大好きだったお兄ちゃんとの再会よりも、サボり魔な同僚のお世話を優先してもいいですか? 作:Wig
1982年1月 オーデル・ナイセ川流域 西部戦線深部
猛吹雪が視界を白く染め上げる中、漆黒のMiG-23チボラシュカの部隊が、雪原に伏せていた。
ヴェアヴォルフ大隊第3中隊。彼らの眼前には、地平線を埋め尽くすBETAの波。その最後尾には、人類にとって最大の脅威である光線属種が陣取っている。友軍の航空支援も、砲撃も届かない。この目を潰さなければ、戦線は崩壊する。
『第3中隊各員、傾注』
吹雪のノイズ混じりの回線に、無機質で、背筋が凍るような甘い声が響いた。第3中隊隊長、エルケ・アオスト大尉だ。
『今日もあいにくの天気だね。……でも、獲物はたっぷりと用意されてるみたいだから、遠慮しなくて良いよ』
彼女の甘い声色が、ふっと低くなる。
『見せてほしいな、君たちの牙を。……ヴェアヴォルフの名に恥じない、狂おしいほどの殺戮をたっぷりと披露してね』
『『『了解!!!』』』
『ふふっ、良い返事だ。……中隊各機、陣形をダイヤモンド・ワンに移行。一匹残らず、やつらを平らげちゃおうか』
エルケの号令と共に、レーザーヤークトが敢行された。第3中隊が一斉に雪を蹴る。10機の黒い機体が、雪崩のように敵陣へ突っ込んでいき、先頭を行くエルケの機体が舞うようにBETAを殲滅していく。
『第8小隊、私に続け!……最短距離で突破する!』
その後を走るのは、第8小隊隊長代理、リィズ・ホーエンシュタイン少尉。彼女の機体は、他の誰よりも速く、鋭かった。BETAの前衛、突撃級の群れに対し、減速することなく突っ込んでいく。
『……邪魔!』
リィズの36mm機関砲が火を噴く。正確無比な射撃が、突撃級の脚部をピンポイントで撃ち抜く。巨体がバランスを崩して転倒した隙間を、彼女は針の穴を通すような機動ですり抜けた。
第8小隊の陣形は、リィズを鋭利な切っ先とし、左翼後方にルーカス、右翼後方にハンナを配置した攻撃的三角形を敷いていた。それは、シミュレーターで何度も訓練し会得した、必殺の陣形だった。
『よし……行くぞオラァッ!』
ルーカスのMiG-23が、左右の手に握った2門の36mm突撃砲を同時に咆哮させた。
強襲掃討。その名の通り、圧倒的な投射弾量で敵を掃除するポジションだ。
『戦車級は俺がやる!ハンナ、デカブツは任せたぞ!』
ルーカスはトリガーを引き絞ったまま、機体を横滑りさせる。左右からリィズを狙おうとする戦車級の群れに対し、暴風のような弾幕が襲いかかった。
2丁の突撃砲から吐き出される薬莢が、雪原に黄金の雨となって降り注ぐ。狙いは大雑把だが、その制圧力は絶大だ。
『了解です。……捉えました!』
右翼後方から、ハンナの120mm滑腔砲が火を噴く。ルーカスが弾幕で敵の足を止め、ハンナが正確な砲撃でトドメを刺す。そして、その二人が作った安全圏の中を、リィズが迷いなく最速で突き進む。
『――ぎゃあああっ!?だ、ダメだ、包囲された!突撃級が来るぞ!!』
突如通信回線に、先行していた国家人民軍の戦術機中隊の悲鳴が響き渡った。リィズ達と同じくレーザーヤークトを務めていた彼らの陣形が崩壊し、BETAの群れに飲み込まれようとしていたのだ。
『誰か、支援を!!このままじゃ食われ――ひぎぃぃっ!!』
肉と金属が潰れる不快なノイズが通信に混じる。
しかし、その凄惨な悲鳴を聞いても、第8小隊の動きに一切の淀みは生まれなかった。
『……リィズ。先行した連中から救援要請が入ってるが、どうする?』
ルーカスが、事務的な報告と変わらない冷徹なトーンでリィズに問いかける。
