大好きだったお兄ちゃんとの再会よりも、サボり魔な同僚のお世話を優先してもいいですか? 作:Wig
1982年1月 シュトラウスベルク特別第4収容所 地下通路
血と硝煙、そして薬品の臭いがこびりついた冷たいコンクリートの通路。合流地点として指定されていた地下の分岐点で、ルーカスとハンナは奥の暗闇から近づいてくる足音をじっと待っていた。
やがて、非常灯の薄暗い赤い光の中に、二つの影が浮かび上がる。拷問と薬物投与で自力で歩くこともままならないミハイルを、リィズが肩を貸して支えながら歩み寄ってきた。
「へぇ。思ったより元気そうじゃねぇか」
合流するなり、ルーカスはニヤリと人の悪い笑みを浮かべて軽口を叩いた。
「もっとボロ雑巾みたいになってるかと思ったが……随分とVIP待遇を満喫してたみたいじゃねぇか、居心地はどうだったよ?」
「あぁ。ここのルームサービスは最悪でな。睡眠時間は削られるし、接客態度もなっちゃいねぇ。……お前ら、迎えに来るのがおせぇよ」
ミハイルは激痛を必死に誤魔化し、いつものように気だるげな笑みを作った。ルーカスも「違いねぇ」と肩を揺らして笑う。
その空気を遮るように、ルーカスの隣に立つハンナが悲痛な声で震えた。
「ミハイルさん」
ミハイルとリィズが足を止める。ハンナの視線は、ミハイルのボロボロの身体に釘付けになっていた。制服は血と泥に塗れ、爪は剥がされ、顔色は死人のように青白い。自分が正しいと思っていた判断が、彼をどれほど痛めつけたのか。現実を直視した瞬間、彼女の中で必死に保っていた理性が音を立てて崩れ落ちた。
「ごめんなさい!ごめんなさい、ミハイルさん……ッ!」
口から突いて出たのは、しゃくり上げるような子供の泣き声だった。ハンナは短機関銃を両手で強く握りしめ、ボロボロと大粒の涙をこぼし始める。
「私がアオスト大尉に言ったんです!連帯責任を避けるためとか、規則だからとか……そんなの全部、嘘で!」
ギリッと唇を噛み締める。親に売られた絶望を知っている自分が、保身のために仲間を売ってしまった。いつもは冷静な瞳が、今は怯えきった迷子のように揺れていた。
「私、また連れて行かれるのが、痛いのが怖くて!だから自分が助かりたくて、ミハイルさんを売りました!本当に、ごめんなさい……ッ!」
顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくるその姿は、ただ自分の過ちを悔いる15歳の無力な子供だった。
そんなハンナに対し、ミハイルの反応は怒りでも失望でもなかった。
「顔を上げろ、ハンナ」
「うぅ……嫌です、私のせいで、こんな……」
「お前は間違ってない。衛士として、一番合理的で正しい判断をしただけだ」
ミハイルはリィズの肩から腕を外し、フラつく足で一歩だけハンナに近づく。痛む身体を曲げて目線を合わせると、泣きじゃくる小さな背中を不器用な手つきでポンポンと叩いた。
「お前が報告しなくても、どのみちアクスマンの野郎にはバレてたさ。お前が俺を売ったおかげで、リィズやルーカスが処分されずに済んだんだ。よくやったな、優等生」
「ミハイル、さん……っ」
一切の恨み言のない完璧な赦しに、ハンナはついに耐えきれず、彼の軍服の袖をぎゅっと握りしめてワァッと声を上げて泣き崩れた。
リィズは邪魔をしないように、そっと一歩下がる。ボロボロの身体で優しくハンナの背中を叩く彼を見て、リィズは愛おしそうに目を細めた。
ふと視線を向けると、呆れたように、けれど優しげな眼差しで見守るルーカスの姿がある。ルーカスが軽く肩をすくめてみせると、リィズも小さく笑みをこぼし、静かに頷き返した。
「さて、感動の再会と懺悔の時間はそこまでだ」
ルーカスがパンッと手を叩く。
「感動に浸るのは安全な地上に出てからにしてくれ。俺たちゃまだ、敵のど真ん中にいるんだからよ。ほらミハイル、さっさとズラかるぞ」
「ミーシャ、痛かったらすぐ言ってね。ほら、しっかり寄りかかって」
