大好きだったお兄ちゃんとの再会よりも、サボり魔な同僚のお世話を優先してもいいですか?   作:Wig

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パブロフの犬

薄暗い格納庫に、機械油と火薬の匂いが立ち込めている。

MiG-23の巨大な脚部の下で、ミハイルは若い女性整備士と共に、装甲の隙間から覗く複雑な駆動系の配線を確認していた。

「ホフマン中尉。ここのバイパス回路なんですが、少し干渉しているみたいで……」

「ん?ああ、本当だ。ちょっとライト貸してくれ」

狭い装甲の隙間を二人で覗き込むため、自然と肩が触れ合うほどに距離が近くなる。

ミハイルは単に作業に集中しているだけだったが、真横にある彼の整った横顔と、ふわりと香るタバコの匂いに、若い女性整備士の頬がわずかに朱に染まる。

「あ、あの……中尉、手先が器用なんですね」

「そうか?まぁ、自分の機体だしな。この辺のクセは把握しとかねぇと……」

――その様子を、少し離れたコンテナの陰から、じっと見つめているリィズの姿があった。

彼女は当初、ミハイルの整備の邪魔にならないよう大人しく待機していた。だが、二人の距離が近すぎる。いくら仕事とはいえ、自分以外の女が自分の世界のすべてに触れんばかりの距離にいることが、既に限界だった。

そして決定的な瞬間が訪れる。女性整備士がミハイルに向けた、照れ臭そうな、微かに熱を帯びた視線と染まった頬。

(……あの女)

リィズの中で、ドス黒い何かが弾けた。

彼女はパイプ椅子から立ち上がると、足音ひとつ立てずに、滑るような足取りで二人の背後へと歩み寄った。

「ミーシャ!」

「うおっ!?」

唐突に背後からかけられた声に、ミハイルがビクッと肩を揺らす。

振り返るよりも早く、リィズはミハイルと女性整備士の間の僅かな隙間に、強引に、かつスッと滑り込んだ。どんっ、と軽く肩をぶつけられた女性整備士が、驚いて数歩後ずさる。

「私もお手伝いするね、ミーシャ」

「お、おいリィズ。急にどうした……?」

リィズは戸惑うミハイルの問いには答えず、ただ無邪気な笑みを浮かべたまま、半ば強引に工具箱からラチェットを抜き取ってミハイルの隣にピタリと張り付いた。そして、唖然とするミハイルと女性整備士を完全に無視して、黙々と配線の作業を始めてしまう。

狭い空間で完全に居場所を奪われ、女性整備士がオロオロと後ずさると、リィズは作業の手を止めないまま、ゆっくりと首だけを彼女の方へ巡らせた。

「あとは私がミーシャのお手伝いをするから。……ね?」

声は甘く、笑顔は無邪気だった。

しかし、その空っぽの瞳の奥に渦巻く、これ以上私のものに近づいたら殺すという絶対零度の威圧感に、女性整備士はヒッと短い悲鳴を飲み込んだ。

「あ、あ、あのっ!私は他の作業を進めておきますので!お二人は引き続きこちらの作業をお願いします!」

「え?いや、でもまだ……」

「失礼します!!」

ミハイルが止める間もなく、女性整備士は逃げるように工具箱を抱え、文字通り脱兎のごとく格納庫の奥へと走り去ってしまった。

ポツンと取り残されたミハイルは、遠ざかる整備士の背中と、隣で満足げに工具を握っているリィズを交互に見比べ……やがて、苛立ちを隠せない様子でリィズを睨み付けた。

「……おい、何やってんだよ、お前」

「え……?」

「いきなり割り込んできて、あいつを睨みつけて追い出すなんて……わけ分かんねぇことしてんじゃねぇぞ。ただでさえ整備班は人手不足なんだ、これじゃ俺の機体を誰も診てくれなくなるだろうが」