(……ここで足を止めて救援に向かえば、陣形が乱れて突破の勢いが死ぬ。最悪の場合、作戦が失敗するかもしれない)
リィズの脳内で、氷のような計算が弾き出される。
私は、ミーシャを救い出すために、是が非でもこの作戦を完璧に成功させなければならない。彼の命を救うためのチップを稼ぐ。ただ、それだけだ。
(ミーシャを取り戻すことに比べたら……あいつらの命なんて、何の価値もない)
『無視して。そのまま前進』
リィズの答えには、迷いも同情も一切無かった。
『連中にBETAが群がっている間に、最短距離で光線級を叩く』
『了解だ!……邪魔なゴミは俺が吹き飛ばす!』
ルーカスは即座に了承し、左右の手に握った2門の36mm突撃砲を同時に咆哮させた。友軍を助けるためではない。リィズの進路を確保するためだけの、暴風のような制圧射撃だ。
『目標までの最短ルート、データリンクします。……突入ルート、確保しました』
ハンナもまた、友軍の死に気を留めることなく冷静にナビゲーションを実行し、120mm滑腔砲でルート上の大型種をピンポイントで排除していく。
味方の命よりも任務の遂行。それこそが、国家保安省直属であるヴェアヴォルフの絶対的な掟だ。
ルーカスとハンナが作り出した完璧な血の回廊の中を、リィズはただ最速で突き進む。
『……見えた。光線級』
BETA挺団最深部。そこには、巨大な目玉を持つ光線級の群れが無防備な姿を晒していた。その報告を受けた瞬間、中隊通信にエルケの歓喜に満ちた声が響き渡る。
『光線級を捕捉したね。――みんな、やるよ』
『『『了解!!!』』』
エルケの号令と同時、第3中隊の全火力が一斉に牙を剥いた。その先陣を切ったのは、他でもないリィズの機体だった。その機動は、まるで無駄の無い殺戮だった。それは残酷なまでに、BETAの急所を確実に貫いていた。
レーザーの照準が合うよりも早く、懐に飛び込み、近接戦闘短刀で眼球を抉り、そのまま36mmを浴びせる。次から次へと飛び、ただひたすらにその行程を繰り返していた。その撃墜数は、第3中隊の中でも群を抜いていた。
数分後。脅威だった光線級の反応が、完全に沈黙した。エルケが優雅に通信を開く。
『……おまたせ、ブルーノ。動ける機体はもう全機撤退したから、後はよろしくね』
『ガハハハハッ!待ってたぜェッ!!』
地響きと共に、後方の丘陵から無数の砲弾が降り注いだ。第2中隊長、ブルーノ・ガンダ大尉率いる砲撃部隊だ。光線級という脅威が去った今、彼らは遠慮する必要はない。
『第2中隊、武器使用自由。斉射開始!!……残ったBETAどもを消し飛ばせェェッ!!』
120mm滑腔砲と支援ロケットの雨あられ。BETAの群れが、爆炎の中に消えていく。それは一方的な蹂躙であり、圧倒的な暴力だった。その爆風の中、リィズはただ静かに、返り血を浴びた機体で佇んでいた。
後方からの苛烈な砲撃が、BETAの死骸と共に、彼女が見捨てた友軍の残骸をも塵一つ残さず消し飛ばしていく。
だが、リィズの心に罪悪感や呵責は微塵も湧かなかった。友軍の命など、本当にどうでもよかった。
それよりも今の彼女の胸を満たしていたのは、自らの内に確かに芽生えた力への確信だった。
(……私、上手くなってる。ミーシャが教えてくれた戦術機動が、頭で考えるより先に、完璧に体現できる……)
かつての自分は、ただミーシャの道具として、何も考えずに彼の命令を実行する存在だった。だが今は違う。自分で考えて行動し、誰よりも速く、的確にBETAを解体できた。
その圧倒的な戦果という事実が、ミハイルの命を買い戻すための最強のチップとなる。彼を取り戻す日へ。また一歩、確実に近づいたのだ。血と硝煙に塗れた管制ユニットの中で。リィズは氷のように冷たく、そして狂おしいほど甘い微笑みを浮かべていた。
