大好きだったお兄ちゃんとの再会よりも、サボり魔な同僚のお世話を優先してもいいですか? 作:Wig
1982年1月 ベルリン郊外 廃棄工場・制圧後
ベルリン派の幹部たちを血祭りに上げた廃棄工場の会議室。硝煙と、むせ返るような鉄錆の臭いが充満するその部屋の片隅で、リィズ・ホーエンシュタインは一人、無言でコンバットナイフの血糊を布で拭い落としていた。
ルーカスとハンナは既に引き上げており、ベアトリクスの指示のもと、第1中隊が施設内の残存データの回収と死体の処理に追われている。リィズはただその様子を冷めた目で見ていた。その横顔には、かつて雪原で同胞を撃った時の怯えも、罪悪感も微塵もない。
「――本当に、見違えたね」
不意に、血の臭いを上書きするように、ひどく甘く妖艶な香水の匂いが漂ってきた。リィズは振り返り、無駄の無い動作で敬礼をする。
「……アオスト大尉」
「お疲れ様、リィズ。……見事な手際だったよ。ミハイルが鍛え上げた近接格闘術を、まさかこんな完璧な暗殺任務で披露してくれるなんてね」
コツ、コツと軍靴の音を響かせ、エルケ・アオスト大尉が歩み寄ってくる。彼女は床に転がるベルリン派幹部の死体をゴミでも見るように一瞥すると、優雅な手つきでタバコに火をつけ、リィズの隣のデスクに腰掛けた。
「でも、少し驚いたな。……君がこんなにあっさりと、自分から進んで同胞を殺せるようになるなんて」
エルケの言葉には、あからさまな棘と、好奇心が混じっていた。彼女は紫煙を細く吐き出しながら、リィズの瞳の奥を覗き込む。
「これまでは、ミハイルが「撃て」って命令したから撃ってたんだよね?自分はただの道具だから、罪はない。……そうやって、あの子に全部の責任を押し付けて、安全な場所で目隠しをしてきた」
エルケの声は、どこまでも優しく、そして残酷だ。
「でも、今日は違う。君は今、誰の命令でもなく、自分の意志で引き金を引いた。……それってつまり、君自身が人殺しになったっていうことだよ?」
その言葉は、かつてリィズが最も恐れていた事実だった。人間であることを手放し、ただの殺人鬼に堕ちることへの恐怖。だからこそ、ミハイルは彼女を道具と呼ぶことで守ろうとしたのだ。だが、リィズの反応は、エルケの予想、あるいは期待を超えていた。
「……それが、どうしたんですか?」
リィズは感情の一切こもっていない、氷のように冷たい声で返した。エルケの言葉に動揺するどころか、瞬き一つせず、真っ直ぐに上官の暗い瞳を見つめ返す。
「ミーシャを取り戻すためなら、私が人殺しになるくらい、安いものです」
「へぇ……どうして?」
「ミーシャは私のために、自分が地獄に落ちる覚悟で罪を被ってくれました。……だったら、私がミーシャのために地獄に落ちるのも、当然のことです」
リィズは自らの血に濡れた両手を見つめ、静かに、けれど確かな熱を込めて手を握りしめた。
「もう、道具のフリをして彼に守られるのはやめました。……私は私の意志で、ミーシャを傷つける奴らを全員殺します」
彼女はもう自分に嘘をつくのは嫌だった。この自分の心に芽生えた思いには嘘をつかない、見ないふりをしないと決めた。
「……たとえ誰が相手であろうと。私はミーシャを守るためなら、どんな敵とだって戦ってみせます」
