大好きだったお兄ちゃんとの再会よりも、サボり魔な同僚のお世話を優先してもいいですか?   作:Wig

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檻の中の契約

1980年 東ベルリン 国家保安省 武装警察軍本部地下

コンクリートの壁に反響する軍靴の音が、ひどく耳障りだった。鼻をつく消毒液の臭いと、それを覆い隠せない鉄錆と血の臭気。地下独房エリア特有の淀んだ空気は、何度来ても肌に張り付くようで不快だ。

「……あーあ、最悪だ」

薄暗い廊下を歩きながら、少年、ミハイル・ホフマンは、誰に聞かせるでもなく独りごちた。

まだあどけなさの残る顔立ちだが、身に纏うのは国家保安省武装警察軍の制服。

彼の手には、一冊の薄いファイルが握られている。

『対象:リィズ・ホーエンシュタイン(15)』

西への亡命を企て、国境警備隊に逮捕された裏切り者の娘。

「ったく、相変わらず狂ってやがる……ほんと、正気とは思えねぇよ」

本来なら、このような汚染された血を持つ政治犯の処理になど関わりたくなかった。だが、ミハイルには拒否権などない。彼自身、かつて家族を失い、この組織に保護という名目で拾われた孤児だからだ。

国家の犬として飼われる人生。そこに忠誠心など欠片もないが、逆らって処分されるのも御免だった。彼の望みはただ一つ。いかに楽をして、この狂った世界を生き延びるか。それだけだ。

「マニュアル通りなら……自白の強要と共犯者の洗い出しか。めんどくせぇ。適当に書類書いて終わらせるか」

彼は大きくあくびを噛み殺すと、重厚な鉄の扉の前で足を止め、電子ロックを解除する。

 

 

重い金属音が響き、扉が開く。部屋の隅、パイプ椅子に拘束された小さな影が、ビクリと肩を跳ねさせた。

「っ……、ひっ……!許して……ごめんなさい、もう、やめて……っ!」

少女は反射的に身を屈めて、ガタガタと痙攣するように身を縮めた。その顔は蒼白で、頬には殴られた青黒い痣。破れた衣服の隙間からは火傷の痕が覗き、指先に巻かれた血の滲んだ包帯が、剥がされた爪を必死に隠そうとしている。数日間の過酷極まる拷問で、精神が完全に摩耗しきっているのが一目でわかった。

(うわ、酷いなこりゃ。前の担当官、張り切りすぎだろ)

ミハイルは内心で舌打ちをした。泣き叫ばれると調書を取るのに時間がかかる。非効率の極みだ。彼は無言のまま部屋に入ると、少女の正面にある椅子を足で引き寄せ、乱暴に座った。

「た、助けて……ごめんなさい、私は……私は何も……っ」

「あー、ストップ。うるさい」

ミハイルは気だるげに手を振った。少女、リィズ・ホーエンシュタインは、また殴られると思って目を固く閉じる。しかし、痛みはいつまで経っても訪れなかった。

「リィズ・ホーエンシュタイン。15歳。……だな?」

聞こえてきたのは、怒号でも罵倒でもない、ひどく事務的で、やる気のない少年の声だった。リィズが恐る恐る目を開けると、そこには頬杖をつき、つまらなそうに書類を眺めるミハイルの姿があった。