戦術機格納庫の喧騒から離れた、大隊本部の最上階。重厚な木材の扉に守られた指揮官執務室には、高級な葉巻と代用ではない本物の紅茶の香りが漂っていた。
「……第3中隊、第8小隊の戦闘データ。改めて見せてもらったわ」
沈黙を破ったのはヴェアヴォルフ大隊指揮官、漆黒の軍服を纏ったベアトリクス・ブレーメ少佐だった。彼女は昇進したばかりの階級章を指先でなぞりながら、机上のモニターを三方向へ向けた。
「レーザーヤークトの完遂。光線級撃破数、小隊単位で過去最高値を更新。……素晴らしいわね」
「ガハハッ!まったくだ。あのお転婆娘、飼い主が留守なのをいいことに、戦場を自分の遊び場にしやがった」
ソファに深く腰掛け、不敵な笑みを浮かべているのは第2中隊隊長、ブルーノ・ガンダ大尉だ。彼は太い葉巻を口に咥えたまま豪快に笑う。彼が肺いっぱいに溜めた煙を吐き出すと、赤々と燃える葉巻の先端が、暗い室内で野獣の目のように光った。ブルーノは鋭い目でベアトリクスを見据えた。
「そういえば、ベアトリクス。あのクソ忌々しいベルリン派の連中……特にアクスマンは、ホフマンを処刑台に送る準備を着々と進めてるぞ」
その言葉に、部屋の隅で優雅に窓の外を眺めていた赤髪の女性、第3中隊隊長エルケ・アオスト大尉が、くすりと艶やかな笑い声を漏らした。彼女は細い指に挟んだタバコを唇に運び、深く肺に吸い込む。吐き出された紫煙が、窓から差し込む冬の月光に透けて、不気味な模様を描いた。
「……ブルーノ。アクスマンが狙っているのはミハイル個人じゃないと思うな」
エルケは窓枠の灰皿にトントンと灰を落とし、煙の向こう側から毒を含んだ瞳をベアトリクスに向けた。
「あの子を反逆者として処刑することで、モスクワ派の主力である私たちヴェアヴォルフの管理責任を追求して、その利権を奪いたいんだよ」
エルケはそこで言葉を区切り、机上のモニターに映るミハイルとリィズのデータを、赤い爪先でそっと撫でた。愛おしい玩具を愛でるような優雅な仕草と、背筋が凍るほど甘美な微笑み。だが、画面をなぞるその指先は、ガラスが軋み音を立てるほど強く押し付けられていた。
「今やミハイルは、政争の道具。……このまま放っておけば、一週間後にはアクスマンに心不全として処理されるんじゃないかな?……きっとリィズなんて完全に壊れちゃうと思うよ。優秀なのに勿体ないね」
カツン、と。静寂に包まれた執務室に、薄い磁器のティーカップがソーサーに置かれる硬質な音が響いた。途端に、室内の空気が物理的な重さを持って凍りつく。
「……私の所有物を、勝手に壊されるのは不愉快ね」
ベアトリクスが冷酷な口調で断じた。彼女はティーカップの縁をなぞるように持ち上げ、音もなく一口、熱い紅茶を口に含んだ。その所作には、一切の乱れも、迷いもない。その場にいた二人の大尉の背筋に、わずかな寒気が走る。彼女はモニターに映るリィズの驚異的な戦闘データに、酷薄な、しかし満足げな視線を落とした。
「ホフマンが自らの首を懸け、適性データを改竄してまで拾い上げただけのことはあるわ。……リィズ・ホーエンシュタイン。あの小娘は今や、ヴェアヴォルフにとって極めて有用な兵器に育った」
ベアトリクスの指先が、机上の処刑命令書を冷たく弾く。
「もし彼女が、あのままホフマンの命令を待つだけのただの道具であったなら、彼もろとも切り捨てていたところよ。……けれど、あの娘は変わった。ホフマンを取り戻すという己の執念で覚悟を決め、自ら躊躇いなく引き金を引く本物の狼へと昇華したわ」
ベアトリクスの口元に、妖艶な笑みが浮かぶ。