それは、国家への忠誠を絶対とする国家保安省の衛士としては、あまりにも歪な発言だった。国家のためでも、規律のためでもない。ただ一人の少年のためだけに、己の意志で世界に牙を剥くという、純粋すぎる覚悟の宣言。
「……」
エルケは少しの間、無言でリィズを見つめていた。
やがて、彼女の艶やかな唇が、三日月のようにつり上がっていく。タバコを持つ細い指が微かに震え、彼女の喉の奥から、こらえきれないような、低く歓喜に満ちた笑い声が漏れ出した。
「ふ、ふふっ……あははははっ!」
エルケは本気でおかしそうに肩を揺らして笑った。
その笑い声は、凄惨な死体が転がる部屋にはあまりにも不釣り合いで、狂気じみていた。
「ふふっ……なるほどね、ようやく分かったよ。要するに……」
エルケはデスクから身を乗り出し、リィズの顔を至近距離から覗き込んだ。
「君は、ミハイルのことが大好きで大好きで仕方ないんだ」
「えっ……?」
リィズの思考が、一瞬完全に停止した。氷のように冷たかった表情が、パリンッと音を立てて崩れ落ちる。
「彼のためなら地獄に落ちるし、彼を傷つける奴は全員殺す。……いやぁ、健気で情熱的で、すっごく重たい愛だね!ミハイルが聞いたら、きっと大喜びすると思うよ?」
「なっ、ちが……っ!そういうのじゃなくて!!」
顔面を沸騰したかのように真っ赤に染め上げ、リィズは慌てて両手をブンブンと振り回した。
「わ、私はただ、命の恩人だから!ミーシャにはお世話になってるし、恩返しっていうか、その……っ!」
「……恩返しねぇ」
必死に防衛本能で言い訳を探すリィズを、エルケは面白がって眺めていた。彼女はタバコの煙をリィズの顔にふわりと吹きかけ、ニヤリと妖艶な笑みを深めた。
「じゃあ、別に好きじゃないなら……私が貰っちゃってもいいかな?ミハイルの事」
「…………え?」
リィズの時間が、再び止まった。真っ赤だった顔が、今度は一瞬で青ざめ、そして次の瞬間、形容しがたい昏い色に染まっていく。
エルケの冗談を、冗談として処理できない。かつて格納庫でミハイルと密着していた整備兵に向けたような、あるいはエルケに匂いを付けられたコートを見た時のような、あの不気味で静かな独占欲が、剥き出しの牙となってエルケへ向けられた。
「だ、ダメ……ダメです!!」
リィズは半ば悲鳴のような声を上げ、エルケの制服の袖を掴んだ。
「ミーシャは、私の……!私の、ミーシャなんです!誰にも、アオスト大尉にも、絶対にあげません!!」
「あはははははっ!その反応最高だよ、リィズ!!」
死体の転がる部屋で、再度エルケの爆笑が響き渡った。彼女は涙が出るほど可笑しそうに肩を揺らし、掴まれた袖をリィズの手から優しく引き剥がした。
「私のミーシャ、か。……ふふっ、さっきまでどんな敵とだって戦ってみせますって冷たい顔で言ってたのに、今はただの嫉妬深い女の子だよ。リィズ、君って本当に分かりやすくて可愛いね」
「う、あ……っ、アオスト大尉ぃ……っ!」
からかわれたことに気づき、リィズは再び顔を覆ってしゃがみ込んだ。顔から火が出そうだった。自分でも、今の自分の台詞がどれほど重くて恥ずかしいものだったか、ようやく理解したのだ。
(あ、あげませんって……私、なんで……っ!)