「は、はい……」

「今日から俺がお前の担当をすることになった。……と言っても、俺は前の奴らみたいに熱心じゃない。殴るのも疲れるし、叫ばれると耳が痛い」

ミハイルは懐からボールペンを取り出し、カチカチとノックしながら続けた。

「だから、お互い省エネでいこうぜ。お前は大人しく座っててくれればいい。俺は適当に時間を潰して、対象は反省していると日報に書いて帰る。それでいいな?」

リィズは呆気にとられた。国家保安省の人間は皆、鬼か悪魔だと思っていた。だが、目の前の少年からは、殺意も悪意も感じられない。あるのは、ただの倦怠感だけだ。

「……あ、あと、これ食っとけ」

ミハイルはポケットから何かを取り出し、リィズの膝の上に放り投げた。銀色の包装紙に包まれた、チョコバーだった。

「……毒、ですか?」

「入れる手間がめんどくせぇよ。……腹の音がうるさいと、俺が昼寝できないんだ。賄賂だと思って食え」

そう言って、ミハイルは椅子の背もたれに深く体重を預け、ネクタイを緩めて本当に目を閉じてしまった。リィズは震える手でチョコバーを握りしめる。毒かもしれないという恐怖よりも、生存本能が勝った。口に含むと、ほろ苦さと甘さが広がり、強張っていた体が少しだけ弛緩した。

(この人……何なの……?)

それが、二人の奇妙な時間の始まりだった。

 

 

それから一週間、ミハイルは毎日同じ時間にやってきた。やることは変わらない。椅子に座り、あくびをして、時折独り言のように愚痴をこぼすだけだ。

リィズの中で、彼に対する警戒心は少しずつ薄れ始めていた。

彼が来る時間だけは、暴力がない。罵倒がない。冷たいコンクリートの部屋で、彼が座っている半径数メートルだけが、唯一の安全地帯だった。

「今日の食堂のスープ、味が薄すぎて泥水かと思ったわ。お前もそう思うだろ?」

ある日、ミハイルが天井を見上げながら問いかけた。いつもの独り言かと思ったが、彼は返事を待っているようだった。リィズは数秒の躊躇いの後、小さく答えた。

「……わ、私には……ちゃんとした食事が出ないから、分からない、わよ」

「あ?マジか。……ったく、ケチな組織だ」

ミハイルは眉をひそめると、懐から紙に包んだ黒パンを取り出し、無造作に差し出した。

「ほらよ。泥水スープよりはマシだろ」

「……ありがとう」

リィズはパンを受け取ると、空腹のあまり勢いよく齧り付いた。だが、それは数日経った軍用の黒パンだ。石のように硬くなっていた。

「……っ、ぐ、げほっ!けほっ!」

リィズは喉に詰まらせ、涙目で激しく咳き込んだ。

苦しい。背中をさすって欲しいけれど、手は拘束されている。必死にもがくリィズを見て、不意に声が降ってきた。

「……ははっ」

リィズが顔を上げる。そこには、口元を押さえ、肩を震わせて笑うミハイルの姿があった。

(……笑われた。また、殴られる……っ!)

リィズは恐怖で身をすくめ、硬く目を閉じた。前の尋問官たちは、彼女が苦しむ姿を見て笑い、そして決まってさらなる暴力を振るってきた。絶望的な死の予感に、全身の血の気が引いていく。

だが、予想した痛みはいつまで経っても訪れなかった。代わりに、唇に冷たい金属の感触が触れた。

「ほら、流し込め」

恐る恐る目を開けると、そこには相変わらずやる気のない顔で、水筒の蓋を差し出すミハイルがいた。

「すげぇ硬えんだよこれ。これじゃ食い物っていうより武器だよな?」

嘲笑ではない。ただの苦笑。その事実が、リィズにとっては奇跡のように思えた。

「ほら、飲めよ。死ぬぞ」

リィズはコクコクと頷き、必死に液体を啜った。

ぬるい、代用コーヒー。けれど、驚くほど甘かった。

喉の通りが良くなると同時に、堰を切ったように涙が溢れ出した。自分を壊すべきモノとしてではなく、生身の人間として笑ってくれた。その事実に、強烈な依存心が芽生えていく。

「……っ、ふ、ぇ……ひっ、ぅ……」

「……おいおい、泣くなよ。めんどくせぇな」

「だって……っ、硬いって……先に、言ってくれないから……っ」

ミハイルは頭を掻きながら水筒を拭った。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で文句を言うリィズは、その横顔を、瞬きも忘れて見つめていた。

(……この人、笑うんだ)

悪魔だと思っていた。感情のない監視者だと思っていた。

(……お兄ちゃんは、来てくれなかった。あんなに助けてって心の中で叫んだのに、私を置いていなくなった)

なのに、どうして。見ず知らずの、悪魔だと思っていたこの人が、私の冷え切った手を握って、甘いコーヒーをくれるの?