リィズがすかさずミハイルの側に回り込み、その右腕を自分の肩に回した。支えるという名目を最大限に利用してぴったりと密着する。涙の跡が残る顔には、花が咲いたような満面の笑みが浮かんでいた。
「おいリィズ、ちょっとくっつきすぎだ。歩きづれぇよ」
「えへへ、そう?でもミーシャは怪我してるんだから、しっかり支えてあげないと」
文句を言うミハイルに対し、リィズはさらにギュッとすり寄って腕に胸元を押し当てる。その光景を見て、ルーカスは呆れたように息を吐きながらも口元を緩ませた。
「まぁ、今日くらいは大人しくリィズちゃんに甘えとけ。ここまでの血路を開いてきた一番の功労者だからな」
ハンナは涙の跡が残る顔をうつむかせ、ポツリと呟いた。
「ええ。本当に……よかった、です」
いつもの彼女からは想像もつかない消え入りそうな声に、ミハイルは意地悪な笑みを浮かべた。
「なんだその塩らしい態度は。お前らしくねぇぞ、ハンナ。アクスマンの尋問より調子狂うからやめろ」
ハンナの肩がピクリと跳ねる。コホンと小さく咳払いをし、眼鏡の位置を押し上げた。
「らしくないのは、ミハイルさんの方じゃないですか?」
次に顔を上げた時、その瞳にはいつもの冷静な響きが戻っていた。
「ほら、変な意地を張ってないで、もう少しリィズさんにくっついて歩いてください。そんなフラフラな足取りでは見ているこちらが不安になります」
「はぁ?いや、これ以上くっついたら流石に歩きにく……」
「そうだよミーシャ!危ないからもっと私にしっかり寄りかかって!」
すかさずハンナの援護射撃に乗っかり、リィズがさらに腕に胸元を押し付けてくる。
「お前らなぁ……俺は重傷人だぞ。少しは労れ」
「十分労わってもらってるじゃねぇか。これ以上ないくらいにな」
「ふふっ、私に任せてね!」
軽口を叩き合いながら、四人はコンクリートの階段を上っていく。重厚な防爆扉を抜け地上へ出た瞬間、猛烈な吹雪が四人を包み込んだ。
収容所の正面は、砲撃と蹂躙によって火の海と化している。燃え盛る残骸が雪原を赤く照らし出していた。
「遅いよ、ミハイル。……もう、待ちくたびれちゃったじゃない」
吹雪の向こうから、からかうような、けれど微かに震える声が響く。瓦礫の山の上に、戦術機から降りたエルケ・アオスト大尉が立っていた。
「アオスト大尉……」
ミハイルが掠れた声で名前を呼んだ瞬間。エルケは瓦礫を飛び降り、一直線に駆け寄ってきた。そして躊躇うことなく、血と泥にまみれたミハイルの身体を力強く抱きしめた。
「偉いよ、ミハイル。本当によく頑張ったね……っ」
「た、大尉……くるし……」
エルケは周囲の目など気にすることなく、ボロボロの背中を撫で生還を喜んでいる。血の臭いの中に、高級で甘い香水の匂いがふわりと広がっていく、感動的な再会シーン……になるはずだった。
ミハイルのすぐ横。彼を支えていたリィズの瞳から、一切の光が消え失せた。彼女は無言のまま、ミハイルに抱きつくエルケの姿を凝視している。その周囲だけ、猛吹雪よりもさらに冷たい、ドロドロとした情念が渦巻いている。
「あの、大尉。ミハイルさんは重傷ですし、その辺りにしておいた方が……色々な意味で、非常に危険ですので……」
リィズの無意識に短機関銃のグリップへかかる指先を見て、ハンナが冷や汗を流しながら恐る恐る忠告する。だが、リィズはハンナの言葉を遮るように自ら一歩前に出た。
「アオスト大尉」
氷のように冷たく、どこか作り物めいた笑顔。リィズは二人の間に強引に割り込むと、ミハイルの腕を自分の胸元に抱き込み、所有権を主張するようにエルケを睨みつけた。
「ミーシャが苦しんでます。すぐに離れてください」
上官に対する明確な威嚇。だが、睨まれたエルケは面白そうにクスクスと笑い出した。悪びれる様子もなく両手を上げると、リィズの耳元へすっと顔を寄せる。
「ふふっ……ごめんごめん。そんな怖い顔しなくても、君の大切なミーシャは取らないから安心して?」
「なっ!?」
痛いところを突かれ、リィズはボンッと顔を真っ赤に染め上げた。