ひとしきり笑った後、エルケはふっと表情を和らげ、しゃがみ込んでいるリィズの頭を優しく撫でた。
「いいよ、リィズ。君のその剥き出しの感情、私は嫌いじゃない。……ミハイルの鎖が外れて、ようやく君は自分の足で立てるようになったんだね」
「……大尉……」
上官からの思いがけない肯定の言葉に、リィズはわずかに目を見開いた。エルケは満足げに目を細めると、優雅な手つきでタバコの灰を落とし、自分の腕時計へと視線を向ける。
「さて。ベアトリクスたちが残存データの回収を終わらせるまでやること無いし。迎えのヘリが来るまで……実は暇なんだよね」
エルケは紫煙をふわりと吐き出すと、悪戯っぽい笑みを浮かべて再びリィズを見下ろした。
「ねえリィズ。少し、私の暇潰しに付き合ってくれない?」
「了解です!」
突然の提案に対し、リィズは弾かれたように姿勢を正すと、ビシッと完璧な角度で敬礼してみせた。そのあまりにも生真面目で軍人らしい反応に、エルケは堪えきれずに吹き出した。
「ふふっ、そんなにかしこまらなくて良いよ。作戦行動じゃないんだから」
エルケは面白そうに肩を揺らしながら、敬礼したまま固まっているリィズの手を優しく下ろさせた。
「命令じゃなくて、ただの女の子同士の雑談。……ガールズトークだよ」
「ガ、ガールズ……トーク、ですか?」
「そう。今のリィズとなら、すごく楽しそうだと思ってね」
そう言って、エルケは自分が腰掛けているデスクの空いたスペースを軽く叩き、隣に座るように促した。
リィズは遠慮しながら上官の隣にちょこんと腰掛ける。死体が転がる血生臭い会議室での、あまりにも歪なガールズトークの幕開けだった。
「さて。女の子同士の会話といえば、やっぱり男の趣味についてだよね。リィズは、どういうタイプが好みなの?」
エルケは楽しげに細く紫煙を吐き出しながら、長い足を優雅に組み替えた。
「えっ!?お、男の人ですか……?」
好みの男性のタイプなど考えたこともなかったリィズは、戸惑ったようにパチパチと瞬きをする。
「そう。例えば、ルーカスやフェリックスみたいなのはどう?ノリが良いから一緒に飲むには楽しいけど……ちょっとチャラすぎて、本命の恋人にするには苦労しそうだよね」
「え、えっと……ルーカスさんもコヴァチ中尉も、よく女の子のお店に行ってるみたいですし……彼氏がそんなところに行ってたら嫌です」
リィズは膝の上で両手をモジモジと組み合わせながら、少し呆れたような苦笑いを浮かべた。
「でしょ?」
エルケは我が意を得たりと頷き、デスクの縁でトントンとタバコの灰を落とす。
「じゃあ、第9小隊のエルンストみたいに真面目なのは?浮気は絶対にしないだろうけど」
「リヒター中尉は……デートの行き先まで分刻みでマニュアル化してきそうで、少し息が詰まりそうです」
リィズは真顔で、一切の躊躇なくバッサリと切り捨てた。そのあまりにも的確な想像図に、エルケはたまらず肩を揺らす。
「あははっ、辛辣だね!じゃあさ、ブルーノみたいな豪快なタイプは?」
「……声が大きくて、少し怖いです」
リィズは巨大なヒグマでも思い浮かべるように、わずかに首をすくめてみせた。
足元に転がる死体の血だまりなど全く気にも留めず繰り広げられる、部隊内の男たちの遠慮のない品評会。リィズの素直すぎる評価に、エルケは心底面白そうにくすくすと笑った。
「なるほどねぇ。なら、ここに来る前はどうだったの?昔好きだった人とか、彼氏とかいた?」
「えっ……?」
不意に過去を問われ、リィズの脳裏に、離れ離れになった義兄テオドールの面影が過った。かつての自分は、テオドールだけが世界の中心で、彼を強く想っていたはずだった。再会することだけを祈って、あの尋問室の地獄すら耐えようとしていたのだから。
(でも……)
今の自分の胸の奥で渦巻いている感情と比べると、どうだろうか。ミハイルから他の女の匂いがしただけで狂いそうなほどの殺意が湧き、彼のためなら世界を敵に回して地獄に落ちてもいいと思えるほどの、このどす黒くて重たい執着。