本気で意味が分からないといったふうに、呆れたように叱責するミハイル。

その静かな怒気を含んだ声を聞いた瞬間、リィズの手からカラン、と無機質な音を立てて工具が滑り落ちた。

先ほどまでの独占欲を満たした態度は一瞬で消え失せ、主人の怒りに触れた子犬のようにビクッと肩を跳ねさせて、しゅんと俯く。

「……だって」

「だってじゃねぇよ……ったく、何であんな」

「……だって、あの人、ミーシャに近すぎた」

遮るように発せられたその声は、微かに震えていた。

「狭い場所の配線見てたんだから当たり前だろ」

「それに、ミーシャを見て顔を赤くしてた!……すごく、嫌だった」

リィズは弾かれたように、ミハイルの腕に両手でしがみついた。

「ミーシャは私のだよ。私だけの、持ち主だもん。……他の女の人が、あんな距離にいるのなんて絶対許さない」

隠そうともしない、ドロドロとした独占欲と嫉妬心。道具であるはずの彼女が真っ直ぐにぶつけてくるその重すぎる感情に、ミハイルは戸惑い、言葉を失う。

しかし、リィズの言葉はそれだけでは終わらなかった。彼女はミハイルの軍服を握る手にギリッと力を込め、これまで必死に抑え込んでいたものを吐き出すように、震える声を絞り出した。

「……ずっと、我慢してたんだよ。ミーシャが時々、アオスト大尉のあの甘い香水の匂いをつけて帰ってくる時も。……私が知らないところで、誰かに触れられてるんじゃないかって思うだけでも、頭がおかしくなりそうだった」

ギリ、ギリと、軍服を掴む彼女の細い指先が白く染まる。

半年間、彼女の中で澱みのように蓄積し続けていた不安と独占欲が、ついに決壊したのだ。

「ミーシャから、他の女の人の匂いがするの……すごく、嫌」

それは、命令を忠実にこなすだけの道具が、決して口にしてはいけない明確な自我だった。すがりつくような、かすれる声でリィズは呟く。

「……私じゃ、ダメなの?私、ミーシャが言ったこと、全部完璧にやってるよ。敵も殺すし、掃除もするし、ミーシャの邪魔は絶対にしない。ミーシャのためなら、なんでもするのに」

だから、私以外の人に触れられないで。私以外の匂いをつけないで。私という便利な道具があるのに、どうして他の人が必要なの?

狂気的なまでに純粋な、存在意義の証明。彼女は道具という名目を盾にしながら、その実、一人の少女としてミハイルのすべてを欲し、縋り付いていた。

ミハイルはゆっくりと息を吐き出すと、リィズの華奢な肩を掴み、強引に自分の胸の中へと抱き寄せた。

「……っ、ミーシャ……?」

突然の抱擁に、リィズが驚いて目を丸くする。ミハイルは彼女の肩に顎を乗せ、乱暴に、けれど確かな熱を込めて、その髪をガシガシと撫で回した。

「……バカか、お前は。俺みたいなサボり魔の面倒を見きれるのは、世界中探したってお前くらいしかいねぇよ」

「でも、匂いが……」

「大尉のはただの嫌がらせだ。それに、他の奴なんているわけねぇだろ。……リィズ、お前じゃないとダメなんだ」

その言葉を聞いた瞬間。リィズの瞳に、パッと光が戻った。空っぽだった暗い瞳が、瞬く間に希望と喜びに満たされていく。彼女にとって、それは極上の褒め言葉であり、愛の囁きにも等しい絶対的な存在証明だった。ミハイルの体温と彼自身の匂いが、不安を綺麗に上書きしていく。

「……うんっ!私じゃないと。私がいなきゃ、ミーシャはダメだもんね!」

リィズは一瞬でいつもの無邪気な顔に戻り、嬉しそうにミハイルの背中に腕を回して抱きしめ返した。自分が作り出してしまったこの無自覚で純粋すぎる思いの重さを、ミハイルは呆れ半分で、けれど確かに噛み締めていた。

 

 

