島という、ありのままの姿を目の前にさらけ出していた。

 

「ボクさん」

 

 桟橋の上でへたり込んだ僕に、たぬきちは穏やかな笑顔で語りかけてきた。

 

「この島は、何もないから、何でもできるだなも。家を建てるのも、島を開拓するのも、誰かに押し付けられた『労働』じゃない。自分がどう生きたいかを選ぶ『責任』なんだなも」

 

 その淡々とした言葉が、冷たい風に乗って僕の鼓膜を打った。

 

 ――自分がどう生きたいかを選ぶ、責任。

 

「このままここに残って、自分の手で家を建てて、自分の足で立って生きていくこともできるだなもよ。ボクさんはどうするだなも?」

 

 これまでただ流されて生きてきていた僕にとってそれは、究極の選択だった。都会の喧騒から完全に切り離されたこの島で、本当のゼロから生きていく自由。ローンを組むのも、テントのままでいるのも、すべてが僕の自由であり、責任になる世界。

 

 僕はゆっくりと視線を上げ、白み始めた空を見た。東の水平線から、眩しい朝陽が昇り始めていた。冷たかった海風が、ほんの少しだけ温みを帯びている。

 

 ここでなら、心穏やかに生きていけるかもしれない。

 

 3日目の夜、焚き火の前で抱いたその思いが、再び胸をよぎる。でも、今の僕にははっきりと分かっていた。

 

 この奇妙な楽園に逃げ込み、彼らのような開拓者としての覚悟もないまま、ただ波の音だけを聞いて生き延びることは、あの窓の開かないオフィスで縮こまっていたのと同じだ。いや、もっと悪い。それは、自分の人生から完全に降りてしまうことを意味していた。

 

「――帰ります」

 

 気がつけば、僕ははっきりとそう口にしていた。足の震えは、いつの間にか止まっていた。

 

「僕は、帰らなきゃいけないんです」

 

 理不尽な納期があり、押し付けられる責任があり、自分が生み出した価値を顔も見えない誰かに掠め取られる。絶えず暴風雨が吹き荒れている、あの狂った社会に。

 

 でも、あそこが僕の現実(せかい)なのだ。逃げて、目を背けて、分厚い壁の中に引きこもって嵐が過ぎるのを待っていても何も変わらない。風の冷たさも、火の熱さも、石の硬さも、この島の大地が僕の手に残してくれた確かな『手応え』を、僕はもう知っている。

 

「分かっただなも」

 

 僕の出した答えに、たぬきちはただ静かに頷いた。

 

 僕は彼から視線を外し、ゆっくりと背を向けた。波の音が聞こえる桟橋の先端では、いつの間にか機体へと戻っていたロドリーが、エンジンに火を入れていた。プロペラが鋭く唸り始め、桟橋を激しい風が吹き抜けた。

 

「また、遊びに来るといいんだも! この島はいつでも、誰でも歓迎するだなも!」

 

 背中越しに響いたその叫びは、風を切り裂いて、真っ直ぐに僕の耳へ届いた。

 

「……はい!」

 

 その言葉に、僕は短く答えた。

 

 そして、ポケットの中に一つだけ残っていた、鋭く欠けた石の欠片を強く握りしめた。手のひらに食い込むその微かな痛みが、今の僕にとっては、自分が確かにここに存在しているという何よりの証明だった。

 

 僕は顔を上げ、朝陽に照らされた緑色の翼に向かって、木の板を踏みしめながら自分の足で歩き出した。

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