この絶対的な熱量に比べれば、かつて義兄に抱いていた感情など、ただ庇護を求める幼い子供の甘えに過ぎなかったのではないか。あの時からずっと、私の世界はもう、ミーシャだけで満たされているのだ。今なら、はっきりと分かる。
「……いいえ」
リィズは静かに首を振った。その顔は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「彼氏はいなかったですし……ちゃんと好きだなって思えた人も、いませんでした」
「へぇ、そうなんだ。じゃあ、ミハイルが正真正銘の初恋ってわけだ。ロマンチックだねぇ」
悪戯っぽく笑うエルケの前で、少しだけ緊張が解けたのか、リィズは上目遣いでエルケの方をちらりと見た。
「あの……アオスト大尉は、その……恋人とか、いたことあるんですか?」
「私?もちろん、そりゃあね。これでも結構モテるんだよ?」
エルケは少し懐かしむように目を細め、紫煙を細く吐き出した。
「西側の甘いマスクのスパイと一晩だけ火遊びしたこともあれば、お堅い将官を骨抜きにしてベッドで国家機密を喋らせたこともあるし……」
スパイ、骨抜き。リィズの知る恋愛の辞書には載っていない、あまりにも大人で危険すぎる、そして、どこか血と泥の匂いがする経験談の数々に、彼女は目を丸くして息を呑んだ。
「た、大尉って……すごいんですね……」
「ふふっ、大人の女の嗜みってやつだよ」
そこで一度言葉を切り、エルケはふと、手元のタバコの火種を見つめた。それまでの蠱惑的な笑みが、ふっと消える。紫煙の向こう側を透かし見るようなその横顔に浮かんだのは、底なしの虚無と、ひどく古い傷跡を撫でるような、痛ましいほどの静寂だった。
「……でも。本当に心の底から愛した人は、たった一人だけかな」
リィズは息を呑んだ。エルケの瞳に宿る昏い執着の色は、鏡に映る自分とあまりにも似ていたからだ。もし今、ミーシャを失えば自分もこうなるのか。そう思うと、リィズは無意識に自らの胸元を強く握りしめていた。
「馬鹿みたいに真っ直ぐで、不器用で……私なんかよりずっと、この狂った国で生きるのには向いていない、優しい人だった。……私がどれだけ自分を汚して、どんな事をしてでも守りたかったのに、冷たい暗闇の中で、あっさりと私を置いて逝っちゃったけどね」
「大尉……」
静かで、平坦な声だった。だが、その言葉の端々に滲む血を吐くような後悔に触れ、リィズは直感的に気がついた。
エルケが語ったスパイや将官との火遊びが、決して華やかな恋愛遍歴などではなく、ただ一人の愛する男を生かすために、女を捨てて地獄を這いずり回った結果の、おぞましい任務の羅列であったことに。
もし、ミハイルを救うために自分が同じ立場に置かれたら。そう想像しただけで、胸が締め付けられるような壮絶な過去。だからこそエルケは、ミハイルのために地獄に落ちようとする自分を笑わずに、肯定してくれたのだ。
だが、張り詰めた空気を断ち切るように、エルケは吸い殻を携帯灰皿に押し付けると、再びニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「……なーんてね。大人の昔話なんて、つまらないでしょ?」
一瞬見せた素顔を、すぐに分厚い仮面の下に隠し、エルケはいつもの妖艶な女狐の顔に戻ると、リィズの顔を下から覗き込んだ。
「それより、君のミーシャの話を聞かせてよ。あんな不真面目で、いっつもサボることばっかり考えてる男の、一体どこがそんなにかっこいいの?」
「そ、それは……っ!」
再び話を振られ、リィズは顔を赤くしながらも、今度はモジモジと指先を合わせながら口を開いた。
「いつもは全然やる気がないし、すぐにサボることばっかり考えてるんですけど……本当はすごく優しくて。私が不安な時は、いつも側に居てくれて安心させてくれるんです。それに、いざ戦場に出た時のミーシャは、誰よりも強くて、必ず私を守ってくれて……」