図星を指された焦りからか、彼女は激しく動揺した様子でミハイルを支えていた手をパッと離してしまう。そして、そのままエルケの腕をガシッと掴むと、彼女をミハイルから引き剥がすようにズンズンと強引に引っ張って距離を取った。
「ち、ちが……っ!と、取る取らないとか、そういうんじゃなくてですね……っ!」
しどろもどろになって言い訳をしながら必死に抗議するリィズと、されるがままに引っ張られながらクスクスと笑うエルケ。突然支えを失ってよろめいたミハイルは、そのやり取りを傍から見ながら、ぽかんと不思議そうな顔をした。
「おい、ルーカス」
「あん?」
「あいつ……いつの間に、あんな顔するようになったんだ?」
呆気にとられたように尋ねるミハイル。その絶望的なまでの鈍感さに、ルーカスはため息をつき、ニヤリと笑った。
「やれやれ。お前も大概、節穴だな」
「は?」
「まぁ、恋する乙女ってのは一瞬で化けるってこった。リィズちゃん、すっげぇ可愛くなっただろ?」
ミハイルは再びリィズへと視線を向ける。自然に下ろされた髪と、顔を真っ赤にして怒るその姿は、年相応の豊かな表情に満ちていた。
ミハイルはふいっとそっぽを向くと、気だるげにポツリと呟いた。
「まぁ、悪くないんじゃね?」
鈍感なくせに、真っ直ぐなミハイルの返しに、ルーカスは肩をすくめた。
「まったく、お前って奴は……」
「何だよ」
「何でもねぇよ。おっと、お迎えのバスが来たみたいだぜ」
ルーカスが夜空を指差す。国家保安省のヘリコプターが、プロペラ音を轟かせて降下してくるところだった。
同時に地鳴りのような跳躍ユニットの重低音が響き、夜空から重武装を施された第2中隊の機体群が舞い降りる。彼らは着陸するヘリを包み込むように、装甲を盾にして防衛陣地を瞬時に構築した。
『ガハハッ!外周の掃除は終わったぜ。第2中隊、ヘリの護衛陣形を維持しろ!流れ弾の一発でも当てるんじゃねぇぞ!』
外部スピーカーから響くブルーノの声に、エルケは満足げに微笑んだ。
時を同じくして、燃え盛る施設内から人影が現れる。煤と返り血に塗れた第9小隊長エルンストとその部下たちだ。
「アオスト大尉。第9小隊、司令部の制圧および敵の排除を完了しました」
エルンストは実直な声で敬礼し、アタッシュケースを掲げる。
「収容所のメインサーバーからベルリン派の通信記録と機密データを全て押さえました」
「ご苦労様、エルンスト。それは後でアクスマンの首を絞めるための、極上のプレゼントにしてあげよう」
エルケは妖艶に微笑み、データをヘリに積み込むよう指示した。ヘリが着陸し、救護班が担架を持って駆け寄ってくる。ミハイルはリィズに支えられながらキャビンへと乗り込んだ。
「ミーシャ」
リィズがヘリの淵を掴み、彼を見つめる。ミハイルは酸素マスクを受け取りながら、外に立つ仲間たちを見回した。
「先に帰ってる。お前らも早く帰ってこいよ」
「うん!待っててね、ミーシャ」
リィズが力強く頷く。ルーカスとハンナも無言で敬礼を返した。ヘリの扉が閉まり、夜空へと舞い上がっていく。遠ざかる機影を、リィズはいつまでも見つめ続けていた。
「ブルーノ。ミハイルの事、頼めるかな?」
通信機越しのエルケの声には、身内を案じる姉のような切実な響きが混じっていた。彼女と付き合いの長いブルーノがそれに気づかないはずがない。
『あぁ、お前の可愛い弟分はきっちり送り届けてやる。第2中隊!ヘリを中心に陣形をサークル・ワンに展開、戦域を離脱する!』
ブルーノの号令で、第2中隊の機体群が一糸乱れぬ動きで呼応する。彼らは空へと舞い上がった救護ヘリをすり鉢状に包み込み、そのまま分厚い盾となって夜空の彼方へと離脱していった。
ミハイルの安全を確信したエルケは、ふっと息を吐き出す。次に通信機をオンにした時、その声には中隊長としての酷薄な響きが戻っていた。
「さて。ミハイルの見送りも無事に済んだことだし、私たち第3中隊は追撃部隊の迎撃を引き受けるよ」
エルケは踵を返し、自身のMiG-23へと向かう。視線の先では、態勢を立て直した残存部隊が怒号を上げながら迫ってきている。