リィズはパンを齧りながら、ずっと胸につかえていた問いを口にした。

「……あの……」

「あ?」

「……お兄ちゃんは……その、無事なの?」

ミハイルは興味なさげに視線を書類に戻したまま答えた。

「……生きてはいるんじゃねぇの?どんな目に遭ってるかは知らないけどな」

「……そんな……」

「期待すんな。お前だって、俺が来るまでは散々だったろ?向こうも似たようなもんだ」

冷たい現実。けれど、それは嘘のない言葉でもあった。

 

 

いつしかリィズは、廊下の足音を聞き分けられるようになっていた。

重く、荒々しい軍靴の音は「恐怖」。

引きずるような、やる気のない足音は「安らぎ」。

鉄の扉が開いて、彼の眠そうな顔が見えると、リィズの心はスッと凪いだ。

小さな希望の光。ただ、嵐の中の小さな雨宿りのような、ささやかな安息がそこにはあった。そんなある日、いつもの気だるげな足音が止まり、ガチャリと鍵が開く。入ってきたミハイルは、開口一番、盛大に身震いをした。

「……あー、寒すぎんだろ。やってらんねぇな、マジで」

彼は軍服の肩についた白い粉、溶けかけた雪を、無造作に払い落とした。リィズはパイプ椅子に縛られたまま、その様子を少し呆れたように、けれどどこか温かい目で見つめる。

「……外、雪なの?」

「ああ。ベルリン中が真っ白だ。おかげで道路は渋滞、電車は遅延。……なのに上層部は雪中の行軍訓練に最適だとか正気じゃないことをほざいてる」

ミハイルは自分の指先に息を吹きかけながら、忌々しそうに吐き捨てた。

「私は雪の降ったベルリン、好きだけどね。すごく綺麗じゃない?」

「雪なんて、ただの凍った水だぞ?何が楽しいんだか」

「……ふふ。あなたには情緒がないね」

リィズが小さく笑う。囚人が尋問官に対して情緒がないなどと言えば、普通なら殴られるところだ。だが、ミハイルは怒るどころか、パイプ椅子を足で寄せて座り込み、同意するように頷いた。

「情緒で腹は膨れねぇよ。……あーあ、冬眠してぇ。熊になりたい」

「熊?」

「そう。春まで穴の中で寝て過ごすんだ。……最高だろ?」

本気で憧れているような遠い目をする彼を見て、リィズは思わず吹き出した。

「あはは!似合うかも。……あなた、いつも眠そうだもんね」

「……うるせぇ。ここの労働環境が異常なんだよ」

ミハイルは心底嫌そうに吐き捨てた。

「昨日も、くだらねぇ報告書作りで日付が変わるまで働かせやがって……。あーあ、どっかに良い転職先ねぇかな」

「……ふふ。もし私が西に行けたら、良い仕事紹介してあげたのに」

リィズは冗談めかして言ったが、ふと真顔に戻り、ずっと気になっていたことを尋ねた。

「……ねぇ。あなたは、どうして武装警察軍に入ったの?……あんまり、軍人さんっぽくないのに」

ミハイルの手がピタリと止まる。彼は一瞬だけ遠い目をして、自嘲気味に笑った。

「……なりたくてなったわけじゃねぇよ。俺は、国に飼われてるんだ」

「飼われてる?」

「ああ。2年前……リヒテンべルグのデパートでな。西への亡命を企てた犯人が国家保安省に追い詰められて、逃げ場を失った末に、ヤケを起こして自爆しやがったんだ」

ミハイルは淡々と語る。まるで他人の話をするかのように。

「爆発の瞬間、両親は俺を庇って瓦礫の下敷きになった。……俺だけが無傷で残されたよ。で、孤児院に放り込まれる代わりに、犯人をそこまで追い詰めた張本人であるこの組織に保護されたってわけだ」