話し始めると止まらない。彼がいかに素敵か、いかに頼りになるかを語るその顔は、冷酷なヴェアヴォルフの衛士などではなく、完全に恋に落ちた年頃の少女のそれだった。リィズは頬をリンゴのように赤く染め、きゅっと胸の前で両手を握りしめる。
「本当に……すっごく、かっこいいんです」
だが、ふいにその熱を帯びた表情に暗い影が落ちた。ぎゅっと握りしめていた両手が力なく下ろされ、リィズは罪悪感に顔を歪めて俯いた。
「……でも、私……最低なんです」
「最低?」
「……私を助けてくれて、あんなに優しくしてくれたミーシャに……私、酷い八つ当たりをして、すごく傷つけちゃったから」
脳裏をよぎるのは、初めて同胞を殺めたあの夜。自分の罪悪感と恐怖から逃れるために、「こんな思いをするなら、独房で殺された方がマシだった」と彼を激しく責め立ててしまったこと。
彼がどれほど苦しみながら自分の罪を背負おうとしてくれていたか。自分の気持ちを自覚した今だからこそ、あの時の自分の浅ましさと、彼に負わせた痛みが、リィズの胸を鋭く締め付けていた。
リィズの独白を聞いて。それまで面白がって笑っていたエルケの顔から、ふっと悪戯っぽい色が消えた。彼女はタバコを持つ手を止め、まっすぐで真剣な眼差しを罪悪感に押し潰されそうになっている少女に向ける。
「……ねぇ、リィズ。ミハイルのこと、好き?」
静かで、ごまかしのきかないド直球の問いかけ。かつての彼女なら、「私はただの道具ですから」と逃げていたかもしれない。だが、今のリィズにもう迷いはなかった。
自分の命よりも重い感情の正体に気づいた彼女は、目尻に涙を浮かべながらも、真っ直ぐに上官の目を見つめ返す。
「……はい。大好き、です」
一切の濁りがない、純粋で素直な肯定。その揺るぎない答えを聞いて、エルケはふっと表情を緩め、心底愛おしいものを見るように優しく微笑んだ。
「なら、ミハイルを助け出したら、一番にちゃんと謝らなきゃね。……大丈夫、あの子は絶対に許してくれるよ」
エルケはそう言ってから、少し言葉を選び、慈しむような声色で続ける。
「それにね……今の君は、もうただのお人形じゃない。心から泣いて、笑って、誰かを愛せる……普通の女の子だよ」
かつて道具になろうとしていた少女が、罪に向き合う覚悟を決め、地獄を生きることを選んだ事をエルケは静かに悟った。彼女は優しく微笑み、リィズの頭をそっと撫でた。
「そんな君の姿をあの子に見せてあげることが、きっと……ミハイルにとっても一番の救いになるから。だから、怖がらないでちゃんと想いを伝えてみよう?」
エルケの温かい言葉に、リィズは涙を拭いながら、心の底から救われたように強く頷いた。
「はい。……もう、逃げません。ミーシャを傷つけるだけの、道具のふりはもう止めます」
涙の跡が残るその顔に、かつて雪原で泣き叫んでいた少女の面影はない。あるのは、愛する人を何が何でも奪い返すという、痛烈なまでの決意だった。
「……ミーシャが私を絶望から救い出してくれたように、今度は私が彼の希望になります」
その瞳の奥底には、自己犠牲すらも辞さない、狂おしいほどの愛執が静かに灯っていた。
その揺るぎない覚悟を見届け、エルケはふっと表情を和らげ、心底満足げに目を細めた。まるで、出来の悪い愛弟を生涯託すに足る、最高のお嫁さんを見つけたかのように。
(……本当に似てるね、君とミハイルは)
エルケは内心でそっと呟く。
彼が自らの命と首を賭けてまで、見ず知らずの亡命未遂者の娘を独房から救い出した本当の理由を、エルケだけは知っていた。だが、エルケはその答えを口にはしなかった。それは、彼ら自身が向き合って見つけ出すべきものだから。
しんみりとした感動的な空気が流れる中、エルケはふふっと短く息を吐き出した。そして、先ほどの慈愛に満ちた表情から一転、悪戯を企む小悪魔のように艶やかな笑みを浮かべ、リィズの顔を覗き込むようにすり寄る。