1982年 冬 オーデル・ナイセ川流域絶対防衛線 バウツェン前線待機所

紫煙が燻る薄暗い談話室。衛士たちが、安っぽいコーヒーを啜りながら愚痴をこぼしている。だが、窓際の席だけは、奇妙な静寂に包まれていた。

「……おい、あれ見ろよ」

「またかよ。……よくやるぜ、あいつも」

第7小隊の衛士たちが、ヒソヒソと噂話をする。彼らの視線の先には、第8小隊のミハイルとリィズがいた。

ミハイルはソファに深く沈み込み、気だるげに雑誌をめくっている。

その足元で、リィズが片膝をつき、彼のブーツの紐を丁寧に結び直していた。

「……ミーシャ、紐が緩んでるよ。これじゃ躓いちゃう」

「……あー、悪い。自分でやるって言ってるだろ」

「ううん。ミーシャは不器用だもん。私がやった方が早いし、確実だよ」

リィズはまるで愛しいペットの世話をするように、嬉々としてブーツを磨き、紐を整える。屈辱?隷属?そんな感情は微塵もない。

彼女にとっては、主人の足元に侍ることこそが、至上の安らぎであるかのように。

「……できた!これで完璧」

リィズが顔を上げ、花が咲いたような笑顔を向ける。ミハイルは「ありがとよ」と短く礼を言うと、リィズが自分の飲みかけのコーヒーを物欲しそうに見ていることに気がついた。

「……飲むか?まだ温かいぞ」

「いいの?ありがとう!」

リィズはそれを両手で受け取り、彼が口をつけた場所をなぞるようにして飲む。その光景は、恋人同士のそれとは違う。もっと歪で、排他的な主従の儀式だった。

「……うわぁ。見てらんねぇな」

「あの子、ホーエンシュタインだろ?腕はいいのに、なんであそこまでホフマンに尽くすんだ?」

「さぁな。……戦場でもそうだぞ。ホフマンが右と言えば、彼女は思考停止で右に突っ込む。たとえそこが地雷原でもな」

周囲の視線には、畏怖よりも薄気味悪さが混じっていた。彼女は優秀だ。撃墜数も確実に稼いでいる。

だが、そこには個人の意志が欠落している。ミハイルという指示で動く、自我を持たない精巧な戦闘人形。それが、他の衛士から見たリィズ・ホーエンシュタインの姿だった。

その時、談話室の扉が開いた。

「……おーい、二人とも。ここだったか」

入ってきたのはルーカスとハンナだ。ルーカスは二人の様子を見て、またかといった顔で肩をすくめた。

「相変わらず仲が良いこって。……ほらよミハイル、お前にアオスト大尉から追加の書類仕事だ」

ルーカスが分厚いファイルを放り投げる。ミハイルは露骨に嫌な顔をした。

「……げっ。マジか。これ以上残業させんのかよ、あの女狐は」

「仕方ねぇだろ。ウチの小隊は汚れ仕事の処理が多いんだ。報告書も増えるさ」

ミハイルがため息をつこうとした、その瞬間。

横からスッと白い手が伸び、ファイルをさらっていった。

「……私がやるよ、ミーシャ」

リィズだ。彼女はファイルを胸に抱き、にっこりと微笑んだ。

「これ、このバウツェンに連れてきた亡命者の報告書だよね?私、データ覚えてるから。ミーシャは休んでて」

「……おいおい、リィズちゃん。これ結構な量だぞ?ミハイルにやらせときゃいいのに」

ルーカスが呆れて言うが、リィズは首を横に振った。

「ううん。ミーシャが疲れてる顔を見る方が嫌だもん。……それに、ミーシャの役に立てるなら、私、嬉しいから」

その言葉に嘘はない。だが、その純粋すぎる献身こそが、この空間の異様さを際立たせていた。

「……はぁ。お前なぁ……」

ミハイルは頭をガシガシとかいたが、結局は拒否しなかった。1年という月日は、この異常な関係を日常に変えてしまっていたのだ。

彼がサボり、彼女が背負う。その歪な関係が、組織の中で彼らが生き残るための最適解になってしまっていた。

「……じゃあ、頼むわ。……無理すんなよ?手伝えることがあったら言ってくれよな」

「うん、ありがとう。ルーカスさん」

リィズは少女のように瞳を輝かせ、重いファイルを抱えて書き物机へと向かった。その背中を見送りながら、ハンナが静かに眼鏡の位置を直す。

「……効率的ですが、健全ではありませんね」

ハンナの小さな呟きは、誰の耳にも届かなかった。

 