「……っ」

リィズの息が止まる。亡命未遂者。それは、西へ逃げようとした父や自分につけられたレッテルと同じだ。もしあの時、国境で自分たちも完全に逃げ場を失い、狂気に呑まれていたなら。誰かを巻き込んで、同じことをしていたかもしれない。

「……ごめん、なさい……」

リィズは小さく身を縮め、震える声で謝った。

「私……私も、西へ逃げようとしたから……。追い詰められたら、あなたのご両親を奪った人たちと、同じことをしていたかも……っ」

「……はぁ?」

ミハイルは呆れたようにため息をつき、リィズの額をボールペンの尻で軽く小突いた。

「痛っ」

「バーカ。一緒にするな」

「……え?」

「お前が爆弾仕掛けたのか?違うだろ。お前はただ、親父さんに連れ回されただけのガキだ」

ミハイルはつまらなそうに肩をすくめた。

「それに、俺を拾ったこの国だって、やってることはテロリストと大差ねぇよ。どっちもどっちだ。……俺にとってこの軍服は、忠誠の証じゃなくて、ただの首輪みたいなもんだしな」

リィズは瞬きを繰り返した。この人は、私を反逆者の娘という記号で見ない。

敵対する立場のはずなのに、彼はそんな境界線を軽々と跨いで、ただのリィズ・ホーエンシュタインとして接してくれる。

「……そう、なんだ。……ありがとう」

「礼を言われる筋合いはねぇよ。……まぁ、だから俺は、少しでも楽をして元を取ることに決めてるんだ」

リィズは息を呑んだ。彼もまた、自分と同じだったのだ。自由意志ではなく、巨大なシステムの中に閉じ込められた、力の持たない子供。

彼もまた、檻の中にいる。その事実は、リィズにとって悲しいけれど、同時に彼をより身近に感じさせるものだった。

 

 

担当がミハイルに変わってから2週間。そんな穏やかな時間は、唐突に終わりを告げた。

部屋に入ってきたミハイルの足取りは、いつもより重かった。

彼は椅子に座ることなく、リィズを見下ろした。その瞳から、いつもの眠たげな色が消え、冷たい光が宿っている。

「……おい。明日、お前の移送が決まった」

リィズが顔を上げる。

「移送……?どこへ……?」

「矯正施設だ。……表向きはな」

ミハイルは低い声で告げた。矯正施設、そこは薬物投与に拷問、人格破壊の実験場。リィズの顔から血の気が引いた。それは、死ぬことよりも恐ろしい魂の死だ。

「兄貴のおかげだな」

「え……?」

いつもと変わらない、気だるそうな口調でミハイルは続けた。

「テオドール・エーベルバッハは情報を全て吐いた。洗いざらいな。……だから、人質兼情報源としてのお前はもう用済みだ」

「……お兄ちゃんが……?」

「ああ。だからお前は、忠実な国家保安省の工作員として調教されるコースに回された。自我を壊して、再利用するためにな」

噂には聞いていた。そこへ送られた人間が、二度と人間としては戻ってこないことを。

「いや……嫌だ……!助けて、私……!」

リィズは拘束されたまま身をよじり、懇願した。

「俺に言うな。決定事項だ」

ミハイルは冷たく突き放す。だが、彼は部屋を出ていこうとはしなかった。その代わりに、持っていたファイルをリィズの目の前に広げて見せた。

「……ただし、抜け道がないわけじゃない」

「え……?」

「こう見えて俺は衛士の端くれでな。……見ろ。これはお前の適性検査データだ。戦術機衛士としての才能がある」

そう言うとミハイルはファイルのページをめくった。

「……さらに、俺が査定官の目を盗んで書類をすり替えて、とびっきりの適性があるって事にしておいた。今の切羽詰まった戦況なら、上層部も裏を取る前に飛びつくはずだ」

(……データを、改竄した?)