「ホフマンとホーエンシュタイン。彼らは互いにさらなる狂気を引き出すための楔よ。彼を失うことは、ホーエンシュタインを失うことと同じ。……そんな損失、私は認めないわ」
「……じゃあ、やるのか?ベアトリクス」
ブルーノが待ちきれないとばかりに、身を乗り出す。
「ええ。彼を買い戻すには、今の戦果だけじゃ足りない。……連中に「これ以上ホフマンに手を出すなら、こちらも相応の報いを与える」という、具体的な圧力をかける必要がある」
ベアトリクスは無言で、書類の束を二人に放り投げた。そこには、ベルリン派の将校たちが裏で行っている汚職、および西側との密約の証拠、あるいは、そう仕立て上げた書類が並んでいた。
「彼の罪、公文書偽造を相殺するには、それ以上のスキャンダルを連中にぶつけるしかない。……エルケ。ベルリン派の耳となっている部隊の居場所は、既に掴んでいるわね?」
「うん、もちろん。市郊外の廃棄工場を、あのアクスマンの飼い犬たちが連絡拠点に使っているよ。決定的な証拠は全部、そこに集められてるみたい」
「よし。なら俺の第2中隊ですぐに突入してやる!」
「それはダメよ、ブルーノ。……こちらが表だって動けば、それこそ内戦の口実を与えることになる」
ベアトリクスが冷たく制止し、モニターに映る第8小隊の姿を見つめた。
「動かすのは、第8小隊を主軸とした2個小隊までよ。中隊規模は動かせないわ。……ホーエンシュタインを筆頭とした、突入部隊を編成する。エルケ……彼女には、こう伝えなさい」
ベアトリクスは、リィズの瞳に宿る、歪んだ恋心と依存を知り尽くした笑みを浮かべた。
「「指定された拠点のゴミを掃除しなさい。その死体の数が、ミハイル・ホフマンの釈放を早めるチップになる」とね」
「……ふふっ、ミハイルを餌に使うなんて、相変わらず趣味が悪いね。君はあの子を完全な殺戮者に仕立て上げる気なのかな?」
エルケの言葉に、ベアトリクスはティーカップを置き、その氷のように冷たい瞳に底知れない野心を宿して答えた。
「殺戮者ではないわ。私の理想を体現する、本物の人狼よ。……アクスマンたちベルリン派のように、恐怖や薬物で縛り付けただけの忠誠など、極限の戦場では容易く綻ぶわ」
ベアトリクスは、モニターの中で返り血を浴びて佇むリィズの姿を冷酷に見据える。
「……けど、ホーエンシュタインは違うでしょ?」
「……なるほどね。本当に合理的で、残酷な指揮官殿だ」
エルケはくすりと笑い、煙草の煙を細く吐き出すと、ブルーノとベアトリクスを交互に見つめた。
「じゃあさ、私から一つ提案があるんだけど」
窓枠に寄りかかっていたエルケがゆっくりと歩み寄り、ベアトリクスの執務机に両手をついた。満足げな微笑みを浮かべ、妖艶な声色で囁く。
「以前から上がっていた、ベルリン派の戦力を削ぐ作戦。……あれ、スケジュールを前倒しにしない?」
その言葉に、ベアトリクスは紅茶を飲む手をピタリと止め、氷のように冷徹な視線をエルケへと向けた。彼女の私情などとうに見透かしていると言わんばかりの、静かな声が響く。
「……ホフマンを救出するために?」
図星を突かれても、エルケは微塵も悪びれる様子を見せない。ふわりと赤い髪を揺らして肩をすくめると、悪戯を見つけられた少女のようにくすりと笑った。
「うん。ミハイルは優秀だけど、アクスマンの尋問は趣味が悪すぎる。完全に壊れちゃう前に引き上げないとね」
エルケは机から身を離し、再びタバコを唇に運ぶ。細く紫煙を吐き出しながら、今度は作戦を指揮する将校としての底冷えするような顔を覗かせた。
「それに、連中がミハイルをダシにして私達を揺さぶろうと油断している今なら、ベルリン派の鼻っ柱を折るには絶好のタイミングでしょ?」