 

数時間後 バウツェン前線基地 地下収容区画

薄暗く、ひんやりとした空気が漂う地下通路。鉄格子の奥からは、捕らえられた亡命者たちのうめき声や、絶望的なすすり泣きが微かに響いている。

リィズが報告書を片付けている間、ミハイルは独房の監視任務に就いていた。壁に背を預け、無表情にタバコをふかしていると、背後から無遠慮な軍靴の音が近づいてきた。

「……よう、ホフマン。交代の時間だ」

振り返ると、第7小隊所属の衛士、フェリックスが立っていた。彼は鉄格子の奥で身を寄せ合う亡命者たちをチラリと一瞥し、嫌味な笑みを浮かべた。

「お前んとこの狂犬は、今日は一緒じゃないのか?」

「……狂犬?誰のことだよ」

ミハイルが気だるげにとぼけると、フェリックスは鼻で笑ってシガレットケースを取り出した。

「ホーエンシュタインのことに決まってるだろ。……噂になってるぜ?お前の命令なら、民間人だろうが味方だろうが、眉一つ動かさずに撃つってな」

「……人聞きが悪いな。俺たちは命令に従ってるだけだ」

「フン、命令ね。……だがあの娘、目がいってやがる」

フェリックスはタバコに火をつけると、ミハイルに一歩近づき、声を潜めた。

「……気をつけな。飼い犬ってのはな、忠実であればあるほど、主人を失った時にぶっ壊れるもんだ。……お前が手綱を放した瞬間、あいつは誰彼構わず噛みつく化け物になるか、それとも命令がなきゃ息すらできないただの抜け殻になるか……」

怯えも、怒りも、他者の命を奪うことへの恐れも。普通の女の子としての当たり前の人間らしさが、確かにそこにはあった。

そして、今の彼女はどうだ。人殺しの業も罪悪感もすべてミハイルに丸投げし、ただ彼の命令に従い、隣にいることだけに異常な執着を燃やす、歪で排他的な道具としての微笑み。

(……俺が、奪ったんだ)

「ま、どっちにしろ、ありゃもう手遅れだ。せいぜい可愛がってやんな」

フェリックスはミハイルの肩を軽く叩き、監視任務を引き継ぐように収容区画の奥へと歩いていった。残されたミハイルは、自分の掌を見つめた。1年前、リィズの手を包み込んだこの手。あの時、自分が握った手綱は、今や彼女の首を絞める鎖になっているのではないか。

「……ミーシャ!」

声がした。振り向くと、入り口からリィズが走ってくるのが見えた。

報告書が終わったのだろう。彼女は血と汚物と絶望の匂いが立ち込めるこの地下牢の空気など全く気にする様子もなく、子犬のように一直線にミハイルの元へと駆けてくる。

「終わったよ!早かったでしょ?ハンナちゃんが手伝ってくれたんだ」

「……ああ。早かったな」

「褒めて!ねぇ、充電させて!」

リィズは無邪気な笑みを浮かべ、ミハイルに抱きつく。ミハイルは複雑な思いを押し殺し、いつものように、その背中に腕を回す。

「……よくやった。偉いぞ、リィズ」

「えへへ……♪」

リィズは恍惚とした表情で、ミハイルの胸に頬を擦り寄せる。その姿は、先ほどのフェリックスの言葉通りだった。

世界中が敵に回っても、この地下牢で誰が泣き叫んでいようとも、この主人さえいればいい。

そんな危うくも強固な幸福が、ヴェアヴォルフの冷たい地下通路に満ちていた。

 

 

バウツェン前線基地にある戦術データ解析室。空調のファンが回る低い音だけが、無機質な部屋に響いていた。

青白いモニターの光が、ハンナ・ウルリヒ少尉の眼鏡を冷ややかに照らしている。

日課である小隊員の戦闘データ解析と、定期的なメディカルチェックの数値照合を行っていた時のことだった。

「……?リィズさんの数値に、ズレがある」

ハンナは眉をひそめ、キーボードを叩いた。日々の戦闘で記録されたリィズの反応速度、G耐性、そして身体的な成長記録。それらと、軍の人事局に登録されているリィズ・ホーエンシュタインのIDデータを突き合わせる。