リィズは息を呑んだ。上層部の決定に逆らい、公文書を偽造する行為。それは、国家保安省に対する明確な背信行為だ。バレれば、ミハイル自身も極刑は免れない。

「どうして……?あなただって、バレたら……」

「言っただろ。俺はめんどくさいのが嫌いなんだ」

ミハイルはリィズの目を真っ直ぐに見据えた。そこには、初めて見る真剣な熱があった。

「お前みたいなのが廃人になって垂れ流す涎を拭くよりは、戦場で使い潰す方がマシだ。ちょうど、俺が居る部隊に欠員が出たし、穴埋めにはちょうど良い」

ミハイルは椅子に座り直し、リィズを見据えた。

「前線は糞だ。BETAどもに撃墜されて死ねれば、まだ運が良い。あいつらに喰われるよりは、遥かにな。……衛士が生きてる世界はそういう地獄だ」

リィズは気づいた。これは救済ではないことを。

人形として心を殺されるか、人間としてBETAの居る地獄を生きるか。どちらの地獄を選ぶかという、悪魔の契約だ。

「選べ、リィズ・ホーエンシュタイン」

ミハイルが手を差し伸べる。

「このまま壊されて人形になるか。それとも……BETAどもが居る地獄を歩くか」

リィズは震える唇を噛み締め、涙を拭った。今まで、誰も助けてくれなかった。お兄ちゃんですら、自分を置いていなくなった。けれど、目の前の少年だけは、自らの命をチップにしてまで、自分を引っ張り上げようとしている。

「……やる」

リィズの声に、力が宿る。その瞳に、かつて兄に向けたものとは違う、暗く、激しい炎が灯る。

「私、生きたい……!生きる為なら、地獄でもどこでも行く……!」

「……交渉成立だな」

ミハイルはふっと肩の力を抜き、いつもの皮肉めいた笑みを浮かべた。

「ようこそ、我ら戦術機大隊ヴェアヴォルフへ。まぁ、死なない程度に頑張れよ」

「うん……分かった。……よろしくね。そういえば……」

鉄の扉の向こうに広がるのは、自由な空ではない。

BETAと国家保安省が支配する、死と隣り合わせの戦場だ。それでも、リィズは笑った。この人の隣なら、息ができるから。

「あなたの名前は?」

お兄ちゃんに会うためなら、例えどんな地獄が待っていようとも、生き抜いてみせる。

「ん、あぁ。ミハイル。ミハイル・ホフマン中尉だ。呼び方はなんでも良い」

「……ミハイル……」

リィズはその名を噛み締めるように呟いた。堅苦しい響きだ。でも、今の彼にはもっと別の、親愛を込めた名が相応しい気がした。

「……呼びにくい。……ミーシャ、じゃ、だめ……?」

それは、冷徹な国家保安省の将校としての彼を否定し、自分を助けてくれるただ一人の人間として、彼を自分だけのものに繋ぎ止めるための、必死のすがりつきだった。ミハイルは一瞬、きょとんとした顔をした後、呆れたように肩をすくめた。

「……変わったやつだな、お前。……まぁ好きにしろ」

「……うん。よろしくね、ミーシャ……っ」

リィズは、祈るようにその名を呼んだ。地獄の底で、絶対に手放してはいけない命綱を握りしめるように。

その言葉を最後に、重い鉄の扉は閉ざされた。次にその扉が開くまでの3日間、リィズがどのような地獄の底のような不安を味わったか、知る者は誰もいない。ただ確かなのは、彼女が暗闇の中で狂気に呑まれることなく、ミハイルにより地上へと引きずり出されたということだけだった。

 

 

鉛色の空から、凍てつくような雪が降り注いでいた。高いフェンスに囲まれた広場には、何台もの軍用トラックがアイドリング音を響かせている。排気ガスの白煙と冬の冷気が混ざり合い、視界を白く濁らせていた。