「私たちの可愛いミハイルをあんなにボロボロにしてくれた報いを、たっぷりと教えてあげないとね」
艶やかな唇が、冷酷な弧を描く。彼女の呟きを合図とするように、戦術機群が一斉に起動音を響かせた。
全機の準備完了を見届け、無慈悲な号令が回線に響き渡る。
『いくよ、みんな。……一匹残らず、皆殺しだ』
『『『了解!!!』』』
大地を揺るがす咆哮を上げ、漆黒の人狼たちは雪原を蹴った。仲間を傷つけられた怒りを剥き出しにし、敵が待つ地獄の真ん中へと真っ直ぐに突っ込んでいった。
1982年1月 東ベルリン 国家保安省本部 執務室
外で吹き荒れる吹雪も血の匂いも、この防音の施された豪奢な執務室には一切届かない。壁一面を覆うマルチモニターには、火の海と化したシュトラウスベルク収容所の映像と、膨大な戦闘データが絶え間なく更新され続けていた。
「中佐。事前の予測通り、ヴェアヴォルフがミハイル・ホフマン中尉の奪還に成功しました。現在、第2中隊が護衛について撤退を開始しています」
背後から報告を告げたのは、若き士官ミヒャエル・ゾーネだ。味方が蹂躙されていく映像を前にしても、その端正な顔立ちには微塵の動揺も浮かんでいない。
「しかし、殿を務める第3中隊は追撃部隊をやり過ごすどころか、むしろ追撃に出た彼らを包囲、殲滅しております」
革張りのソファに深く腰掛けたハインツ・アクスマン中佐は、手元にあるファイルのページを事務的な手つきでめくっていた。ヴェアヴォルフ大隊の衛士たちを徹底的に分析したプロファイリングだ。
「そうか。ブレーメ少佐の動きは?」
「市内のホテルにて我がベルリン派の老人どもを襲撃し、拘束したとの報告がありました。第1中隊は事後処理のためベルリン市内に釘付けとなっています」
アクスマンはページをめくる手を止め、冷酷な笑みを浮かべた。
「素晴らしい。すべて私の描いた通りだ。あの豚共はいずれ我々の手で粛清する必要があったからな」
「ええ。モスクワ派の連中が綺麗に片付けてくれました。これでベルリン派は中佐のものです」
アクスマンはデスクに置かれた一人の少年の調書を指先で叩いた。
「あぁ。それにしても、あの生意気な小僧がここまで私の役に立つ日が来るとはな」
「中佐はミハイル・ホフマンの事を直接ご存知だったのですか?」
「ああ。国境警備隊の下っ端として拾ってみたのだがね。当時は息を潜めて生き延びることしか考えていない空っぽのガキで、工作員として教育する価値すらない欠陥品だと思っていたよ」
「そのような欠陥品がなぜ精鋭であるヴェアヴォルフに?」
「エルケ・アオストだよ。奴は処分される寸前だったが、あの女狐が自らの手駒として拾い上げたのだ」
アクスマンはエルケの調書の顔写真を指先でなぞる。
「あの女は完璧な猟犬よりも、一度壊れかけた歪な玩具を好む悪癖があってね。雪原で凍えていた小僧に、かつて救えなかった男の面影でも重ねたのだろう。馬鹿げた感傷だ」
アクスマンの口元に嗜虐的な笑みが張り付く。
「あの女狐も、私が直々に教育してやった頃は這いつくばって男の命乞いをする哀れな小娘だったのだがね。理想主義の親友の密告に巻き込まれて絶望し、身を売ってまで守ろうとした男の死体に縋り付いて泣き叫んでいた」
アクスマンはこれ見よがしに肩をすくめる。
「そんな惨めな女が今や冷酷な人狼の皮を被り、部下という名の疑似家族に執着して親面をしている。過去の亡霊から逃れられない滑稽な茶番だよ」
「ですが、その家族ごっこの執着ゆえに、結果としてあの欠陥品はヴェアヴォルフの真の戦力を推し量るための極上の撒き餌となりましたね」
アクスマンは満足げに頷き、燃え盛る映像へと歩み寄った。
「ああ。モスクワ派の最大戦力が本気で身内を奪還しようとした時、どれほどの牙を剥くのか。その限界値を引き出すためのな」
「しかし、このままではホフマン中尉を逃がしてしまいますし、守備隊も全滅してしまいます。周囲に待機させている1個大隊に追撃させますか?」
アクスマンは鼻で笑って首を振った。
「手出しは無用だ。ここで足掻いたところで、どうせエルケ・アオストあたりが上層部へ抜かりなく根回しを済ませているだろうよ」