そんな2人のやりとりを見ていたブルーノは、呆れたように深く息を吐き出し、ドカッとソファの背もたれに体重を預けた。
「連絡拠点を潰した直後に、また別の拠点に攻撃を仕掛けるのか?連中の警戒が高まってるところに、わざわざ仕掛けなくたって良いだろ?」
分厚い指に挟まれた葉巻が揺れ、紫煙が室内に散る。戦術的な観点からの至極真っ当な疑問だった。だが、エルケは即座に振り返り、普段の余裕をわずかに欠いた、切実な声で反論した。
「でもさ、そんな悠長にしてて、ミハイルが壊れちゃったら意味無いでしょ?」
彼女は苛立たしげに細い指でタバコの灰を落とすと、自らが裏で引いていた糸の種明かしを始める。
「ハンナが私に報告してくる前から、もうアクスマンの飼い犬たちは動いてたんだよ。あいつらの私的な拷問部屋に引きずり込まれる前に、私が先手を打って内務省へ放り込んだから、今はまだ時間稼ぎできてるけど……」
言葉を区切り、エルケは窓の外、冷たい闇に沈むベルリンの街並みへと視線を向けた。
「……それも、いつまでもつかはわからない。あそこにも、アクスマンの息がかかった連中は多いからね」
そして再びベアトリクスへと向き直ると、まるで古くからの友人にすがるような、ひどく切実な瞳で彼女を見つめた。
「だからさ、ベアトリクス。ミハイルの居場所がわかり次第、すぐに出撃しようよ。そこに、やつらの戦力も集中してるだろうからさ」
ベアトリクスはしばらく沈黙し、盤上の駒を動かすように冷徹な計算を巡らせた後、ふっと目元を和らげて静かに頷いた。
「……いいでしょう。作戦の前倒しを許可するわ」
その言葉を聞いた瞬間、エルケの顔から切実な色が抜け落ち、いつもの悪戯っぽく妖艶な笑みが戻ってくる。
「ありがとう。……あ、ちなみにもう第8小隊は出撃態勢に入ってるんだけど、このまま向かわせちゃっても良いかな?」
抜け目のない事後報告に、ベアトリクスは咎めるでもなく「……まったく、そんなことだと思ったわ」と、呆れたような、けれどどこか可笑しそうな吐息を漏らした。
彼女は静かに席を立ち、窓ガラス越しに広がる灰色のベルリンを見下ろす。そして、再び大隊指揮官としての絶対的な威圧感を纏い、決定事項を口にした。
「日付が変わり次第、やつらの連絡拠点を襲撃する。周辺の通信を、第2小隊に遮断させるわ。……エルケ、貴女は第8小隊を作戦区域まで送り届け、証拠を全て回収すること」
「わかった。とっておきの切り札を、すぐに用意してくるね」
エルケはふわりと艶やかな髪を揺らして踵を返した。足早に執務室を後にするその背中には、隠しきれない焦燥が滲んでいた。パタン、と重厚な扉が閉まり、部屋には再び静寂と葉巻の煙だけが残る。ブルーノは閉まった扉をチラリと一瞥し、口に咥えていた葉巻を指に挟み直すと、ベアトリクスへ向けて訝しげに低い声を落とした。
「……いいのか、ベアトリクス。エルケのやつ、……このままだと、何が何でもホフマンの救出を最優先に動くぞ」
最悪の場合、拠点制圧や証拠の回収よりも一個人の命を優先しかねない。軍の作戦行動としては致命的な私情だ。だが、ベアトリクスは窓の外の冷たい景色を見つめたまま、微塵も動揺することなく静かに答えた。
「ええ、いいのよ。……これ以上、エルケから大切なものを奪ったら、今度こそ壊れてしまうから」
かつて過酷な地獄を生き抜き、多くのものを失ってきた彼女の狂気を、ベアトリクスは誰よりも理解していた。ブルーノは小さく鼻を鳴らし、それ以上何も言わずに葉巻を深く吹かした。
氷のように冷徹な計算と、その底に沈む部下たちの傷への歪な理解。三人の化け物たちの思惑を乗せたまま、凍てつくベルリンの夜は更けていった。
同日 深夜 ベルリン郊外 廃棄工場地帯