『ERROR:登録データとの不整合を検出』

「……IDの登録日時と、実際の配属日時に矛盾が生じてる。それに、この適性データ……」

ハンナの指が止まる。

画面に表示された人事局への提出データは、確かにヴェアヴォルフの入隊基準を満たしてはいる。だが、それはあくまで合格ラインギリギリの凡庸な数値だ。

(……おかしい。入隊時のこの平凡な数値から、今の彼女の圧倒的な操縦技術へと至る成長曲線は、どう計算しても説明がつきません)

現在の驚異的な戦闘データと、入隊時の適性データ。その埋まらないズレに強烈な違和感を覚えたハンナは、不整合の正体を突き止めようと、さらに深い階層のファイルを開いた、その時だった。

「……っ!まさか、そんな……」

思わず声が漏れた。プロテクトの奥から現れたのは、リィズの改竄前の本来の適性データ。それは、武装警察軍最強と名高い、ヴェアヴォルフには到底入隊できるレベルではない、完全な不適格を示す絶望的な数値だった。

データに残された微細な、しかし決定的な改竄の痕跡。偽装工作。そして、その不正処理の推薦者署名欄には、ミハイル・ホフマン中尉の名がある。

モニターに表示された赤い文字列が、ハンナの網膜を焼き尽くす。その瞬間、彼女の視界が歪んだ。

キーボードを叩く音が止む。空調のファンが回る低い音すらも、唐突に世界から消え失せたように感じた。

「……あ、ぅ……」

ハンナは口元を押さえた。吐き気がする。指先が冷たくなり、ガタガタと震えだした。

自分の意思ではない。身体が、細胞が、恐怖を記憶しているのだ。過去の記憶が呼び起こされる。

『ハンナ……許してくれ』

『私達は知らない!全部この子が……ハンナが勝手にやったんだ!』

耳元で蘇る、愛していたはずの両親の声。国家保安省の武装警察軍が家に来たあの日。両親は保身のために、わずか10歳だったハンナを思想汚染源として売った。自分たちが助かりたい一心で、実の娘を指差し、悪魔に差し出したのだ。

『……いい子だ、ハンナ。正直に話しなさい』

『誰と会っていた?誰に吹き込まれた?』

眩しすぎるスポットライト。冷たいコンクリートの床。終わらない尋問。水攻めの苦しみ。爪を剥がされる痛み。徐々に自分が自分ではなくなっていくような、壊れていく恐怖。

家族という幻想が、国家保安省という絶対的な暴力の前では何の意味も持たないことを、彼女は幼い心身に刻み込まれた。

「……嫌……嫌ぁ……ッ!」

ハンナは頭を抱え、蹲った。過呼吸気味に息を吸い込む。

「……ミハイルさんが、やったのですか?」

1年前、彼がリィズを連れてきた日を思い出す。あの日、彼は言った。「俺が推薦した」と。

だが、正規の手続きを経ていなかったとしたら?彼は自分の保身のために、あるいは気まぐれで、国家を欺いたことになる。

公文書偽造。および、不適格者の不正入隊。これは軍法会議にかかる重罪だ。そして、国家保安省において最も恐ろしいのは、個人の罪では済まされないことだ。

(……連帯責任。……見つかれば、全員終わり)

もし、この不正が監査で見つかればどうなる?ミハイルだけではない。それを黙認していた第8小隊全員が、あの白い部屋へ連行される。

ミハイルとルーカスが殴られる。リィズが吊るされる。そして自分も、またあの地獄へ戻される。

(……怖い。……痛いのは、もう嫌)

ガチガチと歯の根が合わない。恐怖が理性を塗りつぶしていく。仲間を守りたい?違う。自分が助かりたいのだ。あの時、両親がそうしたように。

「……切り捨てなきゃ……」

ハンナは虚ろな目で呟いた。壊死した手足を切り落とさなければ、毒が全身に回って死ぬ。ミハイルは、もう手遅れだ。なら、せめて自分とルーカス、そしてリィズだけでも生き残るために。