「……よし。じゃあ特別に、私から君にミハイルの攻略法を教えてあげる」
「こ、攻略法……ですか?」
予想外の単語を投げかけられたリィズは、さっきまでの悲壮感をすっかり忘れ、涙目でパチクリと瞬きをしてキョトンとした顔を作った。リィズがゴクリと生唾を飲み込む。
歴戦の猛者であり、数々の修羅場と恋愛劇をくぐり抜けてきた美しき女性将校。彼女が授ける至高の作戦とは一体何なのか。リィズが身構え、真剣な眼差しを向けたその時。エルケは至って真面目な顔で、とんでもないことを言い放った。
「手っ取り早く、ミハイルに抱かれちゃえば良いんだよ」
「……………………へ?」
数秒の沈黙の後。ボンッッ!!と、リィズの頭から文字通り湯気が噴き出した。
「だ、だ、だっ、だだだ抱か……っ!?な、なな、何を言ってるんですか大尉!?そ、そんなのっ、ダメっていうか、私とミーシャはまだ結婚もしてないですし……っ!!」
限界を超えたキャパオーバーで、手足をバタバタとさせてパニックを起こすリィズ。その見事な狼狽っぷりを見て、エルケは悪戯を成功させた子供のように、ニヤリと妖艶に笑った。
「ふふっ、大丈夫だよ。ああ見えて、根はすっごく真面目な子だからね。……一度そういうことになっちゃえば、もう逃げられないって腹を括って、ちゃんと責任を取ってくれると思うよ?」
「せ、せきにん……っ!責任……っ!!」
その甘美な響きに、リィズの目は完全にグルグルと回り、顔を覆った指の隙間から耳まで真っ赤になっているのが丸見えだった。そんなリィズの限界突破した姿を見下ろしながら、エルケはふと、心底不思議そうな顔をして小首を傾げた。
「あれ?……もしかして、ミハイルとしたくないの?」
「し、したくないわけじゃ……っ!!」
反射的に叫んでから、自分がとんでもない肯定をしてしまったことに気づき、リィズは再び顔から火を噴きそうになる。だが、彼女はギュッと目を瞑り、恥ずかしさに耐えるようにぎゅっと両手を握りしめて俯いた。
「……でも。私なんて、まだまだ子供ですし……大尉みたいに、その、全然色気とか無いですから。そんなことして、ミーシャに幻滅されちゃったらどうしようって……」
自身の発育途上な身体と、目の前にいる圧倒的な大人の魅力を持った女性将校を比べ、リィズは自信なげに肩を落とす。冷酷な粛清任務の際には一切の迷いを見せなかった彼女が、たった一人の少年のことになると、ここまで普通の、等身大の女の子に戻ってしまうのだ。
そのいじらしい反応に、エルケはたまらず破顔し、俯くリィズのくしゃくしゃの金髪を優しく撫でた。
「ふふっ、リィズはとっても可愛いから大丈夫。……それに、ミハイルはああ見えて意外とウブだから、少し分かりやすい刺激を与えれば、すぐに君を女の子として意識し始めるはずだよ」
「し、刺激……ですか?」
「そう。いきなりベッドに押し倒すのがハードル高いなら、まずは分かりやすいアピールからだね」
エルケは悪戯っぽい笑みを浮かべ、指を一本ずつ立てながら、後に彼女の絶対的な指針となる恋愛指南を始めた。
「まず一つ目。……その髪のリボン、外しちゃおっか」
「えっ……この、リボンですか?」
リィズは思わず、自分の金髪を結んでいる青いリボンに手をやった。それは、離れ離れになった義兄、テオドールを待ち続けるという、かつての彼女なりの決意の象徴でもあった。
「そう、今の二つ結びも可愛いと思うけど。思い切って髪を下ろして、イメチェンしてみるの。君、髪がすごく綺麗だから、そのまま下ろしても絶対に大人っぽくて似合うと思うよ?……いつもと違う君を見せれば、ミハイルもきっとドキッとするはずだしね」
エルケの何気ない提案に、リィズは一瞬だけ目を伏せた。
(……お兄ちゃん)
かつての自分なら、義兄との唯一の繋がりであり、思い出の詰まったこのリボンを、絶対に外そうとはしなかっただろう。けれど、今の自分の心の中には、過去の思い出が入る隙間なんて一ミリも残っていない。