「拘束された老人どもの汚職の証拠でも使って、ホフマンの罪状を綺麗に揉み消す算段はついているはずだ。無能な老人どもの尻拭いにこれ以上の戦力を割く価値はない。あの小僧の身柄は今はくれてやれ」
「承知いたしました」
「それに、モニターの数値を見てみろ。奴らの戦闘能力は私の想定をはるかに超えているようだからな」
収容所を蹂躙する漆黒のMiG-23の異常な機動軌跡と、一方的な撃破スコアを指差す。
「見事なものだ。守備隊も決して烏合の衆ではない。だが、ヴェアヴォルフを相手に数的有利を作って挑んでも悉く返り討ちにされている」
「我々の守備隊も同じ機体に乗っているというのに、衛士の技量だけでここまで差が開くというのですか」
ゾーネの驚愕に、アクスマンは愉悦に満ちた笑みを深めた。
「その通りだ。地形や障害物を完璧に利用し、常に局地的な優位を作り出し、敵を分断しては確実にすり潰す。BETAではなく同胞を殺すことにおいて、彼らほど効率的で残酷な部隊はこの国に存在しない」
アクスマンはモニターの向こう側で暴れ回る猟犬たちを冷ややかに見据える。
「恐ろしいことだよ。今暴れ回っているのは第3中隊だけなのだから。もしここに第1中隊と第2中隊が加わり、大隊としての完全な陣形を組まれていたとしたら……伏せている1個大隊をぶつけたところで、一方的に塵にされるだけだ」
アクスマンは手元の調書をめくる。リィズ・ホーエンシュタインの顔写真だった。
「ホフマンが拾い上げたこの小娘もそうだ。所詮は誰かに依存しなければ息もできない人形だと高を括っていたが……」
ふと言葉が途切れる。調書の過去データと、今まさに暴れ回っている機体の軌跡を見比べる彼の瞳に、悪辣な閃きが宿った。
「彼女の戦闘データは、ホフマン少尉が拘束されて以降、劇的な跳ね上がりを見せていますね。主を奪われたことによる執着心そのものが、人形を暗殺者へと覚醒させる起爆剤となったということでしょうか」
「ああ、全くその通りだ。他者への依存という弱点すらも、主を奪われた瞬間に同胞を噛み殺す狂犬の牙と化す。アオストの女狐め、見事に狂った玩具を完成させたものだ」
モニターの一角で漆黒のMiG-23が異常な立ち回りを見せていた。リィズ・ホーエンシュタインの機体だ。
彼女は守備隊の放つ36mm弾の弾幕を、跳躍ユニットの細かな噴射だけで紙一重に掻い潜る。敵が照準を補正するコンマ数秒の隙に懐へ潜り込み、抜刀した近接戦闘短刀で敵機の管制ユニットを正確に抉り裂いた。その隙を突いて背後から別の敵機が照準を合わせる。
だが、リィズの機体は振り返ることすらしない。機体の挙動を殺さぬまま空いた左腕の36mm機関砲を背後へと向け、死角にいる敵をノールックの掃射で蜂の巣に変えてみせた。一切の無駄がない、ただ殺戮のみに特化した冷徹な舞い。
「だが、驚異的な数値を叩き出しているのはこの小娘だけではない。他の隊員たちもこれまでの記録を遥かに凌駕する凄まじい戦果を挙げている」
別のモニターでは、ルーカスの機体が両腕に構えた36mm機関砲から暴風のような弾幕を放ち、肉薄する守備隊を複数機まとめてスクラップに変えていた。
さらに、その圧倒的な制圧射撃から逃れようと上空へ跳躍した敵機には、後方に陣取るハンナの120mm滑腔砲が寸分の狂いもなく突き刺さる。完璧な弾道計算による無慈悲な狙撃で、敵は空中で木端微塵に粉砕された。
「機体の損耗を厭わず、まるで部隊全体が一つの生き物のように……」
「彼らを突き動かしているのは、国家への忠誠でも反体制派への憎悪でもない。奪われた身内を取り戻すという、ひどく原始的で青臭い感情だ」
そして中央のメインモニターでは、彼女たちを率いるエルケの指揮官機が、単騎で敵の小隊を蹂躙していた。
跳躍ユニットを吹かし、吹雪の中を踊るように滑走すると、すれ違いざまに敵機の関節部を近接戦闘短刀で的確に切断する。バランスを崩して倒れ込んだ無防備な管制ユニットを、その巨大な鋼鉄の脚部で容赦なく踏み砕きながら、次の標的へと優雅に刃を翻していく。その底冷えするような残虐さは、群れを統率する女王の底知れぬ怒りそのものだった。