「……うぅ……寒い……」

最後尾のトラックの荷台。リィズは、薄汚れた囚人服の上から支給されたばかりのコートを羽織り、膝を抱えて震えていた。

周囲には、同じように集められた少年少女たちが詰め込まれている。皆、死人のような目をしていた。

行き先は、地図に載っていない武装警察軍の衛士訓練施設。

そこは人間を国家の部品へと作り変える工場であり、生きて戻れる保証のない地獄だ。

「……あーあ。ドナドナかよ」

不意に、聞き覚えのある気だるげな声が降ってきた。見送りに来た担当官、ミハイルだ。彼は寒そうにコートの襟を立て、トラックの傍らでリィズを見下ろしていた。

「っ!?……ミーシャ……」

リィズが小さく名を呼ぶと、ミハイルは「しっ」と人差し指を口元に当て、周囲を警戒するように視線を巡らせた。監視兵たちは他のトラックの点呼に追われており、こちらを見ていない。

「……これから行く場所は、飯も不味いし、訓練なんて生ぬるいもんじゃない、糞みたいな所だ。お前みたいな泣き虫にはお似合いの場所だな」

ミハイルは淡々と言い放つ。リィズは絶望に瞳を揺らした。助けてくれるわけではない。彼はあくまで監視者として、ここへ送り込んだ張本人なのだ。

「……でも、な」

ミハイルは一歩近づき、誰にも聞こえない声量で、早口に囁いた。

「お前を推薦したのは俺だ。こいつは使えるって太鼓判を押してな。……だから、もしお前が向こうで死んだりしたら……俺の評価に傷がつく」

「え……?」

ミハイルは眉をひそめ、本当に迷惑そうにため息をついた。

「俺は出世とかどうでもいいが、無能なやつを推薦したと思われるのは癪だ。……俺の経歴を汚すなよ」

そう言うと、彼は懐から一冊の小さな手帳を取り出し、リィズの胸ポケットに強引にねじ込んだ。革表紙はボロボロで、使い古された黒い手帳だ。冷たい言葉とは裏腹に、手帳をねじ込む彼の手は、凍えるように冷たく、けれど微かに震えているようにリィズには感じられた。

「……これ、は?」

「お守りだ。……中を見ろ」

リィズがこっそりと手帳を開く。そこには、びっしりと手書きのメモや地図が書き込まれていた。

『監視カメラの死角:C棟裏手のダクト』

『教官の巡回ルートとサボり場:ボイラー室の隙間(冬は暖かい)』

『非常用脱出ルート:地下水路(鍵はピッキングで開く)』

『食料庫への侵入経路』

「これって……」

「俺が訓練生だった頃に使ってた、極秘サボりマニュアルだ」

ミハイルは悪戯っぽく、ニヤリと笑った。

「俺も昔、そこにいたことがあってな。……真面目に訓練なんか受けてたら、身が持たねぇぞ。適度にサボって、体力を温存しろ」

「ミーシャも……ここにいたの?」

「ああ。地獄だったよ。……だが、俺はその手帳を使って生き延びた」

彼はリィズの目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、嘘もごまかしもない、確かな生存者としての色が宿っていた。

「……一番後ろのページに、俺に直接繋がる連絡先が書いてある。……どうしても耐えられなくなったら連絡しろ。脱走の手引きくらいはしてやる」

それは、国家保安省の軍人としてはあるまじき発言だった。脱走の幇助など、銃殺刑に値する。けれど彼は、平然と言ってのけた。

「めんどくさい」と言いながら、彼は自分の命綱をリィズに手渡したのだ。

「……いいか、死にたくなっても死ぬな。俺のために、意地でも生きて戻ってこい」

それは冷徹な命令だった。けれどリィズには、それがどんな愛の言葉よりも温かい約束に聞こえた。

この人は、私の生還を待っている。自分の評価のためだとしても、私が必要だと言ってくれた。そして何より、この手帳が証明している。彼もまた、この地獄を這い上がってきたのだと。

「……うん……!絶対、戻る……!」

リィズはボロボロの手帳を、まるで狂信者が聖典を抱くように胸に強く押し当てた。ミハイルの匂いが染み付いたその手帳だけが、フラッシュバックする拷問の恐怖を和らげてくれる。トラックのエンジンがかかり、重い車体が動き出す。

「……またな。せいぜい気楽にやれ」

ミハイルはヒラヒラと手を振り、排ガスの中に消えていく。リィズは涙を拭い、遠ざかるその背中が見えなくなるまで見つめ続けていた。胸ポケットの温もりだけが、これからの闇を照らす唯一の光であり、命綱だった。