「……私は国家保安省の士官、ヴェアヴォルフの衛士です。……不正は見過ごせません」

ハンナは立ち上がった。その瞳には、涙ではなく、悲壮なまでの正義という名の恐怖が宿っていた。

親に売られた少女は、今、親友を売ることで生き延びようとしていた。かつて自分が最も憎んだ密告者と同じ顔をして。

しばらくして、ハンナは第3中隊中隊長執務室の扉をノックしていた。

「……どうぞ」

ノックに応じ、エルケ・アオスト大尉の声が響く。ハンナは緊張で強張る足を叱咤し、部屋に入った。エルケは暖炉の前でタバコに火をつけていた。その優雅な姿は、これから部下の密告を聞く人間とは思えないほど美しい。

「……夜遅くにどうしたの、ハンナ?君がここに来るなんて珍しいね」

「……報告があります。アオスト大尉」

ハンナは直立不動で、震える手でデータを差し出した。

「第8小隊所属、リィズ・ホーエンシュタイン少尉のID登録データに、重大な不正を発見しました。……その推薦者であるミハイル・ホフマン中尉に、公文書偽造の疑いがあります」

「……え?」

エルケはきょとんとした顔をした。まるで、寝耳に水だと言わんばかりに、驚いたように瞬きをした。

「……ミハイルが?まさか、あの要領のいい子がそんな危険を冒すなんて……」

エルケはタバコを灰皿へ押し付け、深刻な顔つきでデータを受け取った。ページをめくる音が、静寂な部屋に大きく響く。

ハンナは心臓が口から飛び出しそうだった。これで良かったのか。仲間を売った自分は、人として正しいのか。しばらくして、エルケが顔を上げた。その瞳は、獲物を品定めするような、冷たくも妖しい光を宿していた。

「……確かに、これは言い逃れできないね。真っ黒だ」

エルケは書類を机に放り投げると、ゆっくりとハンナに近づいた。

「……ねぇ、ハンナ。一つ聞いても良いかな?」

「は、はい」

「どうして報告したの?……君たちは仲が良いのに。いつも食堂で一緒に食べて、戦場では背中を預け合っている」

エルケの顔が近づく。甘い香水の香りが、ハンナの罪悪感を刺激する。

「黙っていれば、バレなかったかもしれない。……なのに、どうして仲間を売ったの?」

試されている。ハンナは直感した。この人は、私の忠誠心を、そして覚悟を測っているのだ。

ここで「怖かったからです」と言えば、自分も連帯責任で処分されるだろう。国家保安省が求めているのは、感情を持つ人間ではない。国家の理想を体現する、冷徹な歯車だ。ハンナは奥歯を噛み締め、震える拳を太ももに押し付けた。

心の中で、ミハイルの姿が思い返される。いつも気だるそうでいて、でも一番頼りになる第8小隊の隊長。ハンナに兄は居ないが、もし居たらミハイルみたいな兄が欲しいと思っていた。「頼むぜ、優等生」と背中を叩くミハイル。それを、今、自分の言葉で殺すのだ。

「……私情は、挟みません」

ハンナは声を絞り出した。それは、血を吐くような、けれど完璧な模範解答だった。

「……国家保安省の任務において、個人の感情は排除されるべきです。……不正は正され、膿は排除されなければなりません。それが……ヴェアヴォルフ大隊の、あるべき姿ですから」

エルケは無言でハンナを見つめた。眼鏡の奥で揺れる瞳。白くなるほど握りしめられた拳。そして、今にも泣き出しそうなのに、必死に張り詰めている表情。苦痛。葛藤。そして、自己犠牲。

(……ああ、かわいそうに)