「アオストが育んだあの滑稽な疑似家族の絆とやらが、極限状況下において部隊全体の殺傷能力を劇的に引き上げている。そして、これほどの異常な進化を、あのベアトリクス・ブレーメが計算に入れていなかったとは到底思えん」
「と言いますと?」
「ブレーメは、ホフマンがいずれ私の罠に落ちることを予期しつつ、あえて見過ごしたのではないか?身内を奪還するという血みどろの試練を与えることで、ヴェアヴォルフという群れをさらに上の段階へと羽化させるために」
非情な策謀に慣れきっているゾーネであっても、その推論には無意識に息を呑んだ。
「自らの手足である部下の危機すらも、大隊の練度を引き上げるための試練として利用したと……?」
「あの女ならやりかねん」
アクスマンは愉悦に満ちた声で自身の推理を口にする。
「考えてもみろ。そもそも衛士適性が合格ラインにすら達していなかったあの小娘が、なぜ入隊を許可された?ホフマンの公文書偽造という重大な違反を、ブレーメが今まで気づかず見過ごしていたとでも思うか?」
「まさか、彼らの歪な依存関係も、違反行為も、すべては意図的に泳がされていたと?」
「そうだ。最初からすべて計算ずくだったのか、あるいは生じた綻びを利用しただけなのかは分からんが……いずれにせよ、とんでもない化け物を完成させたことには違いない」
アクスマンは感嘆を込めて吐き捨てた。
「意図的にあの歪な絆を育て、最も効果的なタイミングで奪われるよう仕向けた。凡庸なサボり魔とただの人形を極限の飢餓状態に陥らせ、獰猛な化け物へと強制的に進化させるためにな。ヴェアヴォルフはもはや、対人類戦では無敵と言っても過言ではない」
深くため息を吐き出し、モニターから振り返る。その瞳の奥には、冷徹な軍事家としての決意の光があった。
「だからこそ、本気になった彼らの戦力分析が必要だった。このシュトラウスベルクで抽出した戦術データを指標とし、我々ベルリン派もヴェアヴォルフに匹敵する精鋭部隊を創設する」
「なるほど。彼らの戦闘データは、我々の新たな精鋭を育成するための教本となるのですね」
アクスマンはさらに獰猛な笑みを深める。
「だが、それだけでは足りん。ヴェアヴォルフは単なる精鋭ではなく、狂気すら統率された化け物の群れだ。我々が新設する部隊をもってしても不確定要素が残る。だからこそ、我々にはさらにもう一つの手駒が要る」
「手駒、ですか」
「そうだ。ヴェアヴォルフに対抗できる、東ドイツ最強の部隊がな。我々が創設する大隊を中核としつつ、その狂犬の首輪を握り、モスクワ派に対する絶対的な盾であり矛とする」
ゾーネはアクスマンの壮大な思惑を理解し、息を呑んだ。
「まさか……国家人民軍、第666戦術機中隊ですか」
「ああ。いずれ訪れるモスクワ派との最終決戦。そこでヴェアヴォルフを完膚なきまでに叩き潰すためには、我々独自の精鋭大隊の創設と、あの第666戦術機中隊を完全な支配下に置く事が必要不可欠になる」
アクスマンは策謀家の笑みを浮かべ、再びモニターを見上げる。画面の中では、ヴェアヴォルフの漆黒の機体が残存する守備隊を無慈悲に引き裂いていた。
アクスマンは革張りのソファに背を預け、顔の前で両手の指先を組み合わせた。
「存分に踊れ、ヴェアヴォルフ。貴様らの首を狩るための準備は、ここから始まるのだからな」
その冷酷な呟きを他所に、シュトラウスベルク収容所の外周では、ついに最後の守備隊機が爆炎を上げて沈黙した。燃え盛る残骸と、雪原を埋め尽くす無数の鉄屑。かつて強固な陣容を誇った軍事施設は、たった一晩で完全な死の荒野へと変貌していた。
蹂躙を終えた漆黒の人狼たちは、勝利の歓声を上げることも、背後の地獄に振り返ることもない。ただ機械的な動作で一斉に機首を返すと、大地を蹴り、猛吹雪の闇の中へと音もなく姿を消していく。
後に残されたのは、圧倒的な暴力の爪痕と、すべてを白く染めようと降り積もる冷たい雪だけだった。