排気ガスの白煙が消え、トラックの姿が完全に見えなくなっても、ミハイルはしばらくその場に佇んでいた。

雪が肩に積もる。彼は懐からタバコを取り出し、ジッポライターで火をつけた。ふぅ、と紫煙を吐き出し、コートのポケットに手を入れる。そこにあるはずの手帳がないことを指先で確認し、安堵の息を漏らす。

(……バレてねぇよな。あんなもん見つかったら、俺が銃殺もんだ)

「随分と熱心な見送りね、ホフマン」

背後から、氷のように冷たく、絶対的な威圧感を持った声が響いた。

ミハイルの背筋に、冷たい汗が走る。彼は努めて冷静にゆっくりと振り返ると、敬礼もせず、タバコを吹かしながら軽口を叩いた。

「……盗み聞きですか。大隊長も暇ですね」

普通の兵士なら即座に粛清される態度だが、目の前の人物は眉一つ動かさない。

そこに立っていたのは、漆黒の強化装備に身を包んだ女性将校。

国家保安省武装警察軍、ヴェアヴォルフ大隊の大隊長。ベアトリクス・ブレーメ大尉だ。

彼女は無表情のまま、その鋭い眼光でミハイルを射抜いていた。

「……あんな汚染された血を持つ娘に、わざわざ別れを告げに来るなんて。……まさか、情でも移った?」

「とんでもありません」

ミハイルは即答した。声色に少しでも動揺が混じれば、この女は即座に噛みついてくる。

「ただの確認です。自分が推薦したモルモットが、ドナドナされていく様を」

「推薦、ね。……あの娘のデータを見たけど、精神面に難がある。本来なら処分対象だけど、それを貴方が衛士適性ありとしてねじ込んだ」

ベアトリクスは一歩近づく。雪を踏む音が、ミハイルの心臓を締め付ける。

「……もしあの娘が訓練で使い物にならなければ、推薦者である貴方の査定にも響くわよ。私の隊に無能な衛士は不要なのは、貴方もわかってるわね?」

「わかってますよ、ブレーメ大尉」

ミハイルは不敵に、あくまで自分の利益のためという仮面を被って笑った。

「ですが、今の戦況において、衛士の数は絶対的に不足しています。……使えるものは、親の死体でも使うべきかと」

「…………」

「あいつは確かに精神は脆い。ですが、操縦適性は悪くない。……上手く飼い慣らせば、俺が前線で楽をするための優秀な盾になりますよ」

「……自身の保身と怠慢のために、政治犯を利用する」

ベアトリクスは鼻を鳴らした。だが、その瞳から殺気は消えていた。国家保安省において情は弱点だが、利用価値と個人の保身は理解できる動機だからだ。

「いいわ、そういうことにしといてあげる。……でも忘れないで。私達の部隊に加わるには、相応の力が必要よ」

彼女は踵を返す。手帳の受け渡しには気づいていないようだ。あくまで部下の奇妙な行動を怪しんで釘を刺しに来ただけらしい。

「あの娘が訓練程度に耐えられずに死んだら、その責任は貴方自身で取りなさい。……期待しているわ、ミハイル・ホフマン中尉」

「……肝に銘じます」

ベアトリクスが去っていく。その足音が完全に聞こえなくなるまで、ミハイルは直立不動を崩さなかった。

彼女の姿が見えなくなった瞬間、彼は大きく息を吐き、半分以上灰になったタバコを雪に捨てた。

「……あー、怖すぎんだろ。寿命が縮んだ……」

心臓が早鐘を打っている。もし手帳が見つかっていたら。もし情を見抜かれていたら。

だが、賭けには勝った。リィズは行った。あの手帳と共に。

「……頼むぜ……俺の命も、お前のポケットの中だ」

ミハイルは凍える手を擦り合わせながら、空を見上げた。鉛色の空からは、絶え間なく雪が降り注いでいた。

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