エルケは心の中で呟いた。この子は、自分の保身のためだけに売ったのではない。小隊全体を守るために、自分が汚れ役を引き受け、一番大切なものを切り捨てたのだ。

「……ふふっ」

エルケは微笑み、ハンナの頬に触れた。その手は氷のように冷たかったが、どこか慈しむような優しさがあった。

「よく言ったね、ハンナ。……君のその痛み、しっかりと伝わったよ?」

「……アオスト大尉……」

「情に流されず、腐った部分を切り捨てた。……君は絵に描いたような、国家保安省の犬だね」

「……ッ!光栄、です……」

褒め言葉のはずだった。だが、その言葉はハンナの耳には、仲間の首を絞める鎖の音のように響いた。

彼女は自分の正義が、取り返しのつかない悲劇の幕を開けてしまったことを悟り、ただ立ち尽くすしかなかった。

「……さて。じゃあ、明日の昼にでも迎えに行こっか」

エルケは愉悦に満ちた声で告げた。

「大丈夫、連れていくのはミハイルだけだから。君たちの事は、悪いようにはしないよ」

エルケの甘い声が鼓膜を揺らす。だが、ハンナの脳はその言葉の意味をもう処理できなかった。

「……はい。ありがとうございます」

無意識のうちに、自分の口が模範的な返答を紡ぐ。それがひどく遠く、まるで深い水底から響く他人の声のように聞こえた。

視界がぐにゃりと歪む。暖炉の炎が、かつて自分を照らした尋問室の眩しいスポットライトと重なって見えた。自分が今、誰に向かって立っているのか。何を報告し、誰を売ったのか。自分が一体何をしているのかさえ、もはやわからなくなっていた。

ただ、恐怖でガチガチと鳴る歯の根を必死に噛み殺しながら、ぼんやりと自覚する。

自分は冷徹なヴェアヴォルフの衛士なんかじゃない。あの日心が壊れてしまった、10歳の無力な少女から一歩も進めていないのだと。

 

 

翌日の昼、バウツェン前線待機所の食堂にはガチャンとスプーンが皿に当たる音が響く。

昼時の食堂は、任務を終えた衛士たちの喧騒と、食器が触れ合う音で満ちていた。

だが、第8小隊のテーブルだけは、どこか奇妙な空気が漂っていた。

「……うぇ。今日のスープ、いつも以上に泥水だな。これ作った奴、味覚死んでんじゃねぇのか」

ミハイルがスプーンをかき回しながら、いつものように悪態をついた。

「そう?私は美味しいよ、ミーシャ」

リィズは隣でニコニコしながら、自分のパンをミハイルのスープに浸している。

そして、ふやけたパンをスプーンですくい、「あーん」とミハイルの口元に差し出した。

「……ほら、食べて。栄養つけないと」

「……お前なぁ。俺はガキかよ」

「だってミーシャってば、だらしないんだもん。私がちゃんとお世話しないと」

ミハイルは渋々といった顔でそれを口にする。ルーカスはタバコを吹かしながら、呆れたように肩をすくめた。

「お前らなぁ……飯時くらい静かに食えよ。……なぁ、ハンナちゃんも何か言ってやれ」

「……」

ハンナは俯いていた。スプーンを持つ手が小刻みに震えている。喉が詰まって、スープが飲み込めない。

目の前で繰り広げられる、歪だが温かい日常。ミハイルの苦虫を噛み潰したような顔。リィズの幸福そうな笑顔。ルーカスの軽口。それら全てが、自分のせいで、もうすぐ終わる。

(……ごめんなさい。……ごめんなさい……)