雪が音もなく降り積もる、廃墟と化した工場群。
その一角、かつては重機が唸りを上げていたであろう巨大な建屋の影に、三つの人影が溶け込んでいた。
リィズ、ルーカス、ハンナ。第8小隊の面々だ。彼らは戦術機を降り、生身での潜入任務に就いていた。装備はサイレンサー付きの短機関銃と、ナイフのみ。
「……目標、施設内中央の管理棟。熱源反応多数。……ベルリン派の幹部たちが集う、集会の真っ最中みたいですね」
ハンナが携帯端末のモニターを見ながら、小声で報告する。彼女の吐く息が白く凍りつく。
「へっ。こんな夜更けに男だけで密会とは、趣味が悪いこって」
ルーカスが短機関銃のボルトを静かに引く。二人の背後で、リィズは無言のまま、雪に埋もれた工場の入り口を見つめていた。その瞳は、闇夜に光る狼のように鋭く、そして冷たかった。
(……あの中に、ミーシャを殺そうとしてる奴らがいる)
彼女の脳裏には、エルケの言葉が焼き付いていた。
『その死体の数が、ミハイル・ホフマンの釈放を早めるチップになる』
(……チップ。……そう、あいつらはただのチップだ)
リィズは短機関銃を構え直した。グリップの冷たい感触が、かつてミハイルに無理やり握らされた拳銃の記憶を呼び起こす。だが、今の彼女の手に震えはない。
「……行くよ。ルーカスさん、ハンナちゃん」
リィズの声は、雪よりも冷たかった。
「……掃除の時間だ」
彼女が足音を忍ばせて走り出す。ルーカスとハンナが、無言でその後に続いた。
工場内部は、錆びた鉄骨と油の臭いが充満していた。非常用電源の赤いランプだけが、薄暗い通路を照らし出している。
リィズは先頭に立ち、迷いのない足取りで進んでいく。彼女の感覚は研ぎ澄まされていた。
錆びた鉄を踏む微かな音。遠くで響く話し声。それらを聴覚が捉え、脳内で敵の位置を正確にマッピングしていく。
(……角の向こう、見張り2名。……距離5メートル)
リィズはハンドサインを出すと同時に、コーナーから飛び出した。
「……っ!?」
見張りの兵士が反応するよりも早く、リィズの短機関銃が火を噴いた。サイレンサーによって抑制された乾いた発砲音が二度響き、二人の兵士が眉間を撃ち抜かれて崩れ落ちる。
「……クリア」
リィズは倒れた兵士を一瞥もせず、その体を乗り越えて進んでいく。その動きには、一切の躊躇いも、憐憫もなかった。かつて雪原で泣き叫んでいた少女の面影は、どこにもない。
「……おいおい。マジかよ……」
後続のルーカスが、呆れたように呟く。リィズの動きは、洗練された特殊部隊員のそれだった。ミハイルが教え込んだCQB、近接戦闘の技術を、彼女は完璧に自分のものにしていた。いや、それ以上だ。彼女の動きには、ミハイルにはない純粋な殺意が乗っていた。
「……ふぅ。第7区画制圧完了、これより敵司令部を制圧する」
リィズの無機質な業務連絡が、ルーカスとハンナの耳に届く。この間まで脱け殻のようだったリィズからは想像もつかない冷徹さに、驚きと不安が隠せない。
「……リィズさん。大丈夫ですか?その……あまり無理しないで下さい」
「ありがとう、ハンナちゃん。私は大丈夫だから、早く制圧しちゃおう」
リィズはそう言いながら、ハンナに微笑みかける。その瞳には仲間へ向ける友愛と、ミーシャを取り戻すという覚悟が共存していた。
(……健気すぎて泣けてくるぜ、全く)
その様子を見ていたルーカスは苦笑し、彼女の背中を追った。管理棟の最上階。そこにある広い会議室に、ベルリン派の将校たちが集まっていた。
中央のテーブルには、ミハイル・ホフマンの処刑命令書と、その後のヴェアヴォルフ大隊の解体計画書が広げられている。