(私は、ミーシャのためだけに綺麗になりたい)
リィズは躊躇いなくリボンを引き抜き、長く美しい金髪をふわりと肩に下ろした。髪を下ろした彼女の姿は、庇護を待つ幼い妹から、一人の女へと劇的な変化を遂げていた。
「……どう、ですか?」
「ふふ、すごく綺麗で魅力的だよ。あの子も絶対に目を奪われると思うな」
エルケは満足げに頷き、二本目の指を立てた。
「そして二つ目。ここが一番重要だよ。……あの子に「私にはミーシャしかいない」って、絶対的な依存をアピールすること」
「依存……ですか?」
「そう。ミーシャの隣だけは安心するって、怯えたように甘えるんだよ。冷酷な任務をこなす君が、自分の前でだけは無防備な女の子に戻って頼りにしてくれる。……その強烈なギャップと特別感に、ミハイルみたいな不器用な男はコロッと絆されちゃうからね」
私には、ミーシャしかいない。
エルケの言葉を聞いて、リィズはハッとした。それは演技でもなんでもない、今のリィズが抱えている紛れもない本心そのものだったからだ。自分が素直な気持ちのままに彼に縋り付けば、それは最高の愛情表現になる。その事実に、リィズの瞳が希望でキラキラと輝き始める。
そんな様子のリィズを見て、エルケはさらにニヤリと妖艶に唇を歪め、とどめとばかりに顔を近づけた。
「最後に三つ目。……徹底的なスキンシップ。思い切って彼の腕にギュッと抱きついて、君の胸を押し付けてみなよ」
「む、胸を……腕に、押し付ける……ッ」
リィズは顔を赤らめながら、思わず自分の胸元に視線を落とした。制服の上からでもそれと分かる膨らみは、年相応か、あるいはそれ以上に発育が良い。彼女は躊躇いがちに、自身の胸の膨らみを腕の間にきゅっと押し付け、その弾力と確かな存在感を確かめた。その無自覚に扇情的な動作に、エルケはますます笑みを深める。
「男の子はね、自分にすがりついてくる女の子の柔らかさと体温に弱いんだから。……そこでちょっと潤んだ瞳で、すがりつくような上目遣いを作るの。そして、エッチな声で彼の名前を呼んでみなよ。……もしかしたら、理性を飛ばしたあの子に、そのまま押し倒されちゃうかもね?」
「えっ……ち、な……!?お、押し倒っ……!」
致死量の破壊力を誇る三つ目のアドバイスと、その先に待つ甘すぎる展開を想像してしまい、リィズの頭からはついに、ぷしゅーっと湯気が吹き上がった。
彼女はエルケの言葉通り、すがりつくような上目遣いを作ろうと試みた。腕に胸を寄せるイメージで身を屈め、瞳を微かに潤ませて、唇を少しだけ開き、とろけるような視線をエルケに向ける。……しかし、その表情は計算された色気よりも、極度の恥ずかしさと緊張、そしてミハイルへの純粋な想いが入り混じった、たまらなく健気で、ある意味破壊力抜群なものになってしまった。
「……ミー、シャぁ……?」
消え入りそうな声で、甘く、すり寄るように名前を呼んでみる。その、先程の戦闘時とは正反対の、あまりにも健気で一生懸命なリィズの姿に、エルケは堪えきれずに爆笑した。
「あははははっ!最高、最高だよリィズ!理性を飛ばすっていうか、あの子、君のその顔見たら可愛すぎて悶絶死しちゃうかもしれないね!」
ひとしきり笑い転げた後、エルケは立ち上がり、服の埃を軽く払った。そして、まだ顔を真っ赤にしているリィズの頭を、ポンと優しく撫でる。
「その自慢の牙と、とびきりの愛情で、君の大好きなミーシャを檻の中から引きずり出しておいで。……あの子、強がってるけど本当は寂しがり屋だからね」
エルケのからかい半分、けれど確かな期待のこもった言葉に、リィズは真っ赤な顔のまま、今度は力強くコクリと頷いた。
「……はいっ。絶対に、連れて帰ります!」
短機関銃を拾い上げ、姿勢を正す。
今の彼女はもう、命令を待つだけの道具ではない。自らの意志で銃を手にしながらも、その胸に抱いているのは、ただ大好きな人を助け出したいという、等身大の女の子の純粋な初恋だった。