心の中で繰り返す。だが、もう賽は投げられてしまった。

カツン、カツン、カツン。

食堂の入り口から、硬質な足音が響く。一人ではない。複数人の、規則正しい軍靴の音。

食堂の空気が一瞬で凍りついた。

現れたのは、エルケ・アオスト大尉。そしてその背後には、憲兵の腕章を巻いた兵士が二名。腰にはホルスター。その手が、いつでも銃を抜ける位置にある。

「……!」

他の隊員たちが息を呑み、道を空ける中、エルケは優雅に第8小隊のテーブルへと歩み寄った。

「……食事中ごめんね。少し、時間もらっても良いかな?」

「……アオスト大尉?」

ミハイルがスプーンを置く。その目は、憲兵を見た瞬間、全てを悟ったように静かだった。

「ミハイル・ホフマン中尉。……君に、武装警察軍本部、および国家保安省内務局への出頭命令が出たんだ」

エルケは赤い唇を吊り上げ、氷のような声で宣告した。

「容疑は国家反逆罪、および公文書偽造。……詳しい話は、あっちで聞かせてもらうね」

「……なっ!?」

ガタッ!と椅子が倒れる音が響く。ルーカスが立ち上がり、エルケに食ってかかった。

「おい、冗談だろ!?ミハイルが反逆罪だと!?何かの間違いじゃ……」

「ルーカス。少し静かにしてもらえるかな?……君まで連帯責任で、連れて行きたくはないんだよね」

エルケの一睨みで、ルーカスが射竦められる。連帯責任。その言葉に、ハンナの肩がビクリと跳ねた。

リィズは状況が理解できず、ポカンと口を開けていた。スプーンから、ふやけたパンがボトりとスープに落ちる。

「……ミーシャ……?どういう、こと……?」

「……騒ぐな、リィズ」

ミハイルは静かに立ち上がった。彼は抵抗する素振りも見せず、両手を軽く上げた。そして、チラリと、青ざめた顔で震えているハンナを見た。その視線が合った瞬間、ハンナは息が止まりそうになった。

(……ああ。やっぱり、お前か)

ミハイルの目はそう語っていた。だが、そこに怒りはなかった。「よくやったな」とでも言うような、諦めと納得が混じった、静かな瞳。

彼は薄々自分でも分かっていた。自分の不正がいつかバレることも、それを告発するのが、一番真面目なハンナである可能性が高いことも。

ハンナは視線をミハイルから逸した。直視できなかった。自分が彼を売ったという事実に目を向けないように。

「……リィズ。俺は少し出かけてくる」

ミハイルはリィズの頭に手を置き、ポンポンと軽く撫でた。

「お前はここで待ってろ。……いい子にしてるんだぞ」

「……やだ。私も行く」

リィズがミハイルの袖を掴む。その指が白くなるほど食い込む。

「置いてかないで!私も行く!ミーシャと一緒なら、どこでも……!」

すがりつくリィズの悲痛な叫びに、ミハイルはほんの一瞬だけ視線を上げ、傍らに立つエルケと無言の目配せを交わした。ミハイルからの無言の懇願を正確に読み取ったエルケは、妖艶な笑みをわずかに深め、一歩前へ出る。

「ふふっ、健気だね。いいよ?君も一緒に来るかい?……あの地下の独房に」

エルケの甘く囁くようなその一言で、リィズの時間が凍りついた。

地下の独房。国家保安省の尋問室。

終わらない暴力、人間の尊厳を根こそぎ奪われる白くて冷たい部屋。

「あ……、ぁ……」

記憶の底に封じ込めていた絶対的な恐怖が、彼女を支配する。

行きたい。彼から離れたくない。けれど、あの地獄にだけは二度と戻りたくない。相反する感情が彼女の脳を焼き切り、リィズの瞳から急速に焦点が失われていく。

すがりつこうと伸ばしかけた手は宙を彷徨い、パタリと力なく下ろされた。彼女はただ、糸が切れた操り人形のように、その場に呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

「……いやだ……行かないで……ミーシャ……」

ミハイルは、空っぽになったリィズの姿を一度だけ、静かに見やった。その瞳に浮かんでいたのは諦観か、それとも自分が彼女を壊してしまったという深い後悔だったのか。彼はただ無言で身を翻し、憲兵たちと共に食堂の扉の向こうへと消えていった。

カツン、カツンと遠ざかる軍靴の音が完全に途絶えても、リィズは抜け殻のように立ち尽くしたままだ。

ひんやりとした静寂と、食堂中の痛いほどの視線が突き刺さる中、ハンナだけが、椅子に座ったまま動けなかった。

目の前には、ミハイルが食べかけで残したスープ。

冷めきった泥水のような液体に、自分の歪んだ顔が映っている。その表情が、かつて自分を売った両親と同じになっている事に気がついた。

守りたかった。この場所を、この日常を守るために、正しいことをしたはずだった。なのに、残ったのは、バラバラに砕け散った食卓の残骸と、リィズの虚ろな姿だけ。

「……あ、あぁ……」

ハンナの目から、一筋の涙がこぼれ落ち、冷たいスープに波紋を作った。

彼女はこの時初めて気づいた。自分の正義は、最悪の形で証明されてしまったのだという事を。

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