大好きだったお兄ちゃんとの再会よりも、サボり魔な同僚のお世話を優先してもいいですか? 作:Wig
ミハイル連行から3日後。吹きっさらしの基地屋上で錆びたフェンスに身を預け、リィズはぼんやりと遠くの雪原を見つめていた。
そこはかつて、ミハイルがいつもサボってタバコを吸っていた場所。凍てつくような冷たい風が頬を叩くが、彼女は寒さなど感じていないようだった。ミハイルが残した古いコートを羽織り、繊維に染み込んだ残り香だけを頼りに、辛うじて正気を保っていた。
「……ミーシャ……」
震える声で名を呼ぶ。返事はない。ただ、この場所で彼の匂いにすがりつき、彼がいつも見ていた景色をなぞり続けることだけが、彼女のすべてだった。
ギィ、と重い鉄扉が開く音がした。
「……リィズさん。やっぱりここにいたんですね」
屋上に現れたのはハンナだった。その顔色は悪い。目の下には濃い隈があり、唇はカサカサに乾いている。彼女もまた、限界だった。
「……もう部屋に戻りましょう。ここは寒すぎます」
ハンナの声は硬く、どこか何かに怯えているようだった。リィズは雪原を見つめたまま、くぐもった声で答えた。
「……ううん。ここにいる」
「……昨日も一睡もしていないでしょう。そんな状態では倒れてしまいます」
「……倒れないよ」
リィズはハンナへと振り返り、笑みを浮かべながら子供のように首を横に振る。
「私、さっき食堂でちゃんとご飯食べたもん。味がしなくても、全部残さずに飲み込んだよ。……ミーシャに「いい子にして待ってろ」って言われたから、ちゃんと命令守ってる」
幽霊のような虚ろな笑みから絞り出される、まるで機械のような声。命令を守るという細い糸だけで辛うじて現実を繋ぎ止めている彼女の姿に、ハンナは痛ましげに顔を歪め、ぎゅっと唇を噛み締めた。
「……ですが、ミハイルさんが戻ってきた時、貴女がそんなボロボロの姿だったら……」
「……戻ってくるの?」
その瞬間リィズの顔から笑みが消えた。その瞳は落ち窪み、生気がない。冷えきった屋上の空気が辺りを支配する。
「……ねぇ、ハンナちゃん。ミーシャは戻ってくるの?……嘘つき。連れて行かれた人が戻ってこないことくらい、私だって知ってるよ」
「……ッ」
リィズの空っぽな瞳に捉えられ、ハンナは痛みに耐えるようにして、唇を噛み締める。
友達からの空っぽな言葉。正しい選択したつもりが、彼女をここまで追い詰めてしまった事実がハンナの心を軋ませ続ける。
「……ねぇ。このままここで凍え死んだら……ミーシャのところに行けるかな」
風の音が、不気味なほど鮮明に二人の間を通り抜けた。その瞬間だった。
「……ふざけないでください!!」
凍てつくコンクリートの上で、ハンナはギュッと両拳を握り締め、肩を激しく震わせていた。いつも冷静な彼女からは想像もできない、悲鳴のような怒声が響く。
リィズが驚いて顔を上げる。だが、ハンナの様子がおかしい。彼女の瞳孔は開ききり、焦点はどこにも合っていない。浅い呼吸を繰り返しながら、まるで何かの経典を読み上げるようにまくし立て始めた。
「……規則です。規則違反なんです!公文書偽造は国家反逆罪!IDの改竄は重篤な規律違反!……見過ごせば連帯責任!全員逮捕!全員、尋問されるんです!!」
「……ハ、ハンナちゃん……?」
「だから報告したんです!報告義務があるんです!私はヴェアヴォルフの衛士だから……不正を見逃すわけにはいかないんです!膿は出さなきゃいけない!腐った部分は切り捨てなきゃいけない!!」
ボロボロと涙を流しながら、口元だけがひきつったように笑っている。それは自分自身を洗脳しようとする、必死の自己防衛だった。