「……ククッ。これでヴェアヴォルフも終わりだな。自分の飼っている子犬が処刑されれば、アオストの女狐も発狂するんじゃないか?随分と可愛がってたそうじゃないか」
「全くだ。あの生意気なガキには、たっぷりと尋問の苦しみを味わわせてから……」
突然の爆音が、彼らの会話を遮った。鋼鉄の扉が内側から爆破され、煙と共に三つの影が躍り込んだ。
「なっ……!?貴様ら、何者だ!」
将校の一人が叫び、腰のホルスターに手を伸ばす。だが、遅すぎた。
「……教えるわけ無いでしょ。でも、可哀想だから一つだけ教えてあげる」
煙の中から現れたリィズが、氷のような声で告げた。
「……お前たちはもう終わり。全員、ここで殺す」
次の瞬間、会議室は地獄と化した。リィズの短機関銃が、正確に将校たちの急所を捉えていく。ルーカスが机を盾にしながら制圧射撃を行い、ハンナが部屋の隅に隠れようとした通信兵を狙撃する。
圧倒的な奇襲。そして、実戦経験の差。ベルリン派の将校たちは、ろくな抵抗もできずに次々と床に伏していった。
最後に残ったのは、この場の指揮官である恰幅の良い中年の将校。彼は机の下に隠れ、震える手で拳銃を構えていた。
「ひっ……!く、来るな!私は中央委員会の……!」
リィズは無言で歩み寄り、将校が構えていた拳銃を、機敏な動作で蹴り飛ばした。硬い軍靴が将校の指を砕き、鈍い音が響く。
「ぎゃあああッ!?」
悲鳴を上げる将校の胸ぐらを、リィズは片手で乱暴に掴み上げ、壁へと叩きつけた。背負った短機関銃の銃口が、将校の喉元に深く食い込む。
「……一つだけ、聞きたいことがある」
リィズの瞳には、怒りも憎しみもなかった。ただ、深い霧のような、底知れない静寂がある。
「……ミーシャは、どこ?」
「な……な、何を……」
「ミハイル・ホフマン中尉。……彼が今、どこに監禁されているか知ってるでしょ。書類にサインしたのはお前なんだから」
リィズの手が、将校の喉をさらに強く圧迫する。将校の顔が、酸欠で赤黒く充満していく。
「い、言えば……助けてくれるか……?命の保証を……」
将校が喘ぎながら、卑屈な笑みを浮かべて交渉を持ち出そうとした。その瞬間、リィズの瞳に一筋の、鋭い殺気が走った。
「お前の命に、価値なんてない。……私が知りたいのは、ミーシャの居場所だけ。……言わないなら、指を一本ずつ落としていくけど。……どうする?」
「ひ、ひぃぃっ!や、やめろ!分かった、言う!ベルリン北部の……シュトラウスベルクにある、特別第4収容所だ!そこに送る手筈になっている!」
「……」
リィズは無言のまま、将校の喉元に深く押し付けていた短機関銃を背負い直した。そして、代わりに太もものケースからコンバットナイフを流れるような動作で引き抜く。
(……シュトラウスベルク?あそこには国家人民軍の基地があった筈。こいつらベルリン派が、そんなところにミーシャを連れていくわけがない)
嘘を吐かれた、あるいは情報を出し惜しみしたと判断した彼女は、一切の躊躇いもなく将校を床へ組み伏せ、指へと刃を振り下ろした。
関節を的確に断ち切る鈍い音と共に将校の右手の小指が宙を舞い、血だまりの中に落ちた。将校の絶叫が部屋に響き渡る。
「あ、あぁぁぁ……っ!指が、私の指がぁぁぁっ!!」
「軍の施設にミーシャがいるわけないでしょ。……もう一度聞く、ミーシャは何処にいるの?」
床でのたうち回る将校の絶叫を、氷のように冷たいリィズの声が塗り潰す。彼女は血だまりで身悶えする将校の胸を軍靴で無造作に踏みつけ、逃げられないように押さえ込んだ。激痛と恐怖で鼻水と涙を撒き散らし、醜く顔を歪めて命乞いをする将校。その無様な姿を見下ろすリィズの瞳には、微塵の憐憫もない。
ただ路傍のゴミを処理するような無関心さで、血の滴るナイフの刃先を将校の震える薬指の関節へと這わせ、無慈悲に振り上げた。
「ま、待て!本当だ!!あそこは表向きは軍の施設だが、我々ベルリン派の息がかかっているんだ!!国家保安省の管轄外だからこそ、モスクワ派の目を欺くための隠れ蓑として使っているんだ!!」
血と涎を垂らしながら絶叫する将校の言葉に、リィズの瞳がわずかに見開かれる。
(……なるほど。軍の管轄下にある施設なら、私たちがミーシャの行方を掴めなかったのも納得できる)
リィズは振り上げていたナイフを下ろし、将校を押さえつけていた足をふっと退けた。
死の恐怖と尋問から一時的に解放された将校は、床に這いつくばったまま激しくむせ返った。彼は血が噴き出す小指の断面を震える手で痛々しく押さえ、全身にべっとりと冷や汗を滲ませながら、ゆっくりと顔を上げる。激痛に喘ぐその顔には、ひきつるような歪んだ笑みが浮かんでいた。命乞いの哀れさの中に、自分を痛めつけた少女を絶望の底へ突き落としてやろうとする、醜悪な色が混じる。
「……だが、無駄だ。今頃、ホフマン中尉は正気を失い、壊されているだろうよ」
「……どういう、こと?」
床に這いつくばる将校を冷たく見下ろすリィズの瞳から、一気に温度が消えた。だが、無意識のうちにナイフの柄を握る手にギリッと力が込められる。
「あのアクスマン中佐が、直々に尋問を行っているのさ……。あの方は壊すのがお上手だからな。肉体だけじゃない、精神まで徹底的にな……」
将校は喉を鳴らして笑った。リィズが動揺する様を見たいという愉悦が、指の激痛をわずかに上回る。
「今頃、貴様の愛しい中尉殿は、自分の名前すら思い出せない廃人になっているかもしれんぞ?あのアクスマン中佐の尋問に耐えられた人間など、今まで一人もいなかったのだから……ッ!」
「…………」
リィズは無言だった。だが、彼女を背後からカバーしていたルーカスとハンナは、その背中から立ち上る異質な気配に息を呑んだ。
ハインツ・アクスマン中佐。1度資料で見たことがある、ミハイルと代わるまで私の尋問をしていたやつらの上官で、西側へ亡命しようとした私達を捕らえた男だ。
(……あの、男……)
その名前を聞いた瞬間、リィズの背中を悪寒が駆け抜け、剥がされた爪の跡が幻痛を訴えた。ミハイルが来る前、私を絶望の淵に追いやった張本人。ベルリン派の中心的人物。そいつが直々に彼を壊しにかかっている。
リィズの視界が、真っ赤に染まった。かつてミハイルが私を救ってくれたように、今度は私が彼を救う。そう決めたばかりなのに、その魂を奪おうとする者がいる。
「……そう。教えてくれて、ありがとう」
ありったけの侮蔑をのせたリィズの声色は、もはや人間のそれではなく、獲物の喉元を食いちぎろうとする獣の唸りに近かった。
「……虫けらが。私のミーシャに気安く触らないで」
「え……?」
将校がその言葉の意味を理解するよりも早く、リィズは短機関銃の銃口を彼の口内へと突っ込んだ。
「死ね」
プシュッ。乾いた音が響き、将校の体がビクリと跳ねて動かなくなった。会議室に、静寂が戻る。リィズはゆっくりと銃を下ろし、血の海に沈んだ命令書、ミハイルの名前が書かれた紙を拾い上げた。
「終わったよ、ミーシャ」
彼女は血で汚れたその紙を、愛おしそうに胸に抱いた。
「……これで少しは、帰ってくるのが早くなるかな」
その表情は、任務を達成した兵士の顔ではなかった。ただ、愛する人を待つ、一人の少女の顔だった。しかし、その周囲には累々たる死体の山が築かれている。
「……さぁ。帰ろう、ルーカスさん、ハンナちゃん」
リィズは振り返り、二人に微笑んだ。返り血を浴びたその笑顔は、美しく、そして何よりも残酷だった。