「正しい……私は正しいことをしたんです!小隊を守るために!リィズさんを守るために!合理的な判断です!感情に流されず、規律を優先した……私は模範的な将校なんです!……誰にも文句は言わせない!!」
規則違反。報告義務。私たちを生かすための、合理的な判断。散りばめられた言葉たちが指し示す結論は一つしかない。だが、それを認めてしまえば、自分を辛うじて繋ぎ止めている、第8小隊という最後の居場所すらも、完全に壊れてしまう。
「……や、やめてよ……」
リィズは青ざめた顔で一歩後ずさった。聞きたくない。それ以上言わないでほしかった。
「……違うよね、ハンナちゃん。……何かの間違いだよね?ハンナちゃんが、ミーシャを……裏切ったなんて、そんなわけ……」
すがるようなリィズの掠れた声。だが、ハンナの暴走は止まらなかった。
「なのに……なんで死ぬなんて言うんですか!?私が……私がどんな思いで彼を売ったと思ってるんですかッ!!」
張り詰めていた糸が切れたように、ハンナは力なくその場に崩れ落ちた。
冷たい屋上の床に膝をつく彼女の小さな体を、容赦のない一陣の風が吹き抜けていく。足元から白く細かな雪がふぶきのように舞い上がり、泣き叫ぶハンナの姿をひどく痛ましく、孤独に包み込んでいた。
「私だって……ミハイルさんを売りたくなかった!でも、リィズさんたちと一緒に生き残るためには、彼を切り捨てるしか……ッ!なのにリィズさんが死んだら、私がミハイルさんを裏切った意味が、無くなっちゃうじゃないですかぁッ!!」
最後は論理も規則も消え失せ、ただの15歳の子供の泣き叫ぶ声だった。彼女は床に膝をついたまま、嗚咽を漏らし続けた。
沈黙が辺りを支配する。吹きすさぶ風の音すら遠ざかり、屋上の空気が完全に凍りつく。リィズの瞳から急速に虚無が抜け落ち、代わりにどす黒い激情が燃え上がった。
「……ハンナちゃんが……?」
(……あぁ、ダメだ。……許せない)
リィズは獣のような速さでハンナに飛びかかり、その胸ぐらを掴んで強引に金網へと叩きつける。ガシャンッ!と冷たい鉄が悲鳴を上げた。
「わかんないよ、ハンナちゃん……ねぇ、なんで?……どうしてっ!?」
「ぐっ……ぅ……!」
リィズの手がハンナの首にかかる。本気で力を込めれば、ハンナの細い首など簡単に折れる。だが、ハンナは抵抗しなかった。涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、ただ真っ直ぐにリィズを見つめ返した。
言い訳一つ口にせず、ただ肩を震わせて嗚咽を漏らし続ける。反抗すらしないその惨めな姿が、リィズの中で渦巻く感情をさらに激しく逆撫でした。
「黙ってないで何か言ってよ!!なんでミーシャを……私たちを裏切ったの!?」
ギリッと、ハンナの首に食い込む指の力が強まる。
「……私、ハンナちゃんのこと……友達だって、思ってたのに……ッ!!」
怒りと悲しみ、そして裏切られた絶望が入り混じったリィズの絶叫。
それを真正面から浴びたハンナの顔が、くしゃりと醜く歪んだ。彼女は首を締め上げられ、息を詰まらせながらも、ついに喉の奥に抑え込んでいた本当の感情を爆発させた。
「……怖かったんです……ッ!」
ハンナは首を締め上げられながら、掠れた声で叫んだ。
「……親に売られた時みたいに……また捨てられるのが怖かった。連帯責任で、またあの地下室に連れて行かれるのが……痛いのが、怖かったんです……ッ!」
リィズの指が、ビクリと止まった。「あの地下室」。その単語が、リィズの脳髄を直接殴りつけた。ドクンッと心臓が嫌な音を立てて跳ねる。視界が歪む。目の前で涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっているハンナの顔が、過去の記憶と重なる。
2年前。西への亡命に失敗し、捕まった直後の日々。あの気だるげな少年、ミハイルが担当になる前の、地獄のような時間。冷たいコンクリートの床。眩しすぎるスポットライト。永遠に続く尋問。終わらない暴力。爪を剥がされる痛み。水攻めの窒息感。
罵声と共に振り下ろされる警棒の感触が、幻痛となってリィズの肌に鮮明に蘇る。世界中が敵で、誰も助けてくれなくて、ただ壊されていくのを待つだけの恐怖。
もし、あの時ミハイルが現れなかったら?もし、あのまま痛めつけられ続けていたら?私は恐怖に負けて、誰かを売っていたかもしれない。
「……あ……あぁ……」
リィズの手から力が抜ける。目の前で泣き叫ぶハンナは、裏切り者じゃない。あれは、2年前の私だ。ミハイルという光に出会えず、暗闇の中で孤独に震えていた、無力な少女の姿そのものだ。
「……私も……知ってる」
リィズはハンナの首から手を離し、ズルズルとその場にへたり込んだ。
「……痛くて、苦しくて……自分が壊れていくのがわかるよ……」
リィズの目から涙が溢れる。ハンナを責める資格なんて、私にはない。私たちは同じだ。同じ傷跡、トラウマを持って、怯えながら生きているのだ。
「……怖かったね、ハンナちゃん……」
「……うぅ……ごめんなさい……ごめんなさい……ッ!」
リィズは震えるハンナを抱き寄せた。密告を許したわけではない。ただ、リィズはハンナの痛みが分かりすぎてしまった。二人の少女は冷たいコンクリートの上で、互いの古傷を舐め合うように、ただ泣きじゃくった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
張り裂けるような嗚咽が、やがて静かな啜り泣きへと変わっていく。2人の涙が風に溶け、やがて2人の小さな肩の震えだけが残る。
その重く冷え切った沈黙を、わざとらしいほどの深いため息と、ジッポライターが鳴る金属音が破った。
「おや。こいつは……またずいぶんと珍しい先客だな」
吹きつける風の音を縫って、ひどく場違いな、紫煙の匂いとのんびりとした男の声が降ってきた。ビクッと肩を震わせ、リィズとハンナが弾かれたように顔を上げる。
いつの間にか、すぐ横の給水塔の死角から、ルーカスがゆっくりと姿を現していた。両手には、ゆらゆらと白い湯気を立てる野戦用のマグカップが二つ握られている。
「こんな吹きっさらしの屋上で抱き合って号泣とは、相変わらず仲のよろしいこって」
「ル、ルーカス、さん……?」
ハンナが目を見開く。ハッとしたリィズは、とっさに立ち上がり、震えるハンナを背中に庇うように前に出た。
今の話を、ハンナがミハイルを密告したという話を、いったいどこまで聞かれたのか。
「……ルーカスさん。いつから、そこにいたの?」
警戒心を剥き出しにして睨みつけるリィズ。その様子を見て、ルーカスは呆れたようにふっと笑みをこぼした。
「おいおい、そんな物騒な目で睨むなよ。別にとって食ったりしねぇよ。……ほれ、差し入れのコーヒーだ。飲んで少しは落ち着け」
リィズからの鋭い視線を無視するような軽口とともに、ルーカスは二人の前にしゃがみ込み、温かいマグカップをそれぞれの手へ押し付けた。凍えきった指先に、じんわりとした熱が伝わってくる。
だが、暖まる両手とは対照的に、ハンナは青ざめた顔で固まっていた。
「……聞いて、いたんですか?……私が、ミハイルさんを……」
震える声で尋ねるハンナに、ルーカスはゆっくりと彼女の方へ向き直った。
「……まぁな」
「……」
その短い肯定を聞いた瞬間、ハンナの肩からストン、と力が抜け落ちた。彼女は力なく首を垂れ、ぎゅっと目を閉じる。罵倒されても仕方ない。殴られても文句は言えない。いっそ思い切り罰してほしいという深い罪悪感が、彼女の小さな背中を丸めさせていた。
だが、ルーカスは罪悪感に怯える少女を安心させるように、ひどく穏やかで優しい声で語りかける。
「親に売られたお前が、仲間を売らなきゃならなかったんだ。……吐きそうなほど嫌だったろ。怖かったろ。誰もお前を責めやしねぇよ」
ルーカスの無骨で大きな手が、項垂れるハンナの頭をガシガシと乱暴に、けれど温かく撫でた。
「……う、うぅ……あぁぁぁ……ッ!」
ハンナはマグカップを両手で強く握りしめたまま、ルーカスの前で子供のように泣き崩れた。
許されたくなんてなかった。罰してほしかった。けれど、その不器用な大人の優しさが、凍りついていた彼女の心をゆっくりと溶かしていく。
「……よかったね、ハンナちゃん」
ハンナの震える背中を見つめながら、リィズはぽつりと呟いた。ハンナが許されたことに安堵しているのは本当だろう。だが、彼女はふらふらとした足取りで立ち上がると、ハンナたちに背を向け、再びフェンスの向こうの雪原へと視線を向けた。
「……私も、もう怒らないよ。ハンナちゃんのこと、責めたりしない」
吹き付ける風に向かって、リィズは顔に張り付いたような曖昧な笑みを浮かべた。まるでミハイルから言われた、いい子を完璧に演じるかのように。
「それにミーシャも、私たちがずっとギクシャクしたままだったら、帰ってきた時に困っちゃうもんね」
それは、魂が抜け落ちた操り人形のような、ひどく空っぽな横顔だった。親友が救われても、彼女の心に空いた、ミハイルがいないという巨大な穴は埋まらない。そんなリィズの様子を見て、ルーカスは深く、心底呆れたようなため息をついた。
「無理して笑ってんじゃねぇよ。……見てて痛々しいぜ、リィズちゃん」
「……無理なんて、してないよ」
リィズは振り返り、焦点の定まらない瞳でルーカスに笑みを向けた。
「……ミーシャに言われたもん。「いい子にして待ってろ」って。……だから私、ちゃんといい子にしてるよ。そうすれば、ミーシャはきっと褒めてくれるから」
「……そうかよ」
ルーカスは舌打ちしたい気分だった。この期に及んで、彼女はまだ道具であろうとしている。思考を停止し、命令を守ることだけに縋っている。それが一番楽だからだ。
ルーカスは立ち上がり、リィズの横に並び立った。懐から新しいタバコを取り出して火をつける。ジリッ、と先端が赤く燃える音が、冷たい風の中で妙に大きく響いた。
「……だけどな、リィズ。ただいい子にして待ってるだけじゃ、ミハイルは絶対に戻ってこねぇぞ」
ルーカスは紫煙と共に、冷酷な現実を吐き出した。
「あいつは内務局の地下でたっぷりと絞られた後、間違いなく矯正施設に連れて行かれる。……お前も、あそこにぶち込まれた連中がどうなるか、言わなくても分かるだろ?」
矯正施設。その単語を聞いた瞬間、リィズの肩がビクッと大きく跳ねた。
彼女は知っている。自分が捕らえ、そこへ送った者たちがどうなったか。薬漬けにされ、自我を破壊された反逆者たちの末路を。嫌と言うほど凄惨な姿を見て、悲鳴を聞いてきた。
だが、リィズは何も答えなかった。ぎゅっと唇を噛み締め、フェンスの向こうの雪原に視線を固定したまま、突きつけられた都合の悪い事実から必死に目を逸らすように黙り込んでしまう。
(……違う。私は、悪くない。ミーシャが「撃て」って言ったから撃っただけ。あの人たちが施設に送られたのも、私のせいじゃない)
そのひどく頑なで、現実逃避にすがる横顔を見て、ルーカスは底冷えのするような冷ややかな瞳で彼女を見下ろした。
「……見たくないものは見ない、聞きたくないことは聞かない、か。……ずいぶんと都合の良い目と耳をしてるんだな、お前は」
「……え?」
「……待ってください、ルーカスさん……そんな言い方……っ!」
ルーカスの意図を察したハンナが、庇うように前に出ようとする。だが、ルーカスは振り返ることもなく片手を上げ、無言でそれを制した。その広く分厚い背中が、黙って見ていろと強い気迫を放っている。
「おいおい、何だよその顔は……お前、この一年でいったい何人の亡命者を捕まえてきた?何人殺してきた?」
「……それは……私は、ただ……ミーシャの命令を……」
リィズが絞り出すように言い訳をする。ルーカスはそれを遮りもせず、淡々と事実を積み重ねる。
「そうだな。確かに命令をしたのはミハイルだ。……けどな、リィズ。やったのは全部お前だ」
リィズは目を見開いた。そんなはずはない。私は道具だから、何も考えずに命令に従っただけだ。罪は全部ミーシャが背負ってくれているはずだ。
「……ちがう。……私は、そんなこと……っ」
ルーカスは追い詰めるような視線を向けたまま、氷のような声でダメ押しをする。
「いや、違わないだろ?一年前、あの雪原でガキの頭を撃ち抜いたのも、ライプツィヒでクーデター部隊を皆殺しにしたのも、バウツェンの地下牢に亡命者どもをぶち込んだのも。全部俺たちと一緒に、お前がやってきたことだろうが」
「私じゃない……っ。私が、やったんじゃない……!」
リィズは自分自身に言い聞かせるように、うわ言のように繰り返した。突きつけられた鋭利な現実から逃避するように、ふらふらと一歩、二歩と後ずさる。
大きな瞳からはボロボロと涙がこぼれ落ち、子供のようにしゃくり上げながら首を激しく横に振った。
「ミーシャが……ミーシャが撃てって言ったから撃っただけだもん……!私はただの道具だから……悪いのは全部、命令したミーシャで……っ」
聞きたくない。これ以上、私を責めないで。
両手で固く耳を塞ぎ、泣きじゃくりながら必死に被害者の殻の奥深くへと逃げ込もうとするリィズ。だが、ルーカスはその後ずさる足を止めるかのように、氷のように冷たく、ひどく静かな声でその最後の逃げ道を塞いだ。
「……そうやって、いつまで全部ミハイルのせいにするつもりだ?」
耳を塞ぐ指の隙間から、ルーカスの容赦のない言葉が突き刺さる。
「ミハイルがお前を道具にしたんじゃない。お前自身が、人殺しの罪悪感から逃げるために、あいつの優しさに甘えて、道具のふりをしてただけだろ」
「ぁ……、あぁ……っ」
「自分だけ綺麗な被害者面をして、自分の手を血で汚す責任を、全部あいつ一人に被せてたんだ。……目を覚ませ、リィズ。お前はミハイルの道具なんかじゃない。道具のふりをして甘えていただけの、俺たちと同じ、狂った人殺しだ」
その決定的な宣告に、リィズは弾かれたように顔を上げた。
「違う……ッ!違う、違うッ!」
両手で耳を塞いだまま、リィズは首を激しく振り、子供のようにわめき散らした。
ハンナはマグカップを握りしめたまま、かつての自分と同じように現実から目を逸らして壊れゆく親友の姿を、ただ悲痛な目で見つめることしかできない。
「私は……私は人殺しじゃないッ!私はただ、ミーシャに……ミーシャが……っ!」
必死に声を張り上げ、責任を転嫁しようとする。だが、喚き散らす彼女の内心には、とうにごまかしきれない冷たい絶望が広がっていた。
(……分かってる。分かってるよ……っ)
いくら言葉で否定しても、指先にこびりついた同胞の血の感触は消えない。撃鉄を落としたのは自分の意思だ。ミーシャの道具だからという言い訳が、もう自分自身にすら通用しないことを、彼女の心は痛いほど自覚していた。
もう絶対に、あの頃の無垢な自分には戻れない。後戻りなどできない。だからこそ、それを認めて完全に人殺しに堕ちるのが、恐ろしくてたまらなかった。
「いい加減にしろッ!!」
ルーカスの怒声が、屋上の冷気をびりびりと震わせた。
「ひっ……!」
ビクッと肩を跳ねさせたリィズの腕を、ルーカスの分厚い手が乱暴に掴んで引き剥がす。耳を塞いでいた両手が強制的に下ろされ、ルーカスの怒りに満ちた眼光と、逃げ場のない現実が視界に押し込まれた。
「現実を見ろ!お前の罪を全部被ってくれていた都合のいいご主人様は、もうどこにもいねぇんだよ!」
「あ……、ぁ……」
「お前がそうやって目を逸らして、自分の罪から逃げ回っている間に、ミハイルは殺されそうになってんだぞ!!」
ルーカスの怒号が、冷たい風と共に屋上に響き渡る。
「さんざんあいつの優しさに甘え腐って、守ってもらっておいて……あいつがいなくなった途端に、自分は悪くないって泣き喚いて見殺しにするつもりか!!」
見殺しにする。その残酷な事実が、リィズの脳髄をガンッと激しく殴りつけた。
わめき散らしていたリィズの呼吸が、ヒュッと止まる。
私がここで両耳を塞ぎ、無垢な被害者のままでいれば、自分は痛い思いをしなくて済む。でもその代わり、ミーシャは死ぬのだ。永遠に、私の世界からミーシャは失われるのだ。
(……嫌だ。そんなの、絶対に嫌だ)
激しい拒絶が、全身の血を沸騰させる。
私が道具のふりをしたのは、人殺しになるのが怖かったからだ。でもそれ以上に、ミーシャに捨てられず、ずっと隣にいるためだったはずだ。
それなのに、自分が傷つきたくないという我が身可愛さのせいで、たった一つの居場所である彼を見殺しにしてしまったら。彼がいない世界で、私だけが綺麗な被害者として生き残る意味なんて、どこにあるというのか。
泣き喚いていたリィズの心から、ミハイルの道具になるという執着が音を立てて崩れ落ちていった。代わりに泥濘のようにこみ上げてきたのは、すべてを彼に押し付けていた自分の醜さへの、どうしようもない自己嫌悪だった。
ぽつりと、リィズの口から掠れた声が漏れる。
「……私、ずるかった」
「……あ?」
「自分が傷つきたくないから……人殺しになるのが怖かったから。ミーシャの優しさに甘えて……ずっと、道具のふりをしてた。そうやって嘘をついていれば、ミーシャの隣にいられるから……」
それは、彼女が心の奥底に隠し続けていた、最も醜くて利己的な本音だった。
「……本当は、とっくに分かってた。私がもう、人殺しになってる事なんて……」
懺悔のように、リィズは自らの欺瞞を絞り出す。
脳裏に浮かぶのは、あの日の記憶。初めて引き金を引き、人殺しの罪悪感に押し潰されそうになっていた自分。そんな私を抱きしめ、心が壊れないように「俺の道具になれ」とすべての罪を背負ってくれた、ミーシャの気だるげな優しい声。
「でも、苦しくて……怖くて……。ミーシャに八つ当たりして、傷つけるような酷いことも、いっぱい言った。なのに……っ」
ギュッと、リィズは自分の胸を強く握りしめた。
リィズの目から、再び涙が溢れ出す。だがそれは、先ほどまでの自分を守るための被害者の涙ではなかった。
「こんなにズルくて、最低な私なのに……ミーシャは、ずっと側に居させてくれた……。優しく、してくれた……っ」
嗚咽が漏れる。ミーシャだけだ。私が狂った人殺しでも、卑怯な嘘つきでも、決して見捨てずに隣に居てくれるのは、この世界で彼だけだったのだ。
リィズは両手で乱暴に、ゴシゴシと涙を拭い去った。
再びルーカスを見上げた時、その瞳から怯えや迷いは完全に消え去っていた。赤く腫れた瞳の奥底には、ひどく純粋で、だからこそ底なしに恐ろしい、ドロドロとした情念の炎が灯っている。
「……やっぱり私、ミーシャの傍に居たい」
ヴェアヴォルフに配属されて間もない頃。格納庫でまだミハイルの書類を半分しか持つことしかできなかった自分。あの時誓ったはずだ、立派なヴェアヴォルフの衛士になると。彼の隣で戦うと。
「そのためなら……私、もう逃げない」
リィズは自らの両手を真っ直ぐに見つめた。同胞の命を奪い、幾人もの人間を地獄へ送り込んだ、洗っても落ちない血の匂いがする手。
「ミーシャを取り戻せるなら……ミーシャの隣に居られるなら、私、これから誰を殺したって構わない」
その声は、ひどく凪いでいた。倫理も、道徳も、良心も、彼女はたった今、自らの意思で完全に捨て去ったのだ。ミーシャという、たった一つの世界のために。
「邪魔する奴は……それが国でも、国家保安省でも。……私が全部、殺す」
宣言したその横顔は、かつての怯えた少女でも、盲目に従うだけの道具でもない。自らの意思で牙を剥き、ミーシャを奪い返すためならどんな地獄でも歩いてみせるという、確かな覚悟が宿っていた。
「……へっ。言ってくれるじゃねぇか」
ルーカスは掴んでいた腕を離し、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。
覚悟は決まった。だが、感情を爆発させただけでひっくり返せるほど、この国の闇は浅くない。相手は巨大な国家権力だ。ただの少尉であるリィズが単身で殴り込んだところで、返り討ちに遭うのは目に見えている。
「……でも、私……どうすれば、ミーシャを……」
リィズはもどかしさに拳を強く握り締め、ルーカスを真っ直ぐに見つめて問う。
「……簡単なことさ」
ルーカスはニヤリと笑い、吹きすさぶ雪原を指差した。
「ここがどこだか忘れたか?武装警察軍最強の戦術機大隊ヴェアヴォルフだぞ。……ここではな、お行儀の良さなんてクソの役にも立たねぇ。……モノを言うのは結果だけだ」
「……結果?」
「ああ。俺たち第8小隊が、ミハイル不在のままで、他のどの小隊よりもデカい戦果を挙げてみろ。……圧倒的な力を見せつけるんだ」
ルーカスの目に、鋭い光が宿る。
「そうすりゃあ、上層部も認めざるを得なくなる。こんな優秀な小隊を作り上げた小隊長を殺すのは惜しいってな。……俺たちの戦績が、そのままミハイルを救うための交渉材料になるんだよ」
リィズが息を呑む。泣いて待っていても、ミハイルは帰ってこない。でも、戦えば。敵を殺して、成果を積み上げれば。それがミハイルの命を買い戻す代金になる。
「……ルーカスさんの言う通りです」
震える声で、しかし確かな意志を持って、ハンナが一歩前に出た。
「国家保安省も、このBETA大戦において突出した戦果を挙げる部隊を、無闇に粛清することはできません。……私が上層部を黙らせる完璧な報告書を作成します。ミハイルさんを取り戻すための、交渉のテーブルにつくために」
ハンナの言葉に、ルーカスが満足げに口角を上げる。
「……待ってるだけのお姫様はもう終わりだ」
ルーカスは、リィズの華奢な肩を力強く叩いた。
「あいつを取り戻すために、俺たち第8小隊で、上層部が震え上がるくらいの戦果を叩き出してやろうぜ。……一緒にミハイルを連れ戻すぞ」
「……私たちが、ミーシャを……」
「ああ。あいつが命懸けで鍛え上げたお前のその牙で、俺たちの価値を証明してやるんだ」
彼女はそっと、軍服の胸ポケットに手を入れた。指先に触れたのは、一年前のあの日、彼が「意地でも生きて戻ってこい」と託してくれた、あのボロボロの手帳だ。
かつては地獄を生き延びるための、ただの命綱だった。けれど今は違う。これは、ミーシャが自分の首を差し出してまで守ろうとしてくれた、私の未来への切符なのだ。
ミーシャがくれた技術がある。ミーシャが教えてくれた戦い方がある。これを使えば、ミーシャを救える。
「……やる。この小隊の価値を証明して、あいつらの喉元に突きつけてやるの。「ミーシャを返せ」って」
その横顔に浮かんでいたのは、かつての怯えた少女でも、道具のふりをしてた人形でもない。彼のためなら、国家そのものを敵に回してでも平然と血の海を渡る、美しくも狂気的な人狼の顔だった。
「……ハッ、最高にいい顔になったじゃねぇか」
ルーカスはリィズの頭をガシガシと撫でた。
「あいつのポジションは、お前が引き継げ。背中の心配はすんな。ミハイルがいなくても、俺が全力でお前をカバーしてやる」
「……私も、戦います」
ギュッとマグカップを握りしめたまま、ハンナが顔を上げた。その目にはまだ涙が残っていたが、もう逃げ隠れする怯えはなかった。
「私がミハイルさんを売ったせいで、こうなったんです。……だから、リィズさんが国を敵に回して地獄を行くなら、私も共犯者になります」
規則に縛られ、保身に走っていた優等生の少女はもういない。彼女もまた、自らの罪を背負って戦う覚悟を決めたのだ。
「……うん。ありがとう。ルーカスさん、ハンナちゃん」
一陣の冷たい風が吹き抜け、リィズの髪を大きく揺らした。だが、彼女はもう震えてはいなかった。
リィズはミハイルがいつも見ていた雪原を一度だけ見つめ、そして踵を返した。その足取りは静かで、けれど迷いのない、力強いものだった。かつてのように、誰かの後ろをついていくのではない。自ら先頭に立ち、道を切り開く者の歩みだ。
「……戻るのか?まだ休憩時間だぜ」
「ううん。……シミュレーターに行く」
リィズは重い鉄扉のノブに手をかけ、振り返ることなく答えた。
「……準備しなきゃ。次の出撃までに、もっと強くならないと……ミーシャを取り戻せないから」
リィズが扉を押し開けようとした瞬間、横から小さな手が伸びてきて、その上に重なった。ハンナだった。
「……私も行きます。リィズさん一人では、効率的なデータ収集は不可能です」
いつもの冷静な、けれどどこか吹っ切れたような声。
「これからは変則的な3機編成になります。連携と戦術について、しっかりと確認しとくべきです」
その頼もしい姿を見て、リィズの口元に自然と笑みがこぼれた。
「ハンナの言う通りだな」
背後から、ルーカスがタバコを携帯灰皿に押し付けながら悠然と歩み寄ってくる。その顔には、悪巧みを企むような歴戦の衛士の笑みが浮かんでいた。
「よし、やるからにはとことんやるぞ。久々にヴォールクデータでもやってみるか?」
ヴォールクデータ。その単語に、ハンナがピクリと肩を反応させる。それは人類史上初、ハイヴへの突入に成功した戦術機部隊が持ち帰った最悪の戦闘記録だ。
「……パレオロゴス作戦で、ヴォールク連隊が持ち帰ったデータだよね?」
リィズは振り返り、真っ直ぐにルーカスを見据えた。かつての彼女なら、絶対にやりたくないと泣き言を言って逃げ出していただろう絶望的なシミュレーション。だが、今の彼女の瞳に恐れは微塵もない。
「ま、普通にやれば開始3分で全滅するクソみたいな難易度だがな」
ルーカスは口の端を吊り上げ、獰猛な笑みを浮かべた。
「……対BETA戦の訓練なら一級品だろうよ」
ルーカスの挑発的な言葉に、リィズとハンナも小さく頷き返す。
開け放たれた鉄扉を潜る直前、リィズはふと足を止め、一度だけ後ろを振り返った。
視線の先にあるのは、錆びたフェンス。吹きすさぶ風の中、ミハイルがいつも背中を丸めてタバコを吸っていたあの場所だ。もうそこに彼の姿はない。けれど、今の彼女の瞳に寂しさはなかった。
胸のポケットから、ボロボロの手帳を取り出した。両手で大事に包み込み、その小さな温もりを胸に抱き締めた。
(待っててね、ミーシャ)
彼女は開け放たれた鉄扉の向こう、薄暗い基地の廊下へと力強く足を踏み出した。
(今度は私が、救いだしてあげるから)
リィズ・ホーエンシュタインは今、初めて自分の意志で、大切な人を取り戻すために戦場へと走り出した。ミハイルの命令だからではない、自らの意思で引き金を引く、揺るぎない覚悟